19 長い夜 9
「今からお宅におじゃまして、現場を見せて頂きますがどなたかいらっしゃいますよね」
いきなり本題か。カケルはえっ、と言葉を飲んだが
「……いえ、これも一通りマニュアルがありまして」アオノが頭をかく。ホンカワチが用意してあったらしいA4の紙をカケルに手渡す。
「こちらはね、一応お話を伺ったご家族の方などにお渡ししてますが、僕の名前も入ってますんで、もし不明な点あればぜひ連絡を」
タイトルに「ご遺族と関係者の方へ」とある。事故で亡くなってから警察や病院が入って行われる手続きの説明書らしい。
裏面の最初に「なぜ警察が遺体を調べるのですか」と見出しがある。
他にも、家の中を調べたり写真を撮ったり、生命保険について尋ねたり、全てはマニュアルに従っているという文面が事務的に綴られている。あくまでもカケルのみを疑っているのではないと強調したいのか、ホンカワチは紙を手渡しながら、照れたように笑ってみせた。
「家に連絡入れていいですか」カケルが聞くと、アオノがさも嬉しそうに「お願いします。これから支度して、この3人で伺いますので、まずお亡くなりになった浴室をみせて頂きます」と続けた。
カケルはまた、恵に電話を入れる。電波の状態が悪く、彼は霊安室から出て廊下の片隅に立った。ようやくアンテナが2本表示されたので、電話の気が変わらないうちに急いで電話をする。
「今から警察の人が風呂を見に行くって」
そう伝えると、慌てた声で「今、やっと母さんが入ってるんだけど。タイチもまた入りたい、って言って一緒に」と言っている。溺れた湯をいったんこぼして風呂を洗い直し、また湯を溜めたのだという。
電話を切らずにそのまま部屋に戻り刑事に伝えると、若いホンカワチは「ええっ」と目を見開いている。「お湯、捨てちゃったんですね」さも残念そうに言うので「すみません」ととりあえずカケルは謝った。お父様が入っていた時、どのくらい湯があったか分りますか? というのでいつも決まった量で湯が溜まる仕組みです、と答えたら少し安心したような目になった。
恵に返事をしようとしたら、移動のせいで電話が切れていた。また廊下の片隅に行って、姉に掛け直す。「今から来るの? こんな夜中に?」雑音混じりの声は震えていた。それでも、拒むと言うことは考えていないようだった。いつもカケルがやるように、長い息を吐きながら「分かった」と言って電話は切れた。
彼らが移動することになり、今度は先ほどの医師がそこを覗きにきた。役場に出す書類ですが、とA3の左半分が空欄のままの死亡届を渡された。右には死亡診断書いう文字が横線で消され、(死体検案書)の文字だけが残されていた。死亡日時と病院の場所、原因に溺水と書かれていた。まん中の欄には『認知症』の文字もあった。
「CTや検死の結果、特に病変もなく、また、不自然な傷などもないことが全て確認できましたので、溺水事故ということで、これを」
ホンカワチが立ち去り際に、「検案書のコピー、明日、警察に持って来てもらえますか」と爽やかな口調のまま告げた。
「警察署のホンカワチ、と言えば僕一人なんで、すぐ判ると思います」
じゃあ、と去っていく警官を見送ると、入れちがいに黒いスーツ姿の小男が看護師に伴われて姿を見せた。
「ヤマナシさま、ですか」しゃべり方がどことなく、ムカイヤを思わせる。カケルはぞっと冷水を浴びせられたようにすくみあがってから、おそるおそるその姿を確認した。
姉が伝えてくれたらしい、葬儀屋の担当者が既に病院に着いていた。
「ヤマナシさん、お待たせしてます、お帰りの支度が整うまで少しお待ち下さいね」看護師と葬儀屋とはすでに話が済んでいるらしく、短くやりとりしただけで、お互いがお互いの方向に動き出した。
葬儀屋はいったんカケルの前に立ち止まり、丁寧に悔やみを述べてから、
「ご自宅にお連れするようにお聞きしましたので、一緒に乗っていって頂けますか」と聞いてくれた。
確かに優しい言い方だったが、よく聞くと、ムカイヤのような得体の知れなさは薄くなってきた。
カケルはわずかに肩の力を抜いて、お世話になります、お願いします、と頭を下げた。




