永遠の夢郷
「去りゆくあなたへ」直前の葉揺亭の様子
陽は高くうららかで、非常に気だるい昼下がりだった。葉揺亭の窓をこっそりと覗く黒コートの男が一人。名を、ヴィクター=ヘイルという。
「今日も、かあ。参ったね、こりゃ……」
店内の状況を知って、ヴィクターは茶色い頭を掻いた。硝子越しに見えた風景に華凛な娘の姿は無く、店主が一人でうなだれているだけだった。それだけならまだしも、鬱屈としたオーラをありありと出しているから嫌なのだ。蔦の葉扉の前を右往左往して、口をつくのはため息ばかり。
実は連日これだった。先日に小火騒ぎを起こしてから、ほとぼりが冷めるのを待って、なおかつ機嫌のいい時を狙っているのだが、なかなかどうして上手く運ばない。
マスターの不機嫌の原因などわかりきっている、アメリアの不在だ。おまけに毎日それが続いているせいで、日に日に暗さを増している。その姿をアメリアが知るはずないから、状況は悪くなる一方だ。
とはいえ、客が扉をくぐったら、一瞬で普段のにこやかな顔に切りかえるだけの器用さは持っているから、営業に支障はない。一見の客は何も知らずに穏やかな一時を過ごして帰っていくし、多少察しの良い常連なら「またアメリアちゃん居ないから」などと店主をからかって、しかしそれでおしまいだ。入店を尻込みすることはない。
早い話、マスターのへそが曲がっていると、「マスター」の顔を作ってもらえない類の人間、すなわち客と店主の間柄では終わらないヴィクターのような立ち位置が一番厄介な目に遭うのだ。気心知れた仲というのも、時には面倒なものである。
入るか入らないか悩み悩んで、誰ぞ助け舟を出してくれやしないかと十字路の方を振り返ってはがっかりして。昨日まではずっと退散の選択肢をとっていた。
今日も同じように……とはいかない。ヴィクターは今晩、ノスカリアを離れる。出立前に葉揺亭にて主に会うのは、単なる習慣を越えて一種の儀式のようなものになっている。やるやらないでは、まるで調子が違う。殺しの道に生きる男は、ほんのわずかな歯車の歪みが死に直結することをよく知っていた。
覚悟を決めるようにヴィクターは両頬を軽く叩いた。出てくるのは不機嫌な店主か、それとも陰気背負った魔術師か。顔を見せた瞬間に、いつかのことで雷を飛ばしてくるかもしれない。身の安全に十分警戒しながら、店名のプレートがぶら下がった扉を引いた。
外と内とが繋がれて、空気と日光が閉ざされた世界に入り込む。それと同時に、マスターはさっと顔を上げた。いささか弱ってはいるが、にこやかで棘のない柔らかい面持ちだ。
しかし。逆光の中に立つ黒い影が、本当に真っ黒の装束を着ていることに気づいた瞬間、一度去った暗雲が半分ほど帰って来たのである。
「ああ、君か」
「俺だ。悪かったなあ、鼻のした伸ばせるような美人のお姉ちゃんじゃなくて」
皮肉を利かせてにやついても、今日のマスターには鼻でする息一つでかわされた。わかってはいたが虫の居所は相当悪いようだ。まともに会話ができるかも怪しい。
こりゃたまらないと思いながらも、ヴィクターは大股でカウンターに歩み寄った。ふと見た床は、当然ながら綺麗に修正されていて、誰かがストーブを蹴倒して燃やした、などということは無かったかのようだ。
その間にマスターは立ち、食器棚に向かっていた。まず最上段にある専用のカップを取り、続けて白いティーポットに手を運ぶ。所作に迷いは無く、流れるように。
「ああ。今日で発つから」
「……そう。了解」
マスターは白いポットを元に戻し、特殊加工された黒いポットに持ち替えた。
黒く重量のあるポットは、魔力を通さず凝縮するためのもの。それに向かって色々と怪しげな材料を入れていく様は、魔法使いの所業に相違ない。――誰かから「永久の魔術師」との呼称を与えられたと、ヴィクターは先日も耳にしていたが、まったく好適な名だと改めて思う。
マスターが茶の素材を扱う手つきはいつもと変わらない。ただし、張り詰めた気をにじませている上、暗黒の眼には一切のゆるみ無し。顔つき全体も険しく、とても気楽に話しかけられる様子ではない。
ヴィクターは内心で気の滅入るうなり声を上げた。やはり、怒っているのかもしれない。何でもないように見せかけて、茶に死なない程度の毒でも入れられたら。思えば、いつもより準備に手間取っているような気がしてきた。
この重圧は耐え難い、余計な痛手も負いたくない。白旗を振るのは早かった。
「あー……この前のことはすんませんでした」
「何が?」
「床、燃やした」
「ああ。平気さ、あれくらいの破れならすぐに修復できた。今は、そんなに怒ってないよ」
マスターはむっとした面持ちのままだったが、小さく肩をすくめて答えた。ひとまず安心していいだろう。「そんなに」と言うのが多少ひかかるが、ここはマスターにとっては聖域に等しい世界、調和が乱され崩壊の糸口を引かれれば、怒るのもいたしかたない。
それでも、「今は」「そんなに」と言うのなら。
「怒ってないなら、その不貞腐れた顔やめてくれよ」
「だって、アメリアが居ないから」
マスターは眉を下げ口をとがらせて言うが、その様は、だだをこねる子どものようだとヴィクターは思った。
焜炉よりケトルを持ち出し、ティーポットに湯を注ぐ。同時に、言葉の激流が堰を切られた様に走り出した。
「今日は説法があるとかなんとか。まったく、僕の方がずっと面白くてためになる話をできるのに。ひどいよ、寂しいじゃないか」
二言目にはアメリア、アメリア。それ自体はいつものことではあるものの、不満感は割り増しといったところだ。
「今日に限った事じゃない。ずっと、そうなんだ。いつもいつもいない。僕を置いて、どこかに行ってしまう。辛くて、苦しくて、怖くて……嫌なもんだな。昔は孤独なんて平気だったのに。今は、駄目だ。アメリアが居ないと、僕は生きられない。僕を独りにしないでほしい。それなのにどうして……アメリア……」
馬鹿馬鹿しい、とヴィクターは思った。まるで自分が可哀想だと語るが、まったくそうではない。アメリアにも自由があるし、第一、居なくて本当に困る状況だというのなら、雇い主の権限で私用外出を控えさせればいい。
それにアメリアとて店員としての自覚は持っているはず。何も理由が無ければ、営業中の店をほっぽって遊びほうける真似はしないだろう。現に今日もマスターはアメリアの行先を知っている、ということは、きちんと許可を得たということだ。
あるいは、店主の制止を聞かずに飛び出した。あのアメリアがそんなことをするとしたら、考えられる理由は。
「あんたがなんかやらかしたんじゃないか。無意識にアメリアちゃんに嫌われるようなことを――」
何気なく発した一言は、葉揺亭の時を止めた。唯一、店主の手から滑り落ちた硝子瓶が、重力に引かれて床へと向かい続ける。
硝子片が飛び散ると共に乾いた音が響いた。同時に上げられたマスターの顔は、絶望に満ちていた。光の失せた黒い眼が、縋り付くようにヴィクターを見つめる。
「……いや、冗談です。すいませんでした」
その言葉にマスターは明確な不快をにじませた。
しかし、何も言わない。黙ってしゃがみこみ、割れた瓶と飛散した矢じり状の種子とを拾い集める。ながらに何を考え、どんな表情をしているのか、客席からは見えない。
面倒な人だ、とヴィクターは声無くしてぼやいた。重い頭を支えるように頬杖をついて、宙を見上げると、先は食器棚の頂上。そこには店主と店員を模した人形が、肩を寄せ合って並んでいる。
人形はいい、いくら時が流れようと不変なものだから。一度仲良しの糸でつないでしまえば、離れることは無いし、離す必要も無い。
しかし、人間は違うだろう。ヴィクターは睨むように目を細めた。すると、ちょうどそこへマスターが立ち上がって来たから、はからずとも彼のうろん気な瞳を、射抜くかたちになってしまった。
得も言われぬ空気が流れる中で、ヴィクターは低調に問いかけた。
「なあ、あんたさ、そんな風でどうするんだ?」
「今度は何が」
「アメリアちゃんのことだ。あの子は、あんたと違ってまともな人間だ。いつまでも一緒に居られやしない。……色んな、意味でな。そんなこと、あんただってわかるだろうが」
「そう、だね」
マスターはうっすらと自嘲した。手に持った硝子のかけらを集めた黒布の袋が揺れ、儚いさざめきを奏でた。
「だけどそれは、その時になったら考える。でも、まだ今はその時じゃない。その時まではまだ時間がある。アメリアがそう簡単に僕から離れていくはずないんだ。あの子の居場所は、ここなのだから」
懇々と語ったそれは、明らかにヴィクターではなく自分に向けたものだった。なぜなら、言葉の半ばほどには、マスターはもう客席に背を向けて、奥へのドアの向こうへと消えていくところだったから。
ぱたん、と静かな音を立てて閉まった扉を、ヴィクターは髪をかきながら、渋い顔で見つめていた。逃げていても過去や現実は変わらない、隠している業が消えてなくなったりもしない、そんな風に思いながら。
「餓鬼だった俺に教えてくれたのは、あんただった気がするがねぇ」
溜まるもやを吐き出すようにのびやかに独りごちた。
ごみを裏に置いてきただけというには少し長すぎる、そんな時間をおいてマスターは戻って来た。ちょうど茶が仕上がる頃合い、何とも言わずに、まずはティーポットの相手に向かった。
口にはめた栓を抜き、淡緑色のカップに出来上がったものを注ぐ。鮮烈な赤の液体は、爆発した火山のように白い蒸気を吹き昇らせていた。
「はい、出来上がりだ。前より優しい味に改良してあるから、まあ、じっくり味わってくれ」
にたりと笑いながらの言葉に、ヴィクターは耳を疑った。紅茶よりもずっと紅い液体、もう何度口にしたかわからないこれは、葉揺亭以前より知る「永久の魔術師」特製の魔法薬だ。燃え盛る炭を溶いて口に含んだ、そんな下手物の味がする。もちろん最初はまずいと不平を漏らしたが、一度だって聞き入れられたことは無かった。
不審を抱きながら、ヴィクターはカップを口に付けた。優しくしたとはあくまでもマスターの基準だ、地の底以下だったものがようやく地底まで這い上がってきた程度のことかもしれない。
一方、マスターはマスターで物憂げな顔をしている。椅子に座り、両腕を台につき、ぼんやり宙を見つめて。不機嫌を通り越しもはや病んでいる、そう思わせるに十分な姿だ。
そして、不意に言った。
「アメリアが居ない世界なんて、いらない」
ヴィクターは口に含んでいたものを吹き出しそうになったが、すんでのところで堪え、無理やりに飲み下した。熱いものを飲んだはずなのに、背中が冷たくて仕方がない。
「やめてくれよ。あんたが言うと、洒落にならん」
早口でまくしたてたが、対面の男は心穏やかな笑みを返してくるのみ。逆に寒いものを感じ、ヴィクターはすがるように茶を口にした。改良は確かだったらしく、以前のようなひどい味はしないから、嗜好の茶と呼んでも差し支えない。
さて、マスターは。店主らしい朗らかさを振りまきながら、粛々と語った。
「だって、洒落じゃないもの。僕はね、アメリアのためなら何だってできる。あの子の望みなら何だって叶える。いつだって、アメリアの幸せが一番だ。あの子が笑顔を見せてくれるなら、僕はそれだけでいい。あの子が僕を僕として慕ってくれる、ただそれだけで、僕は一人の人として、幸せに生きていられる。だから、洒落じゃないんだ。あの子の未来は僕が守る、どんな手を使ってでも」
ヴィクターは眉間にしわを寄せ瞑目していた。ただの大言壮語、そう切り捨てることができないのがこの主だ。
なんだか、嫌な感じがする。ヴィクターの抱くそれには色々な意味合いがあるが、舌の上に赤く熱い茶を転がしながら思うのは――
「……甘いなあ」
「だって、アメリアぐらいだもの。こんな私を、純粋な心で慕って――」
「違う、こっちだ」
「あ、ああ」
「あんたのその惚気話はもう聞き飽きた。アメリアちゃんがかわいいのも十分知ってる。だから、もういい」
口の中に残る妙な甘さを吐き捨てるように、ヴィクターは言った。息と共に一旦カップを据え置く。
改良された薬は甘かった、以前の味の影は微塵も無く、優しく穏やかに甘いのみだった。それでいて効果に変わりが無いことは、己の第六感が証明する。
ただ、ヴィクターは直感していた。この甘さは自然のものではない、と。根拠はないが神経が訴えるのだ。
「嫌な感じがする。やばいもん飲まされているような」
咎めるようにマスターを見つめれば、彼は観念したように肩をすくめて、あっさりとからくりを白状した。
「単純に言えば、舌の神経が麻痺しているんだ。その上で感覚をのものに『甘い』と錯覚させている。まあ、幻術みたいなものかな。実際は、前から何一つ変わっていない、焼け胡桃の炭火の味がする代物だよ」
ヴィクターは脱力した。軽く言ってはくれたが、なかなかどうしていかがわしい。信頼できる人が作ったもので無かったら、絶対に手を出さないだろう。
そも、甘い話があるわけないのだ。簡単に味が良くなるのなら、もっと早くにやっていただろうに。
「結局、さすがのあんたでもごまかししかできなかったってわけね」
「君は真実を知っているからそう思うだけ。何も知らなかったら、ただの甘い飲み物だというのが事実になる。一しかなければ、それで全だ」
「違いない。しかしまあ、さすが、あれこれと悪いことを思いつくもんだ」
「悪、かなあ」
マスターは頬杖をついて、屈託のない笑みを浮かべた。
「現実世界が直視しがたい苦難のものならば、せめて夢の世界ぐらい幸せなものであっていい、そう思わないかい?」
葉揺亭で哲学じみた問いかけがなされるのは、ままあること。しかし今回ばかりは、ただの自己弁護に聞こえて、ヴィクターは閉口した。
しかし不敵に笑んだ黒い目が、じっと返答を待っている。独りよがりを避けるため、許しを待っている。答えを聞くまで退かないだろう。
ヴィクターは精一杯知恵をひねって、「はい」にも「いいえ」にも当てはまらない答えを編み出した。
「あんたの夢の世界は居心地いいぜ。ぐっすり眠りこけていても、なんの心配しなくていいからな。たまにこうやって帰って来るには、ちょうどいい」
目と目を合わせて返された言葉を、マスターは素直に受け取ったのか。はたまた、都合よく自己解釈したのか、どちらかは不明だが、とにかく彼は笑った。憑き物が落ちたかのような、晴れやかな笑みだった。
一心地ついたところで、マスターは自分用の紅茶を作った。白いポットにシネンスの茶葉を一掬い、シンプルなものはあっという間に支度が終わる。
椅子に深く腰掛けて、細い足を組んで、伏し目がちにカップを傾ける。瀟洒で悠然としたさまは、「マスター」としての理想像。いつもこうならば文句一つ無いのだが、と対面の客人に思わせるものだった。
そうして、マスターは思い出したように語り掛けた。
「今度は何処へ行くんだい?」
「南へ」
「セルリア、オムレード、フェルルナク、メニス、あるいは」
「アスクバーナ。道の最果てだ」
「遠い。なにより、戦と死に覆われた地だ」
「知ってるさ。あくどい連中が山ほどいる」
――だから自分のような者に、死と隣り合わせの儲け話が回ってくるのだ。皆までは言わなかったが、マスターには十分伝わった。穏やかだった顔に陰りが差したから。
マスターは不意に立ち上がり、店の奥へと姿を消した。しかし、今度はすぐに戻って来た。片手には水晶らしき物を持っている。
ヴィクター、と一つ名を呼んで、マスターはそれを投げて渡した。
「いつかの約束の報酬代わりだ。だが、床を焼いた罰として、売って金にすることは禁止する」
厳とした物言いを聞きながら、ヴィクター両手のひらで受け止めたそれをじっくり眺めた。
わずかにかすりが散った水晶を、上が細く下が広い十字型に磨き上げた物。手を傾けたら、光の反射によってかすかに虹がかかったように見えて、純粋に美しいと思わせる。
きっとお守りの類だろうと思ったのは、同じようなかたちの物を、ルクノラムの信徒が同様に身に着けているのをよく見かけるからだ。神の加護により、災いを払うと信じて。
だが、この男が神への帰依を説くとは思えない。それに、巷に出回っているような、ただの石を磨いた物とは一見からして重みが違う。きっと何らかのまじないがかかっている、とヴィクターは察しをつけていた。
「……帰って来いよ。また、夢を見に」
マスターの真に迫った声に苦笑をしながら、ヴィクターは守りを外套の裏地にあるポケットにありがたくしまい込んだ。生きて帰って来たいと願うのは、自分もまた同じであるから。
甘く優しさ満ちる夢郷、一時を過ごすにはこの上ない快適さだ。ただ、欲を言うなら。
「どうせ見るなら、ふてくされた野郎が出てくる夢より、かわいい天使が手を振ってくれる夢のほうがいいもんだ、ってね」
「あおりのつもりか知らないが、完全に同感だ」
くっくと笑うマスターには、いつもの余裕が満ちていた。何の病み気もない、幸せに満ちた笑顔である。
現実を見なければいけないのは知っているが、今はまだ、もう少しだけ、夢心地に浸っていてもいいのではないか。いやに甘い茶をすすりながら、ヴィクターは一縷の罪悪感を抱きながら、そう思ったのである。
葉揺亭 秘密の魔法茶
「赤色の魔法強化茶・改」
炎の魔力がたっぷり溶け込んだ赤い茶。服用することで使い手の能力を向上させる。
改良が進み舌に触れた時はたいへん甘い味がするようになった。以前の炭味の影は無い。
……が、それはまやかし。感覚を狂わせる魔法素材が混ぜてあるのみ。
嘘と真、どちらの味を是をするかは飲み手次第。
これに限らず、精神・感覚に作用する魔法は一つ間違えると重大な事故につながる。
使用する際には熟達した魔法使いに個々人に合わせた処方をしてもらい、用法・用量を守って正しく使用しましょう。




