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心優しき狼よ、曠野を行け  作者: 柿ノ木コジロー
第一章 ― 2 ―
33/148

08 失敗と罰 3

 途中からはまた狼に変われたので、山あいの人けのない所を選んで全速力で走って帰った。しかし、一度だけ大きめのトラックが山を下ってきた時に路肩に飛んだ瞬間、狼の姿が解けて彼は思い切り草ぼうぼうの斜面に頭から突っ込んだ。二の腕の内側とこめかみの近くを尖った太い茎がかすった。また傷が増えたようだった。幸いにもすぐにまた狼に復帰して、傷を丁寧に舐めてから痛みを和らげ、その前と同じように走り出すことができた。


 ほうほうの体で、というのがぴったりだろうか、帰宅した時にはすでに東の空がうっすらと闇を和らげて朝を迎える準備をしていた。

 夏至も近いせいで、4時半にもならないのにこんなに明るいなんて、カケルは腫れぼったい目で辺りを伺い、少し広い場所に出た。


 恐ろしげな獣の姿も、こっぱずかしい素っ裸の姿も人目にさらすことなく、彼は自宅すぐ前の広場にたどり着いた。

 ゲートボール用に拓かれた狭いややスペースで、周りにそれぞれの家庭から持ち込まれたような古いパイプ椅子や木のベンチなどがぞんざいに並べられている。その更に隅に、鍵が無くなって扉も半分閉まっていないようなプレハブの物置が置かれている。イナバ、とかヨドとか呼ばれる類だが、中にはほとんど物が入っておらず、真っ暗だった。いつもカケルはここで服を脱ぎ捨て、狼になるための呪文を唱える。帰ってくる時は狼のままここに入り、中で人間に戻る。


 ようやくたどり着いた物置の戸口に手をかけた時は、しかしなぜか小屋の錆臭い匂いは鼻に届かなかった。それで気づく、既に人間の姿に戻っていた。四つん這いになっていたのを泥の中から這い出すように立ち上がり、間違えてまた「あれのをゆけ」と声に出した。


 違う、もう狼になんてなりたくない、早く家に帰りたいだけだ。本当に俺はばかだなあ、そう続けざまにつぶやいて、まだ声が出ているのにほっとする。狼にはならずに済んだ。


 泣いているのか笑っているのか自分でも分からないような息づかいのまま、カケルは高い所に畳んで置いたトランクスを指にひっかける。腕を伸ばした時に殴られた脇の痛みがびりびりと全身を貫き、思わず、中の棚にしがみつく。棚は安定しておらず、半分外れかかって余計にカケルはよろめいてしまった。上に乗っていたランニングとシャツ、それにジーンズが落ち、何か重いものが脇の痛めた所に当たる。ほんとうに踏んだり蹴ったりだ。


 ランニングは着ると脱げるかわからないので、とりあえず前開きのシャツを羽織るだけにして、ボタンははめずにおいた。ジーンズを穿くのも一苦労で、昨今の父親がみせる鈍い動作が笑えない状況だった。

 丸めたランニングを痛む箇所に当てて、隅に脱いであったサンダルをひっかけ、カケルは足を引きながら家へと向かった。


 薄暗がりの中、離れの部屋の前に姉が立ちはだかっていた。

 カケルの不良じみた姿に驚いたような目をしたが、頬のあたりに赤い傷が見えているのにすぐ気づき、組んでいた腕をほどいた。


「そうちゃん……どこ行ってたの」

「散歩。おはよう」

「夜中から待ってたのよ」

「どうした」

「どうした、はアンタでしょ。何があったのよ」

「別に。なんで」

「その傷に、その格好……」上から下まで見回している。

「ケガしてるし、その歩き方・……どっか痛いの」眉間にしわを寄せたまま彼の元に寄る。

「いや痛くない、ってあつっ」急に伸びてきた手が脇腹に触れ、彼は跳び上がる。

「ちょっと転んで崖から落ちたんだよ、触るなよ」

「折れてない? 何で崖から落ちた、って」

「ジョギングしてたんだよ」

「夜中に、サンダルで?」理解できない、という目をしている。カケルだって自分のことばに納得できていない。姉にうまく嘘などつけたためしがない。

「それよか、どうしたんだよこんな夜中に」逆に質問してみた。姉はまだ何か聞きたそうだったが優先順位一位を思い出したらしく、また、はっと目を見開いた。

「父さんが、窓から出てっちゃって……母さんすぐに気づかなかったらしくて目が覚めた時にはもういなかった、っていうの」

「えっ」そこまでひどくなっていたのか、カケルは辺りに目をやった。

 玄関から抜け出すことはしょっちゅうだったが、さすがに寝室の窓から、というのは初めてだった。

「何時頃」

「気がついたのは2時過ぎだって。アンタのところにもケータイに電話したのに」

「ケータイは部屋だもん」

「こんな時だし、心配したわよ、ホントに」諭吉のことがかなりショックだったらしい。彼女は諭吉に対して常日頃からカケル以上に辛辣な講評をくわえていたが、それでもあんな形で行方不明になったのには彼女なりに心を痛めていたようだった。

「アンタまでどっかに行っちゃったのかと思って……」泣いている。カケルはあわてて

「だからジョギングだって」言い方にも見た目にも説得力無く繰り返す。

「とにかく中に入れよ、車のキーも中だし、どうしたらいいか考えよう」


 玄関の鍵を外のブロックの穴から出そうと手を入れた、だが、いつもの隠し場所には鍵がない。穴を間違えた? カケルはわざわざ覗いてみたが、実際鍵がない。


 もしかして、と思ってドアに手をかけると、蝶つがいが軽く軋み、ドアは外側に大きく開いた。


 部屋の隅、敷きっぱなしになっていた布団の中で、父親がすやすやと眠っていた。


「オヤジ……」


 カケルが近寄ると、ぷうんと小便の匂いが鼻をついた。やられてしまったようだ。


「オヤジ……」


「よかった」姉は、ずっと張りつめていたものが緩んだように、その場にへたりこんだ。

「よかねえよ」カケルは電気をつけ、すぐにもう一段回照度を落としてから部屋中、鍵を探してみた。見ていないようで、いつの機会かに父親は鍵の隠し場所も見ていたのだろう。先日、タンスからライターを出してみせた琢己と一緒だ。どうでもいい事だけは、いつまでもしっかりと覚えている。

「そうちゃん、何してんの」姉の質問に珍しくイライラと

「鍵!」一言を投げつけてから、「ドア、開けてみりゃ良かったのに」これも珍しく強気に責めてみた。その罰か、急に脇腹が激しくうずき出した。涙のにじむ目で、あたりを見回す。「あった」鍵はじゃらじゃらしたチェーンや手足のとれた正体不明のマスコットと共に、部屋の隅に投げ出してあった。恵の子どもたちが旅行のたびに、そう兄お土産、キーホルダーだよ、と買ってきてくれるものを次つぎと付けていたので、いつも鬱陶しい位嵩が多くてうんざりしていたが、この時に限ってそれがありがたかった。


 ふと目をやると、その横にカケルのケータイも放り出してあった。開きっぱなしのものをみると、信じられないことにインターネットに繋がっていた。

 しかも、どうやって探しあてたのか、「濡れヌレ熟女サイト」と表示されている。細かい文字が一丁前にけばけばしい。


「オヤジ……」


 踏んだり蹴ったり、いや、逆なんだよ。踏まれたり蹴られたり、というのではないのだろうか、本当ならば。

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