越えぬべき境の向こう側 ―告解―
右手に水差し、左手に草花、そしてアメリアは主の待つ小屋へと戻った。彼は変わらず目を閉じたまま、椅子に体を預け揺られている。一見眠ってしまったようだが、暖炉には赤々と炎が燃えていて、テーブルには先ほどまで無かった手のひら大の銅ケトルが置かれているあたり、ただアメリアを待ちぼうけて瞑想しているだけであろう。
アメリアは水差しからポット一つ分の水をケトルに移すと、それを暖炉の上に乗せた。大きく燃える炎――燃料は見当たらないから、魔法の火だ――から熱が伝わり湯が沸く。ただ直火ではないから、少し時間もかかるはずだ。
いや、そうでもなかった。ケトルを置いた途端、水は対流を起こし、ふつふつと気泡も生み始める。えっ、と思ってみていると、あれよあれよと言う間に湯が沸き立ったのだ。
明らかに普通ではない現象だと、アメリアはマスターを振り向いた。彼は薄く目を開けて、不敵な笑みを浮かべた。
「待つのは苦ではない。だが、今に限ってはわずかな間すらもどかしい。私でそうなのだから、君はなおさらではないかな」
違うと言ったら嘘になる。アメリアはあいまいに返事をしてから、気を取り直して茶の準備に戻った。
何とわかって摘んできたのはマグワートとレモングラス。それに加えて控えめに咲いていたひし形の黄色い花と、水の中にあった緑の実も。見知らぬ植物だが、嫌な匂いはしなかった。せっかく異界に居るのだから、未知の材料も使ってみたい気がしたのだ。
使いこなされた素焼きのポットに草花を細かくして入れ、熱い湯を注ぎ蒸らす。じっくりと、長めに。マスターは何も言わないし、アメリアも宙を見てぼんやり待っていた。
「マスター、はい」
指定されていた水晶の脚付きカップに淡緑色のハーブティを注ぎ、マスターの前に置く。彼はぱちりと目を開くと、背もたれから上体を起こし、アメリアを待たずに口を付けた。
アメリアも後を追うように、縁の反った青磁のティーカップに注いだ茶を飲む。
味の程はいまいちだった。青草の匂いが強いのは良いが、酸っぱさと甘さと涼やかさがそれぞれ自己主張して、混沌とした風味になってしまっている。素材を欲張ったのが良くなかったのだろう。
「すいません、あんまりおいしくないですね……」
「そういうこともあるさ。自分が思い描いた通りにならないのが、人の生というもの。……それに、今の心境を湯に浮かべるなら、こうなる」
色々な思いが渦巻いて、形容しがたい感情を抱いている。それは、双方同じなのであった。そうですね、とアメリアは控えめに笑った。
またしばらく無言の間が訪れる。茶話会とはいうものの、語り手と聞き手の役割が完全に決められている。だから、アメリアはただ待っていた。じっと茶の液面を見つめているマスターが、絡まった糸玉の中から、話の口を見つけるのを。
やがて、彼はきっかけを選んで、慎重に口を開いた。
「この世で最も重き罪。それは何だと思う?」
上を向いた主の瞳は、黒曜石のような光を灯し、アメリアをきらりと見据えた。
罪。殺人、略奪、詐欺――様々な後ろ暗い行為が頭によぎる。が、優劣をつけることはできない。「最も」と言うからには、群を抜いていなければならないはず。アメリアは答えを出さなかった。
少しばかりの猶予を与えた後、マスターは自ら答えを提示した。静かに明るく、しかし重厚に。
「人の身でありながら、神の真似ごとをすることさ。全知全能を気取り、時と運命を捻じ曲げ、人心を弄び、創造主たらんと振る舞う。それこそこの世界の調和を狂わせる、この世界の存在すらをも揺るがせる、そして真にあるべき『神』をも殺す、人に犯せる内で最も重き罪」
ざわりと空気が騒いだ。
自嘲気味に笑ってから、男の眼はこの世の深淵を覗いたような、底の知れない闇に沈んだ。
それから語る口調は内容とは裏腹に優しげで、同時にうら悲しさをもはらんでいた。
「その昔。自らの智謀と才覚に驕れる一人の魔術師は、己の道を究めようとする内に、人の道を外れる禁忌を犯した。その手で命――いや、人間を創り出すこと。世の創造主にしか許されぬ領域に、人の身で踏み込んだ。だが、所詮は地に足着く視野の狭い人間のすることだ、出来上がったものは人間ではなく、理性や孝徳を持たぬ生き物の顔をした何かであった。それは造り手……私と同じ姿かたちをして、同じように喋り、同じだけの力を持っていた。ただ、人間らしい心だけが無かった。代わりに備えていたのは、歪み切った狂気」
聞き手に思い起こされるのは、一瞬のみ見えた赤い異界の神なる者の姿。確かに背格好はマスターに近かった。おぞましい凶相だったから確実なことが言えないが、顔つきも似ていたかもしれない。そして声は聴いた、マスターのものと同じだった。
過去、神代に生きた彼が何を思い如何にしてあの存在を創り出したのか、アメリアには計り知ることはできない。彼女の目に映るのは、色の無い顔で罪を告白する現在の人・サベオル=アルクスローザの姿だけだった。俯き気味に淡々と語られるは秘密の物語、予想もつかねば茶々を入れることすらできず、ただ独白される記憶を黙って聞くのみである。
「後悔した、恐ろしいものを産み出してしまったと。神の所業を真似ることなどできないし、真似てもいけなかったのだと悟った。しかし己の罪と向き合い、自分自身を殺める勇気はなかった。だから当時の私は目を背け、突き放し、逃げ続けた。しかし、どれだけ深くに閉じ込めても、異なる世界に追いやっても、犯した罪は消えることは無い。だからあれは永遠に追ってくる、私を破滅させ、私の愛した全てを奪い壊すために。それが唯一無二の贖罪の方法だと、責め立てるように。現在に至っても、なお。逃げ隠れするこの私を、あの手この手で表舞台に引きずりだそうとしてくるのだ、先ほどのようにね」
乾いた引き笑いの後、彼はカップを口につけた。透度の高い水晶は、渋い草色の液体が減りゆくのを隠さない。
一口、二口と飲み込むと、再び告解を再開した。水分を摂ったはずなのに、声は苦々しく掠れたままである。
「あれは……君も見たあの世界の全ては、時と共に増長した私が創り出した罪の具現だ。希望無き死の地、心なき歪な生き物たち、その頂点に君臨する彼奴は私ではない、しかし私でもある。私の心の奥底にあった闇とも言うべき部分が象徴化したものだから。それは元の主にも抑えきれず暴走し、『神』なる存在になったかのようにふるまっている。思うがままに創造し、気に入らないものは破壊する、そこに善悪もためらいも何も無い。あれにとっては、万物が玩具のようなものだから」
「……しかし、一つ間違えれば私自身がそうなっていた。あれは私ではない、しかし私でもあるのだから。あれを産み出した瞬間までは、確かに、私は自惚れていた。不可能なことなど何もない、全知全能の存在であると」
一度息をついた無声の間、代わりに室内には炎が弾ける音が響いた。
「私が生きる限り、私の罪は消えることはない。だが私には死すらも許されぬ、我が尊き師がそれを定めたがゆえ。人間を超越した神に準ずるものとして、師は私を呪縛した。私自身は己が神だなんて信じない、だが大衆が私を神々の一つとして信仰する限り、私は人として死ぬことはできない。終わらぬサーガは喜劇か悲劇か――だが、私自身もそれに甘んじた」
亭主は目を細め切なげに微笑んだ。憔悴する心を隠す強がりにも感じられるのは、身に刻んだ傷と疲労のせいだけではないだろう。
「私は、イオニアンの全てを愛している。そこに住まわう一人の者として、ずっと見守って居たいと今でも思っているから。……私が居る限り、私の半身も追ってきて、私の愛したイオニアンは危機にさらされかねない、それはわかっているくせに、だ。度し難いわがままだと思っている、それでも、私は私の道を歩み続けたかった。不幸と災厄をふりまく存在に成り果ててもなお、人としての生に執着した」
そこでまた区切りをつけてカップをもたげると、マスターは伏し目がちに苦い茶をうまそうにすすった。
それから再びアメリアに向けられた面には、晴れやかな笑顔が浮かんでいた。
「君が私の傍に居てくれて、私は深く救われたのだよ。君は間違いなく私個人を慕い、一人の人間として向き合ってくれたのだから。君と過ごした日常こそ、悠久の中で得たくとも得られなかったものだった。蔦の葉扉の向こう側、あそこは小さくとも満たされた、全てを投げうってでも守りたい幸福な世界だ。そのために己を偽り、自らを縛り、過去を殺す。窮屈と言えばそうなのだが、それでも私は間違いなく幸せだった」
幸せだったのだと、声を擦り切れさせもう一度繰り返し、湿った音で息を吸った。右手で額を覆い、俯く。あれだけ曇りなかった顔が、一気に暗雲に覆われた。
マスターは視線を落としたまま軽くかぶりを振り、勢いで絞り出すように自分を戒めた。
「しかし人の道を外れた私に、人並みの幸せを得る資格はなかった、人として人を幸せにすることはできなかった。それだけのことだ、それが目を背けて来た現実だった。光に手が届くと見せかけておいて、一息に闇の底へと再び落とされる。人の身で神を騙った愚者に与えられた相応の『罰』だ」
深く息をついて、彼はゆっくりと面を上げた。消沈した目で、しかしうっすらとした笑みを描いていた。吹けば砂のように崩れそうな、頼りないものだったが。
「私は咎人。世の深淵を覗き、越えぬべき境を越え、全てを失い臆しながら、今なお不幸を振りまき永らえる、『私』は大いなる罪人だ。その暗く濁った真実を、幾重にも覆い隠し閉じ込め、幻想と理想の装いで形を保つ、泡沫の幸福を享受する人間、それが君の知る『僕』だ」
真っ直ぐにアメリアを見据えたまま言ってから、マスターは肩を揺らして自嘲した。
「そうだな、そりゃ嫌われるな。仮面の下に何があるのか、君が僕の一番近くに居たのだから、気づかないはずもない。それでも、君には、綺麗な『僕』だけを見ていて欲しかったのになあ」
店で語るような軽い口調、しかし耳にするたび痛みが走る。寂しい笑顔はどこか壊れた雰囲気を醸し、遠くを見る黒き瞳は、彼自身の心を蝕む闇の中心に成り果てたようだった。
マスターは再び茶を口にする。それを飲み下せば、彼はまた苦々しさ残る舌で悲痛な叫びを上げるだろう。茶はまだ残っている、茶会の果ては見えない。
アメリアはもはや聴くに耐えられなかった。マスターが聞き手の心に構わず長々と語るのはいつものことで、相槌を織り交ぜながら適当に聞き流し、好きなだけ喋らせておくのがいつものやり方だ。だが、今回ばかりは無理だ、いつもと違うのだ。茶話は楽しく気楽であるべきものだ、心をすり減らす重苦しいものであってはならない。アメリアは葉揺亭でそう学んできた、だからもう黙って居られなかった。
「やめて下さい」
膝の上で拳を握り、アメリアは真正面からぴしゃりと言い放った。
マスターは悲し気なしたり顔を見せると、あざけるように口角を歪めた。
「ほらね、やっぱり聞かなければよかったと後悔した。当たり前だ、それで当然だ。だから黙って居たのだ、君に嫌われたくなかったから。だけどもう、遅い。仮面はもう壊れて崩れ去ってしまったのだから」
乾いた笑い声を上げる。捨て鉢になっているのは明らかだった。仮面どころか、もっと大切なもの、葉揺亭という世界すら手づから壊しかねない勢いだ。今まで積み上げて来たものを無に帰し、そして彼自身もまた同じように消えてしまう。その危うさを、アメリアは感じ取った。
だからアメリアは声を荒げて叫ぶ。自罰に疲弊し壊れかけている主の心にも歪みなく本心が伝わるように、親愛なる彼の手を掴んで崖の縁から引き戻すように。誰にも何にも邪魔されないように、勢いづけてまくしたてた。
「違います! 違う、そうじゃない、別にマスターが何だって、そんなこと聞いたって何も変わらないんです。でも、マスターが苦しそうに話すのが、私は耐えられない! 隠し事をしたら、昔のことは無かったことになるんですか? 演技をすれば、別の人になれるんですか? そんなことない、私のマスターは、ずっとマスター一人だけなんです! それに、マスターだって、人間です。そんなの、私よく知ってるんです、だから、もう何も聞かせてくれなくて大丈夫なんです」
笑って言うべきだったのかもしれない、しかしアメリアにはそれだけの余裕はなかった。必死な想いは全くそのまま顔に映る。
「嬉しかったんですよ、マスターが来てくれて。魔法使いだからとか、神様だからとか、そんなのじゃなくて、マスターは私の大事なマスターなんです。だから、助けに来てくれて本当に嬉しかったんです。一度だって嫌いだなんて言ったこと、ごめんなさい。大好きです、大好きなんです。だから……もう、何も言わないでください。そんなに辛そうな顔してまで、話さないでください。自棄にならないでください。マスターは、笑って居てください。いつだって、にこにこして、きりっとしてて、頼もしくて……そうじゃなきゃ、私のマスターじゃないんですもの……」
はっきりと言いたいのに、声が自然と掠れてしまう。しっかりと見て居たいのに、視界が濡れて滲んでくる。アメリアは一つしゃくりあげると、腕で目をこすり、こぼれそうな涙をぬぐった。
再び明瞭な像を結んだマスターの顔は、アメリアと同じように、悲壮に満ちていた。しかし彼女とは違って、静かに確かめるように口を開く。
「じゃあ、どうして去ってしまうんだ。ずっと一緒に居て欲しいのに。君は何も苦しまなくていい、僕は主としてあの聖域を守る。そして僕だって幸せだ。それなのに」
なぜ去りゆくのか、ようやく話が振出しに戻った。全てはその問答だ、そこから日常はあらぬ方向へと転がってしまったのだ。