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ノスカリアと水の物語

 背筋の伸びた老人が葉揺亭の扉を開けた。林野に溶け込む緑色の服をまとい、使いこなされた布の袋を担いだその人は、ノスカリアが生んだ名狩人ハンター=フォレウッズだ。


 馴染みの顔ではあるものの、常連客と言うよりは良き取引相手と言った方が正解に近い。今日の来訪も、先日依頼したハーブの受け渡しのためだ。


 ただ、カウンターに歩み寄るハンターは何やら申し訳なさそうな顔をしている。目的のものが採集できなかったのだろうか。いや、違うようだ。


「すまんのう、着替えてこればよかったのだが……西門の料理屋に猪一頭届けて来たついでなのだ」

「ああ、そんなことお気になさらず。何度も往復するのは面倒ですからね、お気持ちわかりますよ」


 マスターは微笑んだ。言われてみれば確かに、いつもより衣服が汚れている。泥や汗の染みに加え獣の毛も付着して、嗅覚をとがらせれば何とも言えない臭いをも感じられる。が、まったく不快ではない。ハンターの仕事柄、それはある種の勲章だ。


 ハーブの代金は引き出しに用意してある。それを取り出すために立ち上がりつつ、マスターはハンターに声をかけた。


「今日も飲んでいかれますよね。すぐに用意しますので――」

「いや、やめておこう。こんな格好では、色々汚してしまうからのう」

「だから、そんなこと気にしないでくださいって。店主の僕が良いと言ってるんだ、いいじゃないですか」

「むう……では、お言葉に甘えようか」


 ハンターは優しい苦笑いを浮かべて、カウンターの席についた。


 背負っていた荷袋を膝に降ろす。数件の依頼品が入り乱れる中から、葉揺亭用の材料を拾い上げ、カウンターの奥側へと並べ始めた。


 その並びに、マスターが薄手の布でくるんだ代金を置いた。そうして自分は、ハンターに出す茶の用意に取り掛かる。いつもの取引の光景だ、非常に簡素である。


 だが、今日はもう一つ追加があった。成果品を出し終わり、ハンターが袋を畳んだところへ、アメリアが客席側から寄っていったのだ。


 手には、水で湿らせた真っ白のタオルがあった。


「あの、ハンターさん、これどうぞ」

「うむ……だが、これは綺麗すぎるのう。泥汚れを拭くには、いささかもったいない」

「大丈夫です! 私、一生懸命洗いますから」


 胸を張って宣言し、アメリアはタオルをハンターの手に押し付ける。そして、ひらりとカウンターの中に戻った。


「よい子だのう、アメリアちゃんは」


 ハンターは皺の入った顔をゆるませた。その目は、まるで実の孫娘を見るように温かなもの。


 そして柔らかいタオルを丁寧に使って、手や顔を拭った。



 ハンターはさっぱりとした顔になったころ。葉揺亭の空間は、ミントの香りで満たされた。淀んだ空気を洗うようなそれの発生源は、マスターが注いだ紅茶のカップ。


 お待たせしました、と供された茶は、ミントと紅茶のブレンド・ティ。マスターがつけた名前はずばり「ミンティア・ショット」という。新鮮なミントの葉をふんだんに使った辛口のお茶は、体に溜まった疲れを吹き飛ばしてしまう爽快感を持っている。


 ――仕事のあとはこれだ。ハンターは軽く目を伏せ、茶の清涼感を全神経で味わった。心なしか、体が軽くなった気がする。外だけでなく、内に溜まっていた泥汚れが洗い流されたような感覚だ。


 それには、空間に水音が響いていることも相乗していた。


 作業スペースの奥手にあるシンクへ目を向けると、アメリアがタオルをすすいでいる。一生懸命洗う、そう宣言してしまった手前、わずかな汚れすら残してはいけないと思ったのだろう。手つきには力がこもっているし、顔つきも真剣そのものだ。


 勢いよく流れる水が、滝のようにタオルを打ち付けている。跳ね返りがシンクの周りに飛び散っているが、アメリアは眼中にないらしい。


 頑張り屋の娘、ほほえましい光景だ。紅茶をすすりながらハンターはにこやかに見ていた。


 しかし、それは始めだけ。アメリアの手仕事がちっとも終わらないと見るや、徐々に陰りが差してきた。目線は少女でなく、流れ出る水へと向いている。


 そしてとうとう我慢があふれて、苦言を漏らした。


「のう、アメリアちゃん。水は、もう少し大事に使わなきゃいかんぞ。際限なくあるものではないからの」

「でも川もありますし。雨も降りますし」

「川は枯れるかもしれんし、雨は降らないかもしれん。水がなくなってしまったら困るだろう? 無駄に使ってしまってはいかんよ。水は大切な自然の恵みだ、アメリアちゃんだけのものでもないからの」

「はい……ごめんなさい」


 アメリアはしゅんとして水栓をひねった。あふれ出ていた水はぴたりと止まる。賑やかだった空気が、静まり返った。


「……干してきます」


 絞ったタオルを持って、アメリアは二階にある小さなベランダへと向かった。彼女が消えた扉の向こうからは、ゆっくり階段を上がる元気のない足音が店に届く。


「ううむ……マスター、すまんかった。あとで慰めておいてくれんか」

「ええ、わかりました。でも、ハンターさんが言うことは正しいと思います。だから謝る必要はありませんよ」


 マスターは肩をすくめた。本当に気にしていない風で、飄々と、受け取ったばかりのハーブを保存する作業に入った。


 余裕でいられるのは、アメリアの性格をよく理解しているから。彼女はすぐに萎れるが、回復も早い。ベランダに洗濯物を干しながら、ついでに少しぼーっと風景を眺めて、光と風にあたって。それで戻ってくるころには、またいつもの明るい花のような娘に戻っているはずだ。


 ところが。マスターの予測は外れてしまった。


 タオル一枚干したにしては、戻ってくるまでに時間がかかった。そこまでは考えた通りなのだが、店に戻って来たアメリアは、変わらず暗い顔をしている。


 となると、気まずいのはハンターだ。自分の一言が思った以上に刺さってしまった。再度、申し訳なさそうにマスターを見る。


 ただ、マスターもまた、困ったように頭をかいていた。


 どうしたことだろうか。マスターもアメリアをたまに叱るが、ここまで尾を引くのは経験したことない。それにどちらかと言えば、自分の気持ちを抑えてでも、客の前では笑顔をつくろうとするタイプなのに。


 彼女は一体なにを思っているのだろうか。マスターは注意深く、アメリアの表情を観察する。特に目だ。目は、口よりもずっとものを語る。


 すると、マスターには見えてきた。アメリアの顔にはびこる影は、落ちこみや悲しみよりも、不安と恐れの色に寄っている。


 だったら、心配の種があるはずだ。それはなんだ。彼女の目は、ちらちらとシンクの方に向いているから――わかった。


「ねえアメリア。もしかして君、今すぐにでも、水が枯れて出なくなっちゃうって思ってるんじゃ?」


 マスターの問いかけに、アメリアはおずおずと頷いた。いたって真剣である。


 マスターは腹を抱えて笑った。


 そう、アメリアは純朴な娘だった。人に言われたことを簡単に信じるうえ、極端へ走りやすい。思い込んだら思い込んだまま、それがどんなに突拍子がないことでも疑おうとしない。


 まさかそんな、とハンターは呆れ顔だ。


 マスターはひとまず客に苦笑いを見せてから、マスターはアメリアに向き合った。少し姿勢を引くして、目線を合わせる。


「そこまで心配しなくても大丈夫だよ、すぐにはなくなったりしない」

「ほんとうに大丈夫ですか? 私のせいで町中のお水が……」

「大丈夫だって。今までだって、平気でやってきただろう。あんなくらいで水源が枯れるなら、君より先に僕が怒られているはずだ。あんな風に蒸発させっぱなしだもの」


 マスターが示したのはコンロにかかるポットだ。火は細めてあるものの、いつでもすぐにお茶が入れられるように軽く沸騰した状態に保ってあるから、口からは湯気が絶えず吹き出している。


 アメリアは納得という表情を見せた。


 そこへマスターはきちんと指導も入れる。


「まあ、でも、水は命の素だからね。ハンターさんの言う通りだ、大事にはしなくちゃいけない。君も、僕も。わかったね?」

「はい」


 答えたアメリアの顔には明るさが戻っていた。これで一安心、男二人分のほっとした息が響いた。


 そして、マスターは仕上げとばかりにシンクへ行き、水栓をひねってみせた。当然ながら水は静かに流れ出る。アメリアもほっと安堵の息をついた。


 水栓を閉めて、しかしマスターはその場から動かない。どこかうっとりとした目つきで、シンクを見つめている。


 そして、しみじみと語った。


「こんな風に水道を整えたのは、ノスカリアの偉大な業績だよ。おかげで、僕はこうして店を営める。ありがたいことだ」


 栓をひねれば清浄な水が出てくる、葉揺亭ではあたりまえ過ぎて忘れてしまっていたが、こんな便利な生活は、他の都市ではまずできない。ノスカリアならではの光景である。


 卓越した水道整備が近年進んだのは、ノスカリアという町の特殊性ゆえだ。多くの人や物が交差する、街道の十字路の町。旅の補給基地として、安定かつ安全な水を絶えず供給できる仕組みは必要不可欠であった。そして、夢を実現させるだけの知識技術ならびに労働力も、十分にそろっていたのである。


 水環境の向上は色々な方策で行われたが、中でも最も誇るべきは、高台の地下に張り巡らされた水路だ。


 地下水路には町より北西の方角にある川から水が引かれていて、常に安定した水量が確保されている。さらには水質をよくするために、植物繊維を用いたごみ取りや、大地の力を持つアビラストーン・緑晶石(りょくしょうせき)による水の浄化など、色々な工夫が施してあった。


 高台にある豪邸は、各戸でこの水路に管を通して、清浄な水を引き上げ使っている。


 さらに高台の下の町にも、ここから細い水路が派生している。葉揺亭の近辺みたいに地下へ通されている部分もあるし、地上に掘った溝を流している場所もある。幅の広いものから細いものまで、すべて合わせれば、一繋がりの水路で町の全域を網羅できるかたちだ。


 加えて、数多くの井戸が、共用私用それぞれ掘られているし、各戸で水が入手できない状態でも、町の南西と南東にある共用の炊事場が供給源となる。


 水事情に関しては、まったく死角が無い。世界屈指の先進都市である。


 しかし裏を返せば、水の尊さを一切感じられない環境なのだ。だからアメリアもあんなことをした。


 これには古きを知る老翁として、ハンターは苦言をこぼさずにいられない。


「便利になっていくのは良いことなのだがのう、どんどんありがたみが薄れておる」

「やっぱり、嬉しくないのですか?」

「ううむ……まあ、水が原因で疫病が出る、あの時代に比べれば、ずっと良いかのう」


 ハンターは静かに言うと、爽やかな香り沸き立つカップを傾けた。


 かつてのノスカリアには、井戸水や雨水が原因となる病がはびこっていた。ハンターの幼少時代には、水路の建造が進んでいたものの、浄化の設備が整っておらず、疫病が大きな被害をもたらすことが起こったのである。


「悲惨だったよ。わしと同い年の子も大勢死んだし、外からの人が寄り付かんから、商いもままならん。あれを知っておる身としては……うむ、今は本当に恵まれておる」


 ハンターはふっと笑った。


「そうだな、アメリアちゃんみたいな子に、ハイドラートの葉で消毒をした苦い水を飲ませなくてよいのは、まったく幸せなことだ」

「ハイド、ラート……?」


 聞き慣れない単語にアメリアが首を傾げた。葉、というのだから草木の名であると想像はつくのだが。


「森にある背の低い木でのう。綺麗な花が咲くんだが」

「わあ、素敵です!」

「それだけではなく、薬の葉になるのだ。水につけて、沸かして、それをもう一度冷まして水にして。そうすると、汚れた水がようやく飲めるようになる」

「大変だったんですね。……でも、それって、なんだかお茶みたい」


 葉を沸かして成分を出し、飲む。その部分がよく似ている。


 彼女のなにげない呟きに、マスターがきらりと目を光らせた。いきいきとした声音が、茶のことになると閉じるを知らない口から発せられた。ぴっと人差し指を立てて、気持ちよく。


「いい着眼点だよ。まさにそう、茶と薬は紙一重なんだ。紅茶だって、体に良い薬だ、そんな風に考えて飲む人がいるものさ」


 例えば体調の改善、例えば風邪の予防、例えば解毒――そんな実際的な効果が求められることは少なくない。まさに、薬草を煎じて服用するのと同じように。


 そして、茶が薬になるなら、逆もまたしかり。


「今は紅茶にとってかわられたけれど、一時はハイドラートも嗜好品……つまり、お茶として飲まれていたこともあったんだ。ノスカリアじゃ入手しやすいし、苦味とはいえ、水より味があるからね。むしろ、あれをおいしいと言うことが通である、みたいな風潮すらあった」

「あれ? それなら、どうして紅茶に? ハイドラートでいいじゃないですか」

「簡単なことさ。紅茶も安いものがたくさん出回るようになったし、こちらの方がおいしいから。それに、水を消毒する必要がなくなって、ハイドラートを採ったり育てたりする必要が無くなってしまったから」


 需要も減り、供給もなくなれば、すたれるのは必至。ノスカリアの水の物語が良い方向に進むとともに、ハイドラートの薬の物語は終わりを迎えたのである。閉じられた本の中身は、忘れられていくのみ。


 だが、すべての人がハイドラートの記憶を消してしまったわけではない。


「わしは今でもたまに飲むぞ?」


 ハンターが眉を上げた。ミントのきいた紅茶で口を湿らせて、葉揺亭の二人に説くように語る。


「森の中に入れば、どこでも綺麗な水が手に入るわけではない。濁った沢しかないところや、場合よっては、まったく水源が無いところに入らねばならぬ。そうした時のために、ハイドラートの葉を水筒に入れて持ち歩くのだ。貴重な水が傷んでしまわないようにのう」


 水は大切なものだ、それを自然を相手に生きてきたハンターは、身をもって知っている。際限なくあるものではなく、それでも水を飲まなければ人は生きられない。どうしようもない自然の摂理だ。


 あのハイドラートの苦い水は、命を繋ぐための先人の知恵である。


「あの苦い味を感じると、昔のことを思い出す。そうすると、今の綺麗な水が飲めるノスカリアに感謝を忘れずにいられるからのう」


 ふっと笑った老人の顔には、感傷があらわになっていた。


 不意に、アメリアがグラスを持ってシンクに走った。


 水栓をひねれば、澄んだ水がグラスを満たす。光源石の照明に透かせば、美しい輝きを湛えているように見えた。


 アメリアはほがらかな顔でグラスに口をつけると、静かにちびちびと飲む。


「おいしいお水です。大事に飲まないと」


 たかが水、されど水。あたり前にありすぎてすっかり忘れてしまっているが、今こうして安全な水がある光景が、本当はどんなに幸せなことなのか。


 なにげない日常の礎には、数多の努力や苦心の物語がある。ハンター老翁が語ったことは、水と同じくらい大切な気持ちを思い起こさせたのだった。


ノスカリア 食べ物探訪

「ハイドラートの薬湯」

ノスカリア周辺に自生するハイドラートという低木の葉を煎じたもの。非常に強い消毒・殺菌効果がある。

生葉を浸して置いても有効なため、飲料水の安全確保にも用いられた。

苦味が非常に強い。大人でも舌を渋らせるほど。茶として嗜好するのはかなりのつわもののみ。


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※本作品を再構成・加筆修正を行った新版を2023年に公開はじめました。順次掲載していきます。  ストーリーは大きくは変わっておりませんが、現在本作品をお読みの方はぜひ新版をご覧ください  https://ncode.syosetu.com/n9553hz/ またはマイページから
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