16 殺戮、の意味
殺戮 さつりく むごたらしく多くの人を殺すこと。【大量―】
広辞苑 第四版 ほか
初めて複数の人間を殺すしごとの後、カケルは家に帰って落ちついてからまず、本棚の一番下にある重い辞書を出して頁をめくった。
辞書は昔、父親が使っていたものをそのまま譲り受けたもので、机上版とある。A4の大きさに丈が少し足りないくらいだが、厚さが半端でない。こんなものを机の上に置いたら邪魔で仕方ないだろう、と幼い頃から父の書斎をみてはよく思ったものだった。まあ、めったに父の書斎など入ったことはなかったが、たまに呼ばれた時、目のやり場に困ると本棚の一番下に収まったこの辞書の背表紙を何となく眺めたりして、何かとやりすごしたものだった、苦言やら、小言やら、叱責やら。褒められたということは数えるほどしかなかった、それも気がつくと説教に変わることが多かったが。
20歳の時に向谷に会ってから、すでに12年近く経つ。
それまでに殺した人間はどのくらいにのぼるのだろう。
彼は日記もつけていなかったし、メモもいちいち取ってはいなかった。それに向谷から優しげな声で「記録は残さないでおいて下さいね」と一度だけだが注意を受けてから、その教えをきっちりと守っていた。
俺がやったのが、サツリクということなのだろうか。
何度か文字に目を通したが、意味がよく掴めなかった。
家に帰ってまずシャワーを浴びたいと思ったのだが、母屋はすっかり寝静まっていた。真っ暗な固まりが闇の中に更に黒々と沈んでいる。どこにも、複数の人間が息づいているという気配はない。
鍵は持っていたが、開けて入っていくのはためらわれた。沈黙している複数の人間が、怖かったからだ。
いや、人間が怖いというのは正確な言い方ではない。
彼が今夜かみ殺してきたのは8人。この家の中で静かな眠りについているのも8人、自分の家族と同じ人数だけ、今夜はこの世から消し去ってきたのだ。もしも天が彼に復讐を企てようというのならば、彼が闇に沈む館の中で見つけるのは、冷たくなった8つの屍なのではないだろうか。すでに血糊が乾いて頬にこびりついているのが分かったが、彼は立ち止ったのも僅かな間、すぐに、足音を立てずに離れの方へ向かった。
血の匂いが、ずっと鼻にこびりついている。息を半端なところで止めて、それ以上のところは思い切り吸いこんだらいいのか、吐き出したらいいのか微妙に迷うその独特の甘い香り。右頬のこわばりを、彼は指で掻きとる。はらりと薄い固まりとなって血が剥がれ落ち、見えないところに消えた。場所もよく判らないまま、スニーカーの先で土を蹴り、落とした欠片を浅く埋めようとした。見えていないのでいい加減だったが、ほとんど習慣ともいえる動作だった。
自分の部屋に入ると、遮光カーテンをしっかりと閉ざし、明かりをつけて服を脱いだ。
耳のピアスがひっかかって、少しだけ動作が止まる。首をかたむけて肩で襟の間を拡げてから、白いTシャツをおそるおそる上げていった。脱いでからそのシャツを目の前に拡げてみる。顔をこすった時についた、赤黒い汚れが襟のふちにかすかについたくらいで、他に今夜の殺戮をものがたるような痕跡は何も残っていなかった。
水道の水で端を湿らせようと流しの脇にかかっていたタオルを外した。この水道はかなり古いので、軽くひねっただけで悲鳴を上げるかのような高い音が響き、水が勢いよく噴き出してくるため、いつも夜中に使う時にはかなり気を使ってミリ単位で蛇口を動かしていく。今も、慎重に手を動かしたつもりがやはり待ちかまえていたような水の束がどっと飛び出し、その勢いで古ぼけた蛇口が跳ね上がって見えた。ひいひいと泣いているような笑っているような音が水流の轟きの中で響き渡り、蛇口全体が水圧で上に押さえられながら震えている。ステンレスの流しから跳ね返る水に手をかざしながらわずかに蛇口を締め、ようやく音を最小限にまで抑えた。
瞬間湯沸かし器を使うともっとうるさいので(毎回、どこかが小爆発を起こす)、冷たい水のまま我慢しながら、彼は流しに顔を突き出してこびりついた血を洗い落した。
とれないこびりつきがあると思い、強くこすったら思いのほか痛んだ。脇に立てかけた、縁もない四角い鏡をのぞくと、左目の下、あごにかけて糸のような引っかき傷ができていた。
最後の男を倒そうと跳びかかった時、シャープペンのようなものを逆手に持っていた彼に反撃されたのだった。急にひりひりと焼けるように傷が痛くなった。目に近い方が傷が深い。目玉を突き刺そうとしてあわてていたのかも知れない。
それでも、一瞬の攻防はあっという間に決着がついた。
彼は圧倒的な体重差で男にのしかかり、まず武器を持った右手首を噛みちぎり、それからいつものように喉笛にくらいついた。
皮膚がもろい、というのか筋肉じたいが柔らかい、というのかその男の首には歯ごたえがなかった。まるで
初めてのキスの時のように。