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心優しき狼よ、曠野を行け  作者: 柿ノ木コジロー
第三章 ― 2 ―
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25 ボウフラ狩り 3

 何も言わずに、ムカイヤはブロックをひとつ拾い上げ、また肩に載せるようにして水槽の縁まで来た。そして、おもむろにそれをカケルめがけて放りなげる。


 もちろんそう来ると思った、カケルは息を詰め、できるだけ身をよじって塊を避けた。それは彼の鼻先二〇センチくらい前方に着水、激しい飛沫を彼の顔面に浴びせて沈んでいった。辺りが激しく波立ち、カケルの身体も翻弄される。顔にも何度か規模の小さな津波が押し寄せいつまでたっても息継ぎができない。ちょっとした隙にようやく、深く息をつくことができカケルは目を瞬かせ、次のムカイヤの動向を注視する。すでに彼は次の石を拾い上げていた、肩に載せ、近づき、また放る、今度は全然見当違いだった。カケルは首を反対に捻る、巻き起こる波は相変わらずだが、今度は息がつけた。


 ただいたぶるつもりでやっているのではないのは、三投目で思い知った。思い切り身を捻ったつもりだったのに、それは水没していた左肩を直撃した。それほど勢いが無かったとは言え、一瞬目から火花が飛んだ。叫んだ拍子に水をかなり呑んだ。皮肉にも、肩に当たったせいで波はあまり起きず、溺れずには済んだ、しかし水を呑んだことで急にパニックが襲う。

 濁った水中に赤い花が咲いてもわっとした拡がりが水面にまで広がる、カケルは赤い色を見て更に身を激しくよじる。続けて四投目が反対側の肩近くをかする。


 あの痛みはもう喰らいたくない、カケルは手首の縄を外そうと後ろ手に縛られた両腕を持ち上げようとしたが、どういう縛り方なのかひじから先ががっちりと背中に張り付いている、引っ張れば引っ張るほど、結び目は固くなっているようだ。身体が冷えたのか急に背中がつり、痛みはふくらはぎにまで達した。肩の痛みと相まって正気でいられない、際限なく叫ばないよう彼は歯を食いしばった。叫ぶ余裕もない、これ以上水を呑んだらもう後はない。五投目がまっすぐ頭を狙っている、それに気づいた瞬間、彼は身体中の筋肉が軋みを上げる中ぐっと息を溜めて水中に身を縮めた。


 カケルは息を止めて沈む、ぼすん、と音がして細かいソーダの泡が側頭部をちくちくとくすぐり、乾いたコンクリートの欠片が近くを通り抜けていったのを感じる。欠片はわずかに胸の皮膚に触れてそこをかすっていく。しばらくはだいじょうぶ、我慢できる。浮きあがる、口は、まだ水の中、水位が一瞬下がる時、鼻が空気をとらえ、思い切り吸い込む。


 ムカイヤが次の石を持ち上げてこちらに放る。カケルはまた沈む、すぐ息を止めてまたやり過ごし、次の時を待つ、浮き上がる時を。


 水から出たのは目だけ、鼻は一瞬、間に合わず思い切り水を吸い込んでしまう、つい耐えきれず口を開ける、黒く濁った流れが勢いよく流れ込み呑みたくないというためらいと逆らうなという声とが同時に耳に飛び込み、彼は結局空気の代わりにそれを吸い込む。


 黒い泥と鉄錆びの匂い、いったん間違えるとあとは混乱しかない、カケルは溺れる。


 鼻に水が詰まる、痛みが鼻から頭蓋を貫き、胸はまさに張り裂けそうだ。そこに、石がついに頭を打った。深さは三〇センチもなかっただろう、衝撃は半端なく残りの全ての息が身体から押し出され遂に


 チェックメイト。

 死にたくない、しにたくない、しにたくないだれか誰かダレカダレカ


「アタシ、しぬの?」


 あの時の聞こえなかったはずの叫びが急に耳を貫く。ナミキシズエのインクの染みた指先、水は容赦なく胃に、気管になだれ込み彼は手足を突っ張る。『溺水』の黒い文字が目の前にちらつく、あの長い夜に見た文字、目を反らそうと仰向いた先には揺れる大気。


 命につながる空は文字通り目と鼻の先、ごく近い場所で水の揺らめきを映して彼を誘う。


 帰っておいで、お前はやはりそこでは生きられないのだから。

 帰れないのかい……もう無理だと? なぜ。

 水の中の世界はお前のあこがれだから? 帰りたくないのかい? 元の世界に。

 ならば、あんなにもあこがれていた世界はどうだ? 今、お前に優しくしてくれているか?


 別の声。言い聞かせるような優しさを装ったあの声が遠くなっていく意識のどこかで聞こえる。


「そう、身を潜めているのです。水の片隅で」


 それからムカイヤとの対話。あれはとても昔のことのように思えて、それでいて今、リアルにかわしている会話のようにも思えて自然に口がそう動いていた。


 カケルの内も外もすでにすっかり水に浸されている。もう少しすれば内も外も同じ濃度の血に浸されるこになりそうだったが。そんな中で半分眠ったように彼はつぶやく。


 ボウフラとニンゲンとどう同じなのだ?


 ムカイヤが答えた。夢の入り口で。


「ではボウフラとニンゲンと、どう違うというのでしょうか?」

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