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本日、快晴

 双月季そうげつき第二節(まつ)金鐘(きんしょう)の日。ノスカリアの上空は、厚い雨雲に覆われていた。


「雨、止みませんね」

「……ああ」


 風音と共にこつこつと雨粒が硝子を打つ反対側で、アメリアは額を押し付け外を食い入るように眺めていた。どれだけ見ていても、なかなか雲は流れていかない。朝からずっとこうしていて、時計はもう昼過ぎをさしている。長い金色の編み髪が、叱られた仔犬の尾のようにしょんぼりと背中に流れている。


 明日は、地陸ちりくの日。いよいよ出立の日なのだ。それなのにこの大雨。


「明日まで降ってたら……どうしましょう」

「お好きなように。雨宿りしていったって構わないさ。いつまでも、ね」


 マスターは手元の紙束から顔を上げ、アメリアに冗談めいた微笑みを投げかけた。アメリアもまた、はにかむ。


 始まりは、雨宿りだったのだ。世界に居場所を失くした少女の手を、世界から浮いて暮らす男の手が取ったのは、こんな大雨の日であった。再現するかのように、同じ窓から外を見る。でもあの時とは違うのは、外がずっと明るく見えること。外には行きたくない、雨がずっと降っていて欲しい、怯えていたあの時とは違う。


「止まないですかねえ」

「どうかなあ。だけどさ、僕が作ったあれ被っていけば、雨の中でも平気じゃないか。北の街道なら足元も悪くない、ミスクまではきっちり整備されてるって話だし」

「だけど一人じゃないですもの」

「まあ異能者ギルドの人間なんて、濡れるのなんかそう気にしないだろうけど……ああ、駄目か。アーフェン君は気にしそうだ、そういうの」

「ええ、そういうことです」


 最初の目的地ミスクまでの道中、用心棒としてギルドの人間を雇うというのは早々に決めたことだった。一体どこに発注しようか、そう迷っていた折に、凄い勢いで立候補してきたのがアーフェンであった。アメリアとしては、もっと頑強でどんな嵐がきても屈しなさそうな人物を予定していただけに、少々迷った。しかし結局、彼のどこから来るのかわからない熱意に負けて、もう一人付けてもらうことも条件に、彼の所属ギルド「銀の灯燭(シルバライツ)」へと依頼を出したのだった。


 同道する仲間も居て、気楽な道のり、後は本当に天候さえ回復すれば何も問題は無いのだが。


「止まなかったら、延期ですね」

「いいの?」 

「いいんです、急がなくったって。明日が駄目なら明後日があるし、雨宿りもさせてもらえるんですし。それに、雨の日はマスターとゆっくりおしゃべりできるから、私結構好きですもの」


 天気が悪いと客足はほぼゼロになる。誰にも邪魔されない二人きりの世界、それもまた良いものだ。自分も同じだとマスターも頬を緩める。


 彼は錐を手に持って、先ほどまで見直していた分厚い紙束に二か所の穴をあけた。ついで、金糸の混ざった黒い紐を取り出し、その穴に通す。ながらにアメリアに問いかけて。


「荷造りは完璧に終わったのかい?」

「ええ。着替えも、非常食も、わけてもらったお茶の葉も、全部詰め込みました。大事なものは宝箱の中です。もう、鞄がぱんぱんですよ」


 からからと彼女は笑った。荷物はあまり多くてもいけないと、マスターが忠告してくれて、最初の荷づくりよりは不要物が減っている。都市間にも宿場や小さな村が点在しているのだから、必要な物は行きずりで調達すれば良いのだと示してくれた。資金と最低限の衣服と非常時の保存の効く食糧、それくらいだ。最初は携行調理道具や野宿に備えた寝具なんかも詰めていたが、その前提は間違っているとマスターから指摘され、泣く泣く放りだした。曰く、きちんと宿で泊することを前提にすべきで、端から無理な旅程を組まないようにすればいいのだと。何も森の中に突っ込んだり、山を登ったりする必要はない道程なのだから。


 それでも置いておくわけにいかなかったのは、大事な宝物だ。思い出は胸の中にと言っても、しかし形あるものをないがしろにはできない。マスターと撮った写真、レインが縫ってくれた彼とお揃いの衣装、魔法屋クシネから贈られた不思議なカップ、ヴィクターから託された銀のダガー――小さなものは宝箱に入るだけ、大きなものは鞄が許す限り。結局、大きさとしては前とあまり変わらない。


 マスターがふっと笑いながら、手もとの紐を固く結んだ。今出来上がったのは、書物。鳶色の色紙を表にして、題字はただ「覚書」と。本当はもっと分厚くなる予定だったが、いかんせんアメリアの事があったから。そう、ちょうどあの処刑宣告が成された朝から書き始めたものである。間に合った、と彼は会心の笑みを浮かべた。


「アメリア。そんなにぎゅう詰めのところ悪いけれど、一つ、加えてもらえないかな」


 何だろうと首を傾げた彼女は、しかしマスターの手に掲げられたものを見て、すぐに合点が言ったらしい。「完成したら見せてあげる」そう言っていた、彼直筆の書物だ。


「ずっと書いてたの!」

「その通り。今後の君に役立ちそうな知識をまとめたものだ。茶や料理のレシピから、ハーブや薬草の種類、簡単な薬の調合法、ごく弱い魔法材料の扱い方も。まあ、君なら悪用しないだろうし」

「おおお……!」

「後、忘れちゃいけない、病気の対処法や怪我の応急処置の仕方。特に包帯の巻き方は、この上なく丁寧に書いたよ」

「あははは……」


 意外と根に持っている。というよりは、あんな適当な治療の仕方をしたら、まともな人間では死んでしまうと憂慮したマスターの計らいだったのだが。アメリアは前者の意と捉えて、乾いた笑いと共に目を逸らした。


 なにはともあれ。おっほん、とマスターは芝居がかった咳払いをして、にわかに厳格めいた顔をつくる。


「葉揺亭の主が贈る、我が秘伝の書である。ありがたく受取りたまえ」

「ははあ、ありがたく頂戴しまあす」


 こみ上がる笑いを殺しながら、アメリアは重々しく頭を垂れて、一子相伝の文書を拝領したのだった。


 馬鹿な冗談を言って笑い合えるのも、今日が最後だ。明日はきっと晴れるから。天の流れを読んだマスターは、そう確信している。



 果たして、雨は夜更けに上がり、明けた空は混じりっ気一つない青に染まっていた。カーテンを払いのけたアメリアは、眩い朝日を浴びて思わず小躍りする。眠気など一切残らない。


 まだ日の出からそれ程時間は経っていない。早起きにもほどがあるが、寝坊などしていられない心地だったのだ。それに、マスターからは朝食をゆっくり食べ出発できる、それだけの時間を見積もって起きるように言われていた。彼に言われるまでも無く、当然そうするつもりだったのだが。起き抜けのお腹は空っぽで、とても歩く元気はでないから。


 くるくると手を動かして、身繕いを整える。服を着替え、髪をとかし、編んでリボンで留め。同時に考える、葉揺亭最後の食事はなににしようか。


 茹でたタマゴを潰し、スライスしたオニオンと一緒に、炙って柔らかくしたパンではさんで。燻製肉とロケットをさっと煮たスープも用意して。後はマスターに大好きなイチゴのミルクティでも作ってもらおう、それで完璧だ。立派な朝食だ。


 いざ台所へ、と自室の外へ出た。その瞬間、食欲中枢を刺激する香りが鼻をついた。例えばそう、オーブンでパンを焼いた時のような。そこに混じるのは、燻製肉を炙ったような。こんなこと、今日が初めてだ。


 アメリアは階段を駆け下りた。するとどうだ、わざとらしく店へのドアが開けっぱなしにしてあって、香しい匂いはそちらから流れてきていた。おそらく、裏の台所へ行かせないようにだろう。膨らむ期待にアメリアは破顔して、亭主の待つ店へと駆けこんだ。



「やあ、アメリアおはよう」


 人好きのする顔つきで晴れやかに挨拶すると、マスターは店の中央にずらしたテーブルに、両手にあった皿を置いた。


 貴人が泊まる高級な宿の朝食風景、卓上を端的に表すのならそれだ。町娘の朝の食卓としてはいささか豪華すぎるだろう。クロスのかけられたテーブルの中央には、きつね色に焼き上げられた塩パンがかご盛りになっている。漂っている香りからして、焼きたてであるのは近くで見るまでも無い。今マスターが置いたばかりの皿には、ふんわりとした青菜入りのオムレツと、脂がとろける様にじっくり炙られた厚切りの燻製肉が。ピピンの赤い実とロケットの緑の葉が添えられて、彩も実に美しい。


 焜炉の上には鍋が載っていて、見ればハーブの香りがするスープが出来上がっている。大ぶりにカットされたオニオンに、キャロットに、イモ。しかしやわらかくとけかかっている具材たちは、じっくり煮込まれたものだという証だ。


「ほら、お座り」


 紅潮した顔で口をぱくつかせていたら、マスターに促された。言われるがままテーブルに駆け寄り、燕尾の店主がひいてくれた椅子に座る。彼の所作は、その装いも相まって、さながら執事のよう、ならば自分はお嬢様か、少し気恥ずかしい。


 膝をそろえ妙にかしこまって座っていると、マスターがスープを運んできた。その後はグラスと水差し。縦長のグラスの底を持ち、テーブルから離した宙にて水をそそぐ。それから静かに卓に置かれたグラスには、涼やかな露が降りていた。


 しかもこれ、ただの水ではない。花を蒸らした蒸留水を集めた、フローラル・ウォーターだ。香りからして、今日はマツリカの花である。甘く華やかな匂いは、しかし食事の味は邪魔しないように抑えられている。


 これだけでも十分すぎるほどなのに、とどめというばかりに、飾り切りにされたリンゴの盛られた皿が追加された。紅葉した葉が並んでいるようだ。


 このたった一度の食事に、一体どれだけの手間がかかっているか、考えるだけでも頭が上がらない。目を丸くしたままマスターを見ていると、彼は嬉しそうに肩をゆすった。


「びっくりしてくれた? 嬉しくない?」


 嬉しくないわけがない。マスターが自分のために、最後の記念の食事として、手づから振る舞ってくれたのだ。涙がこぼれそうなほどに嬉しい。


 だが何より嬉しいのは、向かいの席にもアメリアのと同じ食器が用意されていることだ。同じ屋根の下で暮らす仲なら当たり前のことが、今までほとんど無かったから。


「でも私、起きたばっかりにこんなに食べられないですよう」

「そう? 普通の加減がわからなくって。君はよく食べるから、大丈夫だと思ったんだけど。ああ、食後にはお茶もあるからね」


 まさか葉揺亭で茶が出てこないはずがない、それは後のお楽しみだ。最後まで手厚い朝食に胸を打たれつつ、アメリアはさっそく焼きたてのパンに手を伸ばした。


 

 程よい塩味のパンはふんわりかつもっちりとしていて、満足感が尋常ではない。


 ふわりと焼かれたオムレツは、フォークでぷつっと切れば半熟の中身がほどけ、口に入れればまろやかな味わいが花咲くように広がった。まったりとした玉子の味と、塩気の強い燻製肉とが、お互いの個性を引きたてあい、手が進んで仕方ない。付け合わせたロケットのサラダも良い仕事をしているし、ピピンの実を潰し、ソースのようにオムレツに絡めれば、あの独特の酸味がまた抜群の相性なのだ。


 スープなどもう語るべくもない。食欲に訴えかけるハーブの香りと共に、じっくり溶けだした野菜の旨みが体に染み入る。大ぶりのイモやキャロットも、芯までほくほくの仕上がりだ。熱い熱いと言いながら、ついかき込むように食べてしまう。


 そんな料理の感想を伝えるのに、美辞麗句は必要ない。ただ笑顔のまま、歓談に興じつつ、残さず平らげ、終わりに一言いえば事足りる。


「おいしかったです」


 と、対面のマスターにぺこりと頭を下げつつ、食後のために残してあったリンゴに手をつけた。しゃりしゃりと噛めば、甘酸っぱくみずみずしい味が溢れて来る。うっすら塩味があるのは、変色を止めるために塩水につけたから。以前、マスターから聞いたことがある手法だ。


 おいしかった、本当に。完璧主義者に近い亭主の単純な料理の腕前もあるが、それ以上に。


「マスターと一緒に食べられたから」

「そうか。……良かった、頑張ったかいがあったよ」


 おいしいものは、一人で食べるより二人で食べるに限る。嬉しい楽しいを共有できることこそ、何よりの調味料だから。マスターの皿も、当然のように空になっていた。


 空いた食器を引きながら、マスターはカウンターへ向かった。そのまま食後の茶の用意をする。が、どうやら物は既にミルクパンの中に出来上がっていたらしく、保温の布を払って再度温めたら、器に注いで出来上がりだ。


 一体何が出てくるのか、あの小鍋を使ったということは、ゆっくり煮出したミルクティだろうか。アメリアは期待に沸いて待ち焦がれる。


 登場したのは座りよく握りも大きい白のマグカップ。ソーサーも無しで目の前に供されたその中身は、ただの白いミルク。……いや、うっすらと緑がかっているから、ただのミルクではない。これをミルクティと言っていいのかもわからないが。


 アメリアの目は真ん丸に見開かれる。葉揺亭にしては、マスターにしては、粗末すぎる一品であることに落胆した、そうではない。質素な一杯、しかしこれは、アメリアにだけはひどく特別なものなのだ。


 ひどい雨の音の幻聴が襲う。忘れて等しい飢えの感覚が蘇る。そんな、あの雨の日、目の前に置かれたものとまるで同じだった。器もまるきり、アメリアが初めて葉揺亭で口にした一杯だ。


「覚えていたかい」

「ええ、もちろんです。忘れるはずないじゃないですか」

「あの日は、雨だった。君はずぶぬれで、やせ細っていて――」

「何が欲しいって、マスターが聞いたから。寒かったし、すごくお腹が空いていたから、温かいスープが欲しいって。そしたら『そんな物でいいのか』って笑いましたよね、マスター」

「そうだよ。他に何かないのかって聞いたらさ、『じゃあ、温かいミルクも』っていうんだから、もっと笑った。ちょっと困ったんだよ、期待していた答えと違ったもの。人間の望みは、もっと尊大なものだと思っていたから」

「それで、出て来たのがこれですよね」

「その通り。全く同じものだ」


 一言一句、一挙一動、何も忘れていない。窓辺のテーブル席にて、魂が抜けて人形になったようになっていた。そんなアメリアの前に、亭主はこのカップを持ってやってきた。


『スープは今作っている。先にこれを飲むといい。しばらくろくにものを食べていないんだろう? ゆっくりと、少しずつ、お腹をびっくりさせないようにね』


 そう言って彼はアメリアの頭をなでると、燕尾を翻して奥の空間へと消えた。


 本当にいいのだろうか、後で対価をせしめられたりしないだろうか。普通なら少しためらうところだが、孤独と空腹に灯火を消されかかっていたアメリアは、骨と皮しかない小さな手でマグカップを取った。


 そっとか細い息を吹きかけて、舐めるように飲んだ人肌よりもやや温かめのミルクは、アメリアの心に火を灯した。こんなにおいしいものがこの世にあるなんて。温かく優しい光に包みこまれ、アメリアは無我夢中にそのミルクを飲んだ。ぼろぼろと大粒の涙をこぼしながら。


 往時の思い出のミルクを再び。もう泣きはしないけれど、これは世界で一番おいしい飲み物だから。静かに胸をときめかせながら、温かい液体に口をつける。


 しかし。


「……全然おいしくない」


 アメリアは顔をしかめてカップを置いた。おかしい、どこか舌に障る苦味とえぐみがあって、おまけに青臭い。とても飲めた代物ではない。どういうことだ、まさかマスターが失敗作を人に飲ませるはずないだろうし。人の記憶を踏みにじるような悪い冗談、いや、此の期に及んでそれはないだろう。


 本当にあれと同じものなのか。怪訝な面持で問うアメリアに、マスターは肯定を示しながら種明かしをした。


「おいしくない、そりゃそうだ。色々な薬草が混ぜてある。味なんて二の次だ、とにかく君の体をどうにかしなければいけなかったのだから」


 死に瀕していた、いや、既に半分ほど彼岸に足を踏み入れていた。彼が豪雨の中に伏せるアメリアを見出した時には、そんな有様だったのだ。栄養状態が悪い、擦りむいた傷は膿んでいる、内臓は弱っているし、発熱もひどい、おまけに精神も参っていた。一刻も早く、正しい処方が必要であったのだ。さもなくば、彼女の命は雨に消えていた。


 良薬は口に苦い、しかし効くとわかっていれば我慢して飲むし、味にすら構っていられないほど窮まった状況ならなおさら。薬湯など必要ない、そうなったら、体が拒絶するのも当然だ。


「だから、おいしくなくていいんだよ。正解なんだ。それはもう今の君には必要ないもの、君は外の風に負けないくらい元気になった。そういうことなんだ」


 マスターは感慨深く目を細めながら、マグカップを取り上げてしまった。口直しの茶は、何でも好きなものを淹れよう。そんな彼の言葉に、アメリアはイチゴのミルクティをリクエストしたのだった。


 

 アセムの茶葉と乾燥イチゴをふんだんに使って、濃い紅茶を淹れる。それと温めたミルクを混ぜ合わせ、カップに注いだら出来上がり。煮出しても良いものだが、食後に飲むことを考えると、濃厚過ぎるのも満腹感を増長させよろしくない。


 カップを整えながら、マスターが不意に講釈を始める。


「これは僕の持論なんだけど。ミルクを飲むと心が休まるのは、きっと母親の腕に抱かれる赤子の頃を感じられるからだと思うんだ。無意識の下で、だけど」

「……はあ」

「温かい愛情が、人間には何よりの力の源なのさ。そう思って飲むと、きっとより一層おいしく感じられる。茶を喫することはそういうものさ。――さあ、どうぞ」


 母親。目の前に置かれたカップを見ながら、アメリアはぼんやり思った。しかし、両親のことは全く覚えていない。母の顔も、父の顔も、アメリアは知らない。こうして産まれてきたということは、絶対に居たはずなのだが、物心つく前に別れてしまったのだろう。


 向かいの席でマスターがそうするように、アメリアもミルクティを飲んだ。優しく、甘やかで、温かい。覚えていないだけで、こうした気持ちで母親に抱かれていたことがあるのだろうか。父親に無垢な笑顔を振りまいていたのだろうか。わからない。


 でも、それ以上に。アメリアの意識する愛情の主は。


「マスター」

「何だい?」

「もう一つだけ、お願いがあるんです」


 一度カップを置いて、少し畏まったように座り直し。ずっと思っていたことだった、いつかきちんと伝えたい想いだった、しかし気後れや気恥ずかしさでうやむやにし、結局別れ際になってしまった。今なら言える、今しか言えない。


「もし、これから、私の家族のことを聞かれたら。そしたら、葉揺亭のサベオルさんが私のお父さんですって、そう言いたいんです。マスターじゃなくって、そうやって紹介しても……いい、ですか」


 言い切ってなお、鼓動が大きく鳴っている。事実上家族のようなものだったが、明確に本人に向かって宣言するのは始めてだ。しかし呼称が欲しかったのだ、店主と店員という関係性が解かれても、決して切れることが無い二人の絆の糸を表す言葉が。


 マスターは思慮深い目を細めた。戸惑っているように小さく震える唇を動かして、押し出したような声で言葉を紡ぐ。


「本当に、僕なんかでいいのかい? 僕は――」

「マスターがいいんです」

「……質問に質問で返すのは、無粋だったな」


 自分の弁を言い切る前にアメリアに即答され、彼は押し殺した笑いを上げた。ますます細くなった目からこぼれた雫を、前髪をかき上げるふりして指で拭う。それをあげつらうのも無粋だ、アメリアは膝の上で手を握り、答えを待った。


「もちろんさ。君は、僕の大事な娘なんだから」


 湿り掠れた音だった。潤んだ三日月状の目に真っ直ぐ見つめられ、アメリアは気恥ずかし気に笑んだ。ありがとうございます、そう言って、そそくさとカップを取って己の表情を隠す。さっきよりも甘さが増したミルクティには、喉の奥で嬉しいしょっぱさが溶ける。


 

 最後の茶話さわは穏やかに語り合う一時だった。食堂とか酒場とか、色々な種類のお店で働いて経験を積んでみたい。落ち着いたら手紙を書く。いい人に巡り合って結婚して、子どもも欲しい。いつか必ず自分の店を持つ、そうしたら絶対に遊びに来てくれ。とめどなく語られるアメリアの願望を、頷き、応援し、時には冗談を交えてからかいながら、マスターは終始微笑みと共に聞いていた。これまでの日常と何ら変わらない、茶を片手に広げられる穏やかな会話劇だった。


 だが、別れの時は来てしまった。かちりとなった時計の針を見て、二人は同時に悟る。そろそろ発たねば、同道者との待ち合わせに間に合わない。それに、店を開ける準備を始めないと、オーベルの来訪にも間に合わない。


 アメリアは席を立ち、自室に置いてあった鞄を背負う。窓からの風景を見納めて、確かな足取りで階段を駆け下りた。歩き慣れた廊下を堂々と進み、長きを過ごしたカウンターを抜け、一歩一歩確かめるように店を横切り、玄関へ。


 玄関の扉はマスターが開いてくれた。外は快晴、眩しい光が差し込んで、二人仲良く目を眩ませる。


「……いい天気だ」

「本当ですね」

「馬車を使わないのは正解だったかもね。のんびり歩いたほうが、気持ちいい空だ」


 アメリアは頷いて、一歩前へ出た。葉揺亭の境界線を跨いで、もう外に居る。だからマスターとはここでお別れだ。彼は下手に外へ出られない、だから最後まで見送ってくれと無理を言うつもりはない。


 アメリアは道の真ん中まで出ると、これで見納めだと葉揺亭を振り仰いだ。崖のふもとの木造の一軒家、いつ見ても、店には見えない。でもここは、素敵な喫茶店だ。自分の帰るべき場所、マスターの聖域。


 そのマスターが、アメリアの隣に寄り添って来た。あまりのことに口をあんぐりとさせる。もちろん装いはいつもの燕尾とシャツ、身を守る手立ては一切していない。燦々と注ぐ直射日光に黒い髪が艶めくが、色白の肌はいささか不調和だ。 


「いいんですか、そのまま外に出て」

「いいんだよ。だって、娘の旅立ちを見守らない親がどこにいるんだい? 今まで良く働いてくれた愛弟子の門出を見送らない主は?」

「だけど……」

「何かあったら、何とかするさ。僕を誰だと思っているんだ、あまり見くびってもらったら困る」


 マスターは得意気に眉目を上げた。葉揺亭の主の裏の顔は、世界屈指の魔術師だ。あの手この手で奇跡を起こし、悠久の時を生きていく。今までもそうで、これからもきっと。そんなものを心配するのは無用だ。アメリアは四の五の言うのを止め、素直に甘えることにした。


 それでも、見送りはここで良いと。彼には彼の仕事がある、葉揺亭の主として、客を迎える支度をしなければならないのだから、ノスカリアの出口まで連れ立つには時間が足りない。


 最後に固い握手をした。その後は抱擁も。優しく包み込まれるように、しばらく温もりに身を預ける。


 それで終わり。いや、そうではなかった。アメリアは思い切り背伸びをして、ついには少し跳ねるようになりながら、マスターの頬にキスをした。親愛、感謝、そんな思いを込めて。


 思ってもいない贈り物に、マスターは面食らっていた。しかしお返しはしっかりと。若干膝を曲げ、アメリアの額にキスをする。やましい気持ちは一切ない、無償の愛と祝福のしるしとして。


 お互い少し照れくさそうに頬を色めかせ、視線をかわす。一心地ついたところで、二人は同じ方向を見た。


 晴れ渡る空の下、道は長く遠く続いて、終わりは見えない。アメリアは一つ深呼吸をした。そして。


「マスター、行ってきます!」

「ああ。アメリア、いってらっしゃい、良い旅を。体に、気を付けて」

「マスターも、元気で居てください」


 アメリアは笑顔で手を振って、真っ直ぐ行く先を見て、自分の道を歩き始めた。遠ざかる背中は一度も振り返らない。時々目のあたりに手を伸ばしているが、足取りは頼もしく。迷うことなく歩いていく。


 マスターは、彼女の姿が完全に消えるまで、ずっと背中を見送っていた。初めて会った時の様子が嘘のように、たくましく、頼もしく、明るい後姿だ、何の不安も無く外の世界へ送り出せる。


 手と手が離れても、心はいつも繋がっている。思い浮かべればいつでも傍らに。だから、笑って見送った。笑いながら、泣いていた。誇らしげに。



 視界から彼女の影が一切消えてから、マスターは快晴の空に向かって大きく伸びをした。


「さて、と。僕も自分のやることを、やらなくちゃね」


 久々に直接浴びた陽の光に名残惜しさを感じながらも、彼は店の中へと帰る。葉揺亭の主として、来客を迎える準備をしなくては。朝餉の後を急いで片付けないと、もうじき一番客が来てしまう時間だ。


 いざ、蔦の葉扉の向こうへ。マスターが進む足取りにも、迷いは一切なかった。

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