清香散歩
「白花の幻想茶話」の後のお話です。
多分に漏れず今日の葉揺亭も暇の気配を漂わせていた。掃除、洗濯、その他雑務すべて済ませたら、アメリアは町へと飛び出していく。この頃お決まりの流れであった。
商店街の貸し店屋に変わった出店が無いかを見たら、その後は図書館に行ってみる。マスターにはそう伝えて来たのだが、今アメリアが居るのは高台の上であった。なおかつ一人ではない、偶然出会った友人のレインと一緒である。
ただし二人で遊びに来たわけでは無かった。レインは仕事中で、これから某農園主の屋敷で人形劇を披露するのである。今回は少々大がかりで、荷物がいつもの倍あった。その荷運びをたまたま通りかかったアメリアが手伝った次第だ。
たどりついた古い屋敷の門扉の前で、アメリアは下げていた鞄をレインの空いている左手に返す。
「じゃあ、頑張ってくださいね」
「うん、ありがとう。アメリアのおかげで助かっちゃった」
「いいんです。昇降機に乗りたかったんですもの」
ふふっとアメリアは屈託なく笑った。
上下の街を繋ぐ大階段の脇に、滑車を利用したかご付きの昇降機がある。それに乗れば楽に早く崖を昇れるのだが、荷運びに使用するのに限られていて、人だけでは乗れないのだ。
アメリアには高台に何かを持っていく機会は皆無だから、こんな機会でもなければ乗れなかっただろう。そういう意味で、お互い得をする手伝いだった。
レインと別れたアメリアは一つひらめいた。せっかくこうして上って来たから、今日の予定は高台の散歩に変更だ。少し大回りをする形で大階段に戻る、そんなルートを思い描きながら、アメリアはゆっくり歩き始めた。
高台の豪邸が並ぶ街並みは、ノスカリアでありながら別の街に来たように錯覚する。華美な建築物、豪奢な外装、清潔な道先、落ち着いた空気。あまり来たことが無いから、すべてが新鮮である。
「お庭があるって、いいなあ。木とか、お花とか」
通りかかった屋敷の、鉄の門扉の向こうに見えた洒落た光景に、アメリアはつい本音を漏らした。葉揺亭には無いもの、憧れてしまう。
ふと思い出したのは、先日の不思議な夢で見た家だ。大きなリンゴの木があって、花咲く生垣があって、さらには庭なんて目ではない緑の真ん中にあった。考えるほどに理想的である。あれが本物の未来だったら素敵だ、とアメリアは小さく笑った。
途中、ちょっとした公園を見つけて、アメリアは足を休めていた。広く葉を茂らす木陰の下、さわさわと木の葉が囁くのは非常に心地よい。
大きく腕を伸ばして、くあ、とあくびを一つ。のんびりした雰囲気だ。このまま長椅子で横になり、昼寝をしてしまいたくなる。
と、せっかくの空気を壊す、慌ただしい足音が遠くから響く。アメリアはきょとんとしてその方を見た。
右手の道から、黒い礼服を着た男性が、わき目もふらず一直線に全速力でやってくる。
彼のシルエットには見覚えがあった。後頭部高く結われた髪をまとめる簪、そんな一度見たら忘れない特徴的な髪型をしているのは、ラスバーナ商会が令嬢の従者・シユ=ジェツェンだ。
思わぬ知り合いの登場に頬を緩ませたが、それから声をかける間もなく、シユはアメリアの視界を横切ると、前方の十字路を左に曲がって消えた。アメリアは中途半端に上げた右腕をそろそろと降ろした。
「……どうしたのかしら、あんなに急いで」
気になりはするが、追って問い詰めるほどのことでもない。まあ、いいかと含み笑いと共に流した。
再び歩き始めたアメリアは、シユが曲がった十字路を真っ直ぐに進んだ。一度だけ来たときの記憶が正しければ、この先は劇場や画廊がある一帯に通じている。
はたしてアメリアの予測は正しかった。道なりに進めば、巨大な劇場の裏手にたどり着いた。今日も何か芝居をやっているのだろう、この周囲は妙に活気がある。
また、こうして人が集まるところには、他の店もあるのが常だ。画廊や書店、骨董屋に宝石店など、文化的な店々が劇場の周辺に点在していた。そのいずれもが商店通りとは違う静かで落ち着いた店構えをしている。しかし格調高く洗練された雰囲気は、同じ静かな店の葉揺亭とは段違いの入りづらさを醸していた。
だからアメリアは店先を遠くから覗くだけ。色々気になるものはあるけれど、普段着のワンピースで突入するには足がすくむ。現に、近くを通りかかる人々からも、場違いな装いに対する不思議そうな目を向けられているのだ。
今日はちょっとした散歩に来ただけだ、買い物はまた別の機会に。自分に言い聞かせるようにして、遠目で町並みを見ながら歩きゆく。
しかし、どうしても一件だけ見逃せず、アメリアは反射的に窓辺へ駆け寄っていた。
葉揺亭よりさらに小さな店で、幅狭いドアと大きな硝子窓が前面の大半を占めている。その白木の窓枠に切り取られた風景でアメリアが最初に気づいたのは、壁の棚に置かれたティーセットだった。
だから紅茶屋なのかと思ったのだ。しかし、近寄って覗いたら少し違う。茶器の類はほんの少しで、硝子の瓶がたくさん並んでいる。葉揺亭で材料を保存している無色透明の瓶もあるが、装飾性に富んだものが多い。
「香水屋さんだったんだ」
アメリアは感心して呟いた。商店通りにも扱う店が無いことはないが、これほどまでに彩り豊かではない。洗練されたデザインの香水瓶が並ぶ風景は、窓越しに眺めているだけでも乙女心をくすぐられる。
そして店内には当然だが人が居た。中央に置かれたテーブルをはさみ、二人の女性が談笑していた。
さて、硝子越しに向こうが見えるのは、店内からも同じである。奥手側に居た栗色の髪の女性が、アメリアに気づいてにこりと微笑みを向けた。
三十過ぎの大人の女性、人好きのする柔らかい顔だったが、つい反射的にアメリアはびくりと肩を震わせてしまった。どうしようか迷って、とりあえずおずおずと会釈を返す。
すると手前側で背を向けていた女性も同調するようにこちらを向く。その時ふと、アメリアは思った。そういえば、この後姿や髪型の人はどこかで会ったような。
その答えはすぐにわかった。振り向いた彼女と目があった瞬間、お互いが驚き顔になる。
偶然とは不思議なものだ。先ほどは従者を見かけたが、今度は大商会の令嬢・サシャ=ラスバーナ本人に出会うことになるとは。開けた口がふさがらない。
一方、サシャの方はすぐに破顔すると、跳ねるように椅子から立ち上がり玄関先へとやってきた。
「アメリアさん!」
押し開けられたドアより嬉しそうな顔が覗く。アメリアもつられて笑んだ。サシャのことは風変りだと思いこそすれ、嫌いではない。それに常識外れの変わり者なんて、四六時中おなじ屋根の下に居るのだから慣れたものだ。
「遠慮しないで入ってよ」
「サシャさんのお店なんですか?」
「いいえ、フララのよ。でも大丈夫、私の友人だから」
それは理論として正しいのだろうか、そんな野暮な指摘はしない。招かれるならば喜んで、アメリアは魅惑的な香水屋へと足を踏み入れた。
サシャに導かれるがままに、店の主のフララに挨拶をする。直接話しても見た通りのまま、物腰柔らかく上品で、優しい人だった。自身も香水をつけているのだろう、彼女の近くには花束のような甘く華やかな香りが漂っていた。
聞けば、フララは元々ラスバーナ商会で働いていたらしい。当時から香料の仕入れを担当しており、その魅力に取りつかれ調香の技能を磨き、やがて独立して自分色の店を始めるに至ったという。
アメリアはその話に感心すると同時に、強い憧れを抱いた。自分も同じ、葉揺亭に働くうちに紅茶の魅力に取りつかれ、いつか自分の喫茶店を開きたいと思っている。先んじて夢を叶えたフララが眩しく見えた。
さておき、アメリアには一つ気になっていることがある。サシャの方を向いて聞いてみた。
「さっき、シユさん見かけましたよ。なんだかものすごく慌てて……」
「それで大階段の方へ行ったんでしょ? あれはね、私を探してるの。またこっそり抜け出してきたからね」
「抜け出した」
「だって、そうでもしないとどこにでもくっついてくるから。過保護なのよ、シユは」
サシャは困ったように笑うと、きゅっと肩を寄せてみせながらテーブルに向いてリボンを構い始めた。よく見れば、既に色とりどりの帯が広げられ、あるいは蝶結びにされ広がっている。どうやら、そうやって暇をつぶしながらここで隠れていたようだ。
奔放な主に振り回される従者の気持ちを思いやると、どうにもかわいそうな気がしてくる。
しかし、今回はサシャの気持ちもよく分かった。令嬢という身分、扱いとしては手厚い保護なのだろうが、裏を返せば常に監視されているようなもの。たまには誰にも縛られずに、自由に羽を伸ばしたくなるに決まっている。アメリア自身、干渉が過ぎるマスターを持っているからして。
それにしてもシユは大失態を見せたものである。大階段へ向かったということは、今頃下の市街地を必死で駆けずり回っているところだろう。絶対に見つからない尋ね人を探して。
「こんなに近くに居たのに、シユさん、見つけられなかったんですね」
「そこがシユの甘いところなのよ。彼は私のことよくわかってるつもりだから、私がここにいるなんて『絶対に』あり得ないって思ってるのよ」
「えっ、なんでですか? お友だちのところなんて、真っ先に探しに来そうですけど」
「私、香水とかあんまり好きじゃないから」
軽やかに放たれた言葉に、アメリアは笑顔を引きつらせた。
そっとフララを見る、と、彼女は眉を下げくすくすと笑っていた。心の広さは尊敬に値する。
サシャは白地のリボンを引き出すと、おもむろに蝶結びを作りはじめた。指先を動かしながら、すまし顔で語る。
「それに私が真っ先に頼る人のことも知ってるしね、一目散にそっち駆けて行っちゃうの。ま、本当に行くところだから合ってはいるんだけど……だからと言って待ち伏せしてどっしり構えておくなんて、シユの性格じゃあできない。その辺が残念よね、私の執事は」
楽しげにうそぶく間に、サシャの手の中では白いリボン飾りができていた。結び目の裏にピンがついていて、装身具にも使える仕上がりだ。少々くしゃくしゃとしているのは目をつむるとして。
それからサシャはアメリアの正面に寄ってきて、左胸に手を伸ばし、ブローチのようにリボンを留めた。
あまりに自然な動作だったから、アメリアはただ黙って見ていただけ。見下ろせば、斜めに傾いたリボンが胸に輝いている。ほんとうにそれだけで、サシャの意図はまったく読めない。
さて、喜べばいいのか、慌てればいいのか。当惑したまま立っていると、サシャがぱちんとウインクをした。
「じゃあ、私はそろそろ行くね。ゆっくりしていきなさい、アメリアさんの気に入りそうなものたくさんあるから」
えっ、とアメリアは心の中で声を出した。結局これが何なのかは教えてくれないのか?
いや、もしかしたら何も考えていないのかもしれない。あるいは並の人間では理解しがたい動機があるのか、どちらかではないか。一歩引いて満足気な顔をしている令嬢を見ると、なんとなくそんな気がしてくる。
幸いにもアメリアはこの手合いへの対処法はよく心得ていた。質問しても意味が無いのだから、相手と同じように笑って流すのが一番だ。ここで下手なことを口走れば、さらにからかってくる――葉揺亭のマスターの場合は。
サシャは去る前に散らかした机上を適度に片して、引かれたままだった椅子を押し込む。と、はっとしてフララを見た。
「そうだ。フララ、私持ちにして、彼女の気に入ったものを一つを包んであげて」
「ふふっ、かしこまりました」
えっ、と今度は口に出した。このリボンくらいならともかく、他の物をもらうには重すぎる。いくら好意にしても、そんな大それたことをされる理由が無い。
アメリアはあわあわと手を泳がせながらサシャに迫った。が、その手は簡単に捕まえられて、優しく下へと押し戻された。
サシャはなだめるように微笑んでいた。
「いいのよ。この前、店主さんに不作法なことしたお詫び。よろしく伝えておいてちょうだい」
「……はい」
アメリアは閉口した。サシャの気持ちはわかったし、素直に受け取るつもりである。それにしても過剰だとは思うが、深くは踏み入れない方がいいだろう。
後半の点については、そのまま実行するか悩むところである。マスターにとって、サシャは天敵のようなものであるらしいから、ただの「よろしく」の言葉でさえ苦悩の種になりそうだ。それはそれで面白いかもしれないと悪戯心も沸くが、さておくとして。
サシャはひらひらと手を振ると、風のように去っていった。先ほどまでの調子と違って、どことなく急いだ様子であったのが不思議だが、フララが「いつものことですよ」と笑っていたから、アメリアも気にしないことにした。
さて、改めて棚を見渡す。明るい光の中に色彩豊かな香水瓶が並び幻想的だ。もっと近くで見たい、香りも嗅いでみたい、とアメリアは頬をとかしながら近づいた。
しかし、色硝子で作られた装飾瓶の中は空であった。小首を傾げていると、フララが理由を説明してくれた。
簡単にまとめると、この店では客から注文が入ってから調香して香水に仕上げ、好みの瓶に入れて渡しているということだ。見本の香りは小さな栓付き瓶に入れられて並んでいるから、客はそれを嗅いで選べるが、実際に渡すのは新しく抽出したものに限られる。時間と手間がかかることだが、わざわざそうしているのにも理由はある。
「香りは飛んでしまいますし、時間と共に変化もしますから、なるべく新鮮なものをお渡ししたいんです。それに、おひとりおひとり好きな香りも似合う香りも微妙に異なりますから、作り置きではなかなか対応できないんですよ」
その言葉に共感したのは、葉揺亭でも似たようなことをしているから。ブレンド・ティの茶葉は注文されてから配合するし、マスターはお客の好みに合わせて淹れ方も微妙に変える。珈琲だって一杯ごとに豆を挽くのは、その方が風味がいいからだ。
喫茶店と香水屋、まったく別物に見えて根にある心はよく似ている。それを感じて、アメリアは嬉しくなった。
「あっ、だから紅茶も少し扱っているんですね。おんなじ風に香りを楽しむものですから」
「そうですね。この店で売っているものには、香油でかおりがつけてあるんですよ」
「ええっ!?」
アメリアはわっと棚に駆け寄って、香油と同じく透明な瓶に入れてある見本を確かめる。なるほど、確かに果物や香草が一緒になっている様子はない。
フララに促され、栓をとって匂いを嗅いでみる。すると、果実を混ぜ込んだ場合よりもずっと強い香りが鼻をくすぐった。これが香油の紅茶、アメリアは感嘆の音を漏らした。
ふと思い出したのは、クロチェア家の茶会に行ったときに出会ったある茶葉のこと。見た目は普通の紅茶なのに、強い柑橘系の香りを持っていた。あの時はそういう種類の樹が世の中に存在するのだと思ったが、もしかしたらフララの店と同様に、香油で匂いを付けてあったのかもしれない。
ひょっとするとここに同じ物があるのかも、そんな考えも頭の片隅に置きながら、並んでいる瓶を片端から試してみた。これはリンゴだ、こちらはオレンジだと言い当てて回る姿を、フララが微笑みながら見ていた。
「気になるものがあったら言ってくださいね。試飲で容易しますから」
「いいんですか!? じゃあ、この甘いのと、それからオレンジのを!」
「うふふ、かしこまりました。少し待ってくださいね」
そう言ってフララは、店の隅にある作業台の卓上小型焜炉――言う間でも無くアビラ・ストーン製だ――に火を点け、小さなケトルを置いた。
これからお湯が沸いてお茶が出来るには、それなりに時間がかかるもの。しかし、アメリアにとってはまったく苦にならない時間だ。なにせ、店内に楽しいものが溢れかえっているのだから。
いま注目しているのは、紅茶の見本があった棚の上に置かれたとある茶器だ。
金属で出来たそれは底が平らで円筒形、持ち手が付いているところから、ティーポットの仲間であるとはすぐにわかる。
ただ、なぜか二段重ねになっているのだ。下の段にあたるポットの蓋代わりに、もう一つポットが乗っている、へんてこな状態である。こんな形の物は葉揺亭には無いし、間違ってもこんな扱い方をしやしない。まさかフララが遊びで重ねたということも無いだろう。
アメリアが疑問符を大量に飛ばしていることに、フララが気づいた。目線を追って合点すると、すかさず説明をしてくれる。
「東の大陸で商会が買い付けて来た品なんですよ。下のでお湯を沸かしながら、上でお茶を蒸すの。じっくり蒸らして、濃くなったらお湯をさして美味しく飲めるって仕組み」
なるほど、舶来品なら見たことない物品でもおかしくはない。合点がいった。
異郷ではこれを使ってどんな人たちが、どんな茶話を楽しんでいるのだろうか。思いを馳せながら、二段のポットを手に取って眺めまわす。
フララの説明以外にも色々な使い方が考えられる。例えば下の段と上の段で別々の紅茶を淹れるとか、
下でお湯を沸かしながら上は保温に使うとか。想像を重ねていくと、実際に使ってみたくなってくるから困ったものだ。
どれだけ見ても値札はついていないが、いくらするのだろうか、持ち合わせで足りるだろうか。アメリアはもうこの舶来の茶器を手から離したくなくなっていた。茶のことになると欲が沸いてしかたない、このあたりマスターにそっくりになってしまったと、自分で自分を笑った。
それにしても、だ。フララの店を見渡しながらアメリアは嘆いた。
「マスター、絶対こういうお店気に入りそうなのになあ」
「いつでも連れていらっしゃって。あっ、でも、マスターさんは男の人かしら? もし結婚していたり、恋人が居るような方だったら、気をつけた方がいいかも」
「えっ、なんでですか?」
そもそもマスターが外に出ないというのが問題なのだが、アメリアは口に出すことをやめた。なぜ結婚した男性ではだめなのか、そこが気になってしまう。
フララは悪戯っぽく笑いながら教えてくれた。
「ここで香水の匂いをたっぷり服につけて帰るでしょ? すると、奥様に怒られちゃうの。『あなた、私以外の女と遊んできたのね!』って風にね。かわいそうに、奥様への贈り物を買いに来る方も多いのに」
「わあ、ひどい勘違い!」
「そうなの。前はね、それで大喧嘩になっちゃって、必要なくなったからって香水返しに来た方もいたのよ。ほっぺ両方蜂に刺されたみたいにぱんぱんにしちゃって」
フララが顔の横の空中に両手を挙げて見せる。本当だったら、哀れな紳士は顔が三倍の大きさになってしまった計算だ。
アメリアは腹を抱えて笑った。ある意味不幸な話も、他人事だから楽しい滑稽話になってしまうものである。
ただし、笑えるのは他人事だから、だ。
「そんなに変なにおいをさせて。一体、どこで誰と何をしてきたんだ?」
夕暮れ時、浮ついた心で蔦の葉扉をくぐったアメリアにかけられたのはそんな一声だった。さすがマスターというべきか、同じ空間に入るなり香水の匂いを察知したらしい。確かに、色々試させてくれたから、複数の香りが体に染みついている。アメリアはワンピースの袖から立つ花の匂いを自分で嗅ぎながら、これは言われても仕方ないと思った。
しかし、マスターの態度には辟易する。何も悪いことなんてしていないのに、それこそ浮気してきたかのような扱いだ。
困ったように息を吐きながら、アメリアはすまし顔で事実を述べた。
「高台にある香水屋さんに行って来たんですよ。あ、これお土産です」
「どうしてそんなところに。今日は図書館へ行ってみるって言ってたじゃないか」
「その前に偶然レインさんと出会って。荷物運ぶのお手伝いした帰りに寄り道したんです。楽しかったですよ。ほら、これ、見てください」
マスターの隣に歩み寄って、手に持っていた包みを開く。リボンがかけられた布の包装、中から現れたのは例の二段式のポットだ。アメリアが気に入っているのを見て、「じゃあ、サシャ様からの贈り物はそれにしましょうか」とフララが提案してくれたのだ。さすがに気が引けたが、返事も聞かずに包み始めてしまったから仕方ない。値段はあえて聞かないようにした。
ぴかぴかと輝かしい舶来のポット、一目みればマスターも気に入って、機嫌はすっかり直るだろう。包みを解いて現れた胴に、アメリアのそんな得意げな顔が映り込んでいた。
だが。それを見せる前に、マスターにより肩をわしづかみにされ、正面に体を向けさせられた。強引な手つきに心臓が跳ね、顔が暗くこわばった。
不安の色濃いアメリアが店主の顔を一直線に見る一方、マスターは少女の胸に留まる白いリボンをにらんでいた。鋭く、不快に。もともとひしゃげた形だったのが、気おされさらに萎縮したようにすら見える。
アメリアが固唾を飲んで見守る中、マスターは無言で両手を伸ばした。眉間に深い皺を刻んだまま、「へたくそ」などとぼやいてリボンの両端を引き解き、二度三度と指でしごいて伸ばすと、その場で結び直した。
出来上がったものは、全体の均整がとれ、ぴしりと伸び引き締まった、美しいリボン飾りだった。元々の残念な姿が想像できない、水を得て息を吹き返した花のように、アメリアの胸の上で誇らしげに咲いていた。
ようやく清々したと言う風に、マスターはにっと笑んだ。
「なかなかおもしろいポットだ。二段重ねて使えばいいのかい?」
「ええ。上で蒸らして、下でお湯を沸かすらしいです。他にも色々」
「下で煮出して上で普通に抽出するなら、別のものを同時に作ることもできる。僕が飲みたい物と、君が好きなものとかね。二人で使うのにぴったりだ。さすがアメリア、いい買い物をしてくる」
「それは――」
サシャさんからの贈り物なんです、と言いかけてやめた。今のマスターはかなり上機嫌だ、水を差すようなことは慎みたい。
とはいえ半分ほど出かけた言葉、それが淀んだことをマスターは不審そうに見ていた。アメリアは慌てて取り繕う。
「それだけじゃなくて、一人で二種類のお茶が同時に飲めますよ。ミルクティとフルーツティのどっちにしようか迷っても、これで全部解決です。ゆっくり飲んでも片方が冷めちゃったりしませんし」
「君は欲張りだなあ」
そんな言葉にアメリアはぺろりと舌を出した。それがマスターの穏やかな笑いを誘い、ひいては葉揺亭の空気を柔らかく彩った。
思い立ったらすぐに、というのが葉揺亭の共有理念である。舶来のポットはさっそく焜炉の上にかかっていた。
上の段ではフララの店で買ったリンゴの香りの紅茶――これは正しく購入したものである――が蒸らされて、下ではアメリアの大好物であるイチゴを加えたミルクティが煮出されている。
細い魔法火の上できらめくポットには、アメリアの幸せ顔が反射していた。焜炉の周りには、リンゴとミルクの混ざったあまやかな匂いが漂っている。その上、隣でマスターが自分用にレモンをスライスしているから、爽やかな香りもやってくるのだ。
二人の願いが同時に叶う、こんなに素敵なことはない。このポットに出会えてよかった、とアメリアは切に思った。
清らかな香りと共にあった今日の散歩、最後に心を飾ったのは、おいしそうなお茶の香り。
葉揺亭スペシャルメニュー
「リンゴのフレーバーティ」
紅茶に風味をつける方法は二種類。
果実・果皮・花びらなどの実物を配合するか、香油(香料)を用いて着香させるか。
普段の葉揺亭では前者の方法をとっているため、紅茶として入れると味もつく。
一方、後者の場合は、味は紅茶そのものの味わいとなる。




