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心優しき狼よ、曠野を行け  作者: 柿ノ木コジロー
第一章 ― 2 ―
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16 長い夜 6

 長い夜が始まる。人が亡くなったからと言って、それで全てが終わるわけではないとカケルは改めて思い知る。遺された人がいる限り、そこには色々な瑣末事が付いて回る。


 まず恵の携帯に電話。「9時58分だって。死んだ、うん、分かった。まだ帰れない」

 向うはいつもの口調に戻っていた。

 悪いけど今夜はこちらから誰も動けない。父さんを寝かせる部屋を用意しておくから葬儀屋さんにそこに行って貰ってくれる? 病院でも言うと思うけど、今夜中に誰かに連れて帰ってもらうことになると思うから。葬儀屋さん? 当てがないわ、そこで聞いてみてくれる? 多分私らよりは詳しいと思うから。


 待合室脇の控え室で、看護師からも色々と話を聞いた。

 死亡の原因が病気ではないか、一応脳と心臓のCT検査をするらしい。それから事故だとはっきりするように警察も入ります、と。


 警察と聞いてカケルはぶるっと身を震わせた。何故オレが警察と話なぞする羽目に?

 そんな思いにお構いなく、ふつう病院ではあまり見かけないような江戸紫の制服に身を包んだ看護師は十分同情的ともいえる静けさのまま言葉を重ねている。


 ようやく質問ができた。「今夜はずいぶんかかりますか?」

 看護師の目の色が更に同情を重ねた。「そうですね、少なくともあと2時間はかかるかと。検査も終えて、警察の方ともお話されてですから」


 今夜そのまま尋問があるのか、鳩尾から下半身にかけてきゅっと縮まったような緊張を覚える。


 どうしよう、知られてしまったら。俺は逮捕されるのだろうか、何人も殺したのがばれて。それとも、発作的に狼に変わってしまい、その場で撃ち殺されるのか。


 今、一番死に近いのは父親ではなくて自分だ。父親はすでに人生の過酷なレースは解放されているのだから。


 動揺をおし隠しながら、それでも何とか看護師に葬儀屋のことを聞く。

 看護師が「お父様、どこかに掛け金とかされてました?」と逆に尋ねてきたが意味がよく判らなかったので姉に聞いてみます、と答えた。


 看護師から、更に細かいことを聞かれた。帰る際に着せる服とか髭は剃っていいのか、とか。すべて必要なことなのだろうが、カケルにとっては混乱を増すような話ばかりだった。また待合室でお待ち下さいと外に出されてから、彼は急に脱力して壁に寄りかかるように座った。


 幼い男の子を抱いた若い父親が片隅に立っていた。足もとのベンチには崩れ落ちるように若い母親が伏せて座っていた。発熱したのだろうか。覗いている耳元が真っ赤だった。男の子はそんな母親の様子が気になる風でもなく、あたりを珍しげに眺め渡していた。

 反対側の隅には車いすの老婆が一人、ぽつねんと残されていた。

 3人ほど、作業着のままの中年男性が救急出入り口から駆け込むように入ってきた。救急車が一台到着する。


 これが、この場所の普段の様子なのだろう。カケルはぼんやりと座ったまま、一部始終を眺めていた。


 それでも、やることはやらねばならない。

 やっとのことで立ち上がり、人目につかない廊下の片隅でようやく、ムカイヤの番号を探して電話をかけた。


 発信音がすぐに転送の音に切り替わり、ずっと鳴りっぱなしになってから唐突な留守番電話サービスの音声に変わる。カケルはつかえながら、家庭で不幸があって、今病院で、と話し始めた。そこに、かち、と音がして「はい」優しい声がした。


 聞かなくて済むなら、聞きたくない声だった。しかしとにかく話だけはちゃんとしないと。


「父が亡くなりまして、突然。今、救急車で一緒に来て、先ほど息を引き取って」


 ムカイヤは黙って聞いていた。優しい声でも何もしないのは、やはり不気味だった。


「すみませんが、今夜は仕事に出られません」

「そうか」いつもの優しさのまま、ムカイヤが告げる。

「それはお気の毒です。仕事はまた、少し落ちついてからでいいから」


 案外あっさりと了承される。その程度の命なのかとも一瞬思えたが、それでもありがとうございます、と電話に向かって頭を下げる。


 それから……と少し言い淀んでからカケルはできるだけ落ちついた口調を心がけて続けた。


「風呂で溺れたんですが、父が。あの……今から病院に警察が来て調書をとるそうで、僕がそれで」

「うん」優しい相槌がきこえる。


「その……一応お知らせしておいた方がいいかな、と」言ってはいけないことだったのか、しかし相談できるのは彼しかいない。手が汗で滑る。

「もちろん、その」


「たいへんだね、警察まで来るんだね」全く気にしていないようだ。ムカイヤは労わるような口調だった。

「キミも大変だろうけど、力を落とさないように。何かあったらまた電話して下さい」


 電話が切れた。

 ごく普通の会話だったと思うが、何だか見捨てられた、という感じが漂っている。それでも……とカケルは長く息を吐いてから携帯をシャツの端でぬぐう。


 このまま、ヤツと縁が切れる、というのも十分魅力的かもな。


 そんなことは絶対にないのは、自分でもよく分かってはいたが、軽く妄想するにはちょっと、楽しい内容だった。

 葬式の時に、かつての雇主です、と言って香典を持ってくるかな、ヤツは。


 下らない想像だと思いながら、カケルはピアスを外してTシャツの胸ポケットにそっと、滑らせた。

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