19 現実というカオスの真っただ中に
かつてリストラされた会社に、一人だけ、真剣にカケルのことを気にかけている上司がいた。
「君は軟弱すぎるね」
いつか一度だけ、飲み会の帰りにそう言われたのだった。
それは自分でもよく分かっていた。しかし、その後のことばで、カケルはぴん、と背筋を伸ばしたのだ。
「しかし、君には何か、芯の通った所がある」
承認された、そんな思いは確かにあった。
部長という立場上なのか、指摘が細かくてしかも少し性格も屈折していたせいか、まわりの部下からはずいぶん煙たがられていた。
しかしなぜか、飲み会からの印象を除いても、カケルはそんな彼のことを嫌いにはなれなかった。
考え過ぎるところが、自分に似ていたせいかもしれない。
しかも、部長の方でも気づいていたのか、それともカケルが自分に懐いていると思ったのか彼に対してはずいぶん、甘い感じではあった。
業務命令には比較的素直に従うカケルを、かなり重宝していた様子だった。
世間話もよく振ってきた。口の中でもごもごとつぶやくように話しかけてくる部長は話し方からしても陰気なイメージで、他の部下に逃げられることが多く、正直カケルも苦手な気はあった。
それでも、どうしても嫌いにはなれなかった。
そんな部長が、ある日週報にこんなコメントを返してよこしたことがあった。
近所のビルでボヤ騒ぎがあった時、カケルはその時、週間コメントにこう書いた。
「いつもは平和なオフィス街でも、こんなカオスに陥ることがあるのに驚きました」
そのビルの1階からは黒い煙がもうもうとあがり、消防のサイレンはひっきりなしに鳴り響いていた。なのに、ボヤの出たオフィスの上階からは、何ごとが起こっているのかといった顔がいくつも覗いていたのだ。
まるで他人ごとのように。
部長はこうコメントしていた。
「この日本においてすら、平和という概念こそが単なる幻想に過ぎないのだと思います」
部長は、社長が代替わりした時に、とばっちりをうけて左遷された。
その一ヶ月後には『一身上の都合で』退職してしまった。
カケルもそれから数ヶ月もしないうちにリストラの余波で会社を退職していた。
サイレンが鳴るたびに、カケルは部長のコメントを思い出していた。
「平和という概念こそが単なる幻想に過ぎないのだと思います」
全く、その通りだ。カケルはその時になってようやく思い知る。
平和というものは、幻想に過ぎないのだ、と。
恵が言っていたのも、同じことだったのだ、多分。
ずっと気づいていなかったのは、自分の方だったんだ。
何に反抗すべきなのか、見失いそうだった。
ずっと後になって、またこの時を思い出した。
その時には、思い至ることすら既に終わっていた。
何故ならば、幻想すら姿を消し、カケルはまさにそのただ中にいたのだから、現実の中に。




