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ノフィラ・アワーナ ――夜に会いましょう

「ノスカリア雨景」と「絆の生まれる場所」の間にあった出来事です。

 外に出てお昼ごはんを食べて、天気がいいから少し町を散歩して。気分よくスキップなんてしながら戻って来たアメリアは、薄暗い屋内にて一人俯く店主を見るなり笑顔を消し飛ばした。


 眉間にしわを寄せ、顔はこわばり、背中からは黒いもやが立ち昇りそうな雰囲気だ。近寄りがたい、声もかけづらい。


 とはいえ小さな店だ。見て見ぬふりをして過ごすことなどできようもない。


「……あの、マスター?」

「ん? ああ、おかえり。どうしたの?」

「どうしたの、はこっちの台詞です。なにやってるんですか、怖いですよ」

「いや、大したことじゃないよ。気にしないで」


 マスターは一瞬のみ顔を上げて笑顔を見せると、またすぐに下を向いてしまった。


 たまに奇行を見せる店主ではあるが、ここまでのそっけなさは一段と奇妙だ。アメリアは怪訝な面持のまま、カウンターに回り込む。


 マスターがにらめっこしているのは、はた目から見るに普通のティーカップであった。しかし、普通のカップと睨み合うことは無いだろう。


 さらに観察して、アメリアは気づいた。脇には小鍋が置かれていて、小ぶりのレードルが縁に引っかかっている。それと、台上に並んだ小瓶詰めの乾燥物。大きさはばらばらで、四種類ほどが取りだされているが、通常の営業で使っているようなものではない。


 あの小瓶は。アメリアは眉間の皺を一層深くして、食器棚の左上にある引き出しに目をやった。金と銀のつまみが付いたそこは、マスター秘蔵の魔法の材料が隠される場所である。以前に見た時には、似たような小瓶が中一面に並べられていた。


 あの引き出しに関しては、悪い思い出の方が印象強い。落雷に遭ったり、不老不死だとうそぶく毒薬を店主がつくりだしていたり。思い出せば出すほどに苦い感覚が込み上げてくるではないか。


 さすがに看過はできない。再度同じことを問う口調は、少しきつくなる。


「……マスター、なにやってるんですか」

「ちょっとね」


 亭主はひらひらと手を振って、アメリアの詰問をかわす。そのまま体で視線を遮るようにして、カップを持ちシンクへ。中身を捨ててすすいでいるのは、もしや、悪事の証拠を隠すため。


 そうやすやすと逃れさせまいとアメリアは有無を言わせず駆け寄って、置かれたままになっていた小鍋の方を覗きこんだ。


 意外や意外、妙な感じはしなかった。茶色がかっていて、薄く煮出した紅茶だと言われたら納得してしまいそうだ。ただし、茶葉の代わりに、薔薇のつるや木の皮、それから石のような物体が沈んでいるから、飲んでみたいとは思わないが。



 さてマスターは。観念したような面持でアメリアの隣に立つと、すすいだばかりのカップに、小鍋の液体を一掬いした。


 そして、広口の小瓶を手に取り中身を取り出す。木の葉だった。見た目だけはローレルに近いが、葉脈に赤みがさしていて毒々しい印象だ。


「おかしいんだよ。この煮汁にこいつを落とすと、真っ白になるはずなんだけど」


 解説しながら、マスターは葉をカップの中に浮かべる。すると、みるみるうちに液体が変容した。……ただし。


「白じゃなくて、真っ黒ですよ?」

「だからおかしいんだって。なんで真逆になるんだよ」

「知らないですよう!」


 マスターのふてくされた言い草が、まるで自分に八つ当たりされたかのように聞こえて、つい苛立ちをあらわにする。同じく拗ねた口調で、アメリアはこう切り返した。 


「魔法のことなら、魔法屋さんにでも聞いてください。クシネちゃん呼んで来ましょうか?」


 旅の魔法屋の少女、クシネ。マスターが何らかの理由で彼女を面白く思っていないことは百も承知だ。しかし、専門家に頼るというのは正論だとと思うし、それ以上に嫌な気分にされたことへの仕返しのつもりで、あえて名前を出したのだ。


 効果覿面というべきか、マスターの元々不機嫌だった顔つきが、さらに割り増しで歪んだ。


「ねえアメリア。ここの素材のことは秘密だと言わなかったっけ? 軽々しく外に向かって言うんじゃないよ。万が一にも広まって、良くも悪くも騒がれたら嫌なんだ」

「はあい」


 わざとらしく気の無い返事をする。そこまで秘密にしたいなら、自分の部屋でこっそりやるとかすればいいのに、というのがアメリアの言い分である。本当は、こうやって見せびらかして構ってほしいのではないかとも勘ぐってしまうほど。

 

 それに秘密もなにも、今さらという感じは否めない。論破の鍵を手に入れたと言わんばかりに、アメリアは得意気に笑んだ。


「クシネちゃんだってかしこいんですから、とっくに気づいてますよ。マスターが魔法に詳しいって」

「それだって君が喋ったからだ」

「う……」


 言われてみればそうだった。マスターのまったく正しい苦言に対してアメリアが出来たのは、はにかんだ笑みを浮かべてごまかすことだけ。


 やれやれとマスターは深いため息を吐いた。インクのような黒い液の入ったカップを手に取り揺らしながら、低調にぼやく。


「嫌だな。あまり名前を出すと……呼んでしまうんだよね。言葉には力があるし、魔術師ってものは、普通の人間と違う感覚を持っているものだからさ」


 主の物憂げな呟きの後、二人分の視線が窓の外へ向いた。そのタイミングをはかったかのように、どこから飛んできた木の葉が左から右へと見きれていった。




 店主の勘はよく当たる。予感めいてから時が一つ数える頃、彼女はやってきた。


「お暇だから、来ちゃったの!」


 ぴょこぴょこと跳ねるような足取りで店内を横切り、カウンターの席に跳び上がる。そんなクシネの様子はその辺で活発に遊び回る幼子たちと大差ない。これで凄腕の魔女だと言うから恐れ入る。


 予め構えて居られたのが幸いして、マスターは平素の柔らかい物腰を保っていた。隣でアメリアが物言いたげにしていたのは、視線を送って口をつぐませる。さりげなく粋な言葉選びで言及できるのなら何を話そうと構わないが、何事にも一直線なアメリアには無理な話だ。


 さて問題はカウンターごしに対面する娘だ。クシネが自分個人に興味を持っていることは察しがついている。癪にさわるのはそれなのだ。葉揺亭のマスターは「マスター」ではない自分を詮索されることを好まない。


 山形に細めた目からのにこやかな熱視線。マスターには、挑発的なものに感じられた。


「なんだい? あんまり見つめられると、照れるな」

「うふふ。今日は店長さんもお暇そうだから、クシネとおしゃべりしてくれるはず、なの!」

「そうだね。僕も人と話すのは嫌いじゃない。でも……」


 マスターは負けじと不敵な笑みを浮かべた。


「そこに座ったっていうことは、もちろん何か飲んでいくんだろうね?」

「あたりまえなの。何にするかは、店長さんにお任せなの」


 提供する茶をゆだねられるのは、マスターとして最も喜ばしいことだった。客の特徴や気分に合わせ、あるいはその日その時の状況に応じて、一番ふさわしい一品をつくりだす。喫茶専門店の主としての腕のみせどころだ。例えいけ好かない相手でも、客である以上は手抜かりなど一切しない。


 即興で調製した茶を作る時は考えながらに手を動かすから、当然のように迷いが生まれる。紅茶缶を手にして、戻し、別のものを取り。一掬いするにも量を考えながら。二種類の茶葉を混ぜ、乾燥させた果物も加え。アメリアが隣で見守る中、呈茶の行程はゆっくりと進んでいく。


 その間にも待ちきれないようにクシネが口を開いた。


「店長さんはコルカ・ミラに住んでたって言ってたの」

「住んでたというより、一時滞在していただけだ。それでも『居たことがある』ってのには変わりないだろう?」

「普通の人は一時でも居ないの。あの町は、純粋な魔法使いの町なの。そんな町に居た店長さんは、絶対に、普通の人じゃないの!」


 クシネが愉しそうに笑う声に、マスターの手が止まった。手に持っていた乾燥リンゴの瓶を置くと、不快さが加味された大きな音が鳴る。茶に向き合っているのを邪魔されるのは嫌いなの

だ。


 マスターの視線がクシネのそれとかち合った。挑発的な色が一層増している。


 店主は穏やかな笑みを保ったまま、穏やかな声でクシネに問いかけた。


「つまり君は。この僕が、あの町でコルコの魔法を修めた魔術師だと、そう言いたいのかな?」

「その通りなの」


 クシネはどこか勝ち誇ったように言った。外野のアメリアが驚き、ひゅうと音を立てて息を吸う。生唾を飲み込む音も聞こえた。


 マスターは、表情を崩さぬまま二度、三度と瞬きし、それから毅然と言った。


「違うよ。僕がコルカ・ミラでしたことは、ただの個人的な興味に基づく調査研究だ。あそこで人に混じり杖を振るったことは、一度も無い」

「ではなんのために」

「だから興味だって。少しはコルコのことを理解するつもりであったが……駄目だな、やっぱり彼女のことは好きになれない」


 畳みかけられても、マスターはおどけたように肩をすくめるだけだった。台上にある瓶から干して砕いたミントの葉を一つまみし、調合中の茶葉に加える。


 それで完成だった。最後に軽く混ぜ合わせながら、マスターはのんびりとした口調で語った。


「他には、『ノフィラ・トゥラ・アワーナ』の解釈に勤しんだくらいかな」

「おや。懐かしい言葉」


 クシネが眉目を上げた。今度は、店主がにやりと笑む番だった。



 さて。識者同士は分かりあうものがあったらしいが、もちろんアメリアにはさっぱりだ。ただでさえ先ほどから置いてけぼりを食らっていたようなもの、少し寂しい。ここぞとばかりに、二人の会話に割って入る。


「あの、なんですか。その、うわんうわんした名前のは」

「『ノフィラ・トゥラ・アワーナ』。コルコが遺したと伝えられる詩文の表題さ。……ま、僕より専門家に聞いた方がいいんじゃないかな」


 アメリアは大きく頷いて、クシネの方に向き直る。


 興味津々のまなざしを向けられると、幼い魔法屋は得意気な顔で語り始めた。


「コルカ・ミラの始祖、コルコ様が書いたって言う文章なの。魔法の呪文と同じ言葉で書かれているんだけど、すごく長い上にすっごく抽象的なの。コルコ様の書き方もあるんだけど、元々魔法言語って一つ一つの言葉の意味が広いの。だから、同じ文章なんだけど読む人によって色んな解釈ができるの。魔法使いが集まると、それを披露しあうのが遊びみたいになったりするの」


 語り部は張り切って解説したが、聞き手が理解できたかと言えば怪しい。アメリアは終始目を泳がせていたし、ともすれば頭から湯気を吹き出しそうな気配すらかもしていた。


 ただ一つ。彼女の心にも「魔法使いの遊び」という一節はよく響いた。その段に至ると、途端に顔をほころばせたから。こうなると、いっそアメリアの方がクシネより幼く見える。


 アメリアは勢いのままにクシネに迫った。


「それ、おもしろそう。私もやってみたいです」

「……たぶんアメリアのお姉ちゃんには向いてないと思うの」

「ええ!? どうしてですか、なんでですか?」

「だって……」


 クシネはもごもごと口ごもり、アメリアのきらきらした視線から逃れるように顔を反らした。


 彼女の代わりに答えたのはマスターだった。くっくと引いた声と共に肩を揺らして、いたく楽しそうに。


「だって、君はあまり深く考えずに言葉を表面通りに受け取るからね。詩の意を多面的に解釈する、一番向いていないことだ」

「あっ、馬鹿にしてますね!」

「そうでもないよ。僕は君のそういうところが好きなんだ」


 さらりと述べられるマスターの惚気はいつものこと。もはや慣れきってしまって、アメリアには通用しない。彼女は少しむっとした顔のまま、マスターにせがむ。


「考えてみたいので、教えてください」

「教えてって言われても……すごく長いし、君じゃ言葉がわからないじゃないか」

「マスターが翻訳してくれればいいです」

「それじゃあ意味ないよね」


 マスターは呆れたように言った。しかし、こう、と決めた時のアメリアのかたくなさもよく理解している。


 仕方ない、表題だけだ。そう言い含めながら、マスターはなるべく元の語の広範な意味を含め、単語ごとに訳して聞かせた。


「ノフィラは会うとか見るとか。文脈により挑むとか進むとか、とにかく何かに対するみたいな意味合いがある。トゥラには必ず、みたいな強調の意が込められていたり、あるいは、そこへなどと場所を示すのに使う。文意次第でどうとでも取れる好例の語だ。アワーナは夜とか闇、恐怖を象徴的に表す単語だね」


 本来はここに文脈というものが噛んできて、さらに意味が拡張されたり、あるいは限定されたりするものなのだが、マスターはこれ以上は説明しなかった。すでにアメリアの頭の中では言葉の蔓がこんがらがっているのがありありと見えていたから。


 戯れを述べている間に、紅茶の蒸らしが終わった。マスターがそちらの相手に転身したから、口を尖らせたアメリアの苦情の矛先はクシネに向かう。


「もう難しいです。わけわかんないです」

「魔法言語は感覚的なものなの。知らないと全然わかんない……っていうか、魔法使いでもよくわからないで使ってる人は多いの。アメリアのお姉ちゃんがわかんなくてもしょうがないの」

「うー……」


 それでも白旗を振るのは嫌だったらしい。引き出しから筆記具を取り出すと、適当にあった紙にマスターの言ったことを思い出し記し始めた。なるほど、語句を繋ぐパズルのようにすれば考えやすい。それでもまだ、アメリアの顔はむっつりとしたままだったが。


 彼女のいやに熱心な様子に苦笑をこぼしながら、マスターは出来上がった茶を客人に出す。用いられたのは、汎用的な白いティーセットだ。


「さあ、どうぞ。即興でつくったからメニューには載ってない品だ」


 クシネはぺこりと頭をさげると、さっそくポットを手に取った。カップの上で傾けると、曲線を描く注ぎ口から紅茶の滝が流れ出す。ただしそれは、紅より黒に近い色合いをしていた。


「濃い」

「夜の闇には及ばないけどね。目指してはみたよ」


 人差し指を立て、マスターはお得意の解説をしたり顔で加える。


「月星きらめく涼やかな夜、静かな光は清らかなれど、暗き闇に苦汁を味わうこともままあること。それでも人が夜に惹かれるのは、奥底に甘やかな魅力が潜んでいるから。今その一杯に名をつけよというのなら、ふさわしきはただ一つ。『ノフィラ・アワーナ』」


 クシネは目を見張り、それから無邪気に手を叩いて見せた。


「お上手なの! さすがクシネが見込んだ店長さんなの!」

「それほどでも。言葉の代わりに紅茶で物を語れるのは、店主としての特権だからね」


 会心の笑みを浮かべるマスターだが、さてお味の方はいかに。クシネは息を少し吹きかけてから口をつけた。


 見た目通り濃くて苦みがやや強い茶だ。しかしそのおかげで、リンゴを筆頭にした果物のほのかな甘味が引きたてられている。一つまみのミントの主張は控えめで、飲み口が絶妙に引き締められる。


 とはいえ少々大人びた口当たりだ。飲んでいるのが幼子だと考えると、少々ミスマッチと言える。


 マスターはさりげなく銀のピッチャーを差し出した。中には室温に戻したミルクが入っている。


「結構苦いと思うかもしれない。飲みづらかったら使ってくれ」

「ううん、大丈夫なの! クシネはお茶のことはよくわからないけど、これはおいしいと思うの」


 にかっと笑った顔に嘘偽りはない。マスターは満足気に微笑んで、ピッチャーを引っ込めたのだった。



 一仕事終えた店主はおもむろに椅子に腰を下ろす。ちらと見れば、アメリアはまだ紙面に向かってうんうん唸っている。対象が何であれ、一心に努力する姿は見ていて好ましい。


 マスターは客席に向き、両腕をついて問いかける。


「それで、君の『ノフィラ・トゥラ・アワーナ』の解釈は?」

「むうぅ……店長さんとお話しにきたのは、詩の解釈をするためじゃないの」

「そうか、残念だなあ。聞きたかったんだけど」


 言葉通りの感情溢れる一言の後、彼は意味深な笑みを浮かべた。


「僕に色々喋らせたいなら、ノフィラ・アワーナ、それが好ましい選択肢だ」

「はう……なるほど、なの」


 クシネは得心がいった風に何度も首をゆっくり縦に振った。



 が。なぜかここで悲鳴を上げたのがアメリアである。二人して驚き横を見遣れば、彼女は焦り顔で口をぱくつかせていた。


「ちょ、ちょっと待ってください、私、一生懸命考えてますから! 答え言わないでください」


 悲しさ混ざる懇願だった。しかし、される側から見ると、彼女のそれは的外れにしか感じられない。そりが合わない二人の気持ちが珍しく一致して、同じような呆れ顔を浮かべる。


「あーあ、やっぱりわかってないなあ」

「アメリアのお姉ちゃん、答えとかじゃないの! 正解も不正解も無いものなの」


 これはあくまでも独自の解釈を持ち寄って討議するもの、『ノフィラ・トゥラ・アワーナ』の読み方に「答え」など存在しないのだ。もしあるとしても、在り処は既にこの世に無い筆者・コルコの心の中であり、今生の民が知る術はない。


 その辺りを心得ているクシネは、得意顔で店主に向き直ると、アメリアの頼みなど無視して自説を語り始めた。店主の真似をして人差し指を立ながら。


「ちなみに、クシネは魔法使いの心得だと思っているの。先の見えない魔法の道は夜の闇みたいなものだけど、頑張ってきわめていきなさいって――」

「ああっ、だから、言わないでくださいって!」


 声を遮るようにアメリアが叫ぶ。彼女は彼女で必死だ、しかし未だ謎かけの意図するところを理解していないらしい。


 クシネはがっくりとうなだれた。


「……別のお話するの」

「ああ。今はその方がいいね」


 全身から陽炎が立ちそうになっている店員を見て出てくるのは、ただただ苦笑いばかり。



 それからクシネはあたりさわりのない話――例えば、前に同道した旅芸人一座のこととか、客からの奇怪な注文品のこととか――を楽しそうに語って、ポットが空になると、来た時と同じような弾む足取りで帰っていった。葉揺亭に流れる空気は、いつも通り穏やかに。


 いや、違う。アメリアが、ああでもないこうでもないと、身振り手振りを交えて一人考えている騒々しさが残っている。


「わかった。『夜にみんなで挑戦しよう!』 でも……これじゃあ、何を?」

「何だ。まだやってたのか」

「だってえ、悔しいですもの。お二人で馬鹿にして」

「してないよ。僕は君のそういう純粋なところが好きなんだから」


 心の底からそう思うが、アメリアは訝しげに目を細めてから、また紙面に向かってしまった。考えを色々書き込んで、紙の表面は黒に塗り替えられている。


 インクの黒。そう言えば、と言う風にアメリアが呟いた。


「マスター、さっきの葉っぱのこと、クシネちゃんに聞けばよかったのに」


 先ほどマスターが奇妙な実験をしていた物のことだ。一枚の葉で染まった液体も、ちょうどインクのような黒だったから思い出したのである。


 マスター自身も忘れていたという風で、眉をあげた。


「ああ、あれか。別に、もういいよ。もともと引き出しの整理してただけだからね。駄目になってるなら捨てて終わりさ」

「なあんだ。またマスター変なお薬作ってるのかと思いました」

「残念、違うんだよね。だいたい僕は喫茶店のマスターだ、『また』なんて言われるほど頻繁に薬を煎じたりはしないよ」


 マスターはふっと口角を上げると、見せつけるように黒いベストを軽く引っ張って襟をただした。





 ノフィラ・アワーナ。葉揺亭の主が創作したあの紅茶はおいしかった。「紅茶で語る」といった通り、彼の意図も確かに込められていた。


 家々が作る日陰を歩きながら、クシネは思い出し笑いをする。人目が無いのをいいことに、独り言も発しながら。


「『ノフィラ・アワーナ』ですね。……ふふ、よくわかりました。ご丁寧にどうも」


 呟く声の調子は、平素の幼き魔女のそれとは幾分違う。しかし聞いているものは居ない。


 ノフィラ・アワーナ。店主はクシネに向けては確かにそう言った。


 ノフィラ・トゥラ・アワーナだったら、アメリアが悩まされていた通り捉え方は色々できる。本来はそこに前後の文脈を加えて意味を特定していくものだ。


 だが、真ん中の一語を抜いた場合は事情が違う。魔法言語の文法の都合により、示す意味は非常に限定的なものになる。あの男はそれを知っているから、あえて言い換えたに違いない。


 ノフィラ・アワーナ。秘められた意図は。


「では、貴方のお望み通り。夜に会いましょう、なの」


葉揺亭スペシャルメニュー

「ノフィラ・アワーナ」

魔法都市に伝わる詩文の題にあやかったブレンド・ティ

夜に見立てて濃いめにした紅茶に、フルーツの優しい甘味が引き立つ。

大人びたビターな風味な苦手なお子様には、ミルクを足して飲むことをご提案。

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※本作品を再構成・加筆修正を行った新版を2023年に公開はじめました。順次掲載していきます。  ストーリーは大きくは変わっておりませんが、現在本作品をお読みの方はぜひ新版をご覧ください  https://ncode.syosetu.com/n9553hz/ またはマイページから
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