17 血の跡を曳いて 2
うっすらと彼女の目があいた。長いまつ毛が痛々しく痙攣している。
「救急車呼んでやるから」
すでに、背後ではさわさわとかすかな蠢きが耳朶に届き始めた。
虫の音とは少し波長が違う、擦れるような、風のざわめきにも似た音。シゴトの後で必ず聞く、その音。
蟲たちがすでに近くまでやってきていた。ざわめきは少しずつ音量を増して四方八方から押し寄せる。あたりが静かな上に、斃した獲物が多かったせいでいつもよりもかなり大きな音で校舎に押し寄せてくる。
イブが顔をしかめる。声はない。しかし、携帯のボタンを119と押して耳に当てようとした時、ようやく手を伸ばして、それをひっかくように取り上げようとした。
「ばか」カケルは少し伸びあがるように手をよける。
「死んでもいいのか?」
イブの目が少しだけまた開いた。「ばれたらどっちにしても終わりだよ」そうつぶやいたように聞こえた。気のせいだったかもしれない、聞き直そうとして
「はい」相手が思いのほか早く電話に出て、彼はあわてて声を出す。
「救急です。はい、けが人です。腰と足に切り傷。血が止まらなくて意識がもうろうと……はい、ええと」ぞっとしないことに気づく。蟲たちの消化作業にいったいどのくらいの時間がかかるのだろう、いつもならば感覚的に15分くらいか、と思っていたのだが今回は数も多い、救急車が来る前にそれらが片付いていなかったら、一体どうすれば。
場所を伝えると、少し時間がかかる、といったニュアンスのことを言われたので心の中でほっとしながら「何分くらいですか」と焦ったように聞いてみる。1時間は待たせない、もし意識が無くなったらこういう処置を、あと、止血はぎゅっと縛らないできれいなタオルを何枚も……などと具体的な話を聞く。
背後ではすでに、倒れた獲物たちが消化されゆくひそやかな音で満たされていた。カケルはできるだけ送話口を覆うようにして、早口で「待ってます」と言ってから電話を切った。
大急ぎで二階に走り、適当な服を拾いだしてくる。男子が一部屋しかなかったのでそこを見つけるのにすこし苦労した。それでも十分もしないうちに一揃いみつくろう事が出来た。
服を着ずにまた階下まで降りる。階段途中から下の廊下一面に、ヤツらが見えた。黒い鱗のようなものに覆われた艶やかな丸い背中、アルマジロによく似ている、それよりも巨大なダンゴムシだろうか、掴まえてみたことがないし、みようとも思ったことがないのでよく分らなかったが、殺戮現場を綺麗にすることには、格段に長けていた。「来た時よりも美しく」カケルの姿でこいつらを見かけるたびに、その標語が頭をよぎった。
後片付けを蟲に任せ、カケルはまたイブの元にかがみこんだ。四つん這いのまま、また狼となってとにかく、舐めて、舐め続けた。
四十分かそこら舐め続け、遠くからサイレンの音が聞こえてきた頃、ようやく彼は起き上がり、人間の姿となって服をつけた。イブにも手早く下着と体操着を着せる。この歳になって女子高生の体操服を着せるなんて、どこかひきつった笑いが浮かぶのを必死にこらえ、なんとか傷に触らない場所までハーフパンツをあげてやる。着衣でついた傷ではないのは明白だが、今はとにかく命が助かることしか考えられなかった。
ふと、俺だけそのまま逃げればいいんだ、と気づいたがその時にはすでに「どこですか」大きな呼び声と白っぽい長衣が窓から近づくのが目に入り、
「ここです」と大声で答えていた。
イブが助かったのを確認できてから逃げよう、カケルは大きく息を吐いて、立ち上がった。




