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心優しき狼よ、曠野を行け  作者: 柿ノ木コジロー
第三章 ― 2 ―
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23 ボウフラ狩り 1

 ボウフラは知ってますか? 唐突にムカイヤはそう尋ねた。


 カケルは答えない。


 もともと答えなど全く期待していなかったのだろう、ムカイヤは後ろ手を組んだままわずかにそっくり返って、前に出した片方のかかとをとんとんと地面に当てて弾む感触を楽しんでいるようにそこに目を落としていた。とんとん、とん、とん、左右に軽く振っているのでよく見ると、歩いている蟻たちを端から潰していた。


「私は、ボウフラを獲るのが好きでね」

 あまり聞いたことがない。水の中にプカプカ浮いている、蚊の幼生だというのはさすがにカケルも知ってはいたが、それを『トル』というのがどういうことなのか。水を棄ててしまうとか薬剤を撒く、とか『退治する』ことを言っているのだろうか、急がずこまめに、話のついでに蟻を潰している様子から、薄ぼんやりとそうではないのだろうと知れた。


「水に立ったように浮いているのが、ちょうど茶柱か何かのようでね、何も攻撃を受けたことのない連中は、私たちが覗いてもあまり動揺した様子もなく、呑気に浮いている。水面に浮かんで、身体をくねらせてまっすぐ沈んでいく、それからまたしばらくすると同じように身をくねらせて浮かび上がるんです。君の入っている水の中にも少しいるでしょうか」


 黒っぽい土まじりの水はようやく上の方が透けてみえるだけで、あごのすぐ近くにも腐葉土の欠片が漂っていた。ボウフラがいるのかどうかまでは分からなかった。水の中は思ったより冷たくなく、さっきムカイヤともう一人、手伝いらしい男に放り込まれた時には心臓が止まるかと思ったものの、ずっと居続けるうちにあまり冷たさは感じなくなってきた。

 ただ、「終わるまで車で待ってます」という助手のことばからずっと吐きそうにはなっていたが。


「ある意味滑稽でもあります、動きがね。それを見てうちの息子が」

 驚いた拍子にカケルの周りで水が跳ねあがる。ロープで縛られた手足のずっと下、重りになったコンクリートの塊が鈍く持ちあがった感触があった。


「子ども?」ムカイヤに息子がいたのか? カケルの目が問い詰めたのか、彼はわずかに気まり悪そうに口の端を歪めた。「ああ、その時はまだ5つかそこらでしたがね、息子が言ったんです、ねえ、このむし、なんだか人間みたいだね、ってね」


 ねえこのむしなんだかにんげんみたいだね……とムカイヤは懐かしむように繰り返す。


「子どもが蚊に悩まされるのは嫌だし、かと言って用水に薬剤を入れるのもやはり子どももいるので心配だ、ならばどうしたらいいだろうか、そう考えて私は」

「……それ、いつ頃の話」

 ようやく声が出る。唇のすぐ下に水がきているので、あまり口を動かさず囁くような言い方だった、それでもムカイヤにははっきりとその問いは届いたようだ。彼は、足を止めてカケルをみた。淋しそうに笑う。


「昔、むかしの話ですよ」



 昔むかし、ムカイヤという中年にさしかかろうかという男がおりました。ちなみに、今よりずっと痩せていたそうです。それはともかく、彼は幼い息子が蚊に刺されないように、家の脇にあるコンクリート防火水槽のボウフラを退治することに決めました。


 最初はその中に金魚を放そうとしたのですが、いくら家の脇にあるからと言っても、一応共同の施設です。金魚を入れたと知れたら、何を言われるかと心配になりました。彼は仕方なく金物屋で取っ手つきの小さな網を買ってきて、それで少しずつ、ボウフラを掬い取ることにしました。


 何とバカらしい仕事だろう、ムカイヤは思いました。いくら子どものためとは言え、大のオトナが炎天下、汗を流しながら小さなおもちゃのような網で虫を掬っている……あまり乗り気にはなれない中、彼は無造作に水の中に網を突っ込みました、ところが


「ところが」


 ムカイヤの語りに半分、気を失いそうになっていたカケルは、急に変わった声の調子にはっと目を覚ます。鼻先が水についていたらしく、あごをあげた瞬間水を吸い込んでいた、彼は激しく咳き込み、周りの水が更に細かい不定期な波を巻き起こした。ムカイヤは彼の咳が収まってなおかつ水に沈まなかったことを確認してから、続きを語り出した。


「最初網を上げた時、びっくりするほど捕れたのですよ、奴らが」

 これ以上楽しいことはあるだろうか、という目で彼は笑った。

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