表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
8/95

引き出しに隠した秘密

 いつもと変わらない朝だった。心地よい静けさに包まれたノスカリアの街並みも、乗合馬車とすれ違う道すがらも。そして少し出っぱった己の腹が足取りに合わせて揺れるのも、オーベルにとっては十年以上も変わらないいつもの現象であるから、気にすることではなかった。


 広場で買った新聞を片手に向う先も、毎朝お馴染みの小さな喫茶店、葉揺亭だ。あそこのマスターも朝が早い、おかげで毎日の始まりをおいしい茶一杯からにできる。ありがたい話だ。


 印象的な蔦の葉レリーフがほどこされた扉の前に立つ。この向こうから、今日もいつもと変わらない日常が始まる。


 ……はずだったのだが。


「うん?」


 オーベルは葉揺亭の玄関を引くなり首を傾げた。なぜだろう、開いていない。


 なにかの間違いだと力を込めて繰り返したが、悲鳴のように金具がぶつかる音が鳴るばかりで、強固な扉は観念してくれなかった。


「おっかしいな。昨日もなにも言ってなかったよな?」


 滅多にないことではあるが、葉揺亭も休業となる時がある。しかしその場合は前日に必ず告げてくれるし、そうでなくても、「きょうはお休み」とアメリアの文字で彫られたプレートが、扉の手にぶら下げられてる決まりだ。


 そうだ、プレート。毎朝かかっている「葉揺亭」と店名が刻まれたそれすら、出されていないではないか。


 オーベルはがりがりと頭をかいた。


「珍しい、寝坊か? しょうがねえなあ」


 待てば起きてくるかもしれないが、無為に待つことは嫌いだった。時間を無駄にすることなかれ、商売が盛んなノスカリアで生まれ育った者の気質である。


 今朝の目覚ましは、商店街にある某大衆食堂でだ。あそこだと何段も位が落ちてしまう。そんな風に嘆きながら、オーベルは回れ右をした。


 しかし、その時だった。わずかに木が軋む音が聞こえた。


 おや、と思って振り返ると、少しだけ玄関扉に隙間ができている。しかもそこから、青い目とブロンドの前髪がこちらを覗いていた。アメリアだ。こちらは逆に普段より早いお目覚めらしい。


 ところが、様子がおかしかった。端的に言えば元気がない。表情はこわばり目は潤み、挙句の果てには悲痛に唇を震わせる。


「オーベルさぁん……マスターが、マスターがっ……!」


 今にも泣き出しそうな声に、オーベルは肝を冷やした。すわ、店主に一大事。病気か、怪我か、それとも――。


 とりあえずは目の前に居るアメリアだ。オーベルはもう一度回れ右した。


「なんだなんだ、どうした。マスターに何かあったのか」


 こくりとアメリアは頷いた。そして言う。


「マスターが、起きてこないんです。何回呼んでも、お部屋から出てこなくって、返事もないし! 私、私っ、どうしたら……!」


 脱力。オーベルはこの上なく間の抜けた面を晒していた。ぼろっと本音がこぼれ落ちる。


「なに泣いてるんだ。それ、ただの寝坊だ」

「まさかマスターがそんなこと!」

「……あのなあ、アメリアちゃん。人間、誰だって起きれない朝はあるもんだよ」


 オーベルは生温かい笑みを浮かべながら、アメリアの背中をぽんぽんと叩いた。


 まあ、アメリアならさもありなん。率直に言って少しお馬鹿な女の子、思い込みが激しい上に勢いよく突っ走る。今朝はいつもと違う主の様子を、悪い方へと考えてしまったのだろう。純粋にマスターを敬愛するゆえに。


 なおもアメリアは不安そうに胸に手を当てている。オーベルはその心の雲を吹き飛ばすように豪快に笑って、ひとつ教授した。


「解決は簡単だ。叩き起こしてやれ! フライパンでも打ち鳴らしながら怒鳴り込んで、布団を引っぺがして、まあついでに一発どついてやれば、どんだけぐっすりでもすぐ飛び起きるさ」


 声に妙な実感がこもっているのは、自分が細君にやられていることだから。とまでは口が裂けても言わないけれど。


 しかし、オーベルの熱弁むなしく、アメリアはふるふると首を横に振った。


「だめです。私、マスターの部屋には入れないんです。言いつけられてますし、鍵もかかってますから」

「あー……なるほどなあ」


 数年来の付き合いからするに、マスターは自尊心強く、自分の領域に人を踏み込ませないタイプだ。私室に人を入れたがらないのも頷ける。


 別に悪いことではないが、まさにこういう時に困る性分だ。あえて口に出さないように気をつけているが、ただの寝坊ではなく、本当に重篤な状況なのかもしれない。それなのに、救出はおろか、詳しいことを知ることもできず、ただ待つことしかできないとは。


 ううむとオーベルはうなった。アメリア一人残して去るのは心苦しい状況だ。


「よっし、アメリアちゃん。とりあえず中に入れてもらってもいいか? マスターが起きてくるまで一緒に待つよ」

「あっ、ありがとうございます」


 一人じゃない。それだけで少し安心したようで、アメリアは弱々しくも笑顔を見せてくれた。



 主の居ない喫茶店はひどく寂しかった。焜炉コンロの火がなければ、湯気あげるケトルもなく、空気が冷え切っている。天井に届く大きな食器棚に並ぶ茶器には、塵除けの布がかぶったまま。さらには照明すらついておらず、夜が取り残されたようになっている。


 アメリアはいま思い出したと言う風にあわてふためいた。「みっともないところをすいません」と、取り急ぎ真鍮のケトルに水を張る。


 オーベルは気にしなくてもいいと笑いかけた。


「いつもはマスターがやることだもんな。とりあえず、様子でも見てきたらどうだ? 意外ともう目覚めてるかもしれんぞ」

「はい、そうします!」


 少し乱暴な手つきでケトルを火の上に置くと、アメリアは奥の間へと続くドアへ飛び込んだ。


 残されたのは静かな世界。それだけならともかく、薄暗い。ランプの灯りが足りないのだ。


 玄関から向かって側方の壁に、しゃれた意匠の燭台がある。一見すると蝋燭ロウソクが立ててあるようだが、先端の火が灯される部分には、透明の石を雫形に磨いた物がくっついている。これは焜炉と同じくアビラストーンの魔力で光る照明だ。


 アビラストーン製の家具は色々あって、動かし方は物によって違う。それでも、誰でも簡単に使える構造になっているのは共通しているはずだ。


 オーベルは燭台を叩いたり、息を吹きかけたり、他にも思いつく操作を一通り試してみた。しかし、部屋は暗いまま。


 腕を組んで、ふうむと唸り、頑固なランプとにらめっこ。そんなことをしていると、再びドアが動く音がした。


 戻ってきたアメリアには、平素の明るい表情が幾分戻っていた。


「返事がありました! 『起きてる』って。オーベルさんには『すぐ行くから待っててくれ』って、マスターが言ってましたよ」

「おっ、そりゃあよかった。これで一安心だな」


 オーベルが破顔すると、アメリアも嬉しそうに首を縦に振る。尻尾のように長い三つ編みが跳ねた。


「あの、ところでなんですけど、壁になにかあったんですか?」


 アメリアは小首をかしげている。確かに、待たせていた客が壁に向かって仁王立ちしていたら、不審に思って当たり前だ。


 オーベルは弁明するように手を振った。

 

「いやいや、ただ明かりをつけたいだけだよ。で、これどうすりゃいいんだ? どうやっても動かんぞ」

「ああ、ランプ! それ、こっちなんですよ」


 アメリアが華奢な手を伸ばすのは、カウンター内の壁だった。よく見ると、木目の一部が切り取られ扉状になっている。


 彼女がそっと開いた先には、丸い鉄のハンドルがあった。手のひらサイズのそれを握ると、体重をかけて壁に押し込む。


 がこん、という音が響いた後、店中の燭台が一斉に光を放ち始めた。見た目と違わず蝋燭に火をつけたような、ほのかで温かみのある光だ。


 ほお、とオーベルは目を見張った。複数個所に飛び散っている家具を一括で操作できる、そんな仕組みはかなり珍しい。アビラの専門家たる異能者ギルドに頼んでも、叶えてくれるところは極わずか。というのも、魔力発生機構、導線、建物の改造など、要求される知識技術が多方面になるせいだ。


 誉めそやすようにそのことを口にすれば、食器類に掛けられた布を取り払っていたアメリアが振り返った。あたかも自分が褒められたように得意気だ。


「それはですねえ、お店を始める時にマスターが改造したんですって。一から、全部、自分で!」

「はあっ!? 改造って……大工でもあるまいに、本当かよ」

「本当です。前に一回壊れちゃったときも、自分で直してましたもの。すごいんですよ、私のマスターは」


 主を称賛するにくれて、アメリアの手は完全に止まってしまっていた。一方で自慢話はまだまだ止まらない。


「お部屋のドアも自分で細工したそうなんですけど、鍵穴とか無いんですよ? それなのに、マスターが中に居ても居なくても、鍵がしっかりかかってるんです。すごいですよね、魔法みたいに!」

「お、おう」

「それと、あと、そこの引き出しもです。あれで鍵がかかってるんですよ」


 アメリアが指を差したのは、食器棚の下部に並ぶ引き出し。なるほど、四段二列の内、左の最上段のみが取っ手部分の形状をたがえている。他は金色で丸いつまみなのに対して、金と銀の立方体を四つ寄せた四角いものになっていた。


 しかし、なんでそんなところにわざわざ鍵を。


「それだけ大事なものがしまってあるってことかい?」

「いえ、何回か見かけたのはお茶の材料でした。でも、ただの材料なら私に開けられないように鍵かける必要ないですから、きっと、他にもっと隠したいものがあるんですよ」

「はっはあ、なるほどねえ」


 愛しいアメリアにすら触らせられないもの、例えば全財産や権利書のような、この店の命に関わる大切なもの。あるいは超希少な材料で、勝手に使われると困るとか。


 手前勝手な想像を進めると、どうしても答えあわせしたくなる。とはいえ、安易に聞いていいものでなさそうなのは明らかだから、諦めるしかないだろう。



 そんな時、きいっと音をたて、奥の間につながる扉がゆっくり開いた。


 ようやくのマスター登場だ。「寝坊助」「遅いですよ」などと茶化す準備はしてあったが、二人とも結局なにも言わずに迎えた。否、ただならぬ様子に言葉を失っていた。


 マスターは右手でこめかみのあたりを押さえ、くたびれた顔を隠さない。もともと色の白い顔には、不健康な青さが加わっていて、一応形ばかりは整えてある黒い髪に艶がなかった。


 そんなていのくせして、マスターは薄く口角をもたげ静かに謝意を示した。


「申し訳ない。お待たせした」

「おいおい大丈夫か、顔色が悪いぞ。休んでたほうが……」

「いや、平気だ。もう大丈夫だ。すぐにお茶は用意するから少し待ってておくれ。――ああ、アメリア。ちゃんと準備はしてくれたんだね、ありがとう」


 大きな泡をたて湯が湧いているのを見つけて、マスターはそっとアメリアの金色の頭を撫でた。


 弱っている風だが、仕事の手つきはいつも通りだった。迷いはなく、失敗もない。紅茶の蒸らしに入り、手作業は一段落する。


 そこまでは見守ってから、宿屋の旦那は喫茶店の主人へ、年長ものらしい忠告を与えた。


「あんたもなあ、たまには外に出て、丈夫な体つくらないとだめだわ。引きこもって本ばっかり読んでるのは健康的じゃないぜ」

「あいにく、陽の当たる下に出たら死んでしまうんだ」


 マスターは弱々しく笑って肩をすくめた。これぞ彼が外出を拒む常套句である。病気ならば仕方ない、と大抵の人はここで引く。


 だが、オーベルは逆に畳みかけた。


「だったら夜でもいいだろう。ちょうど今の季節は月が二つとも出てて明るいし、夜風に吹かれる散歩も悪くないぞ? ちょっとでも運動して、筋肉つけてだなあ……」

「いやいや、僕は臆病なんだ。なにが歩いているかわからない夜の道なんて、怖くて一人じゃ歩けないよ」

「それなら私が一緒に行きます!」

「アメリア、そんなの余計にだめだ。君を危険な目に遭わせるわけにはいかない。……それにあかい月はともかく、白い月は太陽の光を反射して光っているんだよ。回り道をすれどもその質は変わらない。だから、だめだろう」


 淡々と否定してみせられ、オーベルはお手上げだった。論を戦わせるような形にもちこまれて、到底敵う相手ではない。


 話が一段落したとみるや、マスターは体を重そうにしながら動く。オーベル用のカップの支度をするアメリアを追い越し、食器棚の前まで行くと、新たなポットを一つ手に取った。


「アメリア、こっちも湯を通しておいてくれ」

「はーい」


 後ろ手に差し出された白いポットを受け取ると、アメリアは仰せつかった作業を始めた。ケトルを持って来て、いそいそと仕事をする。その集中する背後では、マスターが未だ立ち止まってごそごそやっているが。


 ――もしや。


 オーベルは首を伸ばし、マスターの手元をカウンター越しに覗きこんだ。


 間違いない。例の細工した引き出しを開けて、中を探っている。わずかに握りこぶし一つ分の隙間のみ、そこから取り出しているのは小瓶のように見受けられるが。


 オーベルは思わずアメリアに合図を送った。なんとなくマスターに気づかれてはいけない気がして、声は出さず、視線と手指の動きのみ。それでもアメリアは気づいてくれた。半分ほど後ろを向いて、驚いた顔になり、そこからは主の動きをがんと見ている。


 マスターは食器棚の狭いへりに小鉢を置き、その場で引き出しから取り出した素材を選り入れていた。その仕事はいつも以上に素早く、さりげない所作で引き出しを押し戻し、何事もなかったかのようにこちらへ振り向く。


 アメリアは慌てて前に向き直った。なにも見ていないですよ、背中ではそう語るが、顔は引きつっている。温めておいたポットを手に取る動きも、どこかぎこちない。


「は、はい。マスター。ポットです」

「ありがとう」

「いえっ。あと、オーベルさんのお茶ももうすぐできます」

「大丈夫。わかってるよ」


 そう言うより早く、マスターは作業に取り掛かる。手にしていた小鉢は二人の視線をさえぎるポットの影に置いて、茶を仕上げる間、特に気にかける様子もなかった。


 やがて熱々の紅茶が入ったカップがオーベルに出された。


「さて、オーベルさん、お待たせしました。一日の始まりが遅くなってしまって、ほんとうに申し訳ない」

「いや、もうそんなの全然構わんぜ」


 目などとっくに覚めているのだから。そんな無粋なことは口には出さず、オーベルは受け取ったお茶を飲んだ。マスターの不調は味には関係ないようで、いつもと同じ渋みが弾けるコルブの紅茶だった。


 客が茶を味わう姿を確かめてから、マスターはまた一杯、別の茶を作り始めた。とはいえ手順は単純、小鉢の中身をポットに入れてお湯を注ぐだけ。あっという間に終わった。


 蓋をしたポットと、アメリアが気をきかせて用意したカップを手に取ると、青い顔をしたマスターは申し訳なさそうな声を出した。


「悪いけど、ちょっと裏に行かせてくれ。アメリア、しばらく頼んだよ。お客さんが来たとか、他にも何かあったらすぐに呼んでくれ。いいね、困ったらすぐに。遠慮したらいけないよ」

「大丈夫です。だから、ゆっくり休んでください」

「そうさせてもらおう。オーベルさんも、騒がせてしまって悪かった」

「いやいや、いいんだ俺は。あんた、休業にした方がいいんじゃないか。俺がここに居て言うのもなんだけどよ」

「本当に大丈夫だ。少しくらっときただけだから、すぐに治るよ」


 マスターは弱った笑顔を見せて頷くと、燕尾を返して扉の向こうへ消えていった。


 背中を見守ったアメリアが、ぽつりとつぶやく。


「あんなふらふらのマスター、初めて見ました。ちょっとの風邪だって引いたことなかったのに」

「まあ、体壊すことくらいあるさ。一応動けるみたいだしあんまり心配するんじゃないよ。あれもまだ若いんだ、寝てりゃよくなるだろう。ゆっくり休ませてやんな」

「そうします」


 アメリアはほほえんで頷いた。



 さて。手持ちぶさたになったところで、気になるのはやはり例の引き出し。アメリアも同じ気持ちのようで、主の目が無いのをいいことに、興味津々と歩み寄る。


 開け方も隠してしまうからわからない、そんな風にぼやきながら、アメリアはそっとつまみに触れた。


「えぇ!?」


 途端に上がったすっとんきょうな声。驚いたオーベルは茶を吹き出しながら、がばりと新聞より顔を上げた。


 二人は顔を見合わせる。ぽかんとして、アメリアが先に口を開いた。


「あ、開いてる……」 

「まじか」


 アメリアが示して見せる通り、最上段の引き出しはごくわずかに定位置からずれ、閉まり切っていない。


「はっはあ、弱ったところでやらかしたな。……んで、なにが入ってるんだ?」

「えーっと……。うーん、でも、全部お茶の材料みたいですよ」


 そっと開いた引き出しの中には、色とりどりの小さな容器がみっしりと詰められていた。形や材質も違うが、入れ物でないものは見あたらない。


 アメリアは透明な硝子の小瓶をいくつか選び、食器棚のへりに並べた。中身は花びらだったり、何かの粉末だったり、あるいはどろりとした花の蜜だったり様々だ。


 しかし、これならわざわざ隠す必要がないような。実はとても高価な品なのだろうか、それとも。


「材料はごまかしで、下になにか埋めてあるとか」

「いえ、なんにもないです」


 隙間をかきわけても、ただ底板の感触が伝わって来るのみ。二重底になっているとか、そういう風でもない。


 ふむ、とオーベルは腕を組んで天井を仰ぎ見た。


「じゃあやっぱり貴重な素材だってことかな」

「そうじゃないですかねえ。特別な時にしか出さない、マスターの秘密のお茶です、きっと」


 くすくす笑って、アメリアは好奇心赴くままに別の硝子瓶を引き出しから取る。今度の中身は丸い実で、白い綿と一緒に詰めてあった。


 そのまま蓋を開け、上にかかっていた詰め物をどかすと、一粒を左手の上に転がした。見た目はまるで大粒のチェリーのよう、ほんのり紅色に色づいている。しかしチェリーではない。


 なんの果実だろうか。顔を近づけてしげしげと眺める。


 と、その時。突如としてその実が弾けた。同時に一瞬視界が眩んだ。アメリアだけでなく、オーベルも同じくたじろぐ。


「痛っ!」


 アメリアの短い悲鳴、のち、反射的に手を引っ込めた。


 慣性に従い空中に取り残された果実と、中から飛び出した細かい種子とが、重力に引かれて床へと向かった。


 しかし落ちたのはそれだけではない。驚いたあまり手を滑らせたのだろう、アメリアの右手にあったはずの小瓶もが続けざまに宙を舞った。


 硝子が割れる音が響くのと、オーベルが心配して身を乗り出すのが同時だった。


 そして。刹那、葉揺亭に稲妻が走った。


 紫電の光は床から牙を伸ばす。落雷の轟音は、二人の人間の鼓膜を破らんかの勢い。


 オーベルは動転して椅子から転げ落ち、アメリアはその場で腰を抜かしてへたり込み、どちらともが反射的に頭を抱いてかばった。


 そして猛烈な電撃は、一しきり暴れた後、急激に静まったのだった。



 二人は床の上で脱力したまま、くらんだ目を白黒させて呆然としている。


 空間の無音を破ったのは、奥からの慌ただしい足音だった。


 勢いよくドアを開け、血相を変えたマスターが飛び込んできた。朝一より蒼白だった顔は、一層青い。


 惨状の起こった現場を見渡して、すぐに事情を察したらしい。危急迫った声を発する。


「二人とも怪我は!?」

「お、俺は、大丈夫だ……ちょっとばかし腰が抜けただけで……」

「手のひらが、あと、服も……」


 アメリアが放心した声音で、しかし何とか返事をした。


 散らばる硝子片や雷の種を踏まないように気を付け、マスターは娘の元へと歩み寄る。小さな手を取り確認すれば、左の手のひらに赤い火傷の印が刻まれていた。ワンピースの裾にも黒い焦げが散って痛々しい。


 それでも、これで済んだのならましだ。マスターは安堵した。


「アメリア、立てるかい? 水で傷を冷やしておいで。足元、気をつけてね」

「はい……」


 ふわふわとした様子で食器棚に手をつき、どうにか立ち上がった。


 が、瞬間我に返ったらしい。ひゃっと息を飲んで、壊れたようにぺこぺこ頭を下げる。


「ごめんなさいマスター! 私、大変なこと……! ここは触るなって言われてたのに。どうしても、気になって……」

「好奇心は良いものだ。だがそれは時に大いなる危険を招く、そこは覚えておいてほしい」

「はい」

「だが、そもそもの原因は僕の不注意だ。己の事に気を取られて、この程度の管理すらしくじるなんてね。いよいよやきが回ったかな」


 言いながらにアメリアが出した瓶をすべて戻し、乱暴に引き出しを押した。がたんと重々しい何か動く音がして、秘密はあるべき姿に戻った。


「ふぃー……よっこらせっと」


 オーベルもどうにか指定席に戻った。ぬるくなったお茶を飲み、心を落ち着ける。


 冷静になると、逆に苛立ちが襲ってきた。だん、と勢いよくカウンターに拳を落とした。


「待てよマスター、ありゃなんだ! 雷だなんて、どんだけ危ないもん仕込んでるんだよ、死ぬかと思ったぞ!」

「だから厳重に保管してるんだよ。扱いを知っていればどうにでもなるが、知らなければ笑顔で毒を飲むようなもの」

「だったら教えといてくれよな。いや、俺はいいんだ、触らないし。でも、アメリアちゃんにも何も知らせないのはひどいだろう、かわいそうだ」

「一理あるが……ああもう、いいや! どうせばれてしまったのなら、詳しく知っていたほうがいいだろう」


 マスターは例の引き出しを一つ、手でたたく。

 

「ここに隠してあるものは、強い魔力を持つ素材。古くより魔法薬の材料とされたものばかりだ。特性を理解して、うまく茶に魔法をかけてやれば、それはそれは素晴らしい味や効果を生む。だが、扱いを誤ればどうなるか。それは……身をもって感じて頂けたと思う」


 店主は蒼白な顔をしている二人の聞き手を交互に見渡した。


 それからしゃがみこんで、床に散らばる黒い種と、弾けて反り返った果実の残骸を拾った。


「例えば『天雷椿エレ・カミーリャ』。果実が熟して弾ける時に電撃を放出する。その時近くに他の実があると、共鳴して大きな雷となるんだ。弾ける直前の、魔力が最大限に高まった実を茶に浮かべれば、蒸らしている間に弾けて、痺れる味のお茶になる」

「……あの。完成品がただの危険物にしか思えないんですけど。雷の味だなんて」


 手の水を拭いながら、アメリアが苦々しい顔で指摘した。


「まあ、これ単体ならね。だが、他と色々調合すれば、思わぬ力を産み出すんだ。魔法と言うのは奥が深い、単純な足し算では語り切れないものさ」


 マスターがにやりと笑った。そして人差し指を立てる。


「ただし普段は使わない。普通の茶葉やハーブで作っても、精神や身体になんらかの効用をもたらすことはできるから。だが、もし一層の力を望む客人が居る時は……内緒で魔法をかけているのさ。ほんのちょっぴり、ね」

「じゃあ、さっきあんたが裏に持ってったのは……」

「まあ、俗に言う回復薬ってところかな。だけど、あまりいいものではない、まずいし。本気で特効薬を作ろうとしたら、手持ちの材料じゃとても足りないよ」


 マスターは笑って手を振ってみせた。彼の舌の回りは絶好調、顔色を見るにも、先ほどより体は楽になっているようだ。回復薬、嘘ではなさそうである。


 しかし、もう、なにがなんだか。オーベルとアメリアとで、困惑した顔を見合わせた。ただの喫茶店のマスターだと思ったら、とんだ魔法使いではないかと。喜ぶべきか恐れるべきか、複雑である。


 それを察して、マスターは言い訳する。


「茶にあれこれ効果を求める人は多い。客人の望みを叶えること考えたとき、これが僕なりの手段だった。だけど、僕がやっているのは知識さえあれば誰でもできること。この僕はちょっと魔法に詳しいだけの、ただの喫茶店の店主だ。――さあ、話はここまで。ここを片づけなきゃ、おちおち休んでも居られないな」


 マスターは苦笑した。疲れた雰囲気は相変わらずだが、いつも通りの余裕もにじませている。


「ああ、そうだ。もちろん、これは他の人には秘密だ。僕と、君たちとの間だけでの事実にしておいてくれ」

「どうしてだ」

「僕はね、どっちかっていうと静かに暮らしたいから。今の政府下で魔法を使うと、色々めんどくさいものだ。ギルドに近しいオーベルさんなら、よくわかると思うけど」


 そう肩をすくめて、マスターは念押しするように唇に指を立てたのだった。



 秘密の引き出しにあったのは、秘密の魔法のもと。それを知って秘密の共有者はなにを思う。


 アメリアは痛めた手に包帯を巻きながら、しかしいつも通り尊敬をマスターに向けていた。もともとすごい人だったのだから、今またすごい要素が一つ増えたところで、さほど印象は変わらない。


 さて、オーベルは。ふう、と疲れたように溜息をこぼして、ふっと思いつく。


 ――飲むと顔が良くなる魔法のお茶とか、そういうの作れねえのかな。


 瞬く間に美形に、ついでに腹も引っ込んだ自分の姿を想像して、忍び笑いを浮かべた。誰もが驚くだろう、こんなにおもしろい話はない。


 他にもあれこれ突飛な考えが浮かぶ。どこまで叶えられるのか不明だが、実現できなくったって、空想するだけで楽しいものだ。


 それにしても、もう数年来の付き合いなのに、まだ新たな手で楽しませてくれるとは、マスターもなかなかやり手である。


 やはりこの店が好きだ、朝は葉揺亭から始めなくてはならない。オーベルはしみじみと再確認したのだった。

葉揺亭 秘密の魔法茶

「体調が優れない時に」(マスター専用)

体の状態が優れない時に亭主が自分のために調合する茶、というかもはや薬。

三種類の薬草と二種類の魔力源を配合。苦いし埃臭い、味は最悪の部類。

効果は万能系。

肉体回復力向上、精神安定、血行促進、新陳代謝の促進、一時的な運動機能増加など。

「他の人には飲ませたくないな。体質に合わないと三日三晩吐いて下しての地獄をみるよ」とはマスターの談。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
※本作品を再構成・加筆修正を行った新版を2023年に公開はじめました。順次掲載していきます。  ストーリーは大きくは変わっておりませんが、現在本作品をお読みの方はぜひ新版をご覧ください  https://ncode.syosetu.com/n9553hz/ またはマイページから
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ