ただいま、お久しぶり
蔦の葉扉には開店を示す札がかけられていた。少し落ち着かない風に、アメリアは店主の椅子にちょこんと座っている。色々あったのだ、疲れていないと言っては嘘になる。しかし、マスターが「任せる」と言った以上、店主代行は果たさなければいけない。
自分のためにイチゴとレモン――冷蔵庫をチェックしたら傷みかけていた――のフルーツ・ティを淹れ、マスターよろしく来客を待つ。なるほど、自分一人しかいない空間でここに座っているのはうら寂しい、マスターがしょっちゅう「君が居ないと寂しい」とうそぶいていたのも納得だ。
「早く、誰か来てくれないかなあ。寂しくって、どうかなっちゃいそう」
むうと口をへの字にしてアメリアは頬杖をついた。
かわいらしい店主代が一人で番をする店に、初めての客がやってきたのは、正午も目前と言った時分であった。お茶ももう四杯ほど平らげ、暇つぶしがてら空間のすみずみまで埃をほじくるような細かい清掃を行い、それでも手持ちぶさたでまどろんでいたところだ。扉が開く音に、アメリアははっと覚醒した。
現れたのはレイン=リオネッタであった。普段なら明るい風を吹かせてカウンターまでそのままやってくるだろう。が、今日は扉から手も離さないまま、困惑した様子で立ち尽くしている。それもそうだろう、居ないはずの親友の姿が目の前にあるのだから。
レインは目を泳がせてちょうどよい台詞を探す。どうにか平常を取り繕おうと見せた笑顔は、糸で引かれたようにつっていた。
「あ……アメリア。えーっと……元気だった? 五日ぶりだね?」
「い、五日!?」
「だって、そうでしょ、アメリアが出てってから、五日。……大丈夫? 日付わかんなくなっちゃった?」
アメリアの体感では、あの異界騒動は丸一日のことだったのだ。空腹度や疲労感からして、朝出て夜帰ってきた、日帰り旅行のようなものである。
が、実際に五日の時が流れていたのも正しいのであろう。冷蔵庫の果物が妙に傷んでいたことや、埃の積もり方が一日にしては多かった気がしたあたりから、納得がいく。空間の境を越えた向こうが『時忘れの箱庭』と呼ばれるのは飾りではない、あちらとこちらでは本当に時間の流れが違う。アメリアはその正解をすぐ思いついた。
それで、レインには何と言おうか。顔色悪くして眉を寄せているあたり、マスターがアメリアを昼夜すらわからぬ暗闇に閉じ込め罰を与えていた、などというような理由を想像しているらしい。時間感覚を失っていたのは全くの的外れとは言えないが、亭主にあらぬ疑いを向けられても申し訳ない。アメリアはひとまず、悲劇などなかったと示すべく、笑顔を取り繕った。
「あ、ああ、そうですね! そう言えば、それくらいぶりな気がします! お久しぶりです、レインさん、初めての旅は大失敗でしたよ。だから一回、帰って来ちゃいました。だって、レインさんも帰ってきていいって言ってくれましたものね」
少し肩をすくめておどけると、レインはようやく自然な笑顔を見せたのだった。
レインの注文は彼女のお気に入り、カカオ・ブレンドだった。カメラナの茶葉にカカオ豆の粉末を混ぜたブレンド・ティだ。いつもと違ってアメリアが淹れたそれを、レインは「マスターのより優しい味」と評した。単純な話、カカオ豆の量の差である。同じ一匙でも摺り切りなのか山盛りなのか、そういった微妙な感覚は個人によりけりで、茶の味に反映されてくるため。そのどちらが良いと言うわけではない、それが茶師の個性になり、世界に一つだけの店の礎になるのだから。
ティータイムの始まりは、レインの当然な疑問の解消である。どうしてアメリアはここに居るのか、マスターはどこへ行ってしまったのか。レインから催促されるまでも無く、アメリアは自ら切り出す。ただし詳細は語らない、異界へ行って異形の物に攫われ、実は魔法使いのマスターが助けに来てくれた、そんなこと話してもにわかに信じてもらえないだろうし、あれは暗黙の秘密だと思っていたからだ。マスターの正体をばらしてしまえば、彼は身の危険ゆえ戻ってこられなくなってしまう、それは防がねば。
馬車に乗って東へ旅立ったアメリアは、自分にはどうしようもない事由で足止めされていた。困ってうなだれているところへマスターが追いついて、現地で二人で話し合い。結果和解して、仲良く葉揺亭に帰ってきた。今日マスターが居ないのは、ちょっと用事があると出かけて行ったから、その用事の内容はアメリアも知らない。
嘘は一つも言わないが、肝心なことはあやふやにした。レインはその説明で十分だったらしい。
「まあ、なんとなーくそうなる気はしてたんだけどね。あのマスターだ、捕まえるまでどこまででも追っかけていきそうだって。喧嘩別れなんて、らしくないもん」
「あはは……」
「実はさ、マスターどうしてるかなって思って、アメリアのこと見送ってから二人で来たんだよ。そしたら扉開かないし。飛び込んでも、だれも居ないし。ああ、こりゃもう追われてるなあって」
空白の五日間、心配していたレインは毎日葉揺亭に通っていたらしい。早く戻ってこないか、マスターが一人でも、アメリアと一緒にでもいいが、とにかく前向きな結論を出した上で、再び葉揺亭の扉が開かれる時を待っていた。
「……良かった、ほんとに」
レインは安堵の表情で食器棚の上を仰いだ。そこに居るのは彼女が作り贈った人形たちだ、マスターとアメリアそっくりで、互いに肩を寄せ合い座っている。傍から見ていてにやつく程の仲の良さは、不滅だったのだ。
ではアメリアは出ていくのをやめてしまったのか。いや、そうではないとレインは察していた。あれだけの心意気で出ていって、夢が挫かれたとなったら、和解の末でも少しくらいしょげかえるはずだ。が、今のアメリアには全くその様子が無い。それどころか、出立前よりずっと晴れ晴れとした顔つきに見える。
「だけどアメリア、出ていくのは決めているんでしょ? また準備して、もう一回仕切り直し」
「はい」
「出発の日が決まったら言ってね、見送りにいくから。いいよね? また『見送りなんて要らないです』って強情張らないよね?」
「もちろんです、来てください」
あれもこれもやり直しだ。今度は笑って、後ろ髪引かれることなく前へ進めるように。
レインが二杯目に口を付けた頃、かしましい空気の葉揺亭に別の来訪客が現れた。恐る恐ると言った風に玄関が開き、四角く切り取られた外の風景の中に、中折れ帽の影が浮かんでいる。彼もまた、レインと同じように戸惑って立ち尽くしていた。
「ええ、何でアメリアさんが居るんですか! どういうことですか!? マスターだって五日もずっと留守にして……ええー……?」
アーフェン=ロクシアの口から思考がだだ漏れになって小さな店の中に響く。やはり考えることは、皆同じだったようだ。だからアメリアも先ほどと同じように事情を説くべく、目を泳がせている少年に手招きしたのだった。
「――はあ、だいたいわかりました。不幸なことがあったとか、その、マスターが……いえっ、何でもないです! 元気そうなので、良かったです」
「はい、もう元気一杯です。それに、マスターも。なんにも、変わりないんですから大丈夫です」
「そうですか。……ああ、アメリアさん。紅茶、美味しいです」
「えへへ、ありがとうございます」
アーフェンに出すのはシモンのレモンティ……の予定だったのだが、あいにくレモンはアメリアが使い切ってしまっていた。代わりに皮を刻んで乾燥させたものを茶葉に混ぜたのだが、香りはともかく味わいは全く異なる。別物と考えて飲む方がよい。
いつもよりほろ苦い茶を舌で転がしてから、アーフェンは浮かない顔で呟いた。
「でも、行ってしまうのは変わりないんですよね」
「はい。マスターが戻って来たら、今度はちゃんと予定を決めて、出発しようかなと思ってます」
「……そうですか」
彼は物憂げで苦々しい顔をした。それは別に茶が苦かったせいではない。
アーフェンの心の機微に目ざとく気付いたのはレインだった。にやりと意味深な笑みを浮かべながら、隣に座る少年に悪戯っぽく語り掛ける。
「今、マスター戻ってこなければいいのにって思ったでしょ? アメリアがずっと居てくれればいいのにって」
「い、いえ! そんなこと、ありませんよ!? そんな、マスターが邪魔だなんて、そんなひどいこと、微塵も!」
「ごまかさなくたっていいじゃんか。私だって、アメリアと一緒に居たいもん。正直に言いなよ、素直じゃないなあ」
「う……」
アーフェンは緑色の目を恥ずかし気に転がし、アメリアのことをちらちら見ながら、もごもごと含むように言葉を綴った。
「そりゃ……アメリアさんがここ辞めないっていうなら、私は嬉しいですけど」
「それだけじゃないでしょ。まだ、もっとちゃんとした言い方あるんじゃない? 伝わらないよ?」
「い、いや!? そんな私は、私は……その……あの……」
アーフェンの頬が耳が赤みを帯びてくる。帽子で顔を隠し委縮する少年を、アメリアは不思議そうに首をかしげて眺めていた。
その時、第四の人物の高笑いが響き渡った。留めていた堰が決壊したような、凄まじい勢いの笑い声だった。それは同じ空間ではなく、店の裏へ続くドア越しに聞こえてくる。
三者は目を丸くしてドアに注目した。それを待っていたように、主は勢いよく隔てる壁を取り払った。白の襟つきシャツの上に黒の燕尾付きベストを着た、葉揺亭のマスターは、満面の笑みを崩さず、後ろ手にドアを閉めながら高らかと宣言した。
「アメリアが好きだ、ずっと一緒に居たい。それは僕だって同じだ。だが、僕は約束は違えない。ここが僕の居場所だと決めたから僕はここに帰ってくるし、アメリアのことは血の涙を飲んでも送り出す。そうするさ、アメリアと決めたことなのだから」
眉目を上げ不敵に笑んで、彼は腕組み扉に背を預けた。なぜか片手に茶色の紙袋が握られているが、今はそれより先につっこむべきところがある。
「居ないんじゃなかったの!? いつ帰ってきたの、全然気づかなかった!」
「さっき、裏口から。まあ、それはさておき……やあ、お二人とも元気そうだね。この前は君たちにしてやられたよ。特にアーフェン君、いくら好きだと言っても、夜のこの店に忍び込もうだなんて大胆すぎるぞ。正面から来てくれるなら、僕はいつでも歓迎するのに」
「うっ……気づいてたんですか」
「自らの領域を破られるに気づけぬほど愚かではない。だがまあ、君がアメリアのため一心で勇気を出したのは理解するから、咎める気はないよ。君だって、僕の癇癪の槍玉にはなりたくないだろう?」
アーフェンは即座に首を縦に振った。赤かった顔からは色が失せていく。
そんなに怖がらないでくれと苦笑いしながら、マスターはいつもはアメリアが使っている椅子を引いて座ろうとした。しかし、はたと動きを止める。
「ああ、肝心なことを言い忘れていた――」
言いながらに軽く襟を整え、姿勢をただして三人の若者を見遣る。
「ただいま、お久しぶり。もう何も心配することないから、安心していつも通りゆっくりしてくれよ」
その顔は何の後ろ暗さも無い穏やかな微笑みに満ちていて、常なる葉揺亭のマスターにふさわしいものだった。アメリアもが再度「おかえり、マスター」と、心の中で喜びの声を上げたのであった。
「ところで君たちお腹は空いていないかい? 知り合いのお弟子さんから食べてくれと無理に押し付けられてしまったが、僕はどうにも食欲がないからね。西のものだから、口に合うかはわからないけれど」
まくしたてながら、マスターは掴んでいた紙袋を広げた。返事は待つまでも無いからだ、今は昼時、腹具合など聞かずともわかる。
出先でもらって帰ってきた袋の中身はパンだった。ノスカリア近辺では馴染みのないライ麦の黒パンで、今朝方焼き上げた物を横に切り、軽く炙った表面に緑色の豆ペーストをたっぷり塗る。間に薄切りにした燻製肉も挟んで、ただのお弁当と言うには少し豪華な雰囲気だ。
『お師匠さまからおはなしは聞いてます! ぜひこれ食べてください! お師匠さまのおひるごはんとおそろいです!』
目をきらきらとさせ、しかしどこか照れくさそうに紙袋をつきだしてきた幼い娘が、嫌が応にもアメリアと重なって見えて、断れずに受け取ってきたのだ。師匠――久しぶりに会いに行った古き友人が、一体普段何を言っているのか知らないが、「いつも食べてる『かすみ』なんかより、ずっとおいしいですよ」という変な太鼓判つきで、だ。
妖精や幻獣の類じゃあるまいし、なぜ霞なんか食べなければならないのか。しかしまあ「何も食べないで平気だ」というよりは、霞でも食べていることにした方がまだ聞いた方が面白いかもしれない。今度から自分も真似しよう。そんな新しい記憶に舌鼓を打ちながら、マスターは一人分には大きすぎる黒パンの端を少しだけ落とし、三等分にして若者たちにそれぞれ渡した。そうして自分は切った端を相伴にあずかる。これで「食べた」という実績は出来たから良いだろう、あの娘に再会することがあってもいいわけが立つ。
詳しい経緯を知らない三人は、少し珍しい味わいのパンを喜んで味わっていた。
「ちょっと酸っぱいんだね。でも美味しい、このペーストがいいなあ」
「ジアガのマメは一粒が握り拳ぐらいに大きいんだ。でも組織がすかすかで、そのまま調理しても美味しくない。食用にするなら茹でてペーストにするのが主流なんだって」
「マスターのお知り合いって、パン職人なんですか?」
「いや、そういうわけじゃないよ。弟子のお嬢さんも同じで、これは趣味の料理だ。何だか色々趣向を凝らせるらしい、彼――ああ、その知り合い、彼が苦笑いしていたよ」
マスターの知り合いの弟子。それが魔法使いと弟子という構図であるとは、アメリアのみに察しがついた。そうすると、今自分たちが食べている、愛のこもった手作りパンにかけられた思いも何となく見える。
「それって、その人も食が細いから、お弟子さんっていう方が色々工夫してるんじゃないですか? ちょっとでも食べてもらえるように」
「まさにその通りだ。いやに鋭いなアメリア」
「だって、私と一緒ですもの。マスターご飯ほとんど食べないから、無理に食べさせようとしても嫌がるし、その方の気持ちよくわかります」
「あー……うん、まあ」
「ちゃんと食べて、ちゃんと寝て、ちゃんと運動する! これから一人なんですもの、自分で世話しないと駄目なんですよ、大丈夫です、私居ないんですよ? 倒れたり寝込んだりしても、私じゃもうお世話できないんです、わかってますか?」
「わかってるよ……大丈夫だから、うん」
息を荒くするアメリアの視線から逃れるようにマスターは顔を背けた。
「アメリア、マスターの奥さんになったみたい」
愉快な漫才を見ているように笑いながら、レインが率直な感想を口にした。すると、アメリアが妙案だと言わんばかりに手を叩く。
「それですよ! マスター、お嫁さんを見つけてください。探しましょう! 私、旅立つ前に見つけてきます!」
「……ねえ、アメリア。それは冗談だよね? 本気で言ってないよね?」
「でも、お嫁さん居たら寂しくないと思いますよ」
真理だと言わんばかりにアメリアはマスターに迫る。彼が円満な家庭を築けるような身の上でないことは、既に承知だ。しかし冗談ではない、本気だった。正確にはそこまで深く考えていないと言った方が正しい。自分が居なくなった後のマスターが、少しでも多く笑って過ごせるように、アメリアの言動は全てそこに帰結する。
困ったように口元を緩めて、マスターはアメリアの頭に手を当て、幼子にするようにわしゃわしゃと撫で繰り回す。
「あのね、僕にはみんながいるから寂しくないよ。心配しなくったってもう大丈夫だ。君は僕のことなんて気にせず、堂々前向いて行けばいいんだよ」
みんな、と言いながら客席に居るレインとアーフェンに顔を向けた。その向こうには、今は見えない馴染みの客たちも居る。葉揺亭の再開を望んでいたのは、マスターの身近にいるのは、同じ屋根の下に暮らすアメリアだけではないのだ。
二人の客が帰り、にわかに静かになった葉揺亭で、マスターが何気なく口にした。
「それでアメリア、いつ出て行くの」
これには少し面食らった、マスターの方からわざわざ話を切り出してくるとは思わなかったのだ。
「えーと……一回のんびりして、ちゃんとお世話になった人にご挨拶して、それから。来週くらいかなって思ってるんですけど」
「なるほど。また東へ?」
「それは……。マスターはどう思います?」
「君が行きたかったら行けばいい。が、例のあの界隈には近づかない方がいいと思っている、だから通り道にするのもあまりおすすめはしない」
「あはは、ですよねえ。私も、ちょっと嫌な思い出になっちゃいましたから」
「僕だって、あんなのもう二度ごめんだよ。ほんとに、終わりかと思った」
随分弱気な言いざまを、窮地に颯爽と現れ大言壮語した時の様子と比べてしまい、その落差にアメリアは思わず吹き出した。下げて持っていたお客たちの茶器までが、かちゃかちゃと楽しそうに音を立てる。
シンクで洗い物をしながら、アメリアは考えた。東が駄目なら行く先は、やはり北になるだろうか。街道を進めばノスカリアに負けない大きな都市・ミスクがあり、さらに進んで果てまで行けば港湾都市・エゼストに辿り着く。海が見てみたいとは常よりの望みだから。蛇口から流れる水音を聞きながら、アメリアは旅程に思いを巡らせた。
「じゃあ私、北に行きます! ミスクまでゆっくり歩いて、少し町を見て、そこから先はそこでまた考えようかなって。だって、あの町も大きいって言いますし、あんまり急いで進んでも、また大変なことになったら嫌ですし」
「うーん、確かにミスクまでなら距離もそれほどではないし、間に宿も充実している。政令都市だけあって付近の治安も悪くない。が、さすがに独りで歩くのはなあ……」
「それは大丈夫です、いい考えがあるんです」
「ほう?」
「ギルドに行って、用心棒さんを雇うんです! そうしたら、道中も寂しくないですし、色々教えてもらえるかなって」
「君……単に一回依頼がかけてみたかっただけだろう。あわよくば、異能の力を間近で見たいと」
うっ、とアメリアは息をのんだ。さすがマスター、お見通しだ。先日もあれこれ世話になった『緑風の旅人』か、アーフェン在籍の『銀の灯燭』か、アメリアが詳しく知る異能者ギルドはどちらかだが、どちらにしても旅の友には最適な気の良い者たちだった。しかし仕事をしている彼ら彼女らの顔は知らないから、一度間近で見てみたいという欲があったのも事実である。
だが、マスターはらしくなく思い違いをしている。アメリアはそれを指摘した。
「後ろは違います。何も無い方がいいですもの。怖いし、また誰かが怪我したら悲しいですから」
「そうか。悪かったな、君の優しさなんて僕が一番わかっていたのに」
自分のために誰かが身を削る、アメリアがそれを良しとするはずない。捨て置いても良かったこの身を、半べそかきながら必死に手当――実際には傷に塩を塗るような行為であったのは、触れるべきではない――してくれた、あの温もりは体が覚えている。失言だったと、マスターは頭をかいた。
にわかにアメリアが顔を曇らせたから、マスターは肩をすくめておどけながら語り掛ける。
「それにきっと、もう何を見ても物足りないだろうよ。だってこの僕の力を眼前にした後なのだからね。……ほら、アメリア、ご覧」
マスターはアメリアに向かって左の掌を開いて見せた。傷一つ無い、綺麗な手だ。だからアメリアは目を疑った。マスターの左手には、彼が自らつけた深い刃物傷の痕があるはずなのだ。
水仕事で濡れた手を拭き、マスターの手を取って観察する。怪我をしたという事実すら最初から無かったかのように、傷跡は全く見受けられなかった。手で触っても微塵もおかしなところはない、血の通った人間の温かい手だ。医者に見せたらどんな奇跡を起こしたのかと舌を巻かれるような、見事な完治の仕方だ。巷のアビリスタの治癒士にかかっても、ここまで早く綺麗には治せない。
アメリアは素直に感心した。しかし、だ。
「なんか……堂々と自分で言っちゃうんですね、マスター」
「だって暴かれた部分を懸命に隠そうとするのは無駄だと思わないかい。でもまあ、みんなには――」
マスターは片目をつむって人差し指を口の前に立てた。アメリアも真似して同じポーズを取る。葉揺亭の主はとんだ魔法使い、それは、二人だけのとっておきの秘密だ。
くすくすと笑い合う二人の居る葉揺亭の風景は、以前と変わらない日常のものだ。いや、隠し事という名の霧が晴れ、以前よりもっと明るいものになったようだった。
葉揺亭 メニュー
「レモンピールの紅茶」
細かく刻んだレモンピールを茶葉に混ぜた紅茶。香りと共に皮の苦みも少し出る。
当然だが、フレッシュのレモン・スライスを浮かべるのとは同じ味にはならない。
イオニアン食べ物探訪
「魔法使いのライ麦パン」
西方大陸でよく食べられるライ麦の全粒粉を使った固めの黒パンに、豆のオリーブ油ペーストを塗って燻製肉を挟んだ食事パン。パン自体に少々酸味があるのも特徴。
成人男性の胃袋もこれ一つで満杯になる特大サイズ。




