20 長い夜 10
急に尿意を催して立ち上がる。トイレは通路に出て少し奥にある、と看護師が言っていたのを思い出す。
照明は自分でつけるのだろう、さっきこの部屋に入る時には通路には何の明かりもなかった。何となく憂鬱だな、とそれでも自然の欲求には逆らえずカケルは暗い通路に出た。
風呂に入る前からずっと我慢していたからな、と思うと急に我慢できなくなる。暗いままトイレの入り口を開け、ドアの向こう側にありそうなスイッチを見えていないまま手探りした瞬間、ドアが勢いよく開いて後ろ向きの制服姿が飛び出してきた。くるりと半身をひねったときに急に目に入ったらしく、ドアのすぐ外にいたカケルの姿にすっかり固まって目を真ん丸に見開いている。カケルも鼓動が跳ね上がる。
「おおおおーーーー!!」二人は同時に叫んだ。
「お、おおお」ホンカワチだった。叫びながらも薄手のハンカチで手を拭いている。
「すみません……いつも使う所なんで、電気も点けずに入ってて」
「い、いいいいえこちらこそ」カケルはまだ心臓がバクバクしたままだった、二人はあたふたと詫びのことばをかけ合っている。
「な、なんですかこういう場所」ホンカワチはそう言ってから、遺族を前にこれはどうか、と気づいたように次の言葉を飲み込んだが、カケルがおずおずと
「……あまり、気持ちいいもんじゃ、ないですよね」
とつなげたら、照れくさそうに笑ってから「では失礼します」と軽く首を動かして去って行った。
カケルは、その姿を見送ってから改めて照明スイッチを探す。
明るさに満たされた小部屋はごく普通の場所に戻った。ホンカワチの小市民的な叫びと驚いた顔が目の前にちらついて、カケルはひひひと小さな声を出して笑った。声がタイルに響いて、また何となく薄気味悪くなって周りを見回す。
小市民で小心者というのならばやっぱり、俺のほうが勝ってるかもな、そそくさと放尿を済ませてから鏡に映る自分を目に収めないように、さっさと手を洗う。
皮肉にも、霊安室に戻ってきた時にようやく落ちついた。彼はどさりと椅子に身を投げ出した。
しばらくひとりきりで、霊安室という空っぽの部屋にカケルは座っていた。
全てが現実とあまりにもかけ離れているような気がしていた。看護師、父親、医師、ふたりの刑事、検死官、そして訪れたばかりの葬儀屋、すべて架空の人物のようだった。今は誰もおらず、もしかしたらカケルの想像上の人物だったのかもしれない。
急に携帯が震えているのに気づいてあわててそれをポケットから取り出した。
「もしもし」音が聴こえない。焦って、先ほどの廊下に出る。片隅に立って画面を見た時、表示名を見て立ちすくんだ。しかしもう先に、受話ボタンを押していた。
好奇心に勝てず、携帯を耳にあてる。
アンテナは立っているはずなのに、相変わらず声はしなかった。かかってくるわけがない、声も、するわけがない。
「もしもし」
重ねて呼びかける。しかし、もしかしたら……
あり得ないことが続く、こんな晩ならば。
「もしもし……」
明らかに、耳を澄ませている様子がうかがえた。カケルは息を呑んで、ようやく声を出す。
「カケルだけど……誰?」
何も言わないうちに、電話が切れた。
カケルはゆっくり目をつぶり、また目を開けてから深呼吸をして着信履歴を開いてみた。
『柳原聖夜』、確かに、最終にその表示が残されていた。
「イブ」声に出さずにつぶやく、俯いたまま額に電話を押しあて、押し寄せる感情の波としばらく戦った。すぐに掛け直したかった。
しかし、彼にはそれができなかった。
帰路も、同じような取り合わせ。死んだ父親に、自分、そしてまるっきりあかの他人。多分、今日初めて出会っただろう人。
来た時と明らかに違うのは、急いでいないということだろうか。それでも、行きも帰りも似たような要素はあった。
自分ひとりではどうにもならないことを、他の誰かが仕事としてやってくれている、ということ。
運転手はほとんど無駄口をたたかずに、カケルの家まで静かにハンドルを切っていた。
ナビがあるおかげでいちいち道案内をせずに済むのが、こんな時にはありがたかった。
カケルも自らの思いに沈みこんだまま、ずっと遠い東の空を見つめて車に揺られていた。
家に着いた時にはすでに3時をまわっていた。恵が玄関先に立って、葬儀屋を招き入れた。圭吾は泣いていたのか、目が真っ赤だった。カケルと目が合うと、小さく頭を下げて「悪かったね」と小声で詫びた。
子どもたちのうち夏実だけは、驚いたことにまだ起きていた。
「おじいちゃんにおかえり、って言わなきゃ」手前の和室に安置された遺体を見て、それでもようやく10歳の顔に戻った。
「今夜、母さんと一緒に寝てもいい?」恵は父親の寝姿を見つめたまま、ゆっくりと首を横に振る。
「母さんは今夜は、ここにいなくちゃ」
「じゃあ母さんのお布団で寝てもいい?」
「いいよ」
カケルが脇を通り過ぎようとする夏実の頭をくしゃくしゃになでると、ずしんと重たい頭を彼の鳩尾にぶつけてから「おやすみそう兄」そのまま下を向いて部屋に戻っていった。
母親の部屋はすでに扉が閉ざされ、真っ暗なようだった。寝ているようだが、眠ってはいないのではないだろうか。
長い夜は、少しずつ明けようとしていた。




