11 混濁する記憶 1
あれ?
いまどうして水の中にいるのだろうか? 暑い日だった、夏は終わろうというのにとにかく暑かった、でも水に浸かっているのは涼もうと思ったわけじゃない。
顔を精一杯挙げろ。口から、鼻から水が入らないように、そして飛んでくる石に気をつけて、ほら、襲ってくる。襲ってくるのは誰? そして言ったのは?
「ボウフラは」ボウフラが何だって? その声は他の所でも聞いていた。
「キミも逃げた方がいい、たくさん殺しているんだし」その声はボス。いや、地区長だったか……待てよ、ボスって誰だ、それに地区長、って何? チクチョウというとあの声、そして笑顔に一瞬の無表情。「罪の意識はあるのだろうか」表情もなく静かに問いかけてきたのは彼だ、そう、竹中さん。タケナカさんは『ついていてくれたら安心ね』と、そう、安心できる人。その人は言った。いつの話だったかは……覚えていない。
「意思のない存在が我々を滅ぼそうとしても、それは人間からは罪に問えない、その存在に悪意というものが介在しない、というか我々にはそれらの意図が永遠には見えてこない。ただ単に彼らが歩く道に我々がいただけ、目にも入っていなかったかもしれない……路傍のピクニックという話を君は知っているかい?」
いえ、知りません、と俺は答えたはずだ。その時には知らなかった、昔のSF映画だったか、その原作だったかにそんな題名のものがあったのだ、と。竹中さんは意味を教えてくれた、俺はなるほどとは思ったが一番の疑問は残った。
しかしどうしてこの水はこんなに濁って、いつまでたっても俺はそこから出て行けないんだ、縛られているから? かろうじて口と鼻は外に出ている、水は濁り、目の前を赤いもやのような流れが横切る。血だろうか。肩が痛む。疑問はひとつ、意図が決して読みとれない攻撃に我々はどう対抗すればいいんだ? 竹中さん、俺にも分らない、あなたたち普通の人間にとって俺のような存在も「意思無き排除」と同じようなものか?
「狼はかみ殺すことが仕事ではない」忍耐強く、彼はそう言い聞かせる、俺に。だからいつの話? 俺の中で時は記憶は混濁してすっかりもつれ合っている。
畜生。あれはいつのことなんだ。幻影か?
「君たちが噛み殺そうとするのは、間違った主従関係から生じたいっときの誤解が原因だ」
「いっときの誤解が十年以上も続いてしまったんだ」俺は涙を流していたか?
「俺は自分がやりたいと思ったから、続けていたのかと」
「それは私には解らない」竹中さんは淋しそうにそう言った。
「狼の本質なんて、人間には真に理解できるものではない。狼に限らず、他の生き物の主体的な行動は人間からすればすべて正しい本能から導かれる、意図されたものだと考えられている、でも本当は、そんなことは人間のエゴから生じる勝手な言い分だよ」
「俺たちは誰の通り道の上でもピクニックなんかする気はなかったんだ」
俺は倒れたまま声に出している。「対する人間は、それじゃあどうすれば?」
「ひとつしかないだろう、死にたくなければ身を守るしかない」
竹中さんはそう言って銃を向けた、俺に。
「意図なぞ読んでいる暇はない、とにかく相手を斃すしか自分が助かる途はない」
「俺はあんたを殺そうなんて思っていない」
ムカイヤが投げた石が肩口に当たり、俺は溺れる。竹中さんの指が引き金にかかる。
今は、どこだ? 俺はどこにひっかかっている?
殉教者のイコンをどこかで見たことがあった。