食は思いやりと共に
その日、某貴族の料理長であるシエンツ=グロウサ―が来店したことは、葉揺亭にとって喜ばしいものであった。もとより好感の持てる人であること、今日も手土産に手製のビスケットを持ってきてくれたこともあるが、それ以前に彼が一流の料理人であることが何より重要だ。
というのも、葉揺亭ではとある食材の処理に困っていたのだ。
「豆ですか」
「そう豆なんだ」
うんざりした声音でマスターが言った。隣ではアメリアが赤子ほどの体積がある麻袋を掲げてみせる。日持ちするものではあるが、亭主が小食であることを鑑みると、いささか多すぎる量だ。
ことの次第は三日前にさかのぼる。顔なじみの亜人娘・ルルーが、とある薬草を求めてやってきた。やや珍種でありノスカリアの周辺では手に入らない、が、そういう妙なものまで取り揃えているのがここのマスターだから、と。
彼女の読み通り、亭主は求めの品を所有していた。ルルーは金貨を何枚も出して譲ってくれと言ってきたが、死蔵になっていたものだからと、代金を受け取らずに渡してやった。
ところが、無料で施されるというのはルルーの流儀に反したらしい。金貨の押し付けあいはすぐにやめて引き下がったが、代わりにその額分の豆を買って戻って来て、問答無用で麻袋を置いて行ってしまったのだ。
豆だったのは一般的な食材で利用しやすく、なおかつ日持ちもするからだ。金が受け取りづらいなら、気楽に受け取れる現物交換で。発想自体は良いが、残念ながら対価にこだわりすぎ、消費する人数のことを頭から抜けさせていた。
食べ物を無駄にしてはいけない。アメリアはその信条のもと、頑張った。豆のスープ、豆のパン、豆のサラダ、豆のクッキー――自分の料理全てに取り入れて、おいしく頂いたものだ。
だが三日も続けば……。豆の味は飽きやすい。さすがのアメリアもうんざりとした色を隠そうとしなかった。
ならば少し趣向を変えようと、今日はマスターの発案で茶に仕立ててみた。豆を軽く煎り、グリナスの茶葉と合わせて熱湯で抽出する。うまく仕上がれば、メニューに加えることも考えた。
そして出来上がったものは、まだティーポットの中に残っている。マスターはそれを温めたカップに注ぎ、シエンツに手渡した。
「こうしてお茶にしてみたものの」
「やっぱり豆なんです」
「ううん、豆ですなあ」
シエンツからこぼれるのは苦笑いだった。緑茶に合わさる香ばしい豆の風味、悪くはない組み合わせだが、豆への飽きを解消するものとしてはふさわしくない。むしろ味付けしない分、ストレートに豆の味が感じられるから本末転倒である。
早い話が、この大量の豆をうまく調理する手を教授して欲しい。そんな葉揺亭の二人の悩みは、言葉にするまでもなくシエンツに伝わった。
シエンツは顎に手をやりしばし考える。今日は完全に一個人としての来店、コックコートも来ては居ないが、貴き家の料理長の料理に対する真摯なまなざしは変わらない。
「海の向こうの料理になってしまいますが一ついいものがあります。挽き割りにして、炒めたオニオンやピピンなどの野菜と一緒に、とろみがつくような状態に煮込む。大事なのは香辛料です、色々利かせるとよろしい。できあがったものは、当地ではオライゼというものがあるので――」
「米か。じゃあ、上にかけて食べるのかい?」
「その通りです、よくご存知で。ただ残念ながら、こちらの大陸ではなかなか手に入るものではない。ですが、パンでも十分おいしく食べられますとも」
シエンツの自信ある笑みが。その料理のおいしさを裏付ける。幸いにもハーブ・スパイスの類は十二分に種類が揃っているから、今日明日にでも作ってみることができそうだ。アメリアも急ぎメモを取っているあたり、やる気十分らしい。
他には無いのかとマスターはきらきらとした目とともに、姿勢を前のめりにする。彼の場合、腹に食物を入れるよりも、脳に新しい知識を刻みつづけるほうが生きる糧になるのだ。
シエンツは幅のある肩を揺らしながら、二つ返事で期待に応える。
「食べることにこだわらなければ、乳を取ることもできますよ。水でふやかしたものをすりつぶし、煮詰めて濾せばいい。このお店ならば、こちらの方が適しているかもしれないですね」
「ああ、それはいいなあ。ミルクティも違った風味になりそうだし、色々展望が広がる。面白いことを聞いた」
「その上、絞りかすも食べられますからね。小麦粉に混ぜて焼き菓子にするとか、もっと単純にそのまま炒めてしまっても問題ない」
「なるほど、無駄が無いというわけだ! 素晴らしい、まったく素晴らしい!」
マスターの興奮は最高潮に達した。満たされた面持ち、うきうきと弾んだ声でしみじみと述べた。
「いやあ、本当にシエンツ殿が今日来てくれて助かりました。アメリア、どうだい? 色々と参考になったな。……えっ、なんで怒ってるの?」
口をへの字に曲げ、むすっと睨みつけている。そんなアメリアの方を見た瞬間に、マスターの笑顔は消えた。
彼女はペンを持った腕を振りながら、不満を述べる。
「だって、そもそもマスターがお食事取らないから豆が減らないんです! そのくせ食べ物のことになると楽しそうにお話するからっ、もうっ!」
ぷんと頬を膨らませ、そっぽを向いてしまう。マスターはますます顔色を悪くした。慌てふためく手が無意味に宙をかく。
その様子がシエンツの失笑をかった。
「はっはっは! もしや、店主殿は食が細いのかな?」
「もう、とっても! 全然食べないんですよう。変です、絶対」
「こらアメリア、余計なことを言うんじゃない」
このまま放っておけば、あること無いこと吹き込んだ矢の雨を降らせそうだ。マスターは話題を変えてアメリアの矛先を収めるべく、シエンツに茶の注文をたずねた。
メニューを提示するまでもなく、シエンツはにこやかな顔で「コルブを」と求めた。
一瞬だけマスターが目の色を変えた。コルブはわずかな湯温の違いで味わいが変わる紅茶だ。毎朝出しているのはオーベル用の特別仕様、そうでない淹れ方をするのは久しぶりだ。舌の肥えた相手だから、余計に緊張もする。
だがマスターとて喫茶店の主たる誇りと自信とがある。どこか挑戦的な微笑みを浮かべているシエンツに、にっこりした笑顔を返すと、燕尾をかえして茶の準備にかかった。雑念は捨て、周りの空気より浮き、完全に手元に集中する。
その間、主の存在を同じく意識しないようにして、アメリアがシエンツに話しかけていた。
「シエンツさん、ごはんが嫌いな人でも『おいしい!』って飛びつきたくなるようなお料理のレシピ、教えてください」
熱のこもった声にシエンツは苦笑いをこぼした。
「料理の腕は一朝一夕で付くものではないし、食べる者の好みもあるし。自分は店主殿のことをろくに知りませんからね、自分のレシピを渡したとしても、好まれるとは思えません」
シエンツは一流の料理人としての想いが詰まった言葉を粛々と語る。
アメリアは感心した表情をしながらも、引き下がる気配は見せない。
「でも、じゃあ、上手にお料理できる方法とか」
「そうですな。今すぐできるのは、愛情をたっぷりこめて作ることでしょう」
人に食べさせる料理の肝は、相手のことを思いやれているかだ。食べてもらう相手の好き嫌いを知り、体調や体質を考慮し、相手に寄り添ったものをつくる。そういう意味での愛情だ。
なおかつその最良の料理が出来るのは、身近に居る家族の特権でもある。シエンツのような他家の料理人では叶えられないことだ。
では、アメリアは。シエンツの言葉を聞くと、とたんに口を尖らせた。
「それは、もうやってます!」
「はは、それは失敬。だとしたら、店主殿が少々ひねくれておりますなあ。アメリア殿の料理の腕どうこうではありますまい」
「ですってマスター!」
アメリアは勢い良くマスターの方をかえり見た。今の言葉を聞けば、納得してくれるだろうと。
が、彼は無視だ。いや、耳には入っているのだが、内に集中するあまり外へ反応を示す緩みがない。ちょうど出来上がった紅茶を、カップに注いでいるところだった。
ソーサーに乗せたカップと、まだ半量残っているティーポットとを揃えてシエンツに出す。落ち着いた静かな所作で、醸す空気はアメリアが賑やかしていた空気をも一挙にして鎮めた。
客人はカップを手に取ると、まずは香りを吸ってから、茶液に口をつけた。
少し緊張した静けさが数瞬。シエンツは峻険とした面持ちで、じっくりと舌で転がすように紅茶を味わった。
それを静かに飲み込んでから、ほっと朗らかな息を吐き、マスターに向かった。
「ああ、店主殿。非常に美味です。今まで飲んだ中で一番と言っていい」
「過分すぎるお言葉、ありがとうございます」
頬が緩んだのはマスターも同じだ。客を満足させられた、ようやく一心地ついたのだった。
静が去った途端、アメリアは再び頬をふくらませた。このまま話題を曖昧にして流されてしまっては、やりこめられたようでおもしろくない。マスターには一度くらい、素行を反省してもらいたいものである。
そんなアメリアの様子に先に反応したのはシエンツの方であった。からからと笑い声を上げて、さとしかける。
「アメリア殿。うちの旦那様も店主殿と似たようなものですから、そう心配することはありませんよ」
アメリアは頬の空気を引っ込めた。納得したのではない、驚いたのだ。
クロチェア公なる人物のことは、さして政治に興味がないアメリアでも知っている。ノスカリア周辺地域の政を統括する責任者、身も蓋もない言い方をすれば、この辺りで一番偉い人だ。
一番偉い人なら、皆の規範になるような人物でなくてはならないだろう。品行方正で精錬実直、間違ってもマスターのように偏屈な人間がつける座ではない。アメリアはそうイメージしている。
反射的にじとっとした目でマスターを見た。とは言え、彼自身もシエンツの言葉には意外そうに目を丸くしている。アメリアの意味深な視線には、肩をすくめて答えただけで、すぐにシエンツとの会話に行ってしまった。
「あのクロチェア公が?」
「ええ。元々偏食の上、忙しいと適当にしか食べませんからねえ。本邸にいらっしゃる時は自分が口出しするのでよいのですが、こちらの別宅では、まあまあひどいものだと料理人たちが嘆いておりましたよ。まさに今なのですが」
「人は見かけによらないというが……意外だ」
「もっと真面目な方だと思っていました」
葉揺亭の二人は顔を見合わせた。喫茶店という場所柄、こうした裏の顔が暴露されるのを聞いてしまうことはままある。おそらく、くつろいでいる内に気が緩んでしまうのだろう。しかし、ここまで大物の話は初めてだ。
二人の反応はさておいて、シエンツは手にしたカップを傾けながら、なおも自分の主のことを苦笑いとともに語った。
「アメリア殿の言うとおり、真面目な方なのですよ。ただ少々度が過ぎて、色々とやることが多かったり、考え込んだりし始めると、食事をする時間が無駄だと考えてしまうのです」
「クロチェア公の気持ちはわかるな。……ああ、アメリア。そんな顔するんじゃないよ」
とばっちりが来そうなのを察して、マスターは先回りしてアメリアを牽制した。
最も、その程度の言葉では、彼女の煩悶を解消することなどできない。アメリアは怒り口調でシエンツに同調した。
「良くないです」
「ええ、その通り。おまけにこの所は気が立っているようでして、ますます冷淡なものだと」
「何かあったのですか?」
「自分も詳しくは知らないのですが、近いうちに中枢の高官との会談を控えていて、しかもそれが超曲者であるとか。さすがの旦那様も、気が重いのでしょう」
「それはもしかすると、公は胃に穴が空いてるんじゃないのか。だから食欲も落ちる」
マスターは目を細めた。心と体の調子が連動するのは世にもよく知られている。地方元首なんて地位に立つ人物なら、普段より心労が多くてもうなずける。そこにさらなる負荷がかかれば、爆発して心の代わりに体が悲鳴を上げても不思議でない。
亭主の推察に、シエンツは弱ったような笑みを浮かべた。
「そうかもしれません。しかし、それならそうと言ってもらえれば、療養食に切り替えるくらいの小回りは効かせられます。ですが実際は、あれこれ難癖と言い訳を重ねるばかり。別宅の者たちも、今回ばかりはさすがに腹に据えかねると」
しみじみとシエンツは語った。それから紅茶で口を湿らせて、ぽつりと言った。
「実のところ、今日は旦那様にお説教するのが目的でこちらに来たのですよ」
さらりと放たれたが、内容は重い。從が主に直接苦言を呈すなど、人生を転落させかねない行動だ
どうしても過日、シエンツがクロチェア家の令嬢・ソムニに連れられて初めて葉揺亭にやってきたときのことが思い起こされる。礼を欠いたソムニに向かって、彼は使用人としての立場を他所に、激しい叱責をしたのだった。それが令嬢の不興をかったのは言うまでもない。
今日もクロチェアの料理長と名乗っているあたり、その一件は無事に片付いたのだろう。が、今度は主君本人が相手、あの時とはまた話が違ってくる。
不安の雲がにわかに葉揺亭に漂った。アメリアなど両手を胸の前で握って、ふるふると首を横に振っている。
しかし当の本人は、いっそ誇らしい顔をしていた。
「我々料理人にも誇りがありますからね。心を込めたものをぞんざいに扱われれば、いくら旦那様とて許し難い。皆の意を代表してお伝えするのは、料理長としての義務です」
情熱は素晴らしいが果たして。あっという間に感化されたアメリアは別として、マスターは未だに渋い顔をしている。
とは言えかの家の内々のことに口出しをする権利は無いし、したいとも思わない。マスターは軽く肩をすくめて話を打ち切った。
ただ、クロチェア公の心労を思うと同情の念が沸いてやまず、なんとなくノスカリアの政務所がある方角を向き、苦笑いを送ったのだった。
シエンツが一服して去ってから。マスターの隣には、アメリアが吹っ切れたような顔でつきまとっていた。主に正論を説く従者、そんな料理長の姿に感化されたのだ。
アメリアは腰に手をやり胸を張り、熱のこもった声を上げ続ける。主がうんざりとした顔をしているのはお構いなしだ。
「だから、今日からマスターのために、もっと愛情込めてお料理しますから! マスターも希望があったら何でも言ってください。私、頑張ります」
「いいよ。食べ物の無駄だ」
「無駄にするのはマスターですっ! もう、私は心配してるんですよ。どこかお体が悪いんですか? それとも、好き嫌いがひどいんですか!?」
「君に心配されるようなことは何もない。必要がない物を切り捨てることは、悪ではないだろう」
アメリアが顔を真っ赤にして唸るのが聞こえた。こころなしか目も潤んでいる。
困ったぞ、とマスターは頭をかいた。こと食事に関連したことだけは、アメリアとわかりあえる気がしない。
ただ、ひねくれているのが自分の方であるとは重々承知だ。
マスターは豆の入った麻袋に目をやった。アメリア一人で消費するには無理がある量だ。幸い、折衷案はシエンツが提示してくれた。これならば歩み寄れる。
マスターはうっすらと笑むと、アメリアの頭にぽんと手を置いて、諭すように語りかけた。
「……じゃあ、その豆は乳を取ることにしようか。それなら僕も喜んで飲むよ。やってくれるよね、アメリア」
「はい! もちろんです!」
「うまくできたら、ミルクティとかも淹れてみよう」
「わあ、楽しみです」
前向きな提案をすれば、けろりと機嫌が良くなる。クロチェア家の料理長に比べれば、葉揺亭のご飯番はずっと甘っちょろい。共に過ごすにはこれほど嬉しいことはない、とマスターはにやけていた。
善は急げとばかりに、アメリアは大きなボウルを取り出して、麻袋の豆を投入する。食事に使うより圧倒的に多い、二、三回も作れば豆がなくなるだろう。
マスターはこっそりと胸をなでおろした。少なくとも、大量の豆料理を無理やり口に押し込まれ、胃を痛めるような心配はしなくてよくなったのだから。
イオニアン食べ物探訪
「豆の東方風煮込み」
野菜を中心に食材を香辛料と共にどろどろに煮込んだ物。
オライゼ(米)、イモ、パンなどなど主食全般と相性がいい。
要するに、地球で言うカレーにほぼ等しい食べ物。
「豆乳」
ふやかした豆を絞って得られるミルク。そのまま飲んでよし、料理に使ってよし。
紅茶や珈琲にいつもと違うアクセントを加えるのにもぴったり。
豆乳を取った後の搾りかす(おから)も食べられるから捨てないように。




