酔いてたゆたい元通り ―後―
日暮れに向けて開いたばかりの大衆酒場だったが、既に酔客が散見された。気が大きくなった客たちの騒々しい喋り声が、享楽を求める人をさらに招き寄せる。商売人も政務官も異能者も、この場に飲まれれば、みな等しく酔いどれの位に並ぶのみ。
ことマスターにとっては、賑々しいのは好都合である。視覚聴覚、常人には無い第六感、いずれでとっても個々の存在感は希薄になるのだ。
そしてさらに都合のいいことに、オーベルをして「けったい」と言わしめた紅の衣装も、偶然居合わせた「赤肌」という亜人種の強烈さを前にして霞んだのである。なにせ向こうは皮膚自体が真っ赤で、それを堂々晒した上半身には、芸術的な墨が彫られているときた、好奇の目は真っ先にそちらへ引き寄せられる。
人目が怖かった。しかし、いざ注目を浴びぬとわかれば一転、とことん付き合ってやろうと開き直っていた。魔力感知を避ける簡易結界も、宵の口までは持つだろう。それまでに自分の堅城へ帰り付ければ何も問題ないのだから。
マスターはオーベルに進められるがまま、グラスの中の透明な酒を一気に飲んだ。かっと酒気が喉を焼く感覚は、嫌いではない。
「なんでい、飲めるんじゃないか」
「いつ僕が下戸だって言った」
「だってよお、おまえさん付き合い悪いし、お高くとまった感じがするからよう。ほれ、もう一杯やっとけ!」
空になったばかりのグラスに、蒸留酒がなみなみと注がれた。水で割ってあるとはいえ少々強め、あまり勢いよく干すものではない。わかってはいるのだが、勧めを断るのも無粋だろう。
そしてあっという間に三杯がマスターの体に入った。その後オーベルが自分のグラスに注ぐと酒瓶も空になり、すぐに追加の注文をした。
ゆがいた鞘マメをつまみに、オーベルがしみじみとした声を漏らす。彼の髭面は、既にほんのり赤らんでいた。
「早いもんだなあ。三年前か四年か? お前さんがあの子雇ったのってよう」
「えっ、嘘だ、そんな短くないよ。もっとずっと長く一緒に居た、ずっとずっと一緒だったんだ」
「いーや、そんなもんだぜ、細けえことは忘れちまったが。あれだ、あの頃のアメリアちゃん、ほんとになんにも、当り前のことすら知らないお子様って感じだったからなあ。そりゃ、育てたおめえさんは、赤ちゃんから見守ってきた気分になるだろうよ」
もごつく口で諭されても、マスターはまだ納得がいかず頭をかいた。
しかし実際はオーベルの方が正解に近い。わからなくなってしまったのは、マスターの時間感覚が常軌を逸しているのも一つだが、むしろ、アメリアと過ごした毎日が華々しかったから。虚ろに生きて来た永遠より、葉揺亭の主になったわずか数年の方が、ずっと実があり、人生の中で重い時間だ。
ふむ、とマスターはグラスを傾けながらぼんやりする。いつもなら、理屈をこねまわして言い返すものだが、どうにも思考が進まない。自慢の舌も回りが悪く、オーベルに先を越される。
「感慨深いもんだ、あんな立派になってよお。それを、他ならぬあんたがぶっ潰しそうになったってんだ、腹も立って仕方がねえ!」
オーベルは突沸した勢いのまま、マスターの背中をはたいた。
上体を打たれ前につんのめった結果、鼻頭をグラスへしたたかに打ち付ける。
じんじんと痛む箇所をさすりながら、口をついて出たのは反論だ。
「僕は、アメリアが立派に育ってくれて嬉しいと思ってるよ、いつだって。だって、僕の大事なアメリアだもの」
「あのざまでかぁ!?」
「……それは僕が悪いってことで片が付いたんだ。蒸し返さないでくれよ」
拗ねたようにそっぽを向く。自戒として忘れるつもりはないが、しかし他者にあげつらわれるのは愉快ではない。何より、アメリアを無理やり手元に押しとどめようとした醜態について、仔細に弁明をしようものなら、己の後ろ暗い部分にも触れることになってしまう。
正体を明かす、避けたいことだ。自分の名誉のためではなく、葉揺亭の関係者すべての安寧のために。守りたいのは、守らなければならないのは、アメリア一人ではない、彼女が愛したすべてなのだ。
「僕は、あの子が幸せならそれでいい。この世界のどこかで元気に暮らしているなら十分だ。後はもう、アメリアが自分の夢を叶えるのを見守るだけ。もちろん、頼ってくれるならいつだって手を貸すつもりだよ。アメリアのためなら、僕は何だってしてみせる」
そう得意気に宣言した。アメリアのこととなれば無闇に頬が緩むのは常だが、今は酒の力が手伝って割り増しだ。
「アホみたいな面しやがって」
オーベルがばっさりと切り捨てる。だが軽蔑されたのではなく、むしろニヤニヤと笑いながら肩を寄せてきた。
「なんだかんだお前さん、立派な父親の言い方するじゃねえか! じゃあよ、どーんと胸張って、世に送り出してやれ! いやあ、めでたい門出だ! ほれ、乾杯!」
がんと硝子同士をぶつけ、オーベルは酒を一気に飲み干した。もちろんマスターも同様に。
先ほどから心が高揚して仕方がなく、自然と笑い声が口から溢れて止まらない。装いを変え舞台を変え、それがかように楽しいものかと、彼は浮つく意識で謳歌していた。
オーベルは酒は片手に持ったまま、ぱりっと皮を焼いた腸詰をつまんで頬張りながら、急にしんみりとした空気をかもす。
「しっかしまあ、アメリアちゃんは俺にとっても娘みたいな感じだったんだわ。だからもうぽっかり穴空いた気分だが――」
「人のこと言えないじゃないか」
「おまえさんみたいな青二才と一緒にするんじゃないやい!」
「おいおい、僕は……いや、何でもないや、それで?」
「俺はちゃんと背中を送り出してやるぜ? しゃーないわ、そればっかりは。あの子の人生ってもんだからな」
がははとオーベルが笑う声につられて、マスターは目を半月にした。しかしぐわんぐわんと揺れる熱い脳の、ごく片隅の一角は冷えて縮み上がっていた。要らぬことを口走ってしまいそうになった、と。
――僕はあなたの何十倍も年上なんですよ。喉まで来ていた文章は、勢いで飛び出してしまわないよう、酒でもって腹の底に流し込んだ。
なおかつ、マスターが酔った勢いで失言するよりも先に、オーベルが懇々と語り始めた。
「話したと思うが、俺も一番上に娘が居てよう。なんだあ、俺にもかかあにも似てない、おしとやかに育ったんだ。それがよお、ある日突然、結婚相手だって旅芸人連れてきてなあ。かわいい娘でよお、俺に似てなくて――」
のらりくらりと喋る上、話は行ったり来たりして進まない、もちろん話し相手に酒を勧めることも忘れずに。しかも内容は惚気話だ。
伊達に喫茶店の主をやっていない、だから知っている。まともに付き合えば、かなり長くなる手合いだと。
感覚が浮き揚がっていく中、最後に地に着いた部分が冷静に警告した。――これは少々まずいのではないか? しかし、平地に引きずり降ろすほどの精神力は、あいにく残っていなかった。
魔法が解けるのは宵の口、それを知る魔術師の意識の外にて、ノスカリアは夕焼け色に染め上げられていた。
「遅いなあ……」
一人晩餐を済ませ、食器を洗いながら、アメリアはぼやいた。カーテンを引いた窓の向こうは、既に夜闇に閉ざされて、かすかな月明かりがあるのみ。光源石の魔法の光で照らしだされる葉揺亭の内は、昼間と変わらないけれど。
主が出かけたまま戻らない、だから店も閉じ切らない。いつも彼がそうしてくれていたように、アメリアは温かい光を灯して待つ。「おかえり」と迎えてくれる人のいることがどんなに嬉しいか、身に染みていた。
しかし、心配が募るばかり。相手が普通でない人だ、酒宴が盛り上がってしまって帰ってこないという安直な発想では終われない。
よからぬことが起こって戻れないのでは、追われて危機に陥っているのでは、そんな風に気が揉まれる。
「大丈夫かなあ……」
はあ、と吐いた息はやたら甘かった。イチゴを食べたためである。
ぼんやり時計を見つめやきもきしている中、ついに葉揺亭の玄関が動く時がきた。アメリアは台上に両手をついて弾かれた様に立ち上がる。
「おかえりなさい」と言いかけた笑顔は、しかし、立ち消えた。
確かにマスターが帰ってきた。赤いローブに身を包んだ怪しげな黒髪の男、見間違えようものか。ただし、腰で体を二つ折りにして、こちらに尻を向け宙に浮いているという登場法は、少々奇想天外が過ぎる。
……浮いている? いや、違う。別の人に担がれている。だらしなく垂れさがる体を軽々と支えるのは、これまた長い衣を纏った人だった。ただし、こちらは白い色だ。無機質の仮面をつけているから、彼か彼女かも分からない。
白衣と仮面、この二つを装着しているのは、治世の守り人ヴィジラである。政府の異能抑止力として日々目を光らせ、変事が起これば自らの異能を奮いて制圧する、たとえ血で血を洗う抗争になっても、一切の怯みも容赦も無く。
もちろん普通の市民に武力が向けられることはない、それを守るための力だから。
だが、魔の力を隠し持ち、裏でこそこそ奮っているような者は、見つかり次第即断罪だ。
つまるところ、マスターが力なくヴィジラに抱えられているということは――アメリアの顔から血の気が失せた。
弁護せねば、大事な人を守らねば。彼には彼の正当な事情がある、身を守るためやむなしで力を使うなら、許されると聞いたこともある。
「あのっ、マスター、悪い人じゃないんです! ほんとは駄目な魔法使ったのは、きっと悪い人に襲われたからで、だから連れて行かないで――」
カウンターから飛び出しざまに喚いた言葉は途中でしぼんだ。
気づいてしまった、おかしいのだ。不正を働けば即確保、罪人として治安局の管理下に繋がれる。こんなところに立ち寄る間もなく、強引に。であれば、今この状況があり得ない。
ヴィジラは秘密主義で正体不明、仮面の下に何が入っていても、見る者には知りようがない。例えば、正義の皮を被って悪が蠢いていたとしても、例えば、そう、アメリアが異界で出会ったような悪魔が人間のふりをしていたとしても。
だとしたら、最悪の状況だ。めくるめく、アメリアの中に危機感が募る。
大事な人を助けないと。その一心で、少女は勇気を振り絞った。きっと目を吊り上げ、手近にあったオムレツの香り残るフライパンを両手持ちし、がむしゃらに振り回しながらカウンターから躍り出た。
「マスターのこと放して! 返して! 私だって、戦いますっ! だから、出てって! あなたみたいな化け物に、マスターは渡さないからっ!」
突飛な発想でも、思い込んでしまえば凝り固まってしまう。だから「真っ当な政府の人間だったらどうするのか」という考えは欠落させたまま、アメリアはぴいぴいと喚いて、勇敢に立ち向かう。ふざけているような光景だが、フライパンとて鉄の塊、当たれば相当痛い。
アメリアの下手な乱打を軽々かわしながら、ヴィジラの男は仮面の下で顔を歪めた。呆れ半分、不愉快半分、それに幾ばくかの切なさを入り混ぜて。
「……悪かったな、化け物で」
規律を破り発せられた言葉は仮面の下でこもった。
その声が引き金となり、アメリアの誤解が消し飛んだ。構えていたフライパンを体に寄せて、ずるずると下に降ろす。
「あ……ティーザさん」
途端、尋常でない申し訳なさと恥ずかしさに襲われて、アメリアは謝罪と気遣いの言葉を連発するのだった。
一方、ヴィジラは空いている手で仮面をはぎ取り、フードごと後ろへやった。頭を左右に軽く振れば、束ねていない青髪がこぼれ流れる。ティーザ=ディヴィジョン、マスターの親しい知己――親子みたいなものだと店主はよく言う――だからして、顔が見えていれば、気のおけない相手だ。
ティーザは担いでいた荷物を手近の客席に乱雑に降ろした。ぐんにゃりと力の抜けたマスターを支えるには、背もたれでは不足、椅子をずらして壁にもたせかける。
普段なら皮肉か冗談が出てきそうな状況だが、マスターは何も言わない。焦点の定まってない目で、されるがままだ。
尋常ではない主人の様子、アメリアが不安げに口元に手をやった。
「なにか、あったんですか」
「さあ? 俺は、この馬鹿主が落ちてたから、拾って、届けに来た。それだけだ」
「落ち……なんでぇ!?」
声を裏返らせ、マスターに駆け寄る。襲われて気絶したのか、また大怪我しているのではないか、そんな不穏な妄想を抱きながら。
あいにく考えがまとまるより先に行動してしまうたちなので、投げかけられたティーザの呆れ声を咀嚼するより早く、マスターに縋り付いてしまった。
「心配するな、ただの酔っ払いだ」
「……うぅ、お酒臭い!」
足がばねになったような勢いで飛びのき、鼻をつまむ。静かな呼気と共にむわりと放たれる臭気は、こちらまでくらくらしてしまいそうなほど。
接触に反応して、マスターはわずかに身じろぎした。しかし、瞼は重く半分ほど下がり、覗く目には光が無く、アメリアの方を向いているが見てはいない、魂が抜けたように壁に身を預けているだけ。ただ、頬はほんのり上気して、苦痛に耐えているという風ではない。
心配したのに、不安だったのに。蓋を開けてみれば、ただ酒におぼれて意識を不覚にしただけ。事故でも敵襲でもない、彼の気のゆるみが成した結果。
あれだけ危険だ恐ろしいと嘯いていたのはなんだったのか。アメリアの中にマグマのごとく込み上げた怒りは、あっという間に噴火した。きんきんとした声が、葉揺亭を揺るがせる。
「マスターの馬鹿っ! 心配させないでください! 自分で危ないことしないでください! あんなに心配したのに……馬鹿ぁっ!」
「あ……アメ、リァ」
「しっかりしてください、起きてくださいよう! マスターってば!」
「おき、て、る」
「もう、起きてないです! 全然だめだめです! 起きてえ、マスター! サベオルさん!? アルヴァイス様ぁっ!?」
「ア、ル……? 違……わたし、あぁ……み、みず」
「ミミズ!? 違います、マスターは人間です!」
「いあ……み、ず。水」
「あっ、水。飲むんですか?」
がくりと首が折れる。一瞬ひやりとしたが、肯定の意味だと察し、アメリアは水を汲みに走った。
背の高いグラスになみなみと水を注ぎ、マスターの口元に触れさせ傾けてやれば、彼は吸い込むように飲んだ。口の端から少しこぼれるのは目をつむろう。
自分で持てると鉛のように腕を上げ、アメリアの手に被せるようにしてきたが、指先にはまったくく力が無く話にならない。取り落とされたらたまらないと、アメリアは頑なに手を放さなかった。
これではどちらが保護者なのかわかりやしない、顔は神妙に歪む。
グラスが空になると、マスターは悩まし気な顔をそのままに、緩く拳を握って人差し指を立てた。もう一杯、ということだろう。
アメリアは重ねられた手を解き、小走りにカウンターに駆け込んだ。
そこに、腕を組んで成り行きを見守っていたティーザから、一つ助言があった。
「アメリア、酒酔いに効くような薬草があったら混ぜてやれ。なにか、あるだろう」
「あっ、じゃあシネイラを」
勉強の成果が実る。シネイラの葉はやや大きいから、葉揺亭では乾燥させたものをチップ状にし保存している。
アメリアはそれを鉢にすくい、ごりごりとすりつぶした。粉にして水に溶かせば、流れるように飲み込めるだろうと。本当は煎じるのが一番だが、酩酊状態の人間に煮え湯を飲ませられる気がしない。
少々苦い薬の水に、仕上げとして指で揉んだミントを落とした。すっとした匂いで目が冴える、ついでにあの酒臭さも消してくれないか、そんな期待を込めて。
出来上がった清涼な飲み物をそっと患者の唇に差し出してやれば、彼はうまそうに飲んだ。覆いかぶされた手には、先ほどよりも力が戻っている。ミントの葉が歯にひかかったのか、口をもぐつかせていた。
少し元気になったようだ。それを確信して、アメリアは長い息をふうっと吐いた。
と、不意にティーザに名を呼ばれた。彼は、一言も二言もあるという顔つきで、こちらを見守っていた。
「俺はそろそろ戻るが……」
「あっ、そうですよね、お仕事中ですものね。すいません、マスターが迷惑かけて。ありがとうございました」
「これも務めの内だ。それを道に転がしておく方が、どんな輩が暴れるよりずっと危険が大きい」
「それでも、わざわざ連れてきてくれたんですもの。お世話になりました。それに……あっ、いえ、なんでもないです」
思わず、「喧嘩中だったんですよね」と言いかけたが、やめた。火に油を注ぐような真似はしたくない。
ティーザは不思議そうに小首を傾げたが、それ以上、突っ込んではこなかった。代わりに、アメリアへの忠告をなす。
「お前もだ。焦って下手なことを口走らないように気を付けろ、いらぬ禍を呼ぶ。それと、他人のために暴力を振るうことよりも、まず、自分の身を守れ。攻撃をすれば、反撃されても文句は言えんぞ」
「あっ、わ、私……!」
「ああ。色々墓穴を掘っていた。どこで誰が聞いているかもわからない、俺じゃなかったら、どうしたんだ」
「気を付けます……」
「それとだ。お前、こいつのこと誰と――」
「ん!」
うっかり叫んでしまったが、マスターの正体は彼との秘密だ。……ティーザは知っているだろうが、一応。
アメリアは人差し指を立て、きゅっと口と目を固く閉じた。
その後ろでは、マスターもが示し合わせるように、口の前に指を立て、ふるふると首を横に振っている。相変わらずしまりのない顔だが、目には力が戻っていた。
「……わかった。じゃあ俺はもう何も聞かんし、言わん」
半ば呆れるように言って、ティーザは広がっていた長い髪を後ろに流し、はみださないよう押さえつけフードを被る。夜番の巡回中である、いつまでもここで油を売っては居られない。
その顔が鉄仮面に隠れる前に、アメリアは再度礼を言い、明日学校に訪問する旨を伝えた。彼はふっと微笑むと、一言、「待っている」と残した。
白衣を翻して、ティーザは一歩踏み出す。しかしそこへ、今度はマスターが声をかけた。
それは何時何処のものかわからない言語。ただ、それが「ありがとう」というようなことだろうとは、アメリアにも容易に察せた。
仮面の男からの返答も、亭主に合わせた言葉だったから、どんな皮肉や嫌味かは知れない。ただ、聞いたマスターがにやりと口元を上げたから、悪い意味ではないのだろう。
ティーザが去ってからも、マスターの頬は緩みっぱなしだった。んふふ、と鼻にかけた笑い声を上げながら、夢現に言葉を連ねる。
「かわいい、優しい、いい子、誇らしい。君もあの子も、どっちも、僕の宝物。二人とも、大好きだ」
「もう。マスターったら、気づいたならしゃきっとして――」
「嫌だよ」
「へぇっ!?」
「もう少したゆたわせてよ。すごく気分が良いんだ。優しい心が沁みる。天にも昇れそうだ」
とろんとした目がアメリアを真っ直ぐに捉えた。今度はしっかり焦点が合っている、が、相変わらず骨が抜けたよう。本人はいたって楽しそうではあるのだが。
「ねえ、アメリア。さっきのもう一杯ちょうだいよ。今度は温かくして、蜂蜜もたっぷりとかして」
「……マスター、甘いのだめじゃなかったでしたっけ」
「たまにはいい。浸りたいんだ、この心地に」
マスターは甘え盛りの子供のように、邪気の無い笑みを浮かべた。たまには悪いものではない、のだが。
「明日……お店大丈夫かしら……」
お望み通りに茶を作りながら、アメリアは一抹の不安を覚えていた。あんなへらへらとした顔はとても人前に出せないし、そも仕事にならない。二日酔いも心配だ。
「はあ……。マスター、熱いので気を付けてくださいね」
「うん。ありがとう」
「どういたしまして」
あれこれ小言は言いたかったが、結局アメリアは、マスターから「もう寝なさい」と言われる真夜中まで、介抱を続けたのだった。
そしてあくる日、店のことが不安でアメリアは早起きをした。
だが杞憂だった。階下に降りると、すでに葉揺亭の瀟洒なマスターがそこに居て、いつもと何一つ変わらぬ顔で、朝一の茶を楽しんでいた。開店準備の整った室内に、ほんのりとミントの香りが漂い、朝の清々しい空気を演出していた。
「寝てなくて大丈夫ですか」
「どうして? オーベルさん来るのに、寝込んでなんていられるものか。平気だよ、体もすっかり軽いし、意識も散ってない。君たちが介抱してくれたから」
マスターは爽やかに笑う。
ついでに昨夜のいきさつも教えてくれた。潰れる寸前まで飲み店を出たら、体が思うように動かず、歩くのすらままならない。さすがにまずいと、人目につかない路地に這って逃げ込み、魔法の結界が消えたことに戦々恐々としながら、身体が回復するのを待っていた。
そこへ不穏な気配を感じたのだろうティーザが血相を変えて駆けつけ、大慌てで保護し、「優しく」担ぎ上げ――以後は承知の通りだ。「落ちていたのを拾った」と言った向こうとは、ずいぶん印象が違う説明ではあるが、間違いなくお互い脚色を入れているから当然だ。
アメリアにしてみれば、正直なところ、済んだことはどうでも良かった。言いたいのは。
「あんな危ないことされたら困ります! もう二度とお酒飲まないでください!」
「大丈夫だよ。あんなの、昨日だけだ。ちょっと油断してただけじゃないか」
「そのちょっとが命取りなんですう! マスターって、意外とうっかりしてるんですから、もうっ」
「うっかり度では君も大概だと思うけど。昨日だって、あの子に怒られてたじゃない、人の秘密をぺらぺら喋ってさ」
「うぐ」
アメリアは返す刀も失くし、ただ頬を膨らませ、そっぽを向いて見せた。
が、口腔からはすぐに空気が抜ける。葉揺亭の玄関が、朝一の客を迎え入れたからだ。それは待ち望んでいたシルエット、アメリアの笑顔は以前の何倍にも華々しい。
「おはようございます、オーベルさん!」
「オーベルさん、昨日はどうも。みっともないところをお見せした」
「いんや、俺が飛ばし過ぎたわ。しかしまあ、元気そうでよかったぜ」
「オーベルさんと仲直りできたからね。やっと、僕の葉揺亭が戻ってきた」
肩を揺らすマスターの目の前の特等席に、オーベルは「どっこいせ」と腰を降ろす。小脇に抱えた新聞を取り出しながら、口ひげを揺らしていうことは、たった一言。
「いつもの」
そして注文を終えたら、オーベルは新聞を読みふける。これだ、これこそが葉揺亭の始まりだ。帰ってきたはずの日常に欠けていた最後の一片が戻ってきた。こんどこそ。
オーベルの言う「いつもの」は、コルブの熱め。数日聞かない程度で忘れるはずがない、ずっと出して来た一品だ。それでもマスターはにやつきながら聞き返す。
「ほんとにいつものかい? それでいいのかい?」
「あ? どうした?」
「別に。単に嬉しいんだ。わかった、『いつもの』だね」
以前と変わらない日常が、「いつもの」で済ませられてしまうことが、どれだけ幸せか。喜びに満ち満ちる。
緩む気は尽きないが、さあ、そろそろ心機一転、引き締めよう。
茶を用意する葉揺亭の面持は、微笑みを浮かべど真剣で、手つきは迷いなく流れるよう。茶葉を取り、湯を注ぎ――そうして、今日も至極の一杯は淹れられていく。葉揺亭の新しい朝の始まりを告げながら。
葉揺亭 スペシャルメニュー
「酔い冷ましのアメリア・ブレンド」
酒酔いに効くシネイラという薬草とミントをブレンドしたハーブ・ティ。飲み過ぎて重い頭と体をリフレッシュ。
蜂蜜を加えると、酒焼けした喉もいたわってくれる効果あり。
飲酒後の水分補給は大切です。




