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心優しき狼よ、曠野を行け  作者: 柿ノ木コジロー
第三章 ― 2 ―
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31 最後に叫ぶ一言は

 狼は山から避難所に戻ろうとひたすら木立の合間を駆けていった。


 もうすぐで夜が明ける午前七時少し前、避難所の近くからかすかに漂う匂いを捉え、急に足をとめる。

 少しずつ近づいて、大きな岩の合間から覗き見ると、なだらかな尾根下、まばらな雑木林の中に狼の群れが待機しているのをみた。

 下に駈けくだればちょうど第十二小避難所のあたりになる。

 ぽつりぽつりと散る狼の姿は灌木とともに凍ったシルエットとなって白い靄の中に浮かんでみえた。

 すゞの匂いはしない、だが、数頭に覚えがあった。

 狼は飛び出す、群れは一斉に飛び退り、次の瞬間唸り声を上げた。

「待ってくれ」

 慌て過ぎて、カケルは木の根にけつまづく。「つっ!! 待ってくれ」

 とびかかろうとした若いオスに脇のオスが咬みつき、地面にひっくり返す。次のオスがまたカケルを襲おうとしたところを、今度は耳を伏せて低く唸って威嚇した。

「誰か、人間に戻ってくれ」

「何の用だ」

 脇から、低い女の声がした。靄を縫うように、すゞと一緒にいたメスが人間の姿で現れる。

「すゞは」

「下に降りていった……お前を探しに、か?」

 ぴくりと頬をひきつらせ、「だから『後から説明する』と言ったのか……」

「ダメだ」カケルが強く言った。「連れ戻さないと」

 女の眉がぴくりと上がる。

「下の連中は、狼を見破る何かを開発したらしい、今出ていったら殺される」

「お前の罠か」

「違う!」

 女の表情は変わらず冷たい。

「奉仕者だったのだろう? お前」

「そんなことは今はどうでもいい、すゞが大変だ、早く」

「よくないね」

 狼たちの輪がわずかに狭まる。

「ミナミは暴君だったが、裏切り者ではなかった、我々は裏切りを許さない」

「アホかお前ら、すゞが殺されちまうぞ」

 言うが早いかカケルは「あれのをゆけ」叫んで横に大きく跳んだ、そのまま群れを飛び越え斜面を駆け下って行く、「追え!」女のひと声で他のオスが高く鳴き、それに合わせるように群れは一斉に彼を追った。


 おはようも愛しているもなく、狼はまた人間に変わり、急に流れる景色のスピードについて行けずつんのめりそうになったカケルはそれでも体勢を立て直し、走ってこようとしたすゞに向かって叫ぶ。

「そのまま逃げろ! 山へ!」

「狼が出たぞ! 山に群れが!」ゴーグルを点けた迷彩服の連中が走って位置につくのが見えた、「あれは狼だ、ゴーグル外してる奴はすぐ装着!」

「撃て」

 銃声が一斉に響く、後ろから追いついた狼がいったんカケルを次つぎと追い越し、武装した人間たちに襲いかかった。

 すゞの悲鳴にも似た叫び。「カケル! 助けに来たよ!」

「そりゃこっちのセリフだ」

 大混乱の中、すゞはなぜかぴょんぴょん跳んでいる、熱いフライパン上の豆みたいに。不思議なことにかすり傷ひとつ負いそうもない。裸体が白くまぶしいくらいだ。

 力が抜けそうになる。「いいからさっさと狼になって逃げろ、俺は後で行く!」

「どこへ」

「匂いで探すから!」

「鼻よくないでしょ!」

 あのな、言いかけて激しい衝撃を受け、地に押し倒された。獣の匂いと張りつめた筋肉の熱がカケルを覆う。

 あのメスが、目の中に殺気をみなぎらせ口を開け、カケルの喉首に喰らいつく


 その瞬間、メスはびくんとのけぞってカケルの脇に仰向けに吹っ飛んだ。


 血しぶきがカケルの脇腹に軌跡となって散っている。更に耳元で銃声。銃の音かさえ判らない、音自体が頭にぶち当たったような衝撃波だった。カケルは耳を強く押さえて低く伏せた。どこかがえぐられるように痛む、しかし確認もできないほど、もみくちゃになっている、コンクリートミキサー車の中はこんなか? 体が持ちあがり、また、叩きつけられ、一瞬気が遠くなった。

 すゞがまた叫んだ。

「助けて!!」

 声に反応してカケルが飛び起きる、「すゞ!」

 そこを銃弾が捉えた。



 サイレンは今では頭上のどこかかなり近い場所で狂ったように鳴り響いていた。

 

 イツカコンナユメヲミタナ

 カケルは泥の中、うつ伏せに倒れたまま、目の前に突きつけられた銃口に目を戻した。

  竹中は、涙を流さずに泣いている。銃口はかすかに震えている。


 銃口からまた、カケルの視線は上向きにさまよう。

いつ着替えたのか、竹中も迷彩色のつなぎに身を包んでいた。カーキ色のブーツを履き、銃も支給されたものらしく真新しく、すっかり武装している。

 ゴーグルを頭に上げた時、彼の目の下に深い隈ができているのに気づいた。頬もげっそりやつれて血の気がない。

 病状はかなり重いのだろう、戦場で見る死神というのはきっとこんな風体だろうか。カケルは何か語りかけようと口を開けたが、あきらめて頭を落とす。


 竹中の後ろには、迷彩服の人間たち。


 カケルの後ろ、山の斜面に続く薮の中には生き残った狼の群れ。


 だめだ、カケルはまたはっきりと頭を上げる。

 このままで死ねるか。



 カケルはどうにか立ちあがった。

 揺らめく視界の中、一回りぐるりと見渡してみる。

 どこにそれだけの気力が残っていたのか、自分でも不思議だった。


 けっこう俺は根性があったのかもしれないな。これならもうひと頑張りすれば、


 コイツラゼンブヲ クイコロセル


 カケルはほんの刹那、目をさまよわせる。

 叫ぶことばはひとつしかない、

「曠野を行け」そう思っていたはず、つい0コンマ数秒前までは。


 急にふわりとシャボン玉が目の前を飛んだ。その向こうに笑顔。

 カケルは大きく手を上げて叫ぶ。腹の底から。


「殺さないでくれ! 俺を殺さないでくれ、助けて!」


 「撃て」という命令と「待て」とが重なった。

 待て、がわずかの差で勝った、銃声はなかった。

 狙撃班の方に、竹中が片手を挙げた。

「少しだけ、待ってくれ」

 カケルはようやく竹中に焦点を合わせ、目を据える。

 竹中は銃を構えたまま、だが、引き金から指を外している。


 カケルは、口もとの血をぬぐって竹中に言った。


「電話を一本だけ、掛けさせてくれないか」

 大丈夫、番号は覚えている。昨夜思い出した。圭吾さんが言ったんだ、ねえカケルくん、これってさ、すっげえヤラシイよなあ。


 すでに死人の貌をした竹中が、そのままの姿勢で答えた。

「どこに」

「圭吾さんの実家に」

「私が話す、番号を言え」

 カケルは番号を伝え、竹中は小さく繰り返した。


 朝焼けに染まる大気を、一すじの光が射す。

 狂った世界にも、夜明けはあるんだ。カケルはかすかに笑う。

「撃て」

 どこか遠くで、声が響いた。


 カケルは大きく両手を拡げ、全てを自分の元から解き放った。


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