喫茶店という世界 ―前―
第26話「全てを受け入れる」と27話「魔法屋の少女」の間にあったおはなし。
この朝やってきたオーベルの顔は、いつになく不機嫌なものだった。単なる眠気や、細君と喧嘩をした時とは違う種別である。
まあ、人生楽あり苦あり、朝から無意味に機嫌が悪い日があってしかるべき。マスターは特に気に留めることなく、いつもの紅茶、コルブの提供にとりかかった。
「はい、オーベルさん」
広げられた新聞越しに声をかけ、カップまで熱々の紅茶を出す。と、その陶器の音が合図だったというように、オーベルは軽くも激しい音を響かせて新聞を退けた。
さすがのマスターも少々面食らう。高圧的な勢いもそうだし、まみえたオーベルの顔がいやにひっ迫して歪んでいたから。
怒っているようにすら見える面持ちで、オーベルはずいと身を乗り出し、噛みつくように言葉を放った。しかしそれは根っから攻撃的なものというよりは、悩み迷った末の牽制といった風であった。
「なあおい知ってるかよマスター。出歩かねえおまえさんじゃ知らんと思うが、えらいことになってんぜ。どうせその様子じゃ、おまえさんはなんも聞いちゃいねえんだろうがよ」
「わかってるなら先に本題を言ってくれ」
煮え切らない態度に、こちらもついつい厳しい口調になってしまう。臭わせるだけでおあずけにされる苛立ち、それに加えて、完璧に仕上げたオーベルの紅茶が一口も飲まれず冷めていくことも非常にじれったい。
催促されたオーベルはひとまず深呼吸。それから、判決を言い渡す裁判官のような気迫でマスターに宣告した。
「南通りによう、『喫茶店』ができて、これがとんでもない大繁盛なんだ」
意表をつかれた一言に、ほう、とマスターは目を見張った。確かに一大事だ。ノスカリアには、メニューの一つとして茶を提供する店はありふれていたが、茶を看板にした「喫茶店」は葉揺亭しか存在しなかった。食堂や酒場があれば飲食にも休憩にも困らないし、経営側の儲けも十分だから、わざわざ茶をメインに持ってくる必要がないのである。さらには嗜好品としてこだわりを持つのは大抵お金持ちであり、外の店に行かずとも自分の屋敷で茶会を開く財力があるから、やはり店としての需要がない。
それでもいつかは第二の喫茶店ができるだろうとは思っていた。ことの次第ではよき好敵手になるが、さあ、相手は一体どんな世界に仕上げて来ただろうか。マスターはまだ見ぬ刺客への興味に目を輝かせて、オーベルへ矢継ぎ早に問いかけた。
「一体どんなところなんだい? 向こうの売りは?」
「ご愁傷さま、ここと大体おんなじだ。とにかく茶にこだわった店で、世界津々浦々の名茶が飲めるって、俺が聞いたときにゃそういう触れ込みだったぜ」
「いいことだ。喫茶店と名乗るならば、他より茶の種類に長けていて当然のようなもの」
「広さもここの倍以上あって、客が一度にたくさん入れるんだ。それがいつ通りかかっても満員ってもんだからよぉ。ここ最近で一番景気のいい話かもしれねえ」
「やるね。目がゆき届くのなら、大きな店で大勢集めるのは悪いものじゃない」
「あとなあ、ここと違って、向こうは飯も出てくるんだ。これが一番の違いでよ、しかも、超うまいんだ。毎日メニューも変わるし、おもしれえぜ」
「……ああ、そういう。なるほど、本当に専門でやってるってわけじゃないのか」
「おうよ。他にも酒やつまみもちょこっとだが用意してあって、まあ俺たちみたいな酒飲みも助かる。あと、女たちが好きそうな菓子も色々と置いてあったわ」
「そんなに手広いんだ。ふーん」
「おまけに、店員が美人揃いときた。ありゃずるいわ、そりゃ通うわ。まず大将の奥さんがなあ、すっごい巨乳でよお、ありゃ男としちゃたまらんぜ」
「悪いが僕のアメリアが一番かわいいに決まっている。確かめるまでもなく自明なこと、そこだけは譲らないぞ」
マスターの最も過敏なところに触れたところで、二人の問答はいったん止んだ。ぶすっとした顔を付き合わせての無言の間。それを埋めるように、オーベルはおもむろにカップを手に取った。ようやく口に入った紅茶は、すでに苦味が増して劣化した後だった。
ふううと長い息を吐きながら、オーベルはカップを再び置いた。一呼吸の後、また騒ぎ出す。
「とにかく、やべえ店なんだって! おめえよう、客、根こそぎ取られるぞ!?」
「根こそぎってほど居ないんだけど」
「がーっ! そういう細かいことはいいんだよ! とにかく!」
耳を真っ赤にしながら息巻くオーベルが何を言わんとしているのか、マスターはしっかりと理解していた。新規店と競合した結果、葉揺亭が潰れて無くなってしまうことを心配しているのだ。当の店主より慌てふためいているのは、生粋のノスカリア人として商業気質に染まり切っているからだろう。確かに商売との観点からなら、先方のほうがよっぽど上手だ。
が、そもそも儲け云々というものは、葉揺亭においては重要度最低の要素なのである。だからマスターは、興奮しっぱなしのオーベルといまいち噛み合わない。
「それで?」
「……いやもっと危機感もってくれや! ノスカリアをなめるなよ、必死で競争しないと潰されるぜ!?」
「いや、オーベルさんの話を聞いてよくわかった。僕が競争する相手ではなさそうだ。だから、別にどうでもいいよ」
マスターはそっけなく言うと、オーベルが払い捨てた新聞を取り上げ、着席しながら視線を落とした。完全に熟読の姿勢だ。ひどい温度差である。
「どうでもいい、どうでもいいってよお……! まあ、百歩譲っておめえさんは良くても、アメリアちゃんは――」
ぎりぎりと歯噛みするオーベルの言葉に、マスターが思うのはただ一つ。アメリアを盾にするのは卑怯だ。彼女が同業の出現など聞けばどんな態度をするか、想像はつく。
「どうでもよくないです!」
遅れて店に降りて来たアメリアは、次第を聞いてマスターを叱責した。しかめ面でぷるぷると肩を震わせ、遊惰な店主をにらみつける。
「なにのんびりしてるんですかマスター! 一大事ですよ! 早くどうにかしないと!」
「騒ぎすぎだよ。お茶でも飲んで、落ち着きなさい」
「落ち着いていられるわけないじゃないですか! もうっ! マスターのばかっ!」
つんとそっぽを向いて、アメリアは自分の椅子を取りだし座った。
そして小声で一言。
「……でも、お茶は飲みたいです」
「了解」
気恥ずかしげな催促に苦笑しながら、マスターは紅茶缶に手を伸ばした。はからずともアメリアに背を向けるかたちになったが、焦燥感にかられた足が床を打つリズムが耳に届くから、アメリアがどんな顔色をしているかは容易に悟ることができた。
マスターから見れば滑稽極まりないのだが、しかしアメリアのような反応が普通だとは理解する。自分が世間から浮いていることなど、百も承知だ。だからこの件で彼女を表面切ってからかうことはしない。
ただ、今日は穏やかな空気に浸ることはできなさそうだ。マスターはひどく疲れそうな一日の始まりに、溜息を一つこぼした。
やはりというべきか、オーベルが去ってからも、アメリアは一人鼻息を荒くしていた。マスターにまとわりつき、しばらくの間やいのやいのと騒ぎ立てていた。はじめは無視していたが、さすがに堪えて「うるさいよ」と一刀両断にしたところ、今では静かにしている。
ただし、黙っているというだけで熱波が去ったわけではなかった。引き出しから筆記具一式取り出して、マスターからは見えないように体をひねり、メニュー帳に使う厚紙に一心不乱になにぞを書き続けている。始めてからもう時計が二周りはした、見上げた集中力だ。
まわりが見えないほどに熱中するのは良いことである。ただ、変な方向にむかなければの話だが。マスターはアメリアの背中を見ながら、ぼんやりと憂慮したのだった。
そして。
「できたっ!」
アメリアは面を上げて、ほれぼれとした顔つきで厚紙を掲げる。横目でちらと盗み見るにも、紙面はインクで黒ぐろと染まっていて、ただならぬ雰囲気を醸していた。
「あのっ、マスター」
「……なんだい」
気だるい吐息混ざりの相槌を打つ向こうで、アメリアはふんすふんすと高揚した息を吐いている。彼女との温度差は作らないよう心がけているが、しかし、今回ばかりはどうにも無理だった。この先の展開がおおよそ予測できるのも相まって。
「あの、マスター。私たちは今、すごく危機的な状況にあると思うんです」
「何回も聞いたよ。僕は全然そうは思わない、何回も言った」
「いいえ、それはマスターがおかしいです。とにかく、なんとかしないといけません。葉揺亭を最高のお店に変えないと!」
「あのねえ……まあ、いいや。それで?」
「変えるって言っても、お店の場所とか、大きさとかはすぐには変えれないじゃないですか。でも、すぐに変えれるものがあります。メニューです!」
――厚紙を持ち出した時点でわかっていたよ。
言いたくなるのをマスターはこらえ、アメリアがしてやったりの顔で突き出してくるメニュー案を受け取った。
一目でめまいがした。現行のメニューを三分の一の面積に圧縮して、空いたスペースに「料理」「お菓子」と大別された商品群が出現している。パンにスープに肉料理にサラダ、クッキーやケイクからジェリーにプディング、他にも他にも世間で皿に乗って出てくる食べ物が幅広く網羅されている。だから紙面は文字でびっちりだ。
文字情報だけでも暴力的な密度なのに、アメリアはさらに自らの口で思いの丈を語り加える。
「やっぱり私たちもご飯とかお菓子とか、もっと色々な食べ物を出したほうがいいと思います。そのほうがお茶もおいしく飲めるし、いろんなお客さんが来てくれるようになりますもの。だから、ほらマスター、こうしましょうよ。私も頑張ります!」
やる気に満ちた目が眩しい、痛い。マスターは頭を抱えた。
これ自体はアメリアが一生懸命自分の力のみで作り上げた、価値のある成果物だ。この努力自体は否定したくないし、極力彼女を傷つけたくない。それでもやはり、ここははっきり言わなければ伝わらないだろう。マスターは毅然とした態度で厚紙を突き返し、真顔で言った。
「必要ない。僕は食事処をやりたいのじゃないから」
アメリアの顔色が変わった。見開かれた目は落胆と憤りに満ちていて、わなわなと震える唇は、次に続ける言葉を混乱の中に探している。
しかし彼女に先んじて、マスターは現実的な問題を突きつけた。
「だいたいそんなに大量のメニュー、誰がどこでどうやって作るんだ。あれもこれもやれるような場所も手も無い、わかるだろう。それともアメリア、君がすべてできるとでも?」
「それは……」
「僕は中途半端に手を付けるのは嫌いなんだ。これまで通り、食べ物は好きなものを外から持ち込んでもらったほうがお互い気持ちがいい」
たとえ進言された案がいかに優れたものであろうと、主が首を縦に振らなければそこまで。マスターは常ならアメリアの願いには歩み寄ろうとするが、今回ばかりは一歩も譲ろうと思わなかった。ここで譲歩することは、葉揺亭の矜持を揺るがしかねないことだから。
話は終わりだという風に肩をすくめてみせると、マスターは読みかけの本を開き、目線を体ごとアメリアから逸らした。しかしそうやって向けた横っ面に、アメリアはまだまだ足りぬと悲痛な叫びをぶつけてくる。
「マスター、ほんとにこのままでいいんですか!? いいお店があったら、みんなそっちに行っちゃいますよ!?」
「ほんとにそう思う?」
「私ならそうしますもの」
即答だったが、本当にそうだろうか。きっと違うだろう。マスターは詰め寄りかけて、やめた。論点はアメリアの心ではない。
黙っていると、強気だった口調から一転、不安の影さす弱々しい声がマスターの耳を震わせた。
「だからそうなって、もし葉揺亭にお客さん来なくなったら……そしたら……このお店……」
アメリアの抱く感情はいたって普通なもの。常識的に、客が来なくなった店は廃業になる。そうすれば仕事を失うだけでなく、住み込みで働いている以上、家をなくすのと等しい。
アメリアはもともと頼る先のない孤児だった。貧困にあえぎ独りさまよう辛苦を十分すぎるほど味わって、その後マスターに拾われた。地獄から天国に昇ったようなもの。だから、ここを解雇されて再び冷たい世の中に追い出されることを恐怖する。
アメリアの心情をマスターは重々慮った。再び体の向きを変え、うつむき気味の青い目をまっすぐ覗きこみながら、温かい声で言った。
「アメリア、心配するな。どんなことになっても、君の安寧は僕が約束する。路頭に迷わせたりなんてするものか。君はなんの不安も抱かなくていいんだよ、僕にすべてを任せて」
それが雇い主としての責任であり、個人としての愛情だ。自信を持って伝えられる本心だ。
実際、金策に困り店をたたむ可能性は皆無と言える。普段より、趣味でやっているような店だと言っているのは、嘘でも誇張でもない。経営資金には困らない、財貨になる種も色々持っている。あんまり探られたくないから、アメリア相手も含め、おおっぴらに出さないだけだ。
アメリアは、ただ、きゅうと意味のない音を漏らしたきり静かになった。膝に置いた手にきゅっと力を入れて、さては照れているのか。
違った。不意にがばっと顔を上げると、裏返りそうな声で叫ぶ。
「そうじゃないです! それだけじゃないです!」
マスターの顔が曇る。そうじゃないならなんなのだ、と口を開いたが、今度は逆に無視される番だった。アメリアは回れ右して、棚の引き出しに向かっている。そこに収められているのは売り上げの金だ。
店主に黙って経営資金に手を付ける、褒められた行動ではない。規範に厳しい経営者ならば、今の時点で即刻解雇を通告しているかもしれない。寛容な葉揺亭のマスターでも、これは流石に叱るべきところだと判断した。
「おいアメリア。なにをする気だ、やめなさい」
「やめません。同業視察です、市場調査です。円滑な経営と更なる利益を生むための、必要経費、です!」
普段の語彙に無いような言葉をずいぶんすらすらと唱えたもの、マスターはぽかんとしつつ、どこでそんな言葉を、と疑問を抱いた。が、口に出すより早く、自分の中で答えが見つかった。よく客としてくる某商会の会長秘書が出どころだ。珈琲片手の事務仕事の傍ら、アメリアとの雑談にも興じている。マスターが経営面に無関心だと見抜いて、善意で店員にあれこれ教授していても不思議でない。
「いい作戦思いつくまで、帰って来ませんから!」
得意顔で言い切ったアメリアは、数枚の銀貨を握りしめ外へと飛び出していった。
呆れ顔で見送ったマスターは、アメリアの書いた文字びっしりのメニューに目を落とし、誰に聞かせるわけでもなくぼやいた。
「どんなかたちでも人が来ればいい、ってもんじゃないと思うんだけどね」
「料理」と「お菓子」に追いやられ、窮屈に並ぶ自慢の茶のメニューたち。これを見ていると切ない。葉揺亭は喫茶の専門店なのに、このざまだ。
それでもアメリアを責める気はない。むしろ、いい勉強の機会だと考えている。
狭くほの暗い葉揺亭の静かな空気に浸り、マスターは頬杖をついて一人頭の中で議論をする。議題は、喫茶店という世界のありかたについて。自分の中ではとうに結論を出していたつもりなのだが、もう一度。
視察に出たアメリアは、果たしてどんな感想を持ち帰ってくるだろうか。葉揺亭の沽券はそれにかかる。
人にぎわうノスカリアの街を南へ。アメリアは一人、胸中に渦巻く想いを吐きながら歩く。石畳を打つリズムはひどい焦燥感にかられていた。
「だって、お客さん来てくれなくなったら寂しいし、葉揺亭なくなっちゃったら悲しいし、困るし」
葉揺亭がどのような資金繰りをしているか、アメリアは詳しく知らされていないが、マスターを見る限り今のところ危機迫った様子は無い。しかしお金が無限にあるはずはないから、赤字続きになればいつか必ず立ち行かなくなる時が来る。そんなこと、少し考えればわかることだった。
もし葉揺亭が閉店したら。ぞっとする。アメリアにとっては、あの小さな店がすべてだ。仕事も家も探さないといけなくなる。
だが自分以上にマスターの方が困ったことになるはずだ。日頃から外に出られないと言っているような人物、身銭を得る手段は限られように。
「マスターだって、マスターじゃなくなっちゃうじゃないですか。私だけのことじゃないのに……マスターの馬鹿っ」
店主よりよほど経営に真摯な店員は、頬を膨らませて敵地へひた走る。
それは時計塔広場より南の大通りを下ってすぐにあった。人の密度が違うから、遠目で見ても一目瞭然だった。
「ほんとう……すごい」
オーベルがあれだけ騒ぎ立てていたのもわかる。店構えを見るからして、ノスカリアでのし上がってやろうというような意気込みが現れていた。建物の大きさは葉揺亭の倍以上、屋根には巨大な看板が掲げられ、白木の外観も店を明るく彩るのに一役かっている。
特に印象深いのは間口、玄関どころか壁すら一切なく、とても開放的だ。おかげで店の様子は外からでもよくわかる。
ちょうど昼時なのもあってか、客の入りが尋常でない。店内にところ狭しとテーブルが置かれ、あげく、外の道にもせり出すように席が作ってある。ぱっと数えきれないほど席数を設けているのに、それが現状ほぼ埋まっている。葉揺亭の小さくて閑散としている空間に慣れた身では、見ているだけでめまいがしてくるほどの威容だった。
まだ中に入っていないのに、すっかり気おされてしまった。だが、ここまで来て逃げ帰るわけにはいかない。アメリアは深呼吸して、きっと凛々しい顔を作ると、一生懸命胸を張って敵地へと潜入したのだった。




