07 風船は飛んで行く 1
ささいなエピソードほど、いつまでもよく覚えているということもある。
カケルがふと思い出したのは、風船のことだった。
あの時は、琢己がまだ小学校三年くらいだったろうか。太一が生まれたばかりだったので、多分そうだ。カケルが、琢己と幼稚園の年長組だった夏実の二人を連れて地域のふれあい祭りに出かけたことがあった。
その頃のメグミは少しばかり面やつれしていたものの、授かると思っていなかった第4子を無事、5月はじめに産んでいた。逆子で、もしかしたら障害があるかも知れないと医者から言われていたが丸まるとした元気な男児で、その子も既に生後半年になろうとしていたので表情にはそれなりにゆとりがあった。
カケルたちの父親は仕事を辞めてから何となくぼんやりしている事が多くなり、家族から「ボケたんじゃないの?」とよく言われてはいたものの、それはまだつまらない冗談の範ちゅうだった。それでも心配した母親は今まで長くパートで行っていた会社を去り、家に入った。転んで長期入院する少し前のことで、それなりに家庭内は落ちついている時期だった、とカケルも記憶していた。
カケル自身は昨年夏の出来事からようやく、立ち直りつつあった……イブがいなくなったあの夏の出来事から。
立ち直ったというのにはやや語弊がある、それ以上考えてもどうにも解決できない、カケルの中の弱気な部分がそう繰り返し自身に囁き続けていた結果だったのだろう。
日常に埋没していさえすれば、オマエは安全でいられるのだ、と。
おせっかいと言っていいほどの家族の干渉も関係していたかもしれない。その頃はアパートで独り暮らしをしていたカケルに何かと細かい用事を言いつけては実家に寄るように連絡をよこしたのもこの頃からだった。
幸運にも、ムカイヤからもここ1ヶ月ほど電話がなかった。
久しぶりにぽっかりと平原に浮かぶ雲のような漂う気分の休日、カケルはまた実家のリビング、ソファにだらりと寝転んでいた。
そこに夏実が駆けこんできた。息せき切っている。
「あっ、そうにい! はやくはやく」
「えっ何?」
「おまつりだよぉ、おまつりいこ、はやく」
ぐいぐいと引っ張られる。カケルはソファから転がり落ちそうになる。
「何すんだよ」頭を掻いて、大きなあくびをひとつ。
「パパは、いないの?」休日になるとさりげなく『銀玉磨き』に出かけてしまう圭吾は、その日もカケルが着いてからいつの間にか姿を消していた。
「ママが、そうにいにつれてってもらいな、って」
「やなママだなあ」そう言いながらも、どっこいしょと起き上がる。
どこかで見張っていたのだろうか、恵の声が洗面所から響く。
「そうちゃん、お祭行ってくれるの? だったらタクミも連れていって」
えええ、と気のぬけたような返事になる。
その頃、初めて何度かスクールバス停への引き取りを頼まれて、おそるおそる家まで連れ帰ったことがあった。小柄な割に瞬間的な力があって、急に掴んでいた手を振りほどいて走り出してしまったり、奇声を上げて走りまわったり、実のところ、カケルにはどう扱っていいのかよく解らないものがあった。
それでも、お若いのに偉いですねえ、と周りの保護者やバスの介助員に褒められたりおだてられたりすると、まんざら悪い気もしなかった。そんな時に限って琢己は大人しく彼に手をつながせて下を向いてじっとしていたり、カケルの頬にやさしく触れて、薄く笑ってみたり友好的な様子を示してくれた。しかし、そんなことはまずまれで、一度などは発進しようとするスクールバスの前に飛び出して危うく、轢かれそうになったこともあった。
その時にはさすがのカケルもかなり動揺して彼を激しく叱った。琢己はかなり、しゅんとしたように見えたのだが、やはり帰りの車の中では座席でぴょんぴょんと跳びはね、奇声を上げ続けていた(それでもよくしたもので、仏頂面で運転中のカケルには全然触れることはなかった)。
ねえ、なっちゃんどうしよう? カケルは夏実が「たくちゃんもいるなら行きたくない」と言ってくれるのを期待してそう聞いたのだが、夏実はもうお祭に行けるというだけで有頂天になっていて、琢己うんぬんの部分についてはまともに聞いていないようだった。
「やったー、はやくいこ! なつみ、おもちたべたーい! やきいももかう。しゃてきとスーパーボールすくいもやる。あとね、しょうぼうだんのひとがけむりのめいろもやるの」
すでに計画書はばっちりと出来上がっているようだった。そんな時に限って、琢己もひょっこりと居間に顔を出す。多分コイツもちゃんと聞いて理解しているんだ、今までずっと恵の脇で、洗面台の蛇口をひねって水を出したり止めたりして遊んでいたくせに出かけるとなったらこうして気づいてやって来る。さすが、子どもだ。
たっくん、お祭に行く? カケルはちょっとだけ意地悪な気持ちでそう聞いてみた。痩せて小柄な琢己は全然明後日の方を見ていたにも関わらず、指をしゃぶったままうん、とうなずいた。
連れていかない訳にはいくまい。カケルが「じゃあ車に」と言うか言わないかのうちに夏実は「わーい、そうにいの車、開いてるよねー」と走って行ってしまった。続いて琢己も腕を頭に絡めるように上げて、首をふりふり後について行ってしまった。
全く。さすが、子どもだ。
カケルも軽く息をついて、車に向かう。




