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心優しき狼よ、曠野を行け  作者: 柿ノ木コジロー
第一章 ― 2 ―
38/148

13  長い夜 3

 圭吾とカケルは交代で父親の胸を押し続けた。はっはっ、と短く息をしながら乳頭の間のくぼみを、肘を曲げないようにぴんと腕を伸ばしたままで押す。リズミカルに、あまり強すぎないように、しかし力を入れて。頭では分かっているが、さすがに下に生身の人間がいるとなると、しかも何も動きがないと思うと行為自体が本当に正しいことなのかが疑問に思えてくる。速さは間違ってないか、押さえ過ぎではないのか……やっていることの意味さえもあやふやになってくる。一度、嫌な手ごたえを感じたらしく圭吾が手を止めて、泣きそうな目でカケルをみた。

「……折っちまったかも」

 肋骨が鳴ったのだと言う。カケルは敢えて固い声で答えた。

「プロの人も言ってた、折れることもある、って。そのまま続けよう」

 ほっとしたように短く息を吐いて、圭吾は先を続けた。


 晴樹が心配そうに覗きに来た。

「替わろうか?」

 本当はしたくない、と言いそうな目だった。それでもカケルは「うん、お願い」と場所を譲った。晴樹は自分の父親から小声で指示を受けながら、おそるおそる倒れている人の胸に手をかける。始めてしまえば、ためらいはないように「一、二、いち、に、」とカウントをとりながら効率的に腕を動かしていた。圭吾が「お義父さん」と耳元で呼びかける。

「がんばって、すぐ救急車くるから」


「人工呼吸は……」自分の部屋から出ようとはせずに、母親が声をかける。晴樹は押しながら

「救急の人からは言われてない、とにかく、心臓マッサージしろ、って」

 母親はまた黙って目だけこちらに向けていた。


 何度目かの交代を経て、ようやくサイレンの音が近くなってきた。ピーポーという牧歌的にも思える音のすぐ後から消防のサイレンも続いている。太一がすぐに気づいて居間から飛び出してきた。

「ぴーぽだ、ぴーぽだ」

 夏実が居間から出てきて、太一の肩をつかんだ。「ほら待って、カルピス飲も」

 太一は、横たわる祖父をちらりと目にしたが特に何も言わず、そのまままた、居間へと戻った。居間の戸を開けた時、「ういっ」とひと声、琢己の叫びが聞こえた。それでも動かずに画面には集中しているらしい。


 二つのサイレンは絡みあってすぐ近くまで来てからふっと闇に溶けるように音を消した。

 少ししてから、別の声がいくつか呼びかけ合い、そのうちに恵の声が玄関に招く声がした。取り澄ました感じではなく、いつもカケルに語りかけるような低い声音だった。

 白っぽい不繊布をはためかせて、二人の男がまず玄関から入ってきた、続けてもう1人、オレンジ色の上下の男。ヘルメットのままで、いかにも仕事にきました、という顔をしている。「どちらに」声を出してすぐ気づいたらしく、手っ取り早く自分らの靴に何かのカバーをかぶせて廊下へと上がってきた。

「後はこちらでやります。状況を説明してください」

 カケルだけ彼らの前に残されたような形になった。一通り見たままの様子を話して聞かせると、今度はボードを持った人間が少し奥に立っていた圭吾に向かい、患者の氏名や生年月日を確認しようとした。圭吾はおびえた目で更に後ずさりして、玄関に立つ恵に「おい」と呼びかける。恵が低い声のままで、隊員の質問に答え始めた。

「最初に気づいたのが、8時50分で……」隊員が当然ともいえる質問をする。

「おじいさんが風呂に入ったのは、何時何分頃ですか」

 誰も、答えられなかった。ようやく、晴樹が「ばあちゃん、じいちゃんいつ、部屋を出て行ったんだよ」と奥の部屋に声をかけたが、母親は頑なな目をして「知らない、私ぁうつらうつらしてたから」拗ねたような言い方でそう応えた。


 結局、その前に風呂に入った恵と太一が8時少し前だったので、父親が入ったのはその後、少なくとも8時25分にはなっていただろうということに落ちついた。

「……そんなにわずかな時間で」圭吾がつぶやく。カケルはふと、耳のピアスに触れた。


 家族の前で、付けっ放しだったが今は全く気にはならなかった。彼らにはどうせ意味はないものだ。それにしても……

 これにあんまり手間をかけていなかったら、もしかしたら助けられたのだろうか。


 その間にも、隊員が二人がかりで心臓マッサージを繰り返していた。「持って来て、」もう1人たどりついた隊員に何か指示を出すと、既に用意してあったらしい機器を中に運び入れた。よく街なかにもあるAEDの類らしい。彼らはよどみない動作で寝ている男にパッドを貼り付け、機械のスイッチを入れた。

「少し離れて」そう言われなくても、家族は既に遠巻きに見守るだけだった。晴樹がずっと気にしていたのか

「人工呼吸は、試してません」おそるおそるそう口にした、が、隊員の一人が顔を上げてその声を確認してから、

「うん、だいじょうぶ。車の中にあるから、吸引器が」機器のモニタに目を戻しながらもそう答えてかすかにうなずいた。晴樹は自分も呼吸が止まっていたかのように、そこでようやく長い吐息をもらした。


「救急搬送します、誰か車に一緒に乗ってくれますか」ストレッチャーを運んできた隊員が、恵に向かってそう聞いてきた。

 他の隊員から普段飲んでいる薬のことを聞かれていた恵は、台所へと向かい、小さな薬箱を持って来たところだったが、その声でぴたり立ち止まる。「あの」私が乗って行きます、と口まで出かかったようだが、急に唇を震わせるように「そうちゃん」カケルに目をくれた。

「アタシ……タクミもタイチも……」その言葉に圭吾が弱々しく目を伏せる。

 普段からあまり子煩悩とは言えない彼は、いざという時子守りができない、それは家族全員がよく分かっていた。


 母親が奥の部屋前に番人のように立ったまま言った。

「カケル、父さんと行っといで」


 どうせそうなると思った。カケルは「いいよ」吐き出す息とともにそう答え、脱衣所に戻る。ランニングはいつの間にか着ていたが、下はトランクスのままだった。替えに持ってきていたTシャツをかぶり、さっき脱いだばかりのジーンズに脚を通した。恵は少し目を落としたまま、それでも小ぶりのボストンバッグに父親の下着やバスタオル、保険証や病院の診察券がセットになった二つ折りのポーチを詰め込んだ。財布から数千円出してバッグと一緒にカケルに渡す時も、彼の目を見ずに

「ありがとう、お願い」いつもとは違い、不明瞭な声でそうつぶやくように言った。


「行ってくるよ」


 カケルは隊員たちに続いて外に出た。太一がまた、居間からのぞいてカケルに問う。

「そうたん、ぴーぽのりゅの?」

 うん、そうだよと答え、後はふり向かずに車へと向かった。

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