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心優しき狼よ、曠野を行け  作者: 柿ノ木コジロー
第一章 ― 1 ― 
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13 優しい声と七色の光

 イブに紹介されて会った男は、カケルに名刺を渡したがそれはどうもどこかで突き返されてまた名刺入れに仕舞い込んだうちの一枚のように見えた。


 角が少し折れて、どことなく薄汚れていた。


 保険代理業 株式会社シェルティ 社長 向谷 民次 とあった。


 ムクヤ? と聞くと


「ムカイヤ、です」


 優しい声でそう応えてこちらに笑顔を向けた。


 声も見た目も穏やかで優しい、なのにカケルは冷水を浴びせられたように身を震わせた。


 イブもどことなく居心地の悪さを感じるのだろうか、やや俯きがちにして上着の裾を意味も無くいじっている。


「これからお願いごとがある時には、電話を入れますので」


 常にこういう口調なのだろう、誰に対しても。息を吐きながらしゃべっているはずなのに、何か体中の力が吸い込まれていくような錯覚に陥る。


 事務所は古いビルの最上階にあった。最上階といっても4階建てなのでたかが知れている。それでも窓から、地方都市らしい錆びれたようなのどかな景色が拡がっている。左の方にみえる山は、浅間神社かな、旧い森の香りだ、あんなに街に近いのに。あの中を走り回ってみたらどんなだろう、カケルはよほど、窓を閉めて下さいと頼もうかと思って、向谷の襟元と外の風景を落ちつきなく交互に見やった。


「携帯電話の番号とアドレスを教えて貰えるかな」


 赤外線通信でいいかな、と彼はテーブルの上にあった電話を取り上げた。


 つい最近、イブからやり方を教わったばかりなので、カケルはたどたどしい操作でどうにかオーナー情報を画面に出して、『赤外線での送信』操作を選んだ。時々、イブに助けを求める目線を送り、イブも小声で「これ」とか「こっち」とか最小限度のことばで指示をだす。向谷に遠慮しているのか、あまり声を発したくないのか、ほとんど顔を上げず、目の前にまるで人がいないかのようだった。


 向谷はそんなイブの様子にもいっこうにお構いなし、といった風に穏やかな笑顔のまま携帯電話の赤外線端子をこちらに向けている。


「冷めないうちに、どうぞ」


 端子を向けたまま、向谷はカケルにテーブルのコーヒーを勧める。


 カップは結婚式の引き出物についていたものをどこかのバザーで手に入れたのかというような、薄手の白い磁器製で、青い薔薇が繊細な線で描かれている。


 カップも、その脇の銀色の小さな菓子盆も、この場の雰囲気には全くそぐわなかった、載っているチョコやキャンディーのきらびやかで小さな包みはいかにも大袋で買ったものをそこに拡げました、といった代物で、イブは一つ、チョコをつまんでいたものの、カケルはどうしても手を出す気分にはなれなかった。


 


 軽やかな電子音と共に、向谷の携帯ディスプレイが七色に光った。


 もう引き返せない。光を見た時の、正直な感想だった。そしてこのムカイヤという男。


 この男とはいつか出あう運命だったのだろう、しかし今、出遭ってしまったことに激しく後悔している自分がいる。


 オレ、まだ二〇歳になったばかりだ。こんなに若い時からこんな人間と知り合うなんて、何かが間違っているのではないか。ということはイブと出逢ったのも間違っていたということなのか。いや、それはないと言いたい。イブは何と言うのか、そう『しっくり』きているんだ。高校三年の春、呼び付けられていきなりキスを求められた時から、なぜか『自分に合っている』という気がしている。すごく相手のことを意識している、あの時からずっとずっと。なのに空気のように自然な存在だった。


 それがどこからどうして、この男につながってしまったのだろう?


 やはり何か、自然の摂理と反したものがあるのではないのか。あの七色の光に感じた、わざとらしい作為が。


 上品なコーヒーカップや、銀の菓子盆に覚えたかすかな違和感が。


 事務所の感じからして、入った時からずっと気に食わなかった。ドアがまずカーキ色で重い鉄製、はめ殺しのガラス窓はどんよりと白く曇っていた、刑務所のようだ、少なくとも役場みたいだ、しかも古臭い。事務所の中の空気も淀んでいた。こざっぱりと整理されたワンフロアではあったが、どことなく黴の匂いが染みついている。台所とかはないはずなのに(トイレすら事務所の外になっていて水回りは見当たらない)、つい何度も確認したくなる生温かい風が、ふとした時にすい、と漂ってきていた。それは、捨て忘れた生ゴミを思い出させた。


 古びたビニル製のソファが原因なのか、靴紐を直すふりをしてかがんだついでに匂いを確かめてみる、だが、ソファはただのビニル製品だった。テーブルも、出されたコーヒーも、向谷が座りなおした時に起きた軽い風も、これといって特徴のない匂いだった。


 そして甘ったるい何か。これが一番目立たないのだが、一番心の柔らかい部分に突き刺さってくる。不愉快なのだが、何度も確認したくなるという点では、生ゴミ臭に近い物がある。


 それはまるで、目の前に座る男の声色をそのまま風に乗せたようだった、甘く、丁寧であるが、決して寄り添うことのない。常に様子を伺っている、ひやりとした丹念さ。


 虫酸がはしる、このしゃべり方を早くやめてほしい、しかし……


 彼のこの口調が急に変わるということがあるのだろうか。それは絶対に、聞きたくなかった。


 カケルは、あたりさわりのない話題を口にしながらも、ずっと腕にまとわりつくような寒気にふるえていた。

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