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心優しき狼よ、曠野を行け  作者: 柿ノ木コジロー
第一章 ― 2 ―
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10 シャボン玉

「ねえソウちゃん」メグミは煙草の煙を吐き出すような口調だった。

「アンタの悩みも大きいだろうけど、誰だって同じ事なのよ」


 人の生き死にに関することを上回るような、そんな悩みというのがどこにでも転がっているというのが信じられず、うつろな目のまま、カケルは姉の顔をみた。


「アンタは、うちの子のことをどう思う」


 いきなり尋ねられ、カケルは虚をつかれて目を見開いてから、ようやく聞き直した。

「……うちの子、って、タクミのこと?」

「タクミだけじゃなくて、ハルキもナツミも、タイチも含めてよ」


「……うん」何と答えていいのか、よく分らない。4人ものニンゲンについて一言でコメントを述べるというのはなかなか難しいものだから。


「そうだね、小さいときから見てるから、可愛いとはおもう」


「アタシはね」メグミの目はどこか遠くを見ていた。ちょうどそこから一番遠くに一本生えている木をみているような、憧れの混ざった哀しげな目線だった。


「最初にハルキが生まれたときにさ、そりゃ大変だったのよ、全然出てこないから、って陣痛促進剤まで使って、それでも分娩台に乗ってから更に3時間近くよ、分る? 分娩台って見た事ある?」


 彼はのろのろと首を横に振る。話がどこにとんだのかよく分らなかったが、口を挟まず黙っていた。姉はなぜか自虐的な笑いを浮かべた。


 タイチがやってきた。

「かあ」それしか言わずにプラ袋の小さな包みを母に差し出してみせる。シャボン玉のセットだった。

 彼女はいつものことなのか、何も問わずにその包みを開けて、中に入っていた緑色のちいさな容器の蓋を開け、ついていたストローを差し込んで返してやった。タイチが嬉しそうに駆け出すところに

「お庭でやりなさいね」

 母親らしく、やさしい言い方で声をかける。返事はなかったものの、タイチはまるで呪文にかかったかのように敷地端でぴたりと足をとめ、それから道路のほうに向かってシャボン玉を飛ばし始めた。


 姉がゆっくりとことばを継いだ。


「マタおっ拡げでさ、お腹も背中もすんごい痛いのに、腰の骨なんて割れるかと思うくらい、しかもあそこまでバリバリと音がしてるかってくらい、あんまりにも力み過ぎて目の毛細血管がブチブチと切れるのよ、しかもさ、『まだいきまないで、はい、呼吸をふっふっはー』なんてオママゴトみたいなこと、横で言われるの、激痛でどこにも逃げられないのにさ、それにアタシみたいに股関節がうまく開かない体の固いヤツに『はい、脚をパタンと開いてー』なんていうの、それもしょっちゅうね。息をすればいいのか脚を開けばいいのか、叫べばいいのかもうよく分らない、出て来ようとするモノなんてどうでもいいから、一刻も早くアタシを楽にして頂戴、麻酔でも何でもかけて、意識のないうちに中身を出してよ、何ならばアタシごと殺してくれればいいのに、そう泣きわめいてやりたかった、とにかく痛くて苦しい、みんなやっていることだ、なんて言うけれどその苦痛は今現在、このアタシひとりに振りかかっているんだ、この痛みで狂いそうになっているのはこのアタシだけなんだ、そんな思いで、屈辱的なカッコウのままずっとそこに仰向けになってるのよ、上に着ている服も腹の上までたくし上がってて、おっぱいまで丸見え、掴んでいる脇の手すりはもう何人もの出産をくぐり抜けてきたせいでもうグラグラ、ひときわ酷い痛みが襲ってきて叫んだときに、とうとう手すりが折れちゃったしね」

 姉が苦しんでいる様子が、ちらっと目に浮かぶ。そんな苦痛を味わうくらいならば、確かに死んだ方がいいと思ってしまうのかもしれない。


「ようやく赤ちゃんの頭が見えてきましたよ、さあいきんで結構です、がんばりましょう、って言われてアタシは渾身の力であの子を押しだそうとした。ふんっ、ふんってまるで酷い便秘の人がウンチ出すような感覚でしょうね、なりふり構わないのよ、もちろん、全部垂れ流しよ、助産師さんもわざわざ言うのよ、いいんですよ、ウンチ出してくださいね、全然オッケーですから、って。自分でも出ているの分らないのに、悲鳴も涙も、鼻水まで出ているのに自分では何も気がついていない……そんな時にふっ、と力が抜けた瞬間に『あっ』て小さな声がした。分娩担当の女医が、エイン切開というのをやるのよ、つまりね、大きな赤ん坊が出る時にアソコが破れてしまわないように、先にハサミで切るの、麻酔もなしで。ふつうはいきんでいる隙によく切れるハサミを使うから、ほとんど気づかないんだけど、たまたまアタシの場合は、いきみの合間にハサミを入れられた。じゃき、って音がして、張りつめてなかった皮膚が切れる感触がした。信じられる? 生の肉体、じゅうぶんに神経が通っている生身の身体を切るの、ハサミで」


 カケルはかすかに身震いをした。


「どうにか生まれたのは、分娩台に乗ってから2時間半後。その前に陣痛室のベッドで生まれない焦りとか促進剤をされた時の不安感とか抱えて、ずっと悪夢をみたような時間も含めて、まる一日近く嵐の中でほんろうされていたような気分だった。ほら、赤ちゃんですよ、って見せて貰った時、アタシはついにやった、結局勝ったのはこっちだ、そんな誇らしい気分だった」


 少しことばが途切れ、カケルと姉は同じ方を眺めたまましばらく物語の余韻に浸っていた。


 ようやく、カケルはおそるおそる口をはさむ。


「……でも、そんな苦労して生まれてきたんだし、見た瞬間可愛いと思ったんだろう」


 姉は今度は笑わなかった。


「アタシはすべての感情がすり減っていたのよ、その時は。いいえ、ずっとそんな状態だったかもしれない。その子が真っ赤な体に何だか薄皮みたいな白い粉をふいて丸くなって元気に泣いている姿をみてね、すぐ感じたのは

 なぜいつか死すべき者をこんなに苦労して生んでしまったのだろう……って」


 アタシは子どもを愛している、でも可愛いと思えたことは一度もないの。

 ずっと可哀そうに、と思い続けている。そして、そんなふうにしか思えない自分も。


「アタシはきっと、いつの日か子どもに殺されてしまうわ、これじゃ」

 そう笑った時には、いつもの姉の顔に戻っていた。さあ、買い物行って来る、そう彼女はカケルの肩をぽん、と軽く叩いて母屋の方へ去っていった。


 ふり向きざまにこう言っているのが聞こえる。


「タイチがさあ、道端に出ないように見ててくんない? あの子夢中になりすぎるとどんどん出ていっちゃうから」


 カケルは凍えたように動けず、「うん」声は出たものの目だけでずっとシャボン玉を次つぎと飛ばしているタイチの姿をみつめていた。タイチは無心に、管を小瓶に突っ込んでは空に向け、息を吹き込んでいる。大きなものを作るのに夢中なのか、その動作はどちらかというと宗教的におだやかな緩慢さを漂わせていた。かなり大きなものができるたびに、タイチはこちらを振り返り、どうだというように笑顔をみせる。カケルも同意するようにかすかに笑ってみせた。


 姉のことばが、耳の中で鳴っていた。

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