越えぬべき境の向こう側 ―聖域―
「マスター、マスター!」
アメリアはずぶ濡れのまま岸に上がってきた男に向かって、むせぶような叫び声を上げた。彼は顔に張り付いた前髪をかき上げる、その下に出て来たのは、疲労からか少し老けこんで見えるマスターの顔だった。何があったのか不明だが、神秘の人じみた黒いローブはもう着ていない。馴染みのある白いシャツと黒い長パンツの姿だ。
彼はアメリアと目が合うなり、安堵したような声混じりの溜息をついた。が、それは一寸のこと、再会を喜ぶ言葉より先に、すぐに眉を吊り上げた苦言が呈される。
「何故こんなところに居るんだ。せっかく葉揺亭の扉の近くに落としたのに……。アメリア、勇気と無謀は違う、要らない危険を――どうした? 何だその顔は?」
とめどなく浮かんだ説教の言葉は、蒼白な顔で目を見開いているアメリアの表情によって遮られた。対するアメリアの返答は、ただ一音。
「血……!」
亭主の白いシャツには、右脇の下や左腹あたりから、赤い染みがどんどん広がってくる。裏を覗いてみれば、背中を斜めに斬られた傷があり、切り裂かれたシャツの奥には、今なお鮮やかな赤い液体を吹き出す割れ目が走っていた。
アメリアが息を浅くする横で、当の本人は平然面したまま言ってのけた。
「案ずるな、これくらいなら大したことじゃない。君は気にしなくていいことだ。だからアメリア――」
「駄目です! 良いわけないじゃないですか! 早く、手当てしないと……!」
アメリアは半ば狂乱するように主を叱咤すると、強引に手を引っ張った。マスターは弾みで前につんのめって、困ったように眉を下げながらも、あえて何も言わずに身を任せたのだった。
アメリアの向かった先は当然小屋の中。安楽椅子にマスターを座らせると、自分の荷物の中から一枚だけ持っていたタオルを引っ張り出し、彼の肩に被せた。それで濡れた体を拭いてやろうとしたのだが、その前にマスターの手に奪われた。
「それくらい自分でできるさ。子どもじゃないんだから」
そして彼は髪を、顔を、首筋を、と順に拭い始めた。しかし手を動かすたび筋肉が動き、伴って背中の傷もずれるのだから穏やかではない。
さて手当をしなければと意気込んだはいいものの、アメリアは慌てふためいていた。日常の軽い傷ならともかく、こんな本格的なけが人の手当てなどやったことない。傷に効く薬草だとか、民間療法だとか、わずかながらに知識はあるが、その準備もないし今から仕立てる時間も無い。ただ、ぼんやりと包帯を巻かなければと思った。むしろ、できることがそれくらいだ。
もちろん包帯そのものも無い。あの棚全てをひっくり返せば出てくるかもしれないが、アメリアはそれより手っ取り早い方法を取った。
もう一脚の椅子に置いてあったマスターの白い外套を掴んで、テーブルの上に裾を乗せる。そこを、放置されていた黒曜石のナイフを持って躊躇いなく切り付けた。二度、三度と切り込みをつけ、ある程度切れたら後は両手で引き裂く。これを繰り返せば、細くて長い包帯代わりの布が出来る。
唖然とするのはマスターの番だった。半泣きで一心不乱に作業に没頭するアメリアに向かって、一言も二言も含んだ手を伸ばし、空中に震わせる。が、時すでに遅し。彼の魔法が込められたとっておきの衣は、ただの布に戻ってしまっている。糸が切れたように、マスターの首と腕が折れた。
十分な量の包帯が出来上がった折、アメリアが何という前にマスターはシャツを脱いだ。深い裂傷が今も命を垂れ流しているのが露わになり、アメリアは卒倒しそうになった。平気な顔をしているのが不思議な程のひどい怪我だ、その原因はアメリアを助けかばいたてたことだから、胸もきつく締め付けられる。
アメリアはあふれ出る血液を無理やり押しとどめるように、真っ白の包帯を主の痩身に強く巻き付けた。布はあっという間に赤に染まるから、上から何重にも何本も足していく。少々想いが籠りすぎて、締め付ける力も大きくなり、そこで初めてマスターの顔が苦悶した。
「痛たた……アメリア、もっとこう、何とかできないのか」
「我慢してください、ひどい怪我、なんですから」
「あぐっ……治療され慣れてないんだ、勘弁してくれ、痛い。放っておくより、ッ……痛い!」
「勘弁って、私だって、こんな大怪我した人に包帯巻くの、初めてなんですから! もうっ!」
何が何でもと言った強い力に、情けない音色の悲鳴が上がった。息絶え絶えになりながら、マスターは勘弁してくれと再度抗議する。
「いいよ、自分で、ッ、治す、から……だから――」
「だけどそんなのマスター! だって、だって、こんなに一杯血が出ちゃったら! マスター、すぐ死んじゃう! そんなの、駄目です!」
「なあ、おい、アメリア……君は……」
私を何だと思っている、そう言いかけた言葉をかみ殺した。
アメリアは必死だった。必死過ぎて、マスターが並の人間とは違うこと、奇跡を起こす魔法使いであること、その他もろもろ全て頭から吹き飛んでいる。愛する人を救うために、彼女は自分に出来ることをするのみだった。
ならば何も言うまい、主は固く口をつぐみ、アメリアの治療行為が催す痛みに耐える。苦痛に顔を歪めながらも、一人の人間として愛されている現実が嬉しくて、少しだけ口元は緩んでいた。
胴と左手が布で一回り太くなったマスターを、アメリアは腕を引きずるようにして椅子から引きはがし、ベッドの方へ押し込めた。少し横になって休んでくれと薄い掛布を被せるが、必要ないとマスターは抵抗していた。しかしアメリアの声が叱咤から懇願に代わる頃には、彼は苦笑しながら身を横たえ、ようよう目を伏せたのだった。
どこか満ち足りた顔つきで目を伏せ、力が抜けたように四肢を投げ出す姿。胸は一定の調子で上下して、顔を近づければ微かな息遣いが聞こえる。それを二度も三度も確認してから、やっとアメリアは安心できた。ようやく真の意味で死地を抜け出した、そんな心地だ。
人心地ついたところで、先ほど気になっていたものを確かめるべく、アメリアは再び戸棚の引き出しを開けた。文字は読めなくとも絵図ならば通じる、そしてここがどこかの手がかりになるかもしれないから。
乾いた葉をそっとつまんでページをめくる。現れたのは一面に描かれた白黒の絵だ。一人の老師を囲うように若い男女が三人、こちらを向いて立っている、何かの記念の図画だろうか。いずれもが揃いではないものの長衣を着ていた、まるで魔法使いとその弟子たちだというように。
家主に繋がるのかもしれないが、これだけでは何もわからない。アメリアは更に次へと目を進める。一枚めくるたびに、精巧な人物画や風景画が切り替わる。顔に泥を付けながら収穫物を抱えて笑う無精ひげの男、水草の間を泳ぐ流線形の魚と蛙、書棚の前で椅子に座り目を伏せている長髪の青年、花畑の中で鳥を肩に乗せ振り向く気丈そうな美女――役に立つような情報はまるで得られないが、息遣いが感じられるような写実的な図画にアメリアはのめりこんでいた。このまま目を凝らしていれば色が差して、生き物たちが躍動しそうな気すらする。
が、彼女を現実に引き戻す声が背後からやってきた。
「『写し絵の蓮』は流れる時の一瞬を切り取ることができる。我々のような魔術師にとって、記録を残すための良き道具であった。今はもう存在しないし、扱い方を知っている者も片手で足りるほどしかいないだろう」
アメリアは唖然として振り返った。マスターだ、いつの間にか起き上がって、音も無く後ろに立っていたのだ。
「寝ててくださいって言ったのに!」
「私は眠らない、その必要がないから。身を休める必要も、夢を見る必要も、物を忘れる必要も、何も無い。そして無為を承知で眠るを選ぶには、少々心が熱すぎる。君が生きていた、これを越える喜びは無い。それでなお、眠れるものか」
したり顔で言い放つマスターに、困ったものだとアメリアはただただ苦笑していた。
マスターは自分の代わりにアメリアの荷物をベッドに寝かせると、空いた古椅子に腰をかけた。怪我などないかのように背もたれに身を預け、静かにゆったりとくつろいでいる。アメリアもつられて、もう一つの椅子に座った。
しばらくは沈黙だった。お互い言葉を探しているような、得も言われぬ空気が漂っている。致し方ない、色々なことがありすぎたし、どこから話を始めればいいのやら。もともと我の張り合いで喧嘩別れした仲だったのだから、余計に。
先に口火を切ったのは、マスターの方であった。
「ねえアメリア。いつもみたいに、あれが何だったのか、それを聞かないのかい」
アメリアは耳を疑った。確かに知りたかったことだ、しかし秘密主義の主が素直に話してくれるとは思わなかったから、聞かなかったのだ。聞いたとしても適当なことを言ってはぐらかされる、そんな経験が何度もあるから諦めていた。それなのに、今回はマスターの方から誘ってくるとは。
「……聞いたら、教えてくれるんですか?」
「君は見てしまった、私が巻き込んでしまった。ならば、君は知る権利があるし、私には教える義務がある。もちろん、君が知りたいと思うのなら。聞きたくなかったと後悔する羽目になるかもしれないが――」
それでも聞きたいかとマスターは再度確認してくる。アメリアは黙って首を縦に振り、肯定した。
わかった、とマスターは目を細めた。
「語り聞かせる方法は色々だ。師が弟子に継ぐように、神が人を導くように、老いるが若きに託すように。しかし、茶を片手にゆるりと語らう、それが君と私とにふさわしいだろう」
マスターはふっと微笑んだ。室内には二人きり、お茶を飲みながら雑談に興じる、笑ったり驚いたり叫んだり。それは、葉揺亭で常にあった光景だ。アメリアも顔を晴れやかにして頷いた。
ぱんと、マスターは両手のひらを合わせる。片手が布で巻かれているから、あまり軽い音はならなかったが、顔つきは飄然としていた。
「さあアメリア、君は主宰として、語り部たる私を招く。そんな一度きりの異世界の茶話会としゃれ込もうか」
「あっ……でも、お茶なんてどこにもないです」
マスターが落ちてくるより先に漁った限りでは、室内には茶葉はおろか食糧一切見当たらない。もちろん、調理道具の類も。
残念そうに肩を落とすアメリアに、マスターは呆れたように言うのだった。
「君の目は節穴か? それで他所で仕事がしたいとよく言ったものだ。……茶の木は無くとも外にマツリカがあるだろう。裏手にはレモングラスの仲間も。その辺にはびこっているマグワートも茶の代わりには十分だし、林沿いにあるエソロフの実は見なかったか? あれも使える」
「あの、ローズの匂いがするやつですか」
「そうそう、まさにそれだ。私はあまり好きではないが、あれは……まあ、良い。気に入ったなら他にも何でも使えばよい、君に毒になるものはこの辺りには無いと保証しよう」
「だけどポットとか、カップとかも――わあっ!?」
マスターが一つ足を踏み鳴らすと、戸棚の前の床が勢いよく飛び出した。隠し棚があったらしい。椅子の高さほどのそれを覗くと、中にはあらゆる食器類が並べられていた。茶器も何種類も見受けられる。アメリアは感心して目を見張った。
「好きなのを使うがよい、何なら上のゴブレットでも構わないが。ああでも、私のはその手前の透明のやつだ。揃いのソーサーは無いから気にしなくていい」
「はい。これ、足つきなんですね。それにちょっと重いし、確かにお皿に乗せたら……あれ?」
嬉々として水晶のカップを回し眺めていたアメリアの動きが止まった。
妙な話だ、マスターは「私の」カップだと言った。ソーサーが無いことも知っている風に言った。そもそも、隠し棚の存在自体、予め知っている様子のふるまいであったではないか、彼がここに来てから部屋を物色する暇なんてなかったのに。そんなこと、家主の類でもない限り言えやしないだろう。
まさか。確信に近い疑念を、アメリアはマスターにぶつけた。
「『私の』ってことは、マスター、もしかして……ここに住んでいたんですか」
「なんだ。気づいてなかったなら、黙って居ればよかった」
マスターは渋い顔で頭をかいた。
「……もうどれだけぶりかな、君と足を踏み入れることになるとは微塵も思わなかったよ。だけど、もうあまりここには来たくなかった」
「どうして」
「穢されたくない思い出が眠る聖域だから。遠く古き失われた時代、神と呼ばれた者とその使徒なる者たちが一時を過ごした、いずこにも語り継がれぬ物語が眠る箱庭。私自身でも、むやみに触れることが出来ない儚く清らかな記憶だ。……さあ、アメリア。語り部たる私の気が変わらぬうちに、行っておいで。水も汲んでくるんだよ」
静かに言い切ると、マスターは椅子に深く持たれて両手を組み、そのまま目を伏せた。その姿は、先ほど見た絵にあった長髪の若者と重なった。
アメリアは小さく震える手で食器棚の水差しを掴むと、いそいそと外に向かった。耳が痛いほどの静けさは、同時に清浄さもはらむ。空気も大地も湖水も、何もかもが穢れなく澄み渡っていた。
今アメリアが見ている風景は、立っている場所は、神・ルクノールとその使徒たちがかつて寄った、正真正銘の聖域だったのだ。




