17 武蔵小金井の方向を
カケルは顔を洗っていた手を止めた。
外で、何かがぶつかるような鈍い音。
カケルはしばらく動きをとめて次の何かを待った。
誰かいるのか?
少しおいてから、丈の長い草が押し分けられて擦れあうかすかな音が続き、ぱきん、と細い枯れ枝が折れるのが聴こえた。
確かに、流しの前側、窓の外に何かがいる。
彼はタオルの乾いた部分で顔を拭い、少し身をかがめるように出口に近づいた。
しばらくドアの内側で様子を伺っていたが、遠ざかる様子はなく、しかも音が長く止んだままだったので、意を決してドアを勢いよく開けた、半分ほどではあったが。
暗闇の中、ドアから漏れる黄色い光をわずかに浴びて立っていたのは父親だった。
「……」
「……」
お互い、黙って見つめ合う。ようやく、カケルが声を出した。
「……びっくりすんだよ、何、どうしたの」
「便所」
父親は遠くをみるように目をやって、カケルの挟まったドア全体をぼんやりと眺めていた。
「心臓が破裂するかと思った、夜中に外で急に音がするからさ」
「うう」
父は、焦点の定まらない目線のまま、ようやく言葉をつないだ。
「ここはどこだ、カケル」
俺のことは分かるのか、少し口の中が苦くなり、カケルは頬を歪める。傷がひきつった。
「俺の部屋の入り口。離れだよ」
「どこの離れだ」
「うちのだよ」
「誰の家だ」
「……」父さんの、と口から出ずに「アンタのだよ」つい、強い口調になる。
「なことあるか」父が思いがけずムキになって反論してきたので、カケルは思わず目を見開いた。
「オレの、オレの家はここじゃあないぞ、コガネイだ」
「そりゃ、学生の頃だろう?」
かつての父親の下宿先は確か、武蔵小金井だと聞いたことがあった。
「ここはヤマナシさんちの自宅だよ、ヤマナシ・ノブキチさんちだよ」
「誰だそれは」
「だからアンタだって」
「違うぞ、オレは違う」父はブルブルと震えている。こういう怒り方は見たことがない。どちらかというと、子どもに近いのかもしれない。カケルは何と声をかけていいのか迷い、ふと父の足下をみる。靴下も履かず、はだしだった。
こっちに入れよ、と声をかけようとして思い出す。便所だ、って言ってたな、離れの脇に外付けのトイレはあるが、できれば使ってほしくない、どうしようか、少しの迷いが惜しまれた。肩に手をかけて少しだけドアの近くに寄せたとたん、足もとに飛沫が飛んできた。
父は立ったまま、小便を漏らしていた。みるみるうちに足もとに生ぬるい水たまりが拡がるのがみえた。
「うわぁ」
思わず気の抜けたような叫びをあげて、父の顔をみる。彼は、今、自分の下半身に起っている異変にも無頓着なようすで、どこか遠くを眺めていた。小金井の方だろうか。
結局、そのまま父の肩を抱くようにして、カケルは母屋の玄関まで送っていった。
玄関は、当然のように鍵が開いていた。
音を立てないように引き戸を父の入る幅だけ開けて、カケルは彼を中に押し込むように押し入れる。
父は、いやがらせかと思うような小刻みな歩幅で玄関に入っていった。
ようやく体が全て中に入ったという時、急に彼がふり向いた。
「カケル」
妙にはっきりした呼びかけだった。
「なに」
「オマエ……それは止めたがいい」
カケルは完全に凍りついた。オヤジ、何の話をしているんだ?
「それ、って、何だよ」
父は、答えずにまた小金井方面を眺めていた。
「ねえ」
カケルの声が少し弱くなった。サンダル履きの足もとが冷たい。さっき、小便をひっかけられたのを急に思い出し、このまま風呂をもらって行こうかと心が揺らいだ。
「……父さん」
ようやく普通に呼べた。「どういう意味なの、止めたがいい、って」
父は、黙ってそのまま廊下を上がって行った、そしてまっすぐ奥の自室へと消えていった。
カケルは引き戸をそっと閉め、ズボンのポケットから合い鍵を出して慎重にロックをかけた。この鍵も大きな音をたてるので、妙に肩に力が入った。
ようやく離れに戻り、濡れタオルで足をよく拭いて、それからようやく、辞書で調べてみたのだった。そして、しばらく考えてみた。
サツリク、の意味について。
あまりにも淡々と簡単に述べられた、その内容について。
頭の中に、理論展開を司るハムスターがずっと回し車をまわし続けていた、結局眠れたのは朝日の昇るほんの少し前だった。