安息の葉陰
「月なき夜の眠らない街」の後日談にあたります。
人間、ひたすら我慢するのが美徳だ、なんてことはない。カウンター席のティーセットを引きながら、マスターはそう思った。いつもはアメリアが率先してやる仕事だが、現在席をはずしている。
燕尾を揺らしながら清潔なクロスで台を拭く。木目の上には、涙が落ちた跡が点々とあった。つい先ほどまで居た女性客が残していったものだ。もちろん綺麗にぬぐい取って、跡形も無く消し去った。
と、客が去った余韻も冷めやらぬうちに、再び玄関が開く気配がした。マスターは意識して接客の笑みをつくり、ゆっくりと振り返った。
「いらっしゃい……おや! 君だったか」
マスターの笑顔が、客よりもっと親しい者へと向けるものに花開く。まみえた姿は青い髪が印象的な知己、ティーザだった。
今日はどうしたのかとは聞くまでも無かった。ティーザの手には角ばった布包みが持たれている。先の不夜祭に絡んで、マスターが個人的に貸し与えたものだ。これを返しに来たに違いない、なにせ祭りが終わって早五日も経つから。
ただ、気になるのは、単純なようにしてはいささか渋い顔つきなところ。神経をとがらせ彼の内心を察しようとするマスターに、ティーザは自ら歩み寄ってきて、言った。
「さっきその道を、女が一人、泣きながら歩いていったが」
「ああ、うちのお客だよ」
「……泣かせたのか。ひどいやつだ」
「まさか。僕は話を聞いていただけさ。こっちから話をしようにも、通じないしね」
そんなことが気になっていたのかと、マスターは抜かした拍子に安堵を交えて肩をすくめた。
このところしばしば現れる例の女性客については、本当に話を聞くだけの相手なのだ。なかなか奔放な男と恋仲で、葉揺亭には彼に関する惚気交じりの愚痴聞き役を求めてやってくる。
そんな風だから、いつも勝手に騒いで、勝手に笑って、勝手に泣いて、勝手に帰っていく。今日に至っては積もり積もった感情が爆発して、終始言葉も無く大泣きしていただけだ。
感情を押し殺し強がって過ごすのは人間らしくない、マスターはそう考えているから、彼女のことを悪し様に言うつもりはない。
ただ、さすがに一方的にわめきたてるのを聞き続けるのは疲れる。こった筋肉をほぐすように、マスターは肩や首をぐるぐると回した。
それを見て、ティーザも思うところがあったのだろう。光源石の板の包みは手渡さず、カウンターの上に置く。ながらに、ぽつりと言った。
「嫌にならないのか。ずっと、そうやっていて」
「全然。求められた安息を与えるのは店主の務めさ」
マスターはあっけらかんと言った。そして置かれたばかりの四角い包みを抱え、カウンターの中に戻った。
それからマスターが何か言う前に、ティーザは椅子を引きおもむろに座った。ぼんやりと宙を見る顔つきには、いつもより覇気が欠けている。どことなく身も重そうだ。
マスターは悟られないように苦笑した。本人は何も言わないが、疲れているとは態度で丸わかりだ。
運のよいことに、今日はそんな人にうってつけの物がある。紅茶缶の並びに置きっぱなしにされている、花柄陶器の角ポット。入っているものは、昨日つくったヌガーという菓子だ。もっとも、実際に手を動かし作ったのは自分ではないが。
蓋を取ったポットを手にし、中身を見せるようにしてティーザに差し出した。
「食べるかい? 昨日アメリアが作ったんだ。砂糖と蜂蜜の塊みたいなものだよ、めちゃくちゃ甘い。脳が溶けそうになるくらい甘い」
軽く入れ物を揺らせば、琥珀のタイルのように切りそろえられたヌガーも小さく踊る。かくする自身はこの菓子に手を出すつもりはないのだが、さておき。
ティーザは無言のまま手を伸ばし、ヌガーを一粒口に入れる。歯にまとわりつく食感は予想していなかったのだろう、しばらく眉を寄せて口をもごつかせていた。
ながらにも二粒目を手に取ったあたり、相当気にいったらしい。マスターは今度はあからさまに苦笑いして、角ポットはその場で下に置く。それから茶の準備にとりかかった。
ティーザが好むものなど知っているが、今日はそれよりも体調を整えることを考えた方がよさそうだ。疲労回復、精神安定、滋養強壮、代謝促進、その他もろもろの効能を持つハーブの名前が次々と浮かび、マスターはそれを片っ端からポットに詰め込んでいく。
その傍らから他愛も無い質問がやって来た。
「アメリアは?」
「お友達に連れられて、上の劇場に観劇に行ってる。会いたかったかい?」
「いや、逆だ。会いづらかったから、都合がいい」
つまんでいたロゼルをポットに落とし、マスターは怪訝な面持のまま顔を上げた。ティーザがひどく物憂げな顔をしていたから、そのまま手作業も止まってしまう。
真摯な面持で、ティーザの言葉を待った。理由がまるで見当つかない以上、向こうから喋らせた方がよい、と。
静かな空気の中、彼はぽつりとつぶやいた。
「アメリアにばれた」
「それは、どこまでが?」
「俺がヴィジラだという、それだけだ。が、良くないことだ。……てっきり、お前が教えていると思っていたから、油断していた」
「僕は他人の秘密をばらしたりしないよ。彼女もまた同様。知ったところで、正体を吹聴したりなんてしないさ。そんな風に心配しなくていい、僕が保証する」
「そんな心配はしていないが……次に会ったら、多分色々聞かれるから」
はあ、とつかれた溜息は床が沈みそうなほどに重い。
しかしマスターは対照的に明るい顔をした。考えていたほど深刻な事態ではなかったから。止まっていた手仕事もよどみなく再開する。鎮静作用のあるラベンダーを一つまみと、味を調えるために干したイチゴを少々加え、最後にお湯を注いで出来上がり。
ティーポットに蓋をし、ようやく腰を据えたマスターは、穏やかな口調で悩める青年に語り掛けた。
「そんなに悩まなくったっていいじゃない。そうだなあ、仮にもっと深く……君が実は半分女の子だって知ったとしても、アメリアは君のことを嫌いになったりはしないさ。あれは、そういう子だ」
小さく笑いながら言えば、ティーザは露骨に嫌そうな顔をした。
しかし、店主は事実を述べただけ。心身ともに両性的存在、その事実を否定することはできないし、かといって笑い話にできるほど成熟してもいない。だから、何も言い返さないことを選んだのである。
難しい話だとマスターは思う。心を許して本性をさらけ出した結果、相手に嫌われるかもしれない。しかしいつまでも隠して置けば、その壁の分だけ心の距離が埋まることは無い。どちらが正しいとも言えないし、どちらにしろとは言えない。こと隠し事云々という話になると、自分もあまり他人のことはいえないのだが、それはさておくとして。
結局、最後にどうするか決めるのはティーザ自身だ。マスターにできるのは、いや、やるべきことは、少しでも心を軽くさせること。葉揺亭の主は慈愛に満ちた笑みを浮かべて、優しく説いた。
「あまり考えすぎるんじゃないよ。裏表があるのは誰だって同じ、君だけの悩みじゃない。それを踏まえて、打ち明けてもいいと思うなら打ち明ければいいし、嫌ならお茶を濁してやりすごせばいい。聞かれたからって全部話す必要はないし、君が心苦しくて耐えれないのなら、逆に全て話してしまっても構わない。……ああ、でも。嘘をついてやり過ごすのはおすすめしない。絶対にどこかで矛盾が生まれてくるからね。本当のことを言わないのと嘘をつくのとは違う、それはわかるだろう?」
ティーザは少し考え込むように目線を落とし、だがすぐに小さく頷いた。言葉は無い。
それで十分だ。マスターは彼の選択を聞こうとは思わなかったし、それにちょうど茶も仕上がったところである。この話は終わりだとばかりに、一旦席を立った。
ロゼルによって赤く色づいた茶液を白いカップに注ぐ。十数種類のハーブが混ざった茶は、体には良さそうだが決しておいしそうではない、そんな具合の香りを昇らせていた。
しかし残った雫で味をみる限り、苦みやえぐみは無く、匂いに反した穏やかな味わいに仕上がっていた。問題ない、とカップをティーソーサーにのせ、客席に出す。
「さあお飲み。栄養補給、疲労回復、滋養強壮、精神安定、その他もろもろ混ぜた特製の茶だ」
「……詰め込み過ぎではないか」
「そうもしたくなる。その様子じゃ、どうせまた休んでいないんだろうからさ」
どうやら図星だったらしい。ティーザは言葉を詰まらせ目を泳がせる。ごまかすようにカップをとり、軽く息を吹きかけいそいそと口を潤おした。
一方、マスターからは深い溜息が飛び出した。まったく動けなくなるまで休まない、この者の昔からの悪癖だ、呆れてしまう。引いたままだった椅子にすとんと腰を下ろすやいなや、説教の言葉があふれ出て止まなくなった。
「よくないな、本当によくない。休息はとらないと駄目だ。眠るのも食べるのも、人並みには嫌でもやれ。昔から言っているじゃないか」
「見本が悪いと言わせてもらう」
「それは認めよう。だが、僕と君は違う。それも何度も言ったはずだ」
「……単に忙しかったんだ。まったく、休まる隙がなかった」
ふてくされて言ってから、ティーザは静かに茶をすすった。ちらりとマスターに向けて上げられた目は、どこか攻撃的な色をはらんでいる。拒絶、あるいは挑発。決して触れられたくないと強調しているのか、それとも構ってほしくて素直になれないでいるのか。
どちらにしても話を切るつもりは毛頭なかった。こちらから歩み寄らなければ、彼は感情を押し隠したまま過ごそうとするから。曲がりなりにも彼を育てたものとして、潰れてしまわないか心配なのである。手助けしてやれるなら、なんでもしてやりたいとも。
「いつからだ。まったく休みが無いということも無いだろう。何か大事があったのか?」
「ああ。その通りだ」
「かといって、少しくらい――」
「色々とあるんだ。……不夜祭の件で」
憤りが滲んだ声に、マスターはぎくりと肩を震わせた。責め咎めるように細められる青い目にいたたまれなくなり、攻守一転、目を背けた。しかし、まさか、自分がティーザの煩悶の原因だとは。
不夜祭の件で。そんな切りだしで怒りの的になる心当たりは、悲しいかな、二つもある。
もし、咎められているのが彼になりすましてスラムの学校へ贈り物をしたことならば、聞こえの良い釈明は山のように思いつくが――
「ルクノール」
抑揚を殺した響きでその名が呼ばれた瞬間に、「もし」の線が皆無であることを悟った。参ったな、とこめかみに手をやる。
「不夜祭のあれは、お前だろう?」
断定と相違ない問いかけの後、空気は重く静まりかえった。ティーザからにじみ出るぎらついた気が肌にちくちく刺さって痛い。
マスターは悩まし気に目を伏せた。――誰にも悟られないように、できる限りの小細工は施したのだが。いかんせんティーザは無能とは程遠いし、何より己のことを知りすぎているから、はぐらかすことはできなかったということ。まあ、しかたない。
ふうと息を吐き、ゆっくりと目を開ける。それから真に迫った不敵な笑みを浮かべて、彼の方を直視した。
「おまえに悟られることは諦めがつくが……あえて聞こう、そうだったらどうするのだ? 法の番人としての役目を果たすべく、私を今この場で捕えるか? 世を騒がせた、罪深き魔術師として」
「お前が望むのなら、仕方なく」
返答の小声は落胆と歯がゆさを併せ持つものだった。伏せ気味の青い目は、悲しげな気配に染まっている。
だが、亭主としては逆に安心するところだった。
「まあ、その言い方なら、首をはねられる心配はしなくてよさそうかな」
いつも通り発した軽口は、ティーザをおおいに煽り立てた。ぎり、と彼は歯噛みして、目を怒らせ、身を乗り出す。
「甘い。お前が思っているより、ずっと大騒ぎになっている。『神』が降りて来たと教会の本山にも伝わっているし、もちろん、政府も同じように。中枢から出張ってこられたら……俺ではかばいきれんぞ」
「いいよ、かばってなんてくれなくて。自分で何とかするし、どうにもならなかったら、腹くくるさ」
軽妙な微笑みと共にうそぶいた言葉は、決して冗談などではない。もとよりその覚悟でやったことだ。あまり他者には言えない来歴を持つ者が表舞台に立つべきではない、どこで因縁の仇に繋がるかわからないから。そんなことはわかっていて、その上で光を灯しに行くと決めた。
もちろん、身元がばれないように細心の手は打った。方法も時間も行程も、そしてもしもの時のことも色々と考えを尽くした。
そう、色々と、だ。もしも最終的な結果として、自分が地上から去ることになった場合はどうするか。そこまでもしっかり、考えてある。
「その時は……アメリアのことを頼むよ。あの子に危害が及ばないよう、守ってやってくれ」
依願にティーザの我慢が切れた。両手でカウンターを激しく打ち付け、眉間に深い谷間を作り、噛みつかんかの勢いで食ってかかる。激情をそのまま吠え掛かる、この男にしては珍しい。
「そんなこと言うくらいなら、だったら、なんであんなことをした! どうして、身を危険にさらす真似をするんだ! なんでお前は、いつもそうやって……」
「察してるんだろう、素直に受け止めてくれよ。なあ、ティルツァ」
「っ……! その名を、呼ばないでくれ」
恨みがましい顔をして悲痛な抗議を上げられても、亭主はうっすら笑んで受け流すのみ。ティルツァ、その名は「彼女」が自分の手元にいた昔に呼んでいた名だ。
自分の舌が紡いだ音に懐かしさを感じ、しばし浸る。その心地のまま語られるのは、嘘偽りのない本音だ。
「おまえがどう思うか知らないが、私にとっては、今も昔もおまえはおまえで変わらないんだ。今さらと言われるかもしれないが、かわいくってしかたがない。アメリアと同様に、この手で守るべき一人なんだよ。そんなおまえがあれだけ憂いていたのに、知らぬ顔をしていられるものか」
そこまで言い切ってしまってから、しまったと後悔した。実に恩着せがましい物言い、相手からしたら卑怯極まりないだろう。現に、ティーザは唇を噛みしめ額を抱えてしまっている。
時と場合によっては、本音を包み隠した方がいい。咄嗟に思いめぐらせて、別の理由で取り繕う。
「いや、もちろんお祭りだったからさ。私も楽しいことは人並みに好きなのだよ。私が私のためにやった、そういうことだ。そういうことにしておけ」
もちろん嘘をついたわけではない、重要さは数段下がるが確かに動機の一つだ。また、嘘になるかどうかは聞き手の反応次第でもある。
ティーザは目線を下にして黙したまま、半ば忘れられていたティーカップを取った。
一口、二口と飲み下してから、彼はさりげなく小さな声で呟いた。
「……嬉しかった。眩しかった」
「そう。だったらなにより」
「ありがとう」
「どういたしまして」
マスターは裏の無い笑顔で応えた。
感情の嵐はひとしきり過ぎ去り、葉揺亭はいつもながらの穏やかな世界に戻っていた。店内が静かだと、外の音も少し響く。
おまけにマスターもティーザも常人より鋭い聴覚を持っていた。だから、手前の十字路のあたりからこちらに向かってくる少女の声が、言葉の端々まではっきりと聞き取れたのだ。
「『さあ、今こそ反撃の時っ! みな、私に付いてこい!』」
聞き慣れた声で再生された物騒な言葉、このあとに上がった間抜けな叫び声は、きっと彼女の中では威勢のいい鬨の声だったに違いない。要するに、演劇に感化された少女による、下手な芝居だ。
マスターは吹き出した。まったくアメリアの純真さには頭が下がる。これからしばらくは、演劇ごっこに付き合わされる覚悟も要りそうだ。
さて、困ったのはティーザである。一番初めの悩み事に立ち戻ったらしく、みるみる顔を曇らせた。
こちらは少しアメリアを見習うべきかもしれない。マスターはそう思いながらも口には出さず、代わりにひとつ冗談じみた助言をした。
「そんなに嫌なら、寝たふりでもしてなよ」
ティーザははっとした顔を一瞬見せると、すぐさま机上に腕を置き突っ伏した。その反応の素早いこと、提案したマスターが呆気に取られて立ち尽くす羽目になった。
困ったものだ、こういうことは素直に聞く癖に。そんな悪態が喉から出かかったが、その前に開いた玄関の楽しげな音に遮られた。
「ただいまマスター! あっ、ティーザさん、いらっしゃいませ!」
アメリアのはつらつとした声が響き渡る。今日の装いは彼女が「よそ行きです」と定めるもの、レースとリボンが随所にあしらわれたフリルの水色ワンピースだ。甘い雰囲気のデザインが、愛嬌を平素の倍増しに引きたてる。
そんなアメリア、ティーザの姿を尋常でなく喜んでいたようだが、しかし、すぐにきょとんとした顔で首を傾げた。あいさつに反応が無いのをおかしくおもったらしい。
そっと小走りで近寄って、右から左から伏せられた顔を覗きこむ。ついには肩を叩こうとしたところで、マスターが手を振って制止した。
「アメリア、構わないでおいてあげて。すごく疲れているみたいだから」
「はあい。……聞きたいこと一杯あったのに」
すぐ隣で上げられた落胆の声にも、ティーザは身じろぎひとつしなかった。
アメリアはもう一度彼の顔を覗きこんで、ふふっと笑みをこぼす。
「よく寝てます」
ちょっとやそっとじゃ起きなさそうだ、と判断したらしい。アメリアは足音も声も量を大して落とすことなく、鼻歌混じりのはね跳ぶ足取りでカウンターの中へと歩む。まだ彼女の演劇は終わってないらしい、一生懸命つくった声音で、覚えてきたセリフをそらんじる。
「『ああ、エランド! どうして裏切ってしまったの! なぜ私は貴方を斬らねばならないの!』」
悲嘆をありありと込めた声――とアメリア自身は思っているだろう――で高らかに語り上げた。気分がよいのだろう、音量もそれなりに盛り上がる。
マスターはちらとティーザの様子をうかがった。彼は徹底して反応を返さない。無視してくれと無言で語っていると見て、マスターはアメリアに向き直った。
「お芝居はずいぶんおもしろかったみたいだね」
「はい! もう、とってもかっこいい騎士様で! 女優さんだったんですけど、でも、男の人よりもずっときりっとしてて……ああ、かっこよかったあ」
「いいね、男装の麗人か。だったらやっぱり、題材はシェリ=シンテシスかな。さっきの台詞でもわかったんだけど」
「あれだけでわかったんですか!」
「彼女は有名だからね。僕もよく知っている」
マスターは得意気にウインクした。
古の王国ユーストリアの女騎士、シェリ=シンテシス。白銀の甲冑に身を包み、その心に宿すは不屈の魂。若き娘でありながら、吐く気の強さは天下の男を委縮させるほど。愛しき者に裏切られ死地に独り立たされても、なお威風をたなびかせ王国のため戦い続ける。概略ではこんな人物だ。
古典にふれあえば必ず聞く名前であるし、彼女に関する逸話も数多い。マスターの私室にも、関連する事柄を書いた本は複数ある。
また、読書をするから詳しいというだけではない、別の理由もある。マスターは柔らかい表情で、なおも伏しているティーザをみやった。
「不屈の魂、強く気高き心。シェリは、あの子の憧れの人なんだ」
「まあ! そうなんですね」
マスターは頷いた。だから今のような性格の「彼」になったのだとも知っているが、それは秘密の話である。
アメリアはおやつにする前に服を着替えてくると言って裏へ消えていった。昨日つくりたてのヌガーを食べた時に、うっかり器をひっくり返して服を汚したのを思い出したに違いない。今着ているよそ行きで同じことが起こったら、この上ない悲劇だ。
二人きりになった空間で、マスターはにやけながらティーザに声をかけた。彼はまだ、腕に頭を預けたままだったが。
「知らない間にずいぶんと演技がうまくなったな。シェリの名を聞いた時に、黙っていないと思ったのだけれど」
アメリアの稚拙な芝居に比べると、こちらはとんだ名役者だ。さすが日頃常に裏表の顔を使い分けているだけある。
と、思ったのだが。
「……驚いた」
寝たふり、ではなく本当に眠ってしまっている。なんと声をかけても起きないし、おまけに覗きこんだ寝顔は、見たことも無いくらい穏やかなものだった。
あまりに珍しいものをみて、マスターはしばらく呆けていた。目を丸々とさせ、思わず指で頬をかき。しかしやがて、母親のような優しい笑みを浮かべた。
疲労がたまっている上に心が緩めば、続けて眠気がやってくるのは世の道理だ。不思議がることもない、ここが彼にとって心休まる場だというのなら、いくらでも好きなやり方で羽を休めていけばよい。
なおかつそれが喫茶店の主として望んだ光景でもある。聴いてほしい、助けてほしい、喜怒哀楽を受け止めてほしい。誰に限らずそんな願いを聞き届け、一時でも人に安らぎを与えられたとき、亭主の心は満たされる。葉揺亭を開いてよかったと思う瞬間だ。
そして葉揺亭はノスカリア屈指のきめ細やかなサービスに対応できると自負している。眠れる客人には、風邪などひかぬよう、肩よりかけ布でもかけてやろう。マスターは楽し気に肩を回しながら、店の奥に歩いて行った。
葉揺亭スペシャルメニュー
「亭主特製・栄養満点ハーブティ」
元気がない、疲れが取れない、忙しくて休めない、食欲もない。
そんな人にはハーブティがおすすめ。おいしく、体にも優しく、疲労をいたわってくれる。
ただし効能を求めて多種多様のハーブを混ぜるほど、味は不均一になってしまう。
そうなった分は、いたわりの心で補おう。
「アメリアお手製ヌガー」
ありあわせのナッツが散らされた、葉揺亭の看板娘の趣味の手作りおやつ。
砂糖と蜂蜜をじっくり煮詰め、冷やし固めた物。とにかく甘い。ひたすら甘い。
……はずなのだが、この日の物はちょっぴり苦い。砂糖が焦げてしまったのだ。
そうなった分は、悪戯っぽい笑顔で補おう。




