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心優しき狼よ、曠野を行け  作者: 柿ノ木コジロー
第一章 ― 1 ― 
13/148

12 変わり身

 初めて狼となった時のことを思い出すと、何だかカケルは可笑しくなる。


 ピアスを開けて、いや、開けられてほどなく、朝夕がそれでも涼しくなってきたかな、という秋の入り口の頃だった。


 自他ともに認める小心者のカケルは、試すとしたらそりゃあ自室でしかも保護者同伴、と決めていたので、もちろんそこにはイブがついていた。


「やってみて」


 腕組みしたまま、イブが目の前に立っている。


「え……どうやって」


「こないだ教えた」


「でさ、ニンゲンに戻るのは」


 イブは、いいトコロに気づいたね~、みたいな笑みを浮かべて


「ノウハウなんだね、そこは」


 結局答えになっていない。


 人間に戻るのに特に決められたやり方はないらしい、実際、狼になる時だって曠野うんぬんはひとつの手法でしかない、と。


 まあとにかく、やってみたら? と簡単に言う。


 何となく、姉貴を思い出すんだよなその言い方。カケルはブツブツ言いながら四つん這いになる。まだ服をつけていなかったので何となく居心地は悪い。そのことを訴えるとイブは


「お尻がさみしいの? 何となく風が抜けてくみたいで」でもさ、とつけ加える。


「なってしまえば、案外気にならないよ。それに、服着てると破れたり、ひどい時には下着なんて食いこんじゃってタイヘンよ(経験があるのだろう)。


 それにさ、服着てる狼なんていると思う?」


 確かにそうだ。愛玩犬ならともかく、狼に服はないだろう。どこかの局のペット大好き番組じゃあないんだから。


 カケルはそう思い直し、いったん床についた自分の両手に目をおとし、それから小声で「あれのをゆけ、」と唱えた。それから、と付けようとしたのかな、自分で訳が分らないまま首をかしげる。


 傾げた頭が急に、軽くなった。


 何だろう、前のめりな感じだ。腕に力が満ちる、というか太ももにも、むずがゆいような緩慢さで力が溜まっていくのがわかる。体中が熱い、アキレス腱がぴんと張り詰め、足先も軽い、何だろう、全体的に伸びた感触がある、うーん、と更に背伸びしたい気分だ。


 音まで変わった。今まで聞こえていなかった高い悲鳴に似たパルスが耳を刺す。他の音もひとつひとつが明瞭な輪郭をもって、しかも全部をいっぺんに把握することができる。耳を立てる、そう、耳を立てると更に多くの音が飛びこんできた。全てが制御内だという誇らしい気分だ。


 既に秋の気配を感じる風がカーテン越しにするりと入る、窓が閉まってなかったのか、ほんのわずかに開いたままの隙間から入る外気に、鼻が反応した。今更気づいたが部屋の中は罪深いほど匂いが充満している。数百万種はあるだろう、優に。ほこり、オーデコロン、イブの体臭、行為の名残香、蚊取りマットの危険な甘い匂い、パソコンの基板から発する匂い、洗面台からの塩素と歯磨き粉と排水の匂いのミックス、敷居に溜まったゴミ、落ちた髪、カーペットのケバ、積み重ねた紙とファイルのビニル臭、本棚のスティール、何なんだこの強烈な匂いの渦は。


 また、風が隙間から吹き込んだ。あっ、樹が呼んでいる、岩が、水が、街の喧騒は更に胸の悪くなるような悪臭に満ちてはいたが、それでも外気の魅力には勝てなかった。確固たる意思にも似た峻厳なる香りがその芯に存在している。存在は風に乗り、その風はなりたて狼の鼻づらをぐいと掴んだ、そのまま外に引きずり出そうとする。


 夜の芳香。


 前に出ようとした狼は、突然強い力で引き戻された。


「だめ、外に出ちゃだめだよ」


 狼は面くらって、自分の首っ玉にしがみついた白い腕を見おろす。つるりとした美しい腕、しかし発するオーラは、狼だった。


 頭を上げると、そこにはぼんやりとしたモノクロの輪郭が現れた。相手の目だけがらんらんと光っているのが分かる。包み込むような匂い、俺に属するもの、そして、俺が属するもの。夜の匂いと同じように、それは十分に魅惑的だった。


 舌先がその頬に触れた。ひんやりと冷たい、陶磁器を思わせる感覚。割れやすそうなその器はぷるっと震え、笑い声が聴こえた。「ねえ、舌べら出っぱなし、顔に触ってるってば」


 しゃべっている意味が分らない、狼は更に舌で彼女の顔を撫でてみる。ことばのニュアンスは分かる、でも、初めて聞く外国語かものすごい方言のように、今の頭の中には何も繋ぎとめることができない。


 なんだ? どうしたっていうんだ。


 頭の中には言語ではない単なる疑問符じみた塊が本能の隙間を埋めていた。そして、


 なぜかこみ上げる別の想い。


 狼はのしかかるように目の前の白い身体に前脚をかけ、その顔と言わず身体と言わず、ずっと舐め続けた。


「ばか、早く戻ってよ、頭悪過ぎ」


 その身体はずっとくすくす笑いを発し続けていた。


 一つだけ良かったこと、外に出ようという衝動はもうすっかり、無くなっていた。


 

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