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心優しき狼よ、曠野を行け  作者: 柿ノ木コジロー
第二章 ― 2 ―
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25 連鎖と判断 2

 その晩、太一が高熱を出した。夕方から何となくはしゃぎ過ぎだとは思っていたのだが、夕飯の席で盛大にもどし、その後急にぐったりと床に座っている。


「救急に連れていかなくちゃ」

 恵の声に、啓吾が反射的にそっぽを向いた。すでに彼は二缶目のビールに口をつけていた。ちなみに、幼い息子がおもいっきりゲロを吐いても、彼は顔こそしかめなかったものの、立ち上がろうともせずに少し顔をそむけながらビールを呑んでいた。恵がやや荒い動作で床を拭きとっている時にも、邪魔になるかな? とは思ったらしく自分の座る椅子をわずかに後ろに引いたくらい。

 冷酒のグラスをちょうど持ち上げたカケルに、恵はすがるような目を向けた。


「そうちゃん、お願いできる?」

「ええええ」

 そのままグラスを口に運んでしまおうか、ちょっとだけ意地悪な気持ちも芽生えたが、どたばたと次の雑巾を持って走っていく夏実と、床にバレーの何かの型のようにぺったりと折れまがっている太一を見て、仕方なくグラスを置く。

「今からすぐ行くの?」

「ううん、まず病院に電話しとく。そうちゃん、悪いけど車、玄関の所まで出しといてくれる?」

 いいよ、の返事も待たずに、恵は早速、病院の救急窓口に電話を入れていた。

 冷酒、呑みます? と啓吾の方にグラスを滑らせると、いや、悪いねえ、と彼はカケルの目を見ないまま気まずそうな笑みを浮かべた。


 そう言う時はお願いします、だろ? ちょっと心の中で突っ込みながら、カケルはキーを取りに離れへと戻っていった。

 

 救急窓口で手続きが終わると、恵はぐったりとした太一を抱いて手近なソファに座った。

「そうちゃん」空いた方の手をひねるような形のままバッグに突っ込んで、ようやく小さな小銭入れを出す。

「帰りは遅くなると思うわ、ごめん。どっかで休憩していてくれていいから。これで珈琲でも飲んでて」

「いいよ、金持ってるし」

「いいよ、この中にもあんまり、入ってないけどね」

 押し付けるように恵が渡した財布を、カケルはシャツの胸ポケットに入れた。


 ぼんやりとあたりを見渡すと、この夏の始めにここに来た時のことが急に昨日のことのように蘇ってきた。そうだ、俺もこのソファに最初座った。子連れの夫婦、奥さんが高熱を出して来てたな、あそこに座っていた。


 今夜はやや人が少ないらしく、訪れている人も今のところ三組ほどしか見えなかったし、窓口からも人の声はしてこなかった。


 ふと、救急車用駐車スペースに二つの影がみえた。警官らしい水色のシャツ、カケルは思わず目を反らし、それからさりげなく、またそちらに目をやった。


 一人は初めてみる顔だったが、もう一人は確かにホンカワチ・ユキヒコだった。

 彼らがドアをくぐってきた。大きく開け放たれた両開きのガラスドアから、少し冷たくなってきた夜気がざあっと院内になだれ込み、それに乗ってかすかな匂いが、カケルの鼻に届いた。


 この匂い、今まさに追い求めているもの。カケルはピアスのついたほうの耳を覆いかくす形でさりげなく手をやって、いかにも何か考え事があるかのような顔をしたまま壁を向いて立つ。


 ホンカワチともう一人の警官が、出てきた看護師と共に廊下の奥へと進んでいく。連中がすぐ脇を通り抜けようという時、カケルは強い匂いを嗅いだ。どうしてこういう時にピアスをしたままだったんだろう、いったん覚え込んだ匂いは、あまりにも強く本能を刺激する。それに、向うが顔を覚えていたらどうしよう? 自宅にも来ているはずだから、恵が先に気づいて、声をかけてしまうかも知れない。それかヤツの方で先に声をかけてくるか?


 ちらっと恵に目を走らせると、彼女はぼんやりしたまま、ちょうど太一の額を拭くためにバッグからタオルハンカチを出そうと下を向いていた。そこをホンカワチともう一人が何か小声で話しながら早足で去って行く。


 どちらも気づいていないようだった。カケルはゆっくりと溜めていた息を吐いた。

 その間にも、廊下を遠ざかる彼らの話声がまだ、わずかに聴こえてきた。


 ―― 時間がかかりそうですね、今夜


「ねえ、」


 恵に声をかけた時には、カケルはすでに彼らの消えた方角をじっと見据えていた。


「俺、ちょっと珈琲飲んで、どっかで休んでていい?」

「いいよ、終わったら携帯で呼ぶからお願いね」

「ああ」


 目覚めかけていた狼は漠然と感じていた。うまくやれるかもしれない、と。

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