商会秘書と無名の茶
2話3話と同時期のお話です
ノスカリア一の大商会・ラスバーナ商会の会長秘書、ジェニー=ウィーザダム。彼女は仕事熱心で、さらに勤勉であった。
たまの休養日にも街を巡っては、商売に繋がる話を探す。持ち歩く鞄には書類がたっぷり詰められていて、少しでも隙があれば、ペンを片手に処理を進める。
葉揺亭の窓辺の席は、ジェニーが休憩所として一番気に入っている場所だ。街で唯一、豆から淹れるおいしい珈琲が飲める。他の客が少ないから、気がねなく過ごせる。そして何より、テーブル一つ占拠して書類を広げても、文句を言われない。集中するに最高だ。
葉揺亭の二人は、ジェニーのふるまいに慣れきっていた。特に構うことはない。せせこましくペンを走らせる音を聞き流しながら、小さな声で談笑に励んでいた。
「マスター、おかわりちょうだい」
にわかにジェニーからかけられた声には、マスターもきちんと反応を示す。了解、と砕けた返事をしながら、さっと椅子を立った。
ジェニーのお決まりの飲み物は珈琲だ。葉揺亭では自家焙煎の豆を、注文が入るたびに必要な量だけ挽いて使っている。
舶来のハンドミルに一人分の豆を入れてハンドルを回せば、あっという間に粉になる。それを布製のフィルターに入れて、サーバーで受けたところにポットの熱湯を少しずつ注ぐ。紅茶とだいぶ勝手が違うが、慣れたものである。
これらの珈琲用の道具は、すべてジェニーが商会の伝手を使って、はるか熱帯の島より取り寄せてくれたもの。というのも、ノスカリアがある南方大陸では「珈琲」というものが、黄金草という植物の根を煎じた飲み物になり代わっているため、珈琲豆を処理する道具が手に入らないのである。
はじめ葉揺亭では既存の道具で工夫することでしのいでいた。豆を挽くのは棒で叩いて、粉を入れるのは手持ちタイプのストレイナーに布を張ったもの。後者はまだしも、前者は色々と難があった。時間はかかるし、均質にならないし、なによりかっこわるい。
それをジェニーが見かねて、あるいは単にいい売り込み先を見つけたと思って、珈琲の道具を買わないか、と商談を持ちかけてきたのだった。三年ほど前の思い出である。
――はじめましての頃から、ジェニーは変わっていないな。サーバーに落とし切った珈琲をカップに注ぎながら、マスターはふっと思った。
椅子に座れば書類仕事、隙あらば商談をもちこむ。頭の中はいつだって、自分が仕える商会のことでいっぱいなのだろう。少し休む時間すらも惜しい、そんな風に。
「――はい、アメリア。慌てなくていいから、ゆっくり、こぼさないように運んでね」
「はーい。いつも言わなくても、わかってますよう」
マスターは銀のトレーに珈琲を乗せ、アメリアに渡した。
出来上がった飲み物をテーブルまで給仕するのは、アメリアの仕事である。はじめの頃は手がぷるぷる震え、一歩進むのにも時間をかけていた。あげくカップをひっくり返しもした。
今ではそんなことはない。湯気立ちのぼるぴかぴかのカップを、冷めないうちにお客さんのところへ。銀盤を片手で支えるのも簡単にできる。
アメリアは珈琲を、テーブルの上で書類に侵食されていない場所を探してそっと置いた。このスペースが、今日は一際狭い気がする。
「お仕事、忙しいんですか?」
「ええ、とっても。休んでる暇もないわ」
「それは駄目です。ちゃんとお休みしないと」
「いいのよ、忙しいくらいが。時間は限られてるんだから、無駄づかいはできないわ。どんどん色々やっていかないと」
ジェニーは湯気たつカップを手に取りながら、大人の余裕ある笑みを見せた。
さて、アメリアという少女はとても単純だ。なにかあるとすぐに感化される。ジェニーの発言を聞いて、「仕事をばりばりする女の人はかっこいい」と思った。すると次にはすぐ、自分もそうなりたいという憧れが噴出する。
アメリアはマスターのところへ走った。隣に立った瞬間に、息荒くして頼みこむ。
「マスター、私もたくさん仕事したいです! もっと色々頼んでください、今すぐ」
「もう十分だ、アメリア。君はかわいいのが仕事だもの」
「そうじゃないです」
「そうでいいんだよ。君は別に、なにもしなくたって大丈夫。そのままの君で居てくれよ。それが一番大事な仕事さ」
マスターは苦笑しながら、なだめるようにアメリアの頭をぽんぽん叩いた。
なんだか、うまくやりこめられてしまったような。アメリアは口をとがらせる。けれど、それ以上はなにも言わなかった。カウンターの内側に置いてある自分の椅子を引いて、腰を降ろす。
やりとりを遠目で見ていたジェニーが小さく笑った。続けて、助言めいた横槍を入れてくる。
「ねえマスター、やる気のある子の気持ちを摘んだらいけないと思うわ。アメリアちゃんのこと甘やかしたいのもわかるけど、そういうやり方はよくないんじゃない?」
「甘やかしてるっていうか……わざわざ頼むようなことが特に無いのは事実だし」
マスターは黒い髪をかき上げながら、やんわりとジェニーに反論する。
「僕としては、あんまり仕事を詰めすぎるのはどうかと思うよ。時間は限られている、だからこそ、せせこましく働くばかりで消費するのはもったいない」
「あら。そういうマスターだって、一年中お店に立ってるじゃない。立派に働いてるわ」
「これは趣味みたいなものだもの、君とはまるで違うよ」
「じゃあ、私は仕事が趣味だわ」
銀縁眼鏡の向こうで、茶目っけ混じりの目がきらきら光った。これに強く言い返すのは無粋だろう。
「ま……君が良いのならいいんだけどさ。たまには仕事のこと忘れて、息抜きした方がいいと思うよ」
「息抜きならしてるじゃない、ほら珈琲飲んでる。今日もおいしいわよ、マスター。私この店大好きだわ」
「そりゃ、どーも」
おだてられてしまうと、マスターは折れるしかなかった。さすがは大商会の重役とでもいうべきか、口がうまい。
それから少し静かな時間が流れて。不意にジェニーが、はっとした表情で顔を上げた。
使いこなされたペンを置いて、マスターの方へ向く。
「そうよ、マスター。忘れてた、聞いてちょうだい」
「なんだ。またなにか売り込むつもりなら引っ込めてくれ、聞く気ないから」
「ひどいわね、いつも押し売りしてるみたいじゃない。うちはそんなことしないわ」
むっとして言うジェニーに、マスターは内心どうだろうと疑念を呈す。
確かに強引に売りつけられることはない。しかし、ジェニーはとにかく商売がうまい。あれがあると便利だ、彼女が来店している時にそんな気配をみじんでも醸すと、これ商機と見なされて、営業が始まる。
珈琲用具をはじめ、実際に売買になったことがもう何度あっただろうか。言葉巧みに取引の方向へ誘導するのは、される方には押し売りと大差ない、とマスターは感じている。
そんな警戒を解くために、「売り物じゃない」とジェニーは笑って言う。
それから鞄を漁って、一つの物を取り出すと、カウンターの方に歩いてくる。
物は木の皮を加工して作った、筒状のいれもの。ジェニーが蓋をあけると、中に入っていたのは、なんと紅茶の茶葉だった。
とたんマスターの関心が天をつき、目が光る。だが、表向き平静は保っていた。
「これ試飲させてもらえない? というか、マスターにも飲んでみてもらいたくって」
「どうしたんだい、これ。どういう経緯のものなんだ」
「行商が売ってたの。バーナ山脈中腹のデジーランだって。あまり聞かない産地だから、買ってみたんだけど」
「その言い方だと怪しい代物だな。雑な樹からとった、紛いものの線もありうる。バーナ山脈なら東端のアグナスで作られるものが良質だが……さあ、これはどうかなあ。製茶がずいぶん荒いし、それに――」
マスターはぶつくさ言いながら、細めた目で品定めをする。
その彼を見ているのがアメリアだった。茶のことになれば無比の店主、自分はその足元にも及ばない。ただただ憧れる。
マスターがなにを悩んでいるのか、独り言を聞いてもよく理解できなかった。デジーランは知っている、紅茶の種類だ。どっちかと言えば高級な方に入るらしい。そこまではわかる。しかし。
「どこの、とかでそんなに違うんですか?」
「違う。全然違うよ」
即答だった。ぐるりとマスターの首がこちらを向く。目はぎらぎらと燃えている。反射的にアメリアはたじろいだ。ついでに内心舌を出す――スイッチ、入れちゃった。
マスターは水を得たりと熱弁をふるい始めた。
「土地によって気候が変わる、そうなれば当然、同じ種類の樹でも育ち方は変わってくる。その上、日の長さ、風の吹き方、水の質、土の状態、あるいは触れる人の手や、虫がつくとかつかないとか、ありとあらゆる要素が入り混じって、一つの紅茶の風味をつくり上げるんだ。だから、離れた土地でまったく同じものが出来上がるはずがない。この世界広しと言えど、鏡で映したみたいに何もかも同じ条件が揃う場所なんて存在しないんだ。ゆえにどこでつくられた茶なのかは、紅茶を扱う二あたって常に重きを置かなければならない。さらに加えるなら、土地の嗜好性の問題もあって……」
はっ、とマスターの言葉が止まった。
気がつけば姿勢は前のめり。もろに言葉の嵐をぶつけられたアメリアの頭からは、しゅうしゅう煙が昇っている。ジェニーですら、カウンターをはさんで引き気味の苦笑いを見せていた。
好きなことになると言葉が溢れて止まらない、一方的に語って、相手の聞く様子はどこ吹く風。マスターの悪い癖だ。常連たちは皆、一度はこの雨嵐のような口撃に遭っている。逆にこれを嫌悪しないからこそ、常連になれたと言うべきか。
ばつの悪そうな咳払いをして、マスターは穏やかな微笑みをつくった。姿勢も真っすぐの状態へ戻す。
気を取り直して。マスターはぴっと人差し指を立てた。
「じゃあ飲み比べてみようか。そうすれば色々わかるさ」
しばしの後。作業台の上には、二つのポットと六つのカップが、すべて同じ形ものでそろえてあった。比べるなら、他の部分は完全にそろえなければ意味がない、例えばカップの色柄が違うと、視覚の印象が味の感じ方を変えてしまうから。
紅茶もきっかりと同じ時間蒸らした。両手を使って同時にカップに注ぐ。大量の注文にも対応できる技だが、葉揺亭で普段活用する場面は無い。
二種類の紅茶を各人の前に配り、マスターは手で示しながら説明する。
「右に置いたのが、店で使っているアグナスのデジーランだ。で、左がジェニーの持ってきたやつ」
真っ白のカップにたたえられた液体は、どちらも淡く赤みがかった紅茶である。
「同じですよう」
「いいや、そんなことない。アメリア、ちゃんと見るんだよ、色味が全然違うだろう?」
「全然ではないわよマスター。すごく微妙な違い。見る感じゃ、なかなかいい雰囲気よね。問題は口当たりだけど」
わかっている風の大人二人に触発されて、アメリアは難しい顔をカップに近づけた。じっと、視線で湯を沸かせそうなほどに熱く見つめる。
微妙な違いだと言われて、それを意識しながら改めて見たところ、わずかながらジェニーが持ってきた物の方が濃い色をしている……ような気がする。
アメリアにはこれが限界だった。わかった瞬間に集中力が切れ、ふうっと息が漏れる。
見た目はともかく、しかし味はどうだろう。もしかしたら、そちらは雲泥の差があるかもしれない。
アメリアは気を取り直して、先に口をつけている大人たちにならって、自分も紅茶を飲んでみた。
――紅茶の味だ。ふわっと香りがあって、少しだけ苦い感じがして、しかしどこか遠くで甘いような気がする。そんな、いつもマスターが入れてくれるおいしい紅茶の味だ。
そして、二つの違いはさっぱりわからない。
アメリアは眉を寄せてマスターとジェニーを仰ぎ見た。しかし、彼らは彼らでカップを手に渋い顔をしている。
「ずいぶん粗削りだなあ。繊細さが足りないし、かといって、個性というほどとがってもいない。なにか一つでも秀でていればまだしも……」
「うーん、いまひとつよねえ」
満足させる逸品ではなかった。しかたない、共に舌の鍛えられた二人だ。ただ飲むだけならまだしも、質を見極めようとなれば、厳しい見方になってしまう。
と、マスターの目がアメリアに向いた。
「アメリア、君はどう思う?」
「えっ、えっと……」
期待のまなざしが降り注ぐ。全然わからない、とは言いづらい。
なにか違いを見つけないと。アメリアは慌てて、もう一口ずつ茶を含んだ。
しかし、わからないものはわからないのだ。どちらも紅茶、それに違いは無い。
困ったアメリアは、愛想笑いを浮かべてマスターを見上げた。
「えーっと……マスターの淹れるお茶は、全部おいしいですね」
はにかむ少女を前にした一瞬の間。それから、マスターとジェニーとが揃って破顔した。
「アメリア。……満点の答えだ」
にっと口角を上げ、マスターは嬉しそうにアメリアの頭を撫でまわした。少し照れくさくて、アメリアは顔を下げた。
和やかな空気に包まれたところで、マスターが小さく咳払いをし、ささやかな品評会を締めくくる。
「まあ、今は残念なものだったが、下地としては十分だ。もしかしたら十年先、二十年先には、名産地に育っているかもしれない。葉を摘み製茶する人間も、樹そのものも、成長して変わっていくものだから」
マスターはジェニーの持つ筒を見た。葉を摘み、茶に仕上げ、立派な入れ物に詰めて市場に出た。そこには必ず人の意志がある。この茶を広めたいという誰かの強い意志が。
前に進む意志が潰えなければ、成長が止まることは無い。始まったばかりだから不出来で当然、歩みを止めさえしなければ、未来の先には実りが待っているだろう。
マスターはちらりとアメリアを見た。青い目の少女は、無垢な眼差しで自分を見ている。
彼女だってそうだ。今は何もわからずとも、いつかきっと一人前になる時が来るだろう。それがいつかなのかは彼女次第だが、亭主の見立てでは、まだまだ当分先になりそうである。
こぼしそうになった笑い声を喉で殺しながら、今度はジェニーに向き直る。
「物事がゆっくり変わりゆくのを眺めながら、のんびり待つのもまた良いものさ。だからジェニー、君もあんまりあくせくしないで、ゆったり構えて仕事をしたらどうかな」
伝えたかったのはそれだった。
葉揺亭での時間を客人がどう使うのか、マスターはあまり気にしない。一人で仕事をしようが、大勢で喋りに来ようが、どちらもこの場所、自分の居る店を求めてきてくれたことには違いないからだ。
ただし時間に追い立てられるような姿を見ていると、少し心配になってしまう。肩に力を入れっぱなしでは疲れるし、度が過ぎれば倒れてしまう。マスターはそういう人間を何人も見てきた。
自分の手が届くところでは、回避できる悲劇は回避させてやりたい。むしろ、客を守るのも店主の務めではないか。マスターはそう考えている。
マスターが真摯に見つめる中、ふうん、とジェニーは思案するような息を漏らした。
「ゆっくりゆとりを持って? 確かに、それも大事かしらね」
ジェニーは軽く肩をすくめてみせる。軽い調子の彼女には、いつもより愛嬌がにじんでいた。
マスターはにっと口角を上げた。
「わかってくれて嬉しいよ。今みたいに、肩の力を抜いている君の方が、ずっと素敵だ」
「いやね、マスターったら。アメリアちゃんの真似しておだてても、私はなんにも出さないわよ?」
「そういうつもりじゃないさ。僕の本心」
マスターは得意気にウインクしてみせた。
何がそんなにおもしろかったのやら、ジェニーはカウンターに突っ伏して、けらけらと笑い転げている。あまり見たことのない姿だ。アメリアまでもがつられるように笑っている。
「いいことだ」
マスターはしみじみ呟いた。難しいことは忘れ、どうでもいいことで笑っていられる、平和で穏やかな時間。なんと幸せなことだろうか。
笑いの波が去って、ジェニーが力の抜けた顔を上げた。
ずれた眼鏡を直しながら、マスターに向かってほほえみを向ける。まだ息が少し切れている様子だ。
「それで、紅茶の達人のマスターから見たら、この紅茶、長い目を見て投資する価値、あると思う?」
「ちょっと……なんだよ、結局仕事の話にしてしまうのか!」
「あたりまえじゃない。ぼーっとしててチャンスを逃したらいけないわ。……あ、マスター、珈琲のおかわりもちょうだいね」
いたずらっぽく笑って、ジェニーは元のテーブルに戻っていく。
マスターは額を打った。あれはもう、いわゆる職業病というやつだ。しかも、とびきり重症の。
「ねえ、アメリア。僕もまだまだだよね」
「なにが、ですか? マスターはすごい人ですよ?」
「……うん、ありがと」
人の心を動かす、それには自信があった。しかしこの結果では、無名の茶と同じ、手ごわい相手には通用しないということ。
どうやら、自分もまだまだ店主として発展途上らしい。マスターは苦味引き立つ珈琲豆を挽きながら苦笑した。




