越えぬべき境の向こう側 ―帰還―
あれから色々なことが起こった。しかし、アメリアの答えは変わらない。彼女は前に進むと決めた、だからその本心を素直に伝えるだけだ。激せず、誠意をもってして。
「私は、ただ私は……! 私は、未来に進みたいだけ。マスターの世界じゃない、自分の夢を追いかけてみたいだけなんです。それだけ……。私だってマスターと同じで、自分らしく生きたいし、変わったことをしてみたいし、色んなところに行きたい、知りたい。私だって人間ですもの、同じです、ただわがままなんです。本当に、それだけで、マスターを傷つけたいわけじゃ、なかったんです」
またも視界が滲んでくる。溢れる雫を拭いながら、しかしその流れに乗せ押し出すように、奥底にある心情を全て吐き出す。
「ごめんなさい、ずっと大事にしてくれたのに。ごめんなさい、マスターの期待に応えられなくって。ごめんなさい、私のせいで、そんなひどい怪我までさせて、本当に――」
とめどない涙の奔流に呑まれて声は出せなくなった。アメリアは上体を折って、顔を伏せ泣きじゃくる。だめだ、止まれ、そう理性で思っても、心がそれを許さなかった。
不意にマスターが立ち上がった。そしてアメリアの傍らに片膝をついてしゃがみこみ、傷の無い右手で溢れる涙を拭う。それから両腕で小さな頭を柔らかく肩口に抱き寄せると、慈しむように撫でた。
「もう、いい。泣かないでくれアメリア。君は何も悪くない、君が泣く顔は見たくない。君の言い分はよく分かったから、だからもう、何も言うんじゃない」
先ほど自分が言われた言葉を返す、その口ぶりは芯が据わりながらも穏やかな、平素のマスターのものだった。聞くに心地よい、軽やかな風のような。
「だけど……少し僕にも考える時間をくれ、それくらいは許してくれよ。一人で決めて、勝手に去ってしまうだなんて、そんな別れが許せるものか。それで終わってしまうほど、浅い仲じゃなかったと思っていたのに」
アメリアはマスターの肩に顔をうずめながら、こくりと大きく頷いた。後悔していたのだ、最初からそうしておけばよかったと。少しずつ自分の気持ちを打ち明けておけば、それで同じ方向を見て話し合って将来を決めていけば、一挙に爆発することもなかった。今となってはどうしようもないことだけれども。
しかし、まだ遅くはない。一度割れてしまったカップは、時間が巻き戻りでもしない限り元には戻らない。だが絆の糸は、一度切れてしまっても、再び結い直せばつながる。少しだけ見かけは変わるかもしれないが、元に戻せるのだ。
マスターは最後にアメリアの背を軽く叩いてから立ち上がる。そのまま飲み残しの入ったカップを手に取って、一息に飲み干す。すっかり冷めた茶はもとより苦味を増していて、これには顔をしかめざるを得なかった。それでも彼は続けざまにアメリアのカップも取り、ほとんど減っていない茶を、全て一身に飲み込んでしまった。
「帰ろう、アメリア。僕たちの家に。帰って、おいしいお茶を飲んで、ゆっくり考えて、しっかり休んで、そうしたらまた歩きだせるから」
空になったカップをテーブルの隅に重ね、もう片方の手を宙に振れば、暖炉の炎は水をかけられたように消える。茶会は終わりだ。
マスターは左でアメリアの手を引いて、右で彼女の荷物を持って、小屋の出口に向かった。不思議なことに彼が近づくと、扉はひとりでに開いたのだった。
つながった空間の向こうは、見慣れた廊下だった。葉揺亭だ。右手には毎日駆け下りた階段が、左前方には何度も開いた店への扉が、そして今歩き出て来たのは、マスターの部屋のドアだ。
荷物を横に据えたまま、アメリアは廊下に立ち尽くしていた。帰ってきた、帰ってきてしまった、二度と戻らないはずだったのに。しかし巡ってきたどんな世界より、立っていて心地が良いのは嘘ではない。清く守られた神域よりも、だ。
呆けていた背後で扉が閉まる音が響いて、アメリアは慌てて振り返った。亭主の姿はもう見えない、焦って扉を押し引きするも、いつも通り固く閉ざされていてうんともすんとも言わない。
マスターが彼方へ行ってしまった、もう戻らない。一瞬浮かんだその考えを、アメリアは即座に否定した。帰ろうと言ったのは彼だ、さよならも言わずに居なくなるはずない。一人籠って、考えているだけ、そんなのいつものことである。
また明日会える、いつものようにおはようと言ってくれる。そう信じて、アメリアも自分の部屋へと向かった。角のとれた階段が、たまらなく愛おしい。
翌早朝、東の空に昇る太陽を、アメリアは自室の窓から眺めていた。薄雲のかかる空に昇る太陽は、肉眼でも直視できる光の塊になって、静かに世界を照らしていた。まるであの日に巻き戻ったように。眠りが浅かったのに、すっかり目が冴えているのも同じだ。
部屋は変わらず小ざっぱりしていた。戻った時には既に夜が更けていて、鞄の荷をほどくこともせず、アメリアはベッドの上で物思いにふけっていた。見たこと聞いたことを整理して、ゆっくりと考えた。そうしているうちに、いつの間にか眠っていたのである。
目が覚めたら、あの異世界の全ては夢物語に変わり果ててしまう、そんなことも起こらなかった。出立前に机の上にあったダガーとブローチは跡形も無く消え去り、代わりに手元に来たのが不思議な硝子の玉。この世に存在しないものがここにある、あれが現実の体験だったという揺るがぬ証拠だ。
その硝子玉を持って、アメリアは階段を降りた。あの人は別種の緊張を抱きながら。
店への扉を開く。早朝の静かな空気を支配するのは、燕尾の黒ベストを着た店主であるはずだ。だが、望んだ姿は無かった。代わりに真っ赤な長衣を纏って、黒手袋の左手で頬杖をつきながら、きまりの位置でぼんやりと座っていた。彼は扉が開いた気配に、くるりと体ごと振り返る。飄然面した、葉揺亭の主だ。
「おはよう、アメリア。思ったよりも早かったな」
「マスター、その恰好……」
「そんな顔して、僕に赤は似合わないかな? ちょっと洒落気もあるからいいと思うんだけど、ほら、この袖の白い刺繍とか」
「いえ、意外だったのでびっくりしただけです。……じゃなくって!」
別にマスターの服装センスを如何はどうでもよい。彼が体を覆うような服を着ているということは――いつもと色は違うが――どこかに行くつもりなのだということだ。それがどういうことなのか、アメリアが聞きたいのはそちらだ。
マスターは冗談めかした笑顔一つの後、不意に真剣なまなざしをむけた。
「行かなければいけないんだ。かなりの無茶をしたからね、目ざとい連中が動き出す前に挫かなければならない。ごまかし躱しでつないでいるだけで、君が思う以上に、私の周りは敵だらけなんだよ。だからうかつに名前も名乗れやしない、どこに耳があり、どんな手が伸びて来るかわからないから。身を守るために打てる手は全て利用する、先手必勝だ、早ければ早いほど良い。……だが、私が最優先しなければいけないのは、君のことだ」
そこで座るようにアメリアを促した。だから彼女は素直に、彼の隣に椅子を引いて腰を降ろす。
真っ直ぐ向き合って、マスターは考えた末の結論を、アメリアに聞かせた。
「私は怖い、君を失うのが怖くてたまらない。それはここから居なくなるというだけではなく、私の預かり知らぬところで君があのように命を削るのが。私の過去の代償として、あるいは無関係だったとしても、君の道が不条理な手により断ち切られ、どうあがいても取り戻せなくなるところに行ってしまう、そうなるのが恐ろしくてしかたがない。そして、恐れは既に現実になってしまった」
「でもそれは、私があんなところに行ったから……」
「違う。通りかかった君に私の影を感じたから、あの世は君をひきずりこんだのだ。私が居なければ、君が危ない目に遭うことも無かった。それを全く否定できない。なおかつそれは君に限った事でもない、ここに出入りする誰にだって、起こり得たことだ。だから……私はもう、ここに居てはいけないのかもしれない。輝かしい日常を壊したくないというのなら、真に去るべきは君ではなく私の方だ。君は、私が居なくとも幸せになれるのだから」
アメリアは息を呑んだ。あり得ない、マスターをここから追い出して、どうして喜べようか。弾かれたように立ち上がり、アメリアは反論すべくマスターに迫る。
が、その肩を主が抑えて、もう一度椅子に沈めた。俯き気味の少女の頭を軽く叩いてから、マスターは足を組み替えて、静かに口を開く。
「アメリア、結末は君次第だ。君が望むのなら、僕は君にこの世界を渡し去ろう。あるいは君が望むのなら、君は僕のことなど忘れ、どこにでも行ってしまうがいい。君の記憶から僕の影を一切消すことだってできる、やろうと思えばね。だけど、全ては、君の選択にゆだねる。君の望みが私の望み、君の幸福が私の幸福だ。それを叶えるためならば、私は何だってする、何もかもを捨てる覚悟がある。だから、さあ、一体君は、この私に何を望む?」
答えなど考えるまでも無い。アメリアは間髪入れずに、先ほど言いかけた思いのたけを存分ぶつけた。
「私は、マスターにはここに居てもらいたいです。だって、マスターも居なくなっちゃったら、葉揺亭無くなっちゃったら、迷子になった時、今度はどこに帰ってこればいいんですか……ッ。ここは、葉揺亭は、マスターが居ないと駄目なんです。私の家には、マスターが待っててくれないと、絶対駄目なんです!」
「わかった。それが君の望みならば、私は、葉揺亭のマスターで居続けよう。君の心の故郷の主として、守るべきものは全て守る。約束しよう、我が魂にかけて」
神々しい間での微笑みを湛えて、マスターは厳と応えた。
ふう、と息をついてから、マスターは立ち上がった。衣服の襟を正し、髪もてぐしで梳かす。
「アメリア。さっきも言ったけど、出かけなければいけないんだ。帰ってくるまで、ここを任せても良いか?」
「もちろんです」
主が居ないなら、その間を守る人間が必要だ。葉揺亭においてそれが出来るのはアメリアのみ、彼女は誇らしげに胸を叩いた。
衣の裾を翻し颯爽と扉――外ではなく、廊下へと続く方のドアへと消えていく背中を、アメリアは安心した面持ちで見守っていた。
が、一つ用件を思い出して、すっとんきょうな声を上げた。
「ああっ、待ってください! ちょっとだけ!」
「な、何だい、一体」
前につんのめるように足を止めたマスターは、出鼻が挫かれると不満げに口をとがらせた。
そんな彼にアメリアがおずおずと見せたのは、件の硝子玉だ。あの小屋の関係者が目の前に居るなら返すべきだと思ったし、それ以上に、魔術師の持ち物は正体不明で怖かったのだ。一刻も早く、マスターに確認したかった。
「あの……これ、あそこから持ってきちゃったんですけど……」
「こりゃまた懐かしい」
マスターは少年のように目を見張って、硝子玉を光に透かした。目を細め古きを懐かしみ、そして愉しんでいる。
結局何なのか、アメリアが尋ねると、彼は平易な言葉を選ぶようにして教えてくれた。
「これは、植物の種なんだ。リンゴの木に似たものだが、成長が早いしずっと大木に育つ、最終的にはこの店と同じくらいになるんじゃないかな。もちろん実もなるが、そこから種は取れない。僕の悪友が奇異な魔術で造ったものだから、自然の理からは外れているんだ。危険は無い」
アメリアは胸をなでおろす。マスターに促されて手を出すと、再び硝子玉が押し込められた。
「これはもう君の物だ、好きにすると良いさ。でも、蒔くなら安住の地を見つけてからにするんだよ。なにせ、一度育ち始めたら恐ろしい速さで大きくなって、君のその小さな手じゃ運べなくなるからね」
マスターは得意気に片目をつむると、扉の向こうに消えていった。彼の私室があるべき場所は、一体どこに繋がっているのやら。アメリアは知りたいとは思わなかった、恐ろしいのではなく、関心が無かったのだ。異界に行くのももうこりごりだ、地続きの世界が一番愛しい。
アメリアはマスターの真似をして硝子の実を光に透かした。白い種が眠るように浮かんでいるのがはっきりと見える。
巨木になるリンゴの木、それにアメリアは心当たりがあった。魔法の力で見た、未来を映した夢。丘を見下ろすテラスにはリンゴの大木が木陰を作っていて、そこで鳥が唄っているのを自分は聞いていた。
つまるところ、異界巡りもまた未来への通り道の一つだったのだ。苦悩も涙も何一つ無駄ではない、越えぬべき境は、越えなければいけない壁でもあった。
アメリアは魔法の種を愛おし気に手に包むと、自室への階段を駆け上がった。自分の宝箱にしまって、いつか辿り着く未来へと大事に持っていくために。
葉揺亭 スペシャルメニュー
「聖域のありあわせハーブティ」
マグワート(ヨモギの仲間)を主体に辺りにあったハーブを混ぜたもの。
苦味がやや強い中に、柑橘系の酸っぱさ、百合のような甘さ、薄荷に近い清涼感を混ぜたような、はっきりとしない味。
穏やかな日常にはお目にかかれない混沌さは、異界ならではの経験だ。




