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ノフィラ・アワーナ ――夜に歩めば

 葉揺亭の店主という人物について、クシネ=オーフォイデスは密かに調査をしていた。


 しかし、あらゆる方向から探りを入れたのにも関わらず、望むような成果は一切得られなかった。


 葉揺亭という店についてはそこそこ知られている。アメリアのことも知る人は多く、特別訪ね歩いたわけでもないのに、日ごろの生態が浮き彫りになる程だった。


 しかし、店主の話になった途端、不自然な程に情報が出てこない。変わり者だ、知識人だ、優しい人だ、出不精だ、そんな表面的な感想ばかりで、素性や来歴ほか個人情報を知る者は皆無。ついにはアメリアですら、彼の本名を知らないのたまったものだからお手上げだ。メモの最後に「隠し事が得意」という項目を付け加えて、クシネの調査は終了したのだった。


 叩いて何も出てこないなら白か。いや、逆だ。徹底っぷりが過ぎて、逆になにかあると物語ってしまっている。クシネはそう感じていた。


 なにより己の魔女としての勘を信じたい。筆舌しがたい魔法使い特有の直感が訴える。あれは、己に比肩あるいはそれ以上の魔法の使い手であると。


 そうであるからして、クシネと同じように、彼もぴんときたのだろう。でもなくば、仮にも客商売する人間が、初対面の相手に警戒心をむき出しにしたりしないだろう。初めて葉揺亭を訪ねたあの日、彼はナイフを研いでいた。粗相をしたらそのまま刺す、そんな荒々しい気が、人当たりのよい店主の仮面の下では確かに蠢いていた。口で語らずとも気質で語ってしまう、魔法使いとは難儀な生き物なのだ。


 恐怖は無かった、むしろ癪に触ってしかたない。あそこまで知識も才もある人間が、なぜ魔法の道とは遠く外れた場末の喫茶店の主になど収まっているのか。なぜ執拗に力を隠すのか。才能の無駄遣いだ、天への冒涜だ、まったくふざけた話である。



 もちろん予測でしかなく、真相を確かめるにはあの仮面を暴かなければいけない。だから、今日は襲撃を仕掛けたのだ。大事にしているアメリアにすら知られたくない素性、それを彼女の前で暴露する。彼は一体どう対応するか。渋々認めるか、しどろもどろになりながら嘘を重ねるか。いずれにせよ、何かしら優位に立てる。はずだった。


 しかしクシネが用意した追及の札が切りきられる前に、彼は自ら言ってのけたのだ。 


『つまり君は。この僕が、あの町でコルコの魔法を修めた魔術師だと、そう言いたいのかな?』


 アメリアの前で認めた、勝った。そう思った。なのに、彼はそれを自らきっぱり否定して見せた。その瞬間、一枚上手を行かれたと悟ったのである。



 自ら天才と誇る知能をこけにされたようで、思い出すとまたむかっ腹が立ってきる。宿の窓から夜空を見上げ、クシネは吐き捨てた。


「まったく、どういう脳をしていたら、あんな切り抜け方をとっさに思いつくんですかねえ。本当に嫌な人ですの」


 表面上では魔術師であることを否定した。少なくともあのアメリアなら、そう理解したであろう。自分の主人は普通の人だ、彼女は今もそう思ってすやすやと眠っているはずである。あの男の術中にはまって。


 しかし、それは真ではない。あの男が「違う」と言ったのは、「あの町でコルコの魔法を修めた」という部分だけだ。でなくば、わざわざそんな一節を付け加える必要ない。


 嘘を一切つかずに真相を隠す、見事にしてやられた。



 しかし不思議なことに、あの男はその前提の上でクシネを招いたのである。ノフィラ・アワーナ――夜に会いましょうと。アメリアには絶対に通じず、なおかつ魔法使いにしか理解しえぬ方法で伝えて来た、意図は容易に察せられる。


 よく思い返せば、彼が「ノフィラ・アワーナ」と題する紅茶を作り始めたのは、クシネが切り込むより先だった。すると、始めから夜会に誘導するつもりだったのではないだろうか。


 夜の町に向かって息をこぼす。これはまるで、強固な守りを強引に攻め立てるつもりが、開いた虎口にあえて誘い込まれているような状況だ。はてさて何を企んでいるのか、手が見えないのはうすら寒い。


「でも……せっかくのご招待をお断りするのは、無粋ですからねえ」


 クシネは大きな杖を手に立ち上がった。静かに広げた詠唱は、体の周りの光を操作して外見を透明に見せかける術だ。魔法を隠すつもりはないが、異能を取り締まるヴィジラに絡まれると非常に面倒であるから、人目を忍ぶに越したことはない。


 己の全身、そして手に持つ杖とが魔法のヴェールに覆われたのを確認すると、クシネは窓を開け放って手を伸ばし、杖を横向きに浮かべた。空中でゆっくりと上下に揺れる杖は、長さも太さも小さな体でまたがるのに丁度良い。クシネは窓から身を乗り出し、空飛ぶ杖に跳び乗った。


 さあ、いざ葉揺亭へ。念じると共に夜間飛行が始まった。



 紅い月の光により町全体が不気味な色に染まっていた。怯えるように寝静まる夜の町を眼下に、クシネは悠々と飛んでいく。


 人によってはあの月を忌避するが、クシネはその感情を抱いたことはない。むしろ月が強く紅い夜は魔法の調子が良いぐらいで、こんな風に空を飛んでいるとうきうきと心が躍る。


 高揚したクシネは、広場上空にて意味なく時計塔の周りを巡りながら、さらに高みへ昇った。塔の先端の高度まで至れば、ノスカリアの町並みも握りしめられそうに小さくなった。どんな人間の手も届かない高みに自分は居る、人外の境地にたどり着き、支配者として君臨しているようだ。


 葉揺亭を遥かに見下し、クシネはにたりと笑んだ。涼やかな風と裏腹に、心は熱くてたまらない。


 このまま一気に降下して、蔦の葉描かれた玄関を蹴破り乗り込んだら、あの男のすまし顔もはがれるだろう。絶対の自信に支えられた足下を崩してやれたら、ああ、快感に違いない。


 看板を降ろし店主の装いを脱いだあの男は、果たしてどんな顔をしているのか。言葉を虚飾する必要が無くなったら、一体何を語るのか。次第によっては、強硬な手をも辞さないつもりだ。


「ノフィラ・トゥラ・アワーナ、ですもの」


 くすくすとクシネは一人笑った。魔の道は恐ろしいもの、しかし貪欲に突き進め。それが天才的魔女の絶対の理念だ。


 では、いざ。クシネは杖先を下方に向けてから、鼓動が高鳴る苦しさを押さえるため、一度月を仰いで呼吸を整えた。


 しかし。その瞬間、小さな魔女は動けなくなった。


 見やった紅い月、それを背負って黒い影が瞳に映っている。


 距離は遠いが、確かに何者かが居る。この空に在れるのは自分だけと慢心していたから、前方にあるのは予想だにしない光景だ。


 おまけに月影に浮かぶそれは、明らかに人間の風貌ではない。蝙蝠のような翼を背に広げ、尻からはしなやかな尾が伸びている。四肢は細く長く、かつ鋭利な爪が指先で存在を主張する。長い髪が風にも重力にも逆らってたゆたっている様は、この世の常識に値しない存在だと証だてし、非常な不気味さを放っている。


 そのシルエットは、俗に言う悪魔そのもの。


「噂には、確かに、聞いたけど……」


 全身から嫌な汗がほとばしる。時折耳にした噂は、ノスカリアには恐ろしい悪魔が住んでいて、紅い月夜に獲物を探して飛び回る、とのもの。


 聞く内には眉唾だ、どうせアビリスタだ、などという失笑までがセットであったが、しかし、これは。クシネが今まで見た誰よりも強く禍々しい魔力を、空に浮かぶ存在は持っていた。引きつった笑みすらもう枯れて出てこない。


 そして最大の問題は。かの悪魔より、こちらへ、明白な敵意が向けられていることだ。



 凄絶な気迫に肌を刺され、ひりひりと神経がうずく。計り知れない魔力に恐怖する。鼓動は最高潮、息は何もしてないのに切れ上がる。こんなことは始めてだ。


 自慢の透明術も効いて居ないのだろうか、悪魔の視線はクシネの双眸を真っ直ぐ確実に貫いている。影に浮かぶ鋭く冷たい目が、あざ笑うようにぎらりと光ったように感じた。


 それから悪魔はゆっくりと見せつけるように翼をはためかせ、ぐっと身を屈めると、宙を蹴ってこちらへ飛び――クシネが見たのは、そこまでだ。



 なりふり構わず逃げ出した。回れ右して、下へ下へ下へ、人間のあるべき地の上へ、一目散に。焦るあまりコントロールを失い、時計塔にぶつかりそうになったのを辛うじてかわし、しかし勢い余って横転する。そのまま地面に転がり込み、建物の壁にぶつかると、ようやく逃亡劇は止んだ。


 冷たい石畳の感触に喜ぶ間すら持たず、クシネは跳ね起きた。まずは自分が五体満足であることを確認する。怪我は青あざと擦り傷のみ、透明術も解けてはいない。


 クシネは杖を両手で握りしめたまま、頭の上を睨みつけた。恐る恐る月の方を見ても、だが、不穏な影は一切ない。それどころか凄絶な気配も嘘のように消えてしまった。一瞬の夢幻でも見ただけだったかのように、平和な夜空が一面に広がっているのみだ。


 安堵の息と共に体にこもっていた力が抜け、壁にもたれかかるには飽き足らず、そのままずるずると地面にへたり込んだ。


「ほんと……勘弁してほしいの……」


 まだ魔法の道は半ば、こんなところで、しかもあんな得体の知れないものに潰えさせられてたまるものか。幼い声は言外にそう語っていた。



 それにしても、だ。あの狂気に等しい禍々しい気、並の者ではない。ノスカリアには強大なアビリスタが多々いるが、とてもそうした人間が変化したという部類には思えなかった。


 あれはこの世のものではない。どこか別の時空――コルカ・ミラには異界についての伝承が残っているし、各地で『時忘れの箱庭』と呼ばれる現象があるあたり、存在を信じていいだろう――からやって来たものだ。クシネはそう確信していた。


 しかし、偶然現れたにしては都合が良すぎるタイミング。おまけに、明らかにクシネ個人を狙っていた様子でもあった。まるで誰かに使役されているかのように。


 そんなことをされる筋合いには、一つしか心当たりがない。うっすらと微笑みを浮かべた黒ベストの男の顔が、クシネの脳に浮かんだ。寒々とした漆黒の目が、幻影となりてこちらを射抜く。


「……店長さん、なんてお方でしょう。あなたの本性は、よおくわかりました、なの」


 夜に会いに来いと言ったのはこのため、目障りな魔女に向かって仕組んだ罠だった。優しい店主の仮面を脱いだ後ならば、人の命を奪うような残酷なこともやってみせる、そんな無言での宣戦布告のためだった。あの男は今も自分の陣地にこもり、思うように踊り転げる様をあざ笑っているだろう。察しをつけたクシネは、ただただ不快感に顔を歪ませていた。


 悪魔に追撃をさせなかったのは、慈悲のつもりだったのか。今夜は警告だ、もう二度と踏み込んでくれるな。あの男の声が夜風に混ざって聴こえる気がする。


「それですごすごと引き下がるなら、魔法使いなんてとっくやめてますの。……必ず、いつかお話いただきますから」


 魔法を究める道は険しく困難だ、だが貪欲にひた走るべし。クシネを才女たらしめる信念は、こんな目にあっても折れることはなかった。



 ふよ、クシネは自分が背を預けていた建物を顧みた。広場に面する中で、最も洗練された造形をなされ存在感を放つ建造物。ルクノラムの教会だ。聖堂は夜間の礼拝をも受け入れるから、扉は大きく開け放たれている。


「しまった……教会だったの」


 ルクノラムの信徒には近づくべからず、それがコルカ・ミラの民の習性だ。無意識に服の襟を引っ張り口元を隠しつつ、いそいそとその場を離れる。


 コルカ・ミラとルクノラムの間には、神話の時代より続く因縁がある。正確には互いの祖、コルコとルクノールとの確執だ。


 聖女コルコは、ルクノールのことを異端な魔法により神の座にのし上がった邪悪な魔術師だとし、激しく対立していた。度重なる魔法戦争の末、コルコはルクノールの最愛の弟子アルヴァイスを異界に追放し、同じくルクノールの寵愛を受けた使徒エルジュの一門を討ち破った。邪神に最も近き二人の人間を制したことは、コルコ最大の功績として今でも讃えられている。


 だから彼女の教えを守るものは、ルクノールを神と認めず、その啓示受けた者を敵視し争い続けることに義務感を抱いているのだ。最たる例として、アルヴァイスを封じた亜空間への門を、厳重が過ぎるほどに封印し監視し続けているように。


 もちろんルクノラムの側も同様、神に仇なす敵としてコルコの存在を挙げている。現在もことあるごとにコルカ・ミラを糾弾してやまない。


 コルカ・ミラを離れて久しいクシネも、ルクノールの使徒たる魔術師たちの名を聞くと、自然に敵愾心を沸かせてしまう。ただクシネの場合は、コルコに絡んだ遺恨というよりは、一人の魔法使いとして自分よりも遥かに高度な技能を持っていたということに対する、いわば向上心によるものだ。


 いつかは自分も伝説に語られる魔術師たちのように。小さな体に大きな野望を抱き、クシネは歩いていく。


 と、足が止まった。はっとした顔で振り返る。視線の先には教会の玄関、そしてさらに奥の闇。

 

「まさか……」


 あの男は、コルカ・ミラにしばらく居たことがあると言った。しかしコルコを好きになれないと言った。コルカ・ミラとはまったく違う魔法の知識技術を持っていた。現世のいかなる魔法使いより深みにいるように感じられた。


 あそこまでして必至に正体を隠す理由は、彼が――。いや何の証拠も無い憶測だ、おまけに口にするのもはばかられるほど突拍子が無い。


 しかし、ひどい寒気がやまないのは、夜風のせいだけでないだろう。




 さて、クシネの想像通りならば、今頃葉揺亭には主たる男の高笑いでも響いているはずだ。


 しかし現実にあるのは、待ち人が現れないのに焦れる男の姿であった。照明の絞られた薄闇に反響するのは、静かに湯が沸く音と物憂げな溜息のみ。


「……伝わらなかったかなあ。アメリアじゃあるまいし、ちゃんとわかってくれたと思ったんだけど。逆に深読みしたかな、確かにあの手合いにはよくあることだが。でも、なあ。あれだけ偉そうに言っといて、まったく音沙汰なしってのも変だよなあ」


 葉揺亭の主は肘をつき額を抱えた。燕尾のベストを脱ぎ白シャツ一枚になっている姿は、平素より一層砕けた印象を与える。どこぞの魔法娘が思い描いていたような攻撃性や神秘性など皆無だ。


 マスターことサベオル=アルクスローザは、屋外で起こっていた一切に関知していない。「悪魔」を使役するなんてもってのほか、クシネを陥れるつもりすらまったくなかった。むしろ彼女を正面から迎え入れるつもりで、ずっと待っていたのである。


 だから彼は、彼女が絶対にやってこないとは、今も露と思っていない。もちろん、彼女が偶然にも自分の正体についての足掛かりを得てしまった事実も、知る由がない。


 知らないから、こうしてのん気にしていられるのだ。呈茶の作業台に置かれた、ルクノラムの経典並に量のある文書の山を見遣りながら、もう一度溜息を吐いた。 


「話がしたいと願ったのは、そっちじゃないか。だから準備したのに」


 独りごちる声は拗ねたようになる。文書の山はノフィラ・トゥラ・アワーナの全文だ。これを一晩論ずるつもりは無かったが、しかし物種にはなるだろうと引っ張り出してきた。隣には、コルカ・ミラのある地域特有の植物で茶を出す用意も。


 ここまでお膳立てしたのは、客人たるクシネが対話を望んだからだ。どんな腹積もりかは知らないが、魔法使いとならば一対一の方が話しやすい。しかし昼間では決して叶わぬことだから、夜に会いに来いと招いたのが真相である。


 クシネが予測する通り、アメリアにすらどうしても隠しておきたいことがある――それは向こうも同じだとマスターは睨んでいるが――というのも理由の一つだが、すべてではない。


 隠し事を貫く理由を総括するならば、一重にアメリアの身を守るためだ。


 好奇心旺盛なアメリアは、興味を持ったら突き進んでしまう。裏があるとか負の側面があるとか、そういうことは深く考えずに。自分のあずかり知らぬところで間違った道を邁進し、命を危険にさらしてもらっては困るのだ。


 魔法の力は上手く活かせば素晴らしいもので、なおかつ興味をかきたてるのものだとは、マスターは重々承知だである。しかし同時に、使い方を誤ったり、踏み込み方を間違えたら、恐ろしい結果をもたらすことになるとも心の底より理解していた。


 自分自身もあまり綺麗な身分ではない。しかしそれ以上に、今、最も危ういと思っているのがクシネの存在だった。あの娘は、際どい道をも恐れず歩いている。一歩誤れば闇の中に真っ逆さま、先の見えない夜の山を進んでいるようなもの。そこにアメリアが何も知らずに近づいていく現状が、非常に気に障るのだ。アメリアそれとなく苦言を呈しても、全然止まらないから始末が悪い。


 妙に魔法屋に懐くアメリアのことも含めて、一度クシネとは対話をすべきだと感じた。それなのに。 


「やられた。とんだ待ちぼうけじゃないか」


 思わせぶりな態度を見せ、良いように弄ばれたか。今頃クシネは焦れる自分の姿を想像して腹を抱えているのだろうか。次第を想像すると、マスターはある種の敗北感を覚え、頭を掻いたのだった。



 日が昇るまでは夜である、いかなる場合でも約束は反故にしたくない。だからマスターは自室には戻らず過ごしていた。客人のための茶は自分のために淹れてしまって、せっかくだからとノフィラ・トゥラ・アワーナを読みふけっていた。孤独な時の過ごし方は心得ているから苦ではない。


 黙々と時は刻まれて、時計の針があと二周半もすれば朝告鶏が鳴くだろう、そんな頃に至った。その時、不意に店内に空気の流れが生まれた。扉が軋む音も響く。


 驚いて顔を上げたマスターは、音の方を振り向いた。それは玄関ではなく、背後からだったのだ。


 見た先には、青い目を眩しそうに細める寝間着姿のアメリアが立っていた。驚き顔は向こうも同じ、そして彼女の方が先に口を開いた。


「……マスター、こんな時間に何やってるんですか」

「アメリアこそ、なんで」

「目が覚めちゃって、喉が渇いてたからお水飲もうとしたら……もう、びっくりさせないでください。幽霊が出たかと思いました」


 つんとした言い草とは裏腹に、どこか楽しげな空気を醸している。非日常な光景に心が踊るのだろう。編み癖でゆるくウェーブのかかる金色の髪を揺らし、マスターの隣に並び立つ。


「マスターは。うわあ、もしかしてこれ読んでたんですか」

「昼間話した、ノフィラ・トゥラ・アワーナの全文だよ」

「ええ……こんなに長いんですね」

「そうさ。とても一昼夜では語りつくせない」

「そう思います」

 

 と、紙の束に興味を向けているように演出しているが、実のところ、アメリアの目は置かれたティーカップにばかり向いていた。青みが勝った緑色の茶と、それを淹れたポットとの間で、忙しなく視線を反復させている。


 腹の内がわかりやすい娘で結構だ、と、マスターは失笑した。


「そんなに飲みたいなら、言えばいいのに」

「えへへ……もらっていいですか」

「どうぞ。西方大陸に自生する銀河草と風車葵の茶だ。手持ちが少ないから、大事に飲んでくれよ」


 言いながら、まだわずかに中身の残るティーポットを手前に持ってきた。温んではいるが、喉が渇いたと言っていたからちょうど良いだろう。もとより渋みのわずかなさっぱりとした茶だから、冷えたとて味わいの方も悪くはならない。



 そそくさと出してきたカップに残りの茶を絞り出しながら、アメリアはにんまりと笑って言った。

 

「私、ちゃんと考えましたよ」

「ん? なに……ああ、ノフィラ・トゥラ・アワーナの解釈かい?」


 アメリアははちきれんばかりの笑顔をそのままに大きく頷いた。自分の椅子を引き出して、白いカップを両手で包み込みながら、真っ直ぐに主の目を見て語りだす。


「夜は暗くて怖いものだけど、怖がらないで進んで大丈夫ですよ。っていうことなんだと思います。コルコ様って、コルカ・ミラの神様なんですよね。だから、これは、コルコ様からの夜も守っているから安心してくださいっていう、勇気をつけるためのお話なんです。きっと」


 マスターは眉目を上げた。筋が通っていて、なおかつアメリアらしい前向きな解釈。正直なところ期待以上のものがでてきて驚かされもした。 


「いい解釈だ。夜の闇は恐れるものじゃない、僕もそう思う」


 肯定すれば、アメリアは嬉しそうに笑んでから、わずかな照れくささをごまかすようにカップを傾けた。



 ふと、マスターは苦み走った声を漏らした。夜を無駄に恐れるなとは本音だが、愛しのアメリアに関してはその限りではない。


 改めて釘を刺すべく、しかしやんわりと伝える。


「でもね、君はもう少し怖がった方がいい。真っ暗な道を歩いていたら、何が出てくるかわからないじゃないか。怖い化け物に襲われたらどうするんだ」

「夜は外に出ないから大丈夫です」

「そうじゃなくって……。まあ、家の中でも、どんなことがあるかわからないし」

「そんなことないですよ。ここはマスターが居るから安心ですもの、そうじゃないですか?」


 天使の笑顔でそう言われてしまえば、何も言えなくなる。マスターは意味のない音をもらしつつ口を閉ざした、


 しかし、違いない。葉揺亭の平穏を守るのは主たる自分の役目。アメリアに襲い掛かる不届き者が居たら、身を挺して守るのが自分の役目。彼女の進む道が闇に閉ざされている様なら、自分が明るく照らしてやればいいだけだ。


「期待に答えられるよう、努力させてもらおう」


 マスターが不敵に笑むと、アメリアは満足気にうなずいたのだった。


 ノフィラ・アワーナ。約束した待ち人はついぞ現れなかったが、代わりに起こった偶然の邂逅は、ひどく甘やかで心地の良いものだった。こんなことがあるから、先の見えない夜でも歩くことをやめられないのだ。自分に限らず、誰しもが、きっと。そうマスターはしみじみと思った。


葉揺亭 スペシャルメニュー

「西方のハーブ・ティ」

魔法自治都市コルカ・ミラがある西方大陸の中央平原で自生する野草を煎じた茶。

銀河草は濃緑の葉を地面にはびこらせた上に小さな白い花を無数に咲かせることからつけられた名。

風車葵は文字通り風車状に花びらがつく青紫色の花。

共に現地でハーブ・ティの材料として親しまれている。

草の匂いがややあるものの、飲み口自体は非常にすっきりしている。うっすらと青みが出るのが特徴。

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※本作品を再構成・加筆修正を行った新版を2023年に公開はじめました。順次掲載していきます。  ストーリーは大きくは変わっておりませんが、現在本作品をお読みの方はぜひ新版をご覧ください  https://ncode.syosetu.com/n9553hz/ またはマイページから
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