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心優しき狼よ、曠野を行け  作者: 柿ノ木コジロー
第一章 ― 1 ― 
2/148

01 姉と弟と

 また夢を見た。


 (かける)は布団の上に身を起こしたまま、荒い息をついていた。腕立てのへばったような格好で両腕を伸ばし、目を見開いたまま布団のへりを見つめている。


 夢と現実との整合、温度のちがう水どうしが混じり合うようにゆっくりとふたつは溶け合い、ようやく世界は現実が勝利した。


 彼は、そっと片手を上げて口もとにあてる。


 血はもちろん一滴も出ていなかった。ざらりとした無精ひげを掌に感じる。


 そして、その手にも目をくれる。いつもの自分の手だった。


 よかった。彼は今度は仰向けになって、ゆっくりと手足を伸ばす。


 仰向けって、何となく怖いんだよな。カケルは目を閉じて、しばし小鳥のさえずりに身をゆだねていた。


 今朝はたまたま母に呼ばれて母屋の朝食に参加していた。父親の介護のことで相談したいと言われたのだ。そのためにいったんはちゃんと起きたのに、食事の時にはロクにその話はなかった。なんとなく肩すかしを喰らった気分のまま、食事が済んでからまた自室に戻って寝てしまったのだ。


 みんな働いているのに自分だけダラダラ暮らしている、そんなやましい気持ちが大きい。だからあんな夢をみたのか?


 どんな夢だったか? 思い出せない、思い出したくない。



 そうちゃん、いるぅ? 姉の声が響く。


 姉は昔から、カケルではなく「そうちゃん」と呼んでいる。彼女の子どもらも当然のように、「そうちゃん」とか「そう(にい)」と呼ぶ。

 おじさん、と呼ばれるよりはマシなので、カケルは呼ばれるままに返事をしてやっていた。


 カケルは胸の上に拡げて載せていたマンガ雑誌を脇に滑らせ、むっくりと起き上がった。


 抵抗してそのまま寝ていようかとも思ったが、姉のことだ、結局は部屋の中にまで踏み込まれてしまうだろう。


 そして「ちらかってるねえ、相変わらず」と余計な文句まで言われかねないので、少し急いで土間のサンダルをつっかけて外に出た。


「なに」

「あら、いたのね」


 自分で呼んでおいて、姉は意外そうに目を見開いた。しかしすぐにいつものせわしない表情に戻る。


「タクミのお迎えに行ってくれる? 今日、半日なんだ」

「……」


 またかよ、という顔になってしまったらしく、姉が眉間にしわを寄せた。

「忙しいの?」棘のある言い方だ。

「朝ごはんの時に言ってくれればよかったのに」

「忘れてたのよ、アンタ、忙しいの?」

「別に」姉の勝ち誇ったような顔を見たくなくて、彼はいったん目を落とす。


 ハローワークには毎日行ってみなきゃ駄目だよ、なんて偉そうに言う彼女も、自分の用事が優先する時には「暇なんでしょ?」という目をして言いたい放題で用事を振ってくる。


 今だって、仕事を探しにいつ出かけようかタイミングをうかがっていたんだ、そう言ってやりたかったが食後うとうとして、その後目覚めてからも枕脇にあった雑誌を何となく拡げていただけだった、いくら言い訳をしてもそんなのもお見通しかも知れないけどね、と足もとの小石に心の中で更なる言い訳をする。


 若いうちから結婚して子どもを、しかも少し間を開けながら4人も生んでいる姉の(めぐみ)はそれほど歳をとってないのに、すでに疲れきった老婆のような目をしている。もっと化粧して髪もキレイにしていれば、十分美人で通るのに、カケルは自分のことは棚に上げ、ジャージの上から脇腹を掻きながら姉の表情を伺っていた。


「私、今からナツミの学校で打合せがあるのよ」

 ただでさえ忙しいのに、恵は地元小学校の役員もやっている。


「お洗濯もの干したらすぐに行かなきゃ、お迎えお願いね」

「半日、って何時にバス着くの?」

「11時50分」

 カケルは言い争うのをあきらめ「……はい」着替えるためにまた自分の住処へと戻った。

 姉はオーダーが通ったことを瞬時に察知、すぐに踵を返して洗濯ものの方へと向かう。


 カケルが玄関のドアを開けたら、また声が飛んできた。

「そうそう、午後はそっちに置いてくれる? タクを」

 どうせ用事はないんでしょ? 私、午後まで帰ってこれないのよ。母屋だとかあさんがうるさいから、夕飯までつき合ってあげてよ。


 カケルは聞こえないようにそっと溜息をつく。


 着替えた時に上着のポケットから何かがこぼれ落ちた。赤いライターだった。100円ショップで売っているような、プラスチックでできた半透明の容器には、まだ半分程度オイルが入っている。

 タクミに見つかると大変だ、彼はライターをタンスの一番上の引き出しに放り込んだ。


 玄関で今度はちゃんとしたスニーカーを履き、忘れ物がないか部屋をざっと見渡した。

 下足箱の上から車のキーを取り上げ、ガレージへと向かう。


 カケルの住居は敷地の外れにある離れ、築30年以上の木造平屋建てだった。

 8畳一間に仕切りもなく2畳ほどの木の床が、そして少しだけ下がって狭い土間がついた、恰好よく言えばワンルームの体裁になっている。

 木の床部分は後になってミニキッチンを付けていて、一応1人用の冷蔵庫まで揃えている。


 夕飯以外は自炊という取り決めを母屋の家族としていた。洗濯も土間のすぐ奥に2槽式の古めかしい洗濯機を置いて、そこで自分の分は洗っていた。


 夕飯も独りで食べるから作らなくていい、と頑なに繰り返し伝えていたのだが、それはなぜか母親が許さなかった。ただでさえ忙しがっている姉の手をわずらわすだけなので、本当に必要ないから、と何度言っても駄目だった。姉もおかしな所で妙に頑固な母親の性癖はよくわきまえているのか、軽く肩をすくめてこう言い放った。

「1人分増えるのも同じよ、どうせ、そうちゃんはあんまり食べないしね」

 確かに、カケルは小さい頃から肉や魚の類が苦手だった。玉子ですら細かくなって他の食材に混ざったりしていない限り口にしない。


 大人になってからは一度、魚の骨がほろほろになるまで煮込んで挟まっていた昆布巻きを知らずに食べて、みなが食事中だったにも係わらず思い切り吐いたことがあった。


 なので、みんながたまの御馳走だと大騒ぎして焼肉を奪いあう間にも、彼だけちみちみと冷ややっこをつついたりしていた。

 食事がすむと、控えめに「ごちそうさま」と自分の茶碗と皿を流しまで運び、洗ってから帰る。だいたいカケルが一番先に食事を終えるので、誰かがふり向いて「そう兄、小皿もう一枚ちょうだい」とか細かい用事を言いつけられる前にそそくさと離れに帰っていく。


 

 ここ2年ほど、そういう暮らしが続いている。

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