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心優しき狼よ、曠野を行け  作者: 柿ノ木コジロー
第三章 ― 2 ―
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24 ボウフラ狩り 2

「直径十センチもないような、天ぷらの時にあげ玉を掬うような網の上に、黒いボウフラがそうですね、二十匹はいたでしょうか、どれもこれも身体をうねらせながら、今までの安寧を突如破られて何が起きたか分からないまま呆然と外気に晒されている……


 次々と、網を入れるたびにこの莫迦な虫は引っかかってきました。どいつもこいつも無残に身をくねらせ、何が起きたか全く理解できないまま、炎天下に焼かれたコンクリートの地面に振り落されてあっという間に乾いてしまう、次々と。


 急に、私の中で何かのスイッチが入ったんです。そう、これは義務でもヒマツブシでもない、きわめて大きな『快楽を伴う仕事』である、と。そう、仕事なんです、大事な。子どもが蚊に襲われないためにも、ここでその元になる虫を退治することは大事な仕事、しかもとてもその、何と言うのですか


 気持ちいいんですよ。


 相手が命を持つものだという感覚が更に、快楽に拍車をかけました。そのままずっと同じように網にかかっていればあまりそう感じなかったのだと思いますが、あんな奴らでも徐々に学習するのですよ、小一時間も網を入れていると、全体数も少なくなってきたせいもありますが明らかに、逃げ方が巧妙になってきたのが分かるんです、一度に掬える数は多くても二匹とか。


 わずかに生き残った連中はどうしているかって? そう、ソイツらはひっそりと片隅に身を寄せて……身を潜めているのです、いつか襲撃が収まるのをじっと祈りながら。


 私と言えばあまりに夢中になりすぎて、用水の中は下の泥まで巻きあがって濁ってしまうんですね、それでも少し経てばまた上から透き通ってくる、するとまだまだ、ボウフラが死角に入ろうと底の方で身をよじらせながら逃げ回っているのが見えるんです、特に頭のいい奴は小石や水槽のちょっとしたくぼみになったところ、網が届かない場所にうまく逃げ込んでいる、それでも、少し水を動かせばすぐに水圧で他所に飛ばされてしまう、そこをまた、追いかけるのですよ、肘まで汚い水に浸けて」


 昼前からずっと、ムカイヤは肩口近くまで水を浴びながらボウフラを獲り続け、気づいたらすぐ脇に、幼稚園帰りの息子が立っていた。


「ねえ、そんなに楽しいの? ニンゲンムシをとるの」


「その時、私の中で何かのスイッチが入ったのです。子どものその一言が」


 いつの頃からか密かに持ち続けていたに違いない何か、そのスイッチを入れたのは皮肉にも、ずっと守ろうとしてきた我が子であった。

 カケルのもうろうとする頭の中に、そのナレーションが低い声で流れた。


 それきり黙ってしまったかと思われたムカイヤが、再び話し始めた。


「私は彼に金網を手渡し、すっかり水を浴びたようになった姿で家まで帰り、スーツに着替えて家を出ました。道を歩いていると、頭の中に声が聞こえました、気づいた者は祝福されるべし、命を狩る者に幸あれ、気づきありし我々と共に、この世の牧場(まきば)を管理せよ、庭木を大いなるの御意志のままに刈り込め、この地はひとつの命なり、命を統べよそして、世界を我らの形に整えよ。声に導かれるまま、私は行き先を見出し、そのまま従う道を選んだのです」


 カケルはあごをあげたまま、ようやく口を動かす。「アンタさ」


 ボウフラから急に、ニンゲンを狩るに飛躍する心理が全く理解できない、どうにかそう言ってやるとムカイヤは口を閉ざしてうつむいた。


 しばらく黙っていたのだが、急に動き出す。くるりと彼に背を向け、ざず、ざず、と鈍い靴音を引きずりながら少し離れた敷地の端まで行って、避けて小山になっていたコンクリートブロックのかなり大きな欠片を両手で拾い上げる。そして、それを肩のあたりに捧げ持つようにして、また、ざず、ざず、と戻ってきた。体重にブロック半分くらいの重みがかかった音になっている。水槽の低い縁を越えてカケルの顔が出ている水面にまで砂煙が漂ってきた。


 彼はできるだけ顔をそむけてその煙をやり過ごした。次におこることが容易に予想できた。カケルは待つしかない。


 ムカイヤはカケルの浸かっている水辺の縁まで来ると、そのコンクリート片を足もとに置いた。近寄ってきたムカイヤの右腕、肘までまくりあげたあたりに大きな傷があるのがみえた。古い傷は白く引き攣れている。あの傷は今のこの行動と何か関係があるのだろうか、案外筋肉質なんだなコイツ、事務所で首を絞めてやった時にはもっとムッチリしていたのに、そんなことを思いながらカケルはただ待つしかない。


 ムカイヤは、また足を引きずるように先ほどの小山まで戻っていって、同じくらいの大きさの欠片を拾い上げ、同じように肩のあたりまで持ち上げて運んできた。ざず、ざず、靴音が何度か往復し、やがてカケルの目の前に小さな山が出来上がってきた。


 支度ができると、ムカイヤは改めてカケルの前に立った。

 黒いジャージは白っぽいほこりにまみれ、見上げた顔はめずらしく汗が浮いて口が半開きになっている。息を切らしているのか身体が軽く上下に動いていた。


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