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思い出の在り処

「しゃしんや?」

「はい。目の前にある『真』を『写』すから写真屋さん」

「ふーむ……よくわからないぞ」


 朝の買い物から戻ったアメリアから飛び出した言葉に、マスターは首を傾げた。走らせていた羽ペンは持ったまま、腕を組んで思考する。この世で最も分厚いと自負する脳内の辞書を開いても、該当する言葉はみつからない。


 自分も人づてだから確かではないが、そう前置きしながらも、アメリアは一定の確信をもって説く。

 

「あれです、写し絵です。話を聞いた風だと、この前向こうの世界でみたあれにそっくりで。あっ、でも魔法の力じゃなさそうですよ。たぶん」

「……なるほど。そんな技術が出来たのかい?」

「詳しいことはわかんないですけど、東の大陸から来た人らしいですよ」

「東か。あっちは独自の文化風俗が強いからな。亜人種の村落も多いし、変わった技術が出てきてもおかしくない」

「そうなんですね」

「ああ。それに茶の文化圏としても奥が深い。アメリア、興味があれば行ってみるといい。楽しいよ」


 アメリアはあいまいな笑みを浮かべた。旅立ちまで残り三日、マスターがその事実を拒むことなく口にするのは気楽だが、しかし少し寂しいものも感じてしまう。いよいよお別れなのだ、彼の庇護下から出る時がやってくるのだ。


 だから写真屋の話をしたのは、ただの近況報告というわけではない。


「あの、マスター――」 

「いいよ。ただ、ここに来てもらってね。僕はもうてこでも動かないから」

「私まだ何も言ってないのに!」

「君の考えてることなんて大体わかる」


 さしずめ、あの写し絵を思い出して、君と僕の並んだ図を同じように残したいと思ったんだろう。マスターにより語られたそれは、図星であった。今の幸福な時を切り取って残しておきたい、人間なら誰しもそう思うのではないか。なるべく緻密に、一つの間違いも無く、いつまでも色褪せないままで。


 正直な話、マスターは拒否すると思っていた。アメリアは彼が古の足跡と今の自分を切り離したがっていると強く感じていたし、それなら今から未来にかけても同様なのではないかと。だから「いいよ」という返事がどれだけ嬉しかったか。


「じゃあ、今すぐお願いしてきます!」


 今しがた戻って来たばかりだというのに、アメリアは茶の一服もせずに再び飛び出していった。買い物の戦果たる花のハーブや多種の果実が詰まったバスケットも、片付けもせず放りだしたままに。


「……元気だなあ、アメリアは」


 マスターは苦笑した。活動的なのは良いことだ、若々しい力の象徴だ。少々考えずに行動するきらいがあるから、そこが改善されれば言うことないのだが。


 彼は頭の後ろで手のひらを上に向け組み、ぐっと天高く腕を伸ばした。首を左右に倒すと、筋肉がほぐれて心地よい。


 疲れているのだ。もう動きたくない、それは本音だ。魂は無限の時を生き永らえる存在と言えど、肉体は人間だ、疲労はたまるものである。普通の日常ならその日のうちに回復してしまえるが、いかんせん、このところは身を削りすぎた。魔力は生命力と密接に絡んでいるからして、久方ぶりに高度な魔法を酷使したのが、消耗としては一番大きい。別に深酒で死に体になったせいで辛いのではなく、逆に疲弊した体に強い酒をつぎ込んだから耐えられなかったのである。


 しかしゆっくりと休んでもいられないのだ。急ぎ仕上げなければいけない文書が目の前にあるし、他にも色々。結局いつもみたいに茶を飲み、あるいは少し魔法の薬草を混ぜ、日々の中で気力を養生させていくのが一番良い。


 それにしても。


「写し絵、か」


 マスターは頬杖をつきながらつぶやいた。アメリアにわざわざ説明されずとも、その単語を聞いた瞬間に浮かんだのは、向こう側で眠っている古い図画帳。思いもよらず再び見てしまったあれは、自分の同輩や師匠、かつて見た日々の風景を映したものだ。


 ではあれを撮ったのは。切なげに色を変える亭主の目に、遥かなる過去に見た「彼女」の幻影が浮かび上がる。


 そして、彼の中でまばゆい光が弾けた。心の眼をも怯ませ、いかなる思考や記憶をも眩ませる、清浄で強烈な魔の光が。



 全身の神経が波打つような感覚に苦悶しながら彼が聞いたのは、くつくつと笑う鈴のような声だった。


 また、あれか。椅子にぐったりと背を預けたまま、ようやく目を開き視れば、前に居るのはやはり蓮の葉を持った「彼女」だ。苦言の一つも言わねば、気が済まない。


「リーメウス、何をしてくれるんだ。君の光は、私にはすごく刺さるんだ。やめてくれ、やるならあの二人にやれ」

「だって、こうでもしないと素直に撮られてくれませんから。お嫌でしたら、お二方のようにしてください」


 「彼女」――リーメウスは舌を出して笑った。今しがたどさくさに紛れて盗撮した「写し絵の蓮(ロタ・フィクシア)」の図を堂々掲げて。椅子にもたれて目を伏せる黒髪の青年の写像が、はっきり焼き付けられていた。見る限りでは居眠りの寝顔を晒されているようで、あまり好ましくない。


 しかし無邪気に笑い、透き通るようなプラチナブロンドをなびかせ、からかっているかのような足取りで逃げ去っていく、そんな彼女を追う気にはなれなかった。柔肌の腕で、あんまりにも愛おし気に写し絵を抱いていたから。無理に取り上げてしまえば、彼女自身のみならず、師からもいらぬ怒りを買いそうだ。



 リーメウスは彼――今日こんにちに言うサベオル=アルクスローザの師匠にあたる人物に、小間使いとして仕える娘であった。正式な弟子たちとは違い魔法使いではなかったが、少々の魔術は扱える。というのも、彼女は人間ではないからだ。自然のことわりそのものを「精霊」と象徴化し、さらにその力を宿し肉体を持った神秘たる生命体、それが彼女の血筋だった。


 だがそのことを気にする者は居なかった。彼女が人間以上に、人間らしかったせいでもある。今、むっつりとした顔で瞑想にふける彼と、リーメウスとを並べて、「どちらが真っ当な人間だ」などと聞いたなら、誰しも彼女の方を指すだろう。


 そして人の性か、リーメウスは長くを共に過ごした彼に恋慕を抱いていた。誰が見ても明らかな程のものであったが、ただ一人、その情の向く先の男だけが、徹底して人の心に無関心であった。


 後に彼は、世の深淵を覗きこみ、大罪を犯し、人ならざる者との烙印を押され、偉大なる師の下を離れた。そうなっても、彼女の想いは何一つ変わらなかったらしい。隠遁し、孤独に生きる男の元へ、ある日突然リーメウスは押しかけて来た。なぜ場所を知った、どうやって結界を越えた、その答えを彼が己の中で予測し正しく結論付けるするよりも早く、彼女は以前と何も変わらない無垢な笑顔を見せながら、さも当然というように告げたのだ。


「新作のお茶をお持ちしました。氷衣紅ひいくれないが咲いてましたので、こちらはお菓子にしましょう」


 何の遠慮も無く彼の城に踏み入って、机上にとり散らかっている魔法の研究道具を腕で押しやり、蔓を編んだ籠から茶の道具一式を机上に広げる。あっという間に茶会の会場に塗り替えられてしまった。


 彼が魔法薬を追究するように、リーメウスは茶に熱を上げていた。色々な草花を煎じては味を試し、人に飲ませることに興じていた。時には自分の主人とその教え子の腕を強引に掴んで同じ卓を囲わせ、質素な茶会を催すこともあった。彼が去ってからも、その辺りは変わっていなかったらしい。


 来るなと行ったのになぜ来た、師の怒りを買っても知らないぞ。男が険しくまくしたてても、リーメウスは風のようにかわすのみ。詰問をのらりくらりとやり過ごし、しかり手際はてきぱきと、あっという間に茶の場を整えた。


 彼は諦めて卓の前に腰を据えた。ここまで来たら引いてくれる娘ではないし、全く手を付けないのも礼にすたる。何より、本当は、彼女の来訪が嬉しかった。その心は当時の彼には無意識下にあり、今思い返せば……というものである。あの頃はとかく「心」に関する事象を、ことごとく理解していなかった。振り返ると、胸が痛い。


 木を丹念に削ってこしらえた器を黙ってとり、リーメウス自慢の茶を飲む。彼女は身を乗り出して、当然の問いをした。


「おいしいですか?」

「……ああ」

「どういう風に?」

「どうって……言えばまた『話が長い』と怒るのだろう?」

「長いのではなく言葉選びが下手なんですよ。わたしは皆さまほど頭が良くないですから、わかりやすく言ってもらえませんか?」


 青年は困ったように顔をしかめ、思わず頭を掻いた。無数の語彙から、適切な言葉を探す。味、匂い、見た目、音、あらゆる形容が浮かんでは没した。どんな魔術の式を考えるよりも、ずっと難しいことで、頭が痛かった。


 考え、考え、見つけた最適解は。


「心が温まる。上手く言えないが、そういう言葉が一番近いと思う」


 その途端、リーメウスは吹き出した。我が意を得たりという風に笑い転げる。そして不愉快な面持を隠さない男に、一言告げた。


「やっぱり、貴方様は人間ですね」

「どういう意味だ?」

傀儡かいらいであれば心はありません。神霊であれば温度がありません。皆、貴方は人間を辞めて変わってしまったと言いますが、いいえ、全然変わってないじゃないですか。素直じゃないだけで、本当は優しい方。誰よりも深くこの世界を理解し、愛そうとしているそんな方。よかった、わたしの好きな貴方様はここに生きていた」

「買いかぶりすぎだ。君に何がわかる」

「いいえ、わかります。こうやって真っ直ぐ向き合って、一緒にお茶を飲んでいると、だんだん心の奥のものが染み出して、お茶の中に溶け込んでくるのですよ。……ああ、今日のは特別おいしいわ」

「わけがわからないな」


 そうぼやいて、彼は再び茶を口にした。先ほどと何ら変わらない味、あたりまえだ、どんな魔法を使ったわけでなく、会話の間で茶の構成が変わったわけでもないのだから。茶に溶け込んだと言われても、表面を視る限りなにも変化は無い。ふん、と冷たく鼻を鳴らす。


 その光景を、気づかぬうちに過去の己から離れたサベオル=アルクスローザが、横で傍観していた。そして、切なげに微笑みながら首を横に振った。


「今なら、わかるよ、リーメウス」


 葉揺亭のマスターとして暮らし、ようやく共感できるようになった、彼女の心。気の遠くなるほどの時間をかけて、やっと彼女と同じような人間らしい心を自覚した。聞けば彼女は喜んでくれるだろう、しかし、この言葉が届くことは無い。


 この後、しばらく歓談した。師の近況や、同輩のことを語ったはずである。それなのに、過去の幻影の二人は、彼の目の前ですっと消えた。魔術の道具で埋め尽くされた小さな屋内に、場違いな装いをした自分が一人取り残され、しばしぼんやりしていた。


 そして、外から声が聞こえた。外だ。その意味、あの日の出来事、気づいた瞬間、サベオルは燕尾を大きく躍らせ、あばら家の外に飛び出していた。顔は蒼白、絶望に歪ませ、だ。

 


「ねえ、このまま一緒に帰りましょう」

「帰る? 私の住処はここだ。それに、私を何だと思っている。私は赦されざる罪人だ。他ならぬ我が師が、君の『ご主人様』がそう定めたのに」

「でもご主人様は貴方様に出ていけなんて一言も言いませんでした。今も変わらず、貴方様のことは大切に思っていますよ。大事な一番弟子なのですから」


 ゆるい傾斜を昇った丘の頂点に、二人は並んで居た。足をもつれさせながら必死に駆け寄る。止めなければ、何が何でも。しかし黒衣を纏った自分にあと一歩で手が届くというところで、見えない蔦に絡まれた様に足が動かなくなった。


 想いは空しく、脳内にこびりつく忘れがたい記憶が再生されるのを、ただ見ているだけ。リーメウスが彼の右手を、両手で包むように取る。


「だから、戻ってきてください。私が一緒に行きますから、大丈夫です。孤立させたりなんかしません。ですから――」

「駄目だ!」


 彼は強く手を振り払った。勢いで体勢を崩したリーメウスが、そのまま尻餅をつく。


「馬鹿がっ……!」


 体が動きさえすれば、自分を殴り飛ばしたかった。胸倉を締め上げ、その頬を張り倒したかった。なんでその手を払ってしまったのだと、問い詰めたかった。その答えは知っているけれども。


 手を取れなかった理由。一つ、彼女が自分の古い名を呼んだことを憂慮したから。一つ、師の前に連れていかれるのが怖かったから。一つ、彼女が何故自分の手を取ったのか、そこにどんな意味があったのか、本気で理解出来ずに困惑したから。


 リーメウスは、己を突き飛ばしておきながら謝罪の一つすらしない薄情者に、しかし変わらぬ微笑みを送って立ち上がる。


「今日は、帰ります。でも、また来ますね」

「やめろと言っても聞かないんだろうな。……道中気を付けて。近頃、不穏な気配が漂っている。妬み、僻み、恐れ、蔑み、忌むべき感情が、そこかしこに渦巻いて、溢れそうになっている」

「そんなこというくらいなら、送ってくださればいいのに。わたし、怖いわ」


 顔に影を差し、拗ねたように言いながら、リーメウスは軽く手をもたげた。手のひらを上にして、誘うように。


 これが最後の機会だ。その手を取らなければ、一生後悔するぞ。どれだけ叫んでも、どれだけ吼えても、過去の己には届かない。だから、彼は酷薄なことを平気で言う。 


「来られたのなら、帰れるだろう。子どもでもないし、人間でもないのだから。第一、本当にそこまでの恐怖を抱くのなら、そも危険を冒して私などのところに来たりしない。何より私の方が、有象無象よりずっと恐ろしいものだ、そうではないか?」


 その戯言に、リーメウスは悲しげな顔をして、腕を降ろした。


 燕尾のベストを着た男は、その場に崩れ落ちた。ぎりぎりと歯噛みして、頭を抱える。この時手を取らなかったことを、今でも後悔している。リーメウス、彼女は、誰よりも自分を愛し理解し、一人の人間として寄り添おうとしてくれた。甘んじて受け入れれば、失わずに済んだものもたくさんあった。


 だが、何もかも、貴重さに気づくのは、失ってからだ。後悔した時には、もう手遅れ。


 冷たく振り払われても、想いが全く届かずとも、リーメウスの中には、彼を見切るという選択肢はなかったらしい。困ったように笑みを含み、言う。


「じゃあ、また。今度は貴方のお好きな白花のお茶を持って参りますね」

「……いつ好きだと言ったかな」

「言ってないですけど、顔が違いましたもの。あのお茶の時は」


 含み笑いする彼女の声が歪んでいく。はっとして、サベオルは悲壮感溢れる面を上げた。リーメウスは、棒立ちしている青年に手を振って、丘の向こうへ消えていくところだった。


 行ってはならない、行かせてはならない。一緒に行くか、一緒にここに居るか、手と手を掴んで離さない、そうすべきだったのだ。そうしなかった結末はどうなったか。視界が赤黒く染まっていく。


 また、は無かったのだ。ちょうど同時期に、人間たちが反魔人で蜂起したのだ。人智を越えた魔法の力を、それを扱う者を、理解出来ないがゆえ忌避し恐怖したため。その人と魔の戦乱の煽りを受け、リーメウスは帰路の途中で人間の手に落ち、無残に命を散らした。それを知った時、彼の心には言いようのない喪失感が生まれ、そしてようやく後悔したのだった。



 視界が黒に滲んでいく。彼女は一体、どんな思いで最期を迎えたか。苦しかった、辛かった、痛かった、助けてほしかった、そうに違いない。ならば助けなければ、探さなければ、彼女の手を。サベオルは闇の中でもがいた。


 だが、忌むべき感情が怒涛のごとく押し寄せ、流される。悪意の蔓が身に絡みつき、自由を奪い、底無しの沼に引きずり込む。今まで切り捨てて来た者たちの恨みが、踏みにじってきた心が、不協和音を奏で脳を削る。お前に人の心は無い、お前は人間ではない、お前に幸福など創れやしない、お前は生きていてはいけない。訴えかけられる声が、心を蝕み、壊す。


 やめろ、聞きたくない、来るな、嫌だ、許してくれ。えづき叫んでも、誰も答えやしない。そう、引きずり込まれたここは、永遠の闇がはびこる牢獄。気が狂うまで罰を与えられる孤独なる場。


 うずくまり震える男の目の前で、ひらりとひとひらの光が舞った。光? 違う、手だ。縋るように夢中で掴む。ああ、リーメウス、今度はもう放さない、もう後悔はしない、何が何でも守ってやる、君の心に応えてやる、望みは全てかなえてやる。そんな誓いを立て、強く握りしめる。だからもう一度、この手を救い上げてくれ、そう懇願し、そこで、気づいた。


 いや、違う。この手は――。



「――マスター、大丈夫ですか!? マスター!」


 悲痛な叫びに闇は裂かれ、男は大きく体を震わせた。息が弾み、心臓が激しく波打っている。口はからからに干上がって、しかし全身は嫌な汗で濡れていた。目の前に転がるペンの先から漂う、乾いたインクのにおいが鼻につく。固い作業台についた頬はひどくこわばっている。何より、全身が重くて仕方がない。


 そして台上に投げ出された右手は、アメリアがしかと握っていた。温かい両の手で、優しく包み込むように。そんな彼女もまた、色を失くし、困惑しているようだった。


「手を、手をって、ひどくうなされてましたから……。それで、起こした方がいいかなって、思ったんですけど」

「うなされ……僕は眠っていたのか?」


 こくりとアメリアは頷く。真剣なまなざしだ。


 マスターはのそりと頭をもたげた。同時に手も引っ込める。アメリアもあっさりと解放してくれた。この場合は、縋り付かれても気恥ずかしいだけだからそれで良い。


「なにかこう、心の落ち着くお茶を淹れましょうか?」

「……ああ、頼む」


 アメリアの提案を甘んじて受けながら、自分は未だ霞がかかったような頭を押さえ、肘をつく。


 思った以上に疲れているのだな、と彼は思った。ただ回想をしていたはずなのに、いつの間にか夢に落ちていたとは、稀なることだ。眠り、夢を見る、それは人間にとって毎日当たり前のことでも、彼にとっては何年ぶりかもわからない行動だった。ましてうたた寝など、初めてかもしれない。


「怖い夢でも見たんですか」


 アメリアの言葉に、マスターは苦笑しながら首を縦に振った。


 夢とは、人が眠る間にも働く脳が見せる幻影である。己の記憶の欠片を繋ぎ合わせて映される像だから、どれほど荒唐無稽でも、全く現実と関わりないものを見ることも無い。だからあれは、夢であると言っても、妄想や幻想ではなく、真実だった。言の葉をきっかけに引きずり出された過去の事件。


「彼女のことを思い出してしまったから。リーメウス……あの時手を振り払わなければ、共に行けば、彼女を守れたのに」


 自嘲する男に、アメリアは何も言わなかった。何があったのか、どんな夢を見たのか、そう聞かなかったのは、彼女の優しさだ。傷の種類によっては、触れない方が早く癒える。


「忘れられないものだな、やっぱり。もう忘れてしまいたいのに……手の届かない過去は、思い起こしても悲しいだけだから……。どうやったら、忘れてしまえるだろうか……」

「駄目です、忘れちゃ駄目です」

「……どうしてそんなこと言うんだよ」


 拗ねた口調で言う彼に、アメリアは呈茶をする手は止めずに笑いかけた。


「だって、大切な記憶なんですもの。だから、マスターが生きてる限り、忘れちゃいけないし、忘れられないんだと思います。悲しかったこともですけど……それ以上に楽しかったこと。だから、楽しかったことの方をたくさん思い出してあげてください」

「楽しかったこと、ねえ」


 彼は言われるがまま、自分の心に問いかけた。楽しかったこと、そんなことを言われると。


「参ったな。君の顔ばっかり浮かんでくるよ」

「嫌、ですか?」

「全然」


 真剣な面持ちでそう言うと、アメリアは仕上がった白磁のポットに手を添えたまま、笑い転げた。そうですよね、知ってました、と。つられてマスターも笑う、気恥ずかしさも何も無く、心を開いて。


 その時だった。アメリアの向こうに、プラチナブロンドの彼女が立っていた。後ろ手に組んで、彼の方を見て、変わらぬ無垢な笑みを浮かべていた。


 息をのんで手を伸ばしかける。だが、彼が動くより先に、彼女の姿は夢のように消えた。


「どうしました?」


 カップに茶を注ぎながら、アメリアが不思議そうに首を傾げている。何でもない、とマスターは言って、しかし自分の目をそっと覆った。


 記憶はずっと胸の中にある。有る無しではなく、振り返ってみようとするか、封じ込めて見まいとするかの違いだ。だから、彼女の影も、ずっと自分の中に、隣に、あったのだ。


 畏れられるを厭い、魔術師であることを隠し、名を変え姿を変え一人の人間として静かに生きよう。しかし孤独に震えないように、無に苦しまないように、そんな何かを始めよう。そう決めた時、何の疑問も無く彼は思った。それは茶だ、喫茶店だ。どこからそんな発想が降って沸いたのか、今ならわかる。

 

 

 「マスター、できましたよ」


 うっすらと草色がかった水色すいしょくの湯から、やわらかく上品な甘さの香りが立ち昇る。カモマイルとリンデンのハーブティ、添えられたティースプーンにはオレンジのスライスが一枚。ぴしりと角の立った気持ちの良い見た目のそれを、カップの中に入れて少し揺らし、引き上げる。疲労困憊の心身を包み込むような優しさの中に、淀みを拭き流す清涼感が加わって、実に染み入る味わいだ。


 ゆっくりと確かめるように味わっていると、マスターの手にあるカップの中に、アメリアがひょいと何かを落とした。買い物に行ったバスケットに入っていた、八重咲きの白い花。淡色の海にそりたつ灯台のように、存在感が際立つ。


「おまけです。こうすると、かわいいですから」


 アメリアは屈託なく笑った。その花自体は珍しいものではない、ある種の薬草の花で、この時季になると咲き始めるのだ。おそらくアメリアも鑑賞目的で買って来たのではあるまい。


 しかしこのタイミングで使うのには疑問が残る。独特の臭気と苦味がある薬草だ、この甘やかなハーブティとは相反する。それでも加えたかった理由があるとしたら、それは。 


「季節感?」

「当たりです。それで変な味になっちゃったら、ごめんなさい」

「……いいや、おいしいよ。さっきよりも」


 後で浮かべた程度だから、味も大して出てこない。しかし、それ以上に彼女の気遣いが嬉しかった。人の心が溶け込む茶は、舌先で味わうのではない、心で味わうのだ。だから、おいしい。


 自分は外に出られないから、色々な物品を見て間接的に外を旅する、そんな話をしたこともあったっけ。アメリアとの思い出を一つ一つ思い出しながら、マスターは彼女が隣に居る喜びを、癒しの茶と共に味わっていた。


 いや、待て。一つ大事なことを忘れている。


「そうだ、写真屋さんは来てくれるって?」


 この日々の記念を残したい、だからアメリアは飛び出していったのだし、自分は過去に浸ってうなされていたのだ。


 アメリアも忘れていたとばかりに顔を色めかせ、舌を出した。


「そうです、それです。夕方に来てくれるそうですよ。急いでるって言ったら、超特急で仕上げてくれるって言ってくれました」

「そうか。じゃあ、それまでにしっかりした顔を作っておかなきゃな」


 マスターはぴしりと自分の頬を打った。一生残る物である、また不意打ちで撮られて、くたびれた顔を晒し続けるのは勘弁願いたい。



 そして夕方。宣言通り顔も髪も衣服も完璧に整えたマスターは、アメリアと二人並んで立っていた。カウンターの前に出て、茶器が並ぶ食器棚を背景に。笑顔を作った彼らが微動だにせずの見るのは、三脚の上に鎮座された木箱から飛び出すレンズ。撮影機だと言うが詳しいことは「企業秘密や」と言って、写真屋は教えてくれなかった。


 それなりに重量のある器材を肩に担いで持ってきた写真屋は、健康的な見目をした若い女性だった。今も箱の向こうでからからと笑う彼女の声が響く。別大陸の人間だ、言葉は通じるが、少々癖が強い。


「いやー、お嬢ちゃんはかわいいし、店主さんかっこいいし、写しがいがありますわ! あっと、動かんどいて、像がぶれてまう。もうすぐ終わるし、我慢してな!」


 写真屋は懐中時計を見ながら言う。魔法ではないのだから、一瞬で終わりというわけにはいかないらしい。動くなと言われれば、つい息も殺してしまう。紅茶一つ入れるよりもずっと短い時間のことだったのに、慣れない二人には表情も石になってしまうような、長い時間に感じられた。



 無事に撮影を終え、マスターは写真屋に茶を一服出した。急な仕事を頼んでしまった詫びもあるが、それ以上に、葉揺亭の扉をくぐらせておきながら、茶を振る舞わずに帰らせるのは、少々主義に反する。


 選んだのはルーチェと呼ばれる東方大陸で馴染みの茶だ。炒って火を入れ製造されるのが最大の特徴で、味にも香ばしさが出る。海の向こうでは普遍的なのだが、実はノスカリアでは、努めて商人を手配し買い付けない限り、まず手に入らない代物だ。とは言え海を越えるのは、異界の壁を越えるよりずっと簡単なことだから、このマスターに限っては入手何度は問題にならない。相手が喜ぶのなら、躊躇いなく提供できる。

 

「うんまい。こりゃええお茶つかってますなあ。地元におったとき、思い出しますわ」

「聞きたいなあ、君の話。東方大陸は茶の名産地が多いし」

「ええけど、うちはそっちの方あんまり馴染み無いし、そんなに面白い話もできんと思うよ」

「つまらない話なんてないよ。一人ひとりが違う物語を持っているんだ、こうやって、お茶でも飲みながらゆっくり話していると、それがよくわかる」


 向かい合って、語り合う。そうすることで相手のことが見えてくる。何気ないしぐさ、喋る表情、好む味、嫌う話題。それを生み出すのは、その人が歩んできた人生の積み重ねだ。たった一杯の茶の向こうに、愛すべき人の生がある。


 マスターのくどい言い回しは、初対面ではおおよそ面食らった顔をする。写真屋も例外でなかったが、彼女も対人で仕事をするからか、慣れた風にけらけらと笑った。


「そりゃええな! ほな、さしずめ今日撮った写真は、店主さんとお嬢ちゃんの物語の表紙を飾る一枚ってところかな」

「だけど、時期的には裏表紙、って感じですかね。ね、マスター」

「どっちでもいいよ」


 一枚の写真は、長い物語のほんの一瞬を切り取っただけにしか過ぎない。アメリアとの日々は、わざわざかたちにしなくとも、色彩豊かな映像として頭に残っているのだから。


 しかし、物語。我ながら言い例えをしてしまったと、店主は得意気に笑みを浮かべる。


 そして物語には表題が必要だ。ふむとマスターは独り勝手に考える。


 葉揺亭にアメリアが居た、この夢のような日々。一人の人として何気ない日常を幸せに思う、今までと別世界で過ごしたような日々。茶を飲み、話し、皆で紡いだこの日々の物語。そこに、名前を付けるとしたら。


 異世界茶話。そんな題がふさわしいのではないだろうか。

葉揺亭 スペシャルメニュー

「癒しのハーブティ」

落ち着いた香りのカモマイルとリンデンをブレンドしたハーブティ。共に精神のリラックスや安眠に効果がある。

オレンジを加えることで爽やかさが加味され、飲み口もすっきりと引き締まった感じに。


「ルーチェ」

緑茶の類だが、炒ることにより香ばしさを出した茶。いわゆるほうじ茶。

質の悪い茶葉に価値をつけるため……という場合もあるが、葉揺亭のマスターはきちんと上質な茶葉を選んでいます。

さらりとした緑茶の味わいに、深みのある芳香がマッチする。


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※本作品を再構成・加筆修正を行った新版を2023年に公開はじめました。順次掲載していきます。  ストーリーは大きくは変わっておりませんが、現在本作品をお読みの方はぜひ新版をご覧ください  https://ncode.syosetu.com/n9553hz/ またはマイページから
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