21 上下関係
ようやく、言うことができた。タイミングがよかったのだろう、靴下も履いていた、恵もここ数日体調がすぐれないようで少し弱っているし、他の家族は姿がみえないし、まだ日も高い。
ここで言わずしていつ、言えるのだろうか。
「もう、うんざりなんだよ」
できるだけ感情をこめずに、はっきりとそう発声する。
姉は、持っていたピンク色のマイバスケットを一旦下に置いて、顔だけこちらに上げた。
ピンク、というには語弊がある、何というんだ、お洒落な言葉が浮かばない……塩辛? だめだ、そんなところで気が散っては負ける。カケルは慌てて意識を実務に引き戻す。
「俺さ、本気で仕事探したいんだ」既にひとつ、やっているのは口が裂けても言えないが。
それが現在のところ月の内にも1回あるかないかではあったが、確実に日々のひとり暮らしを賄うほどの実入りがある、という点も。更に言うならば、母親が姉には内緒で、時々カケルに小遣いを渡していた(もちろん差し出されるたびにきっぱりと断っている、しかしなぜか結局、断り切れずに彼の懐に入ってしまう)ということも。
それでも、人間としてのプライドはあった。かつてはそれなりに社会に出てそれなりの成果はあげていたのだ。同じこと ―― 普通の仕事を普通にこなす、それも外で ―― を求めようとして何がいけないのか。
「だからさ、俺にもう家庭の用事をいちいち頼まないでくれ」
恵は無表情だった。
言ってやったぞーーーー! カケルは心の中の海に向かって大声で叫んでいる、海にはなぜかイルカとか人魚とかウミガメとか乙姫さまとかタコとかがぷかぷかと浮かんで、叫ぶ彼に声援を送っている。
昔から海の世界は大好きだった。幼い頃、ぼくは大きくなったら海の中に住みたいと言ったら恵に大笑いされたのを今でも根に持っていた。
やっだー! 海の中って息ができないんだよ? そんなことも知らないの?
もしかしてアンタ、タコなの?
そうだ俺はタコでもいい。狼であって、実はタコ。人間のままではいつまでたってもこの強敵にはかなうまい。強敵・メグ。コイツはご都合主義の、自身が生物界の最頂点と信じて疑わない、価値観が固まり過ぎてすでに干からびてしまったガチガチのニンゲンだ。
恵といざ対決するって時に、海の仲間より他に誰が味方してくれるって言うんだ。
カケルは音を立てないように軽く息を吸って
「姉貴、頼り過ぎなんだよ、いくら俺が失業者だからっていって」
ちょっと踏みこみ過ぎているかな、思いながらも言葉は止まらない。
「俺だって、いつまでも失業しているわけにはいかないんだ、失業保険だってもう切れるし、もっと真剣に就職活動を、だから」
くどいかな。何か反撃されるか、しかしまだ、姉は無言のまま。
「あのさ」
急に、お互いの間に沈黙の風が流れる。
「話は、それだけ」
姉が感慨を込めずにそう言った。聞いた、というふうでもなく、かと言って断定でもない。
「ああ……」
まずいぞ、たった一言で流れが変わろうとしている。海の応援者たちは既に目の前から消えていた。
恵は
「うん」
まず、肯定らしき返事。なぜだ? 説得しているのに成果については何の期待もしていなかった彼は逆にぎょっとする。しかも、何に対して「うん」なのか?
「あのね、そうちゃん」
淡々とした声音のまま、恵はつけ加えた。ごく普通の口調、ごく普通のテンションだった。
「世の中には、アンタやアタシではどうにもならないことはあるのよ」
そうして、彼女はマイバスケットを抱え直し、母屋へと入っていってしまった。
後には、荒涼たる心の海(支援者の姿ゼロ)を背負ったカケルひとり残して。
なぜだーーーーっ!?
叫びははげしい向かい風に晒され、ちぎれ千切れに白い波がしらに散る。
どうして母屋まで追いかけていかない、俺?
動けない、ここで立ち止まってしまったら、あとは離れに引っこむしかない。
カケルは額を押さえ、敗因を検証する。やはりもっと、くどくてもいいから説得すべきだったのか? しかし姉の返答は何だ? 論点、違いすぎやしないか?
多分俺は、カゴを持つ姉には永遠に敵わないのだろう、靴下じゃない、カゴが原因なのかも。
それとも……カケルは足をひきずりながら自室へと戻る、ようやく自らを結論づけて。
狼なんだ、根っから。
俺は狼だ、だから上下関係には絶対に、逆らえないんだろうな。




