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越えぬべき境の向こう側 ―彷徨―


 急降下していた体は、足先から綿に包まれるように、ちょうど直立した格好で止まった。


 アメリアが着地した場所はどこまでも続く暗闇だった。辺りを見渡しても、寸分の変化が見られない。一緒に落ちて来たはずのダガーもどこにも無い。それどころか、自分の手元すら見えない、まさに一寸先は闇という状態であった。


 陽もなければ、風も無い。天も地も無ければ、寒くも熱くも無い。試しに声を出してみても、それは自分の耳にすら届かない。音も香も無い、無いものだらけの真の虚無だ。


 アメリアは白の外套を身に密着させるようにたもとを引いた。寒かったわけではない、主の残り香を感じたかったのだ。


 そしてそのまま何と無く歩き出した。目的があるわけではない、マスターの言をあてにするなら「居るべき場所に導かれる」ということだったが、それがどこなのかは知らない。ただ、動きたかったのだ。こんなところで何もせず居たら、自分の存在すら、「無」に呑まれてしまいそうだったから。歩いていさえすれば、自分の心と体は無事なのだと実感できる。



 時間感覚も方向感覚も無い、それでもアメリアは前へと進んだ、止まらなかった。


 そしてそれは突然だった。常闇の向こうに、形のある物体が見えたのだ。アメリアは思わず駆け出した。


 あれはドアだ。四角くて木製の。距離が縮まるにつれ、その姿は鮮明に見え始める。


 ――ああ。


 ドアの様相を認識するなり、アメリアの足の回りは遅くなった。落胆ではない、悟りや自戒のようなものゆえだ。何故、いや、当たり前なのだ。元居た世界に帰るとなったら、アメリアが「帰る」と言える場所となったら、マスターが導く居所となれば、一つしかないのだ。


 アメリアの前に立っていたのは、樫木仕立てで蔦葉のレリーフが施されたドア。幾度となくくぐった、葉揺亭の玄関扉だった。



 玄関の手はノスカリアの街にあるのとなんら変わらず、アメリアが手に取る瞬間を待っている。一度取って開けば、向こうに待っているのは、光源石ライト・ストーンの柔らかい光に照らされた、小ぢんまりとした喫茶店の風景だろう。拭き清められたテーブルとカウンター、背の高い食器棚に並ぶ茶器たち、その頂点で二人並ぶレインお手製の人形。その情景がありありと浮かんで、紅茶の匂いすら感じられた。


 しかし、アメリアは棒立ちになったまま、悲し気に首を横に振った。


 今さら、どうして帰れようか。二度と帰らぬ覚悟で、全てを壊し飛び出して来たのだ。それでもマスターはああして助けに来てくれたが、差し置ける現実ではない。どの面下げてこの扉をくぐればいいのか、わからない。


 だがそれ以上に、アメリアは思うのだ。この扉の向こうにあるのは、自分が帰るべき葉揺亭ではない。アメリアの愛する葉揺亭には、マスターの存在が必要不可欠なのだから。主を失った店など、魂の抜けた亡骸のようなものである。そこに踏み込んだとして、ただ悲しみに暮れることになるだけ。アメリアを救うために、マスターは異界に捕われることとなった、その現実に打ちひしがれるだけだ。


 行かなくちゃ、とアメリアは唇を噛んだ。どこへ? 決まっている、マスターのところへ。帰るべき場所があるとしたら、彼の隣だけだ。


 アメリアは扉を無視して通り過ぎ、さらに闇の奥へと進み始めた。振り返ることもしないが、もう葉揺亭の入り口は黒に埋もれて見えなくなってしまっただろう。それでもためらいなく、ただ前へと進む。


 心にマスターの影を思う。彼は今どうしているのだろうか、異界の神を相手取り死闘を繰り広げているのか、それとも遅れて脱出し同じように闇を彷徨っているのか、アメリアに知るすべはない。悪い想像もが頭をよぎり、アメリアはかき消すために首を振り乱した。今はただ、再会できることを信じるだけだ。信じていれば、諦めなければ、きっと叶うから。



 時間感覚が麻痺しているから、どれだけ歩いたかわからない。しかし、そろそろ足が疲れて来て、背中の荷も重さを増して来た、と思った頃合いに、無味無臭だった空気が変わったのを感じた。


 顔に触れる湿っぽさ、息をするたび水の匂いがする。霧だ、とアメリアは思い描いた。ノスカリアの街にも朝霧が立ち込めることくらいあるから、勘違いということはないだろう。

 

 なおかつ、それがわずかな流れに乗って一方向からやってきていると、見えずとも肌に感じられた。アメリアは誘われるように、霧の発生源へと向かっていく。


「……きゃあっ!?」


 暗闇の中で足を滑らせた。尻餅をついた先は、湿った地面である感触がした。おまけに坂道で、アメリアの体は少し下に落ちる。


 外套についた土を払いながらアメリアは立ち上がった。と、気づく。土だ、足元に大地がある。


 気づいた瞬間に黒い靄が晴れ始め、アメリアは白い霧の中に立っていた。下を向けば、自分の両足が草原の中の獣道にあるのも見えた。


 どうして突然などということはもう気にしないことにした。森の中の廃墟から始まって、この短い間にいくつの世界を渡り歩いたというのだ、慣れたものである。


 アメリアは足を滑らせないように注意し、道なりに坂を下った。進めば進むほど霧は薄くなり、平坦な場所に降り立つ頃には、遠方まで見通せるようになっていた。


 アメリアが辿り着いたのは、霧の立つ湖のほとりだった。わずかに湖面がさざめく音、潤い澄んだ空気の匂い、そして水平を霧が覆う神秘的な風景。厳粛な雰囲気に、アメリアはしばし圧倒されていた。


 湖を取り巻くしっとりとした大地には丈の低い草がはびこり、ところどころ灌木も生える。さらに外側は林が囲んでいて、奥は霧に遮られ見えない。そして、アメリアの居所からしばらく歩いた先に、一軒の小さな家があるのが見えた。神隠しの家よりももっと小さい、小屋と言い切っていいような、粗末な見た目の建物だ。誰か居るのかもしれない、アメリアはひとまずそこを目指して歩き始めた。


 綺麗な場所だった。さっきまで居た無限の暗闇や、荒廃した悪魔の住む異界に比べれば、まともな情景だというだけで心が躍る。かといって、最初に偽りの丘陵地帯に降り立った時のように、大声を出して転げまわる気にはなれない。静かに染み渡る厳かな雰囲気が、アメリアを落ち着きたらしめていた。

 


 湖岸と林縁の中間をアメリアは歩いていた。どちらも人の手が入らない、秘境とも言うべき空気をほとばしらせている。が、その中において一つだけ違和感があるものがあった。一種の樹だけ、アメリアが進む道に沿い、広い等間隔で繁っていたのだ。人の手によって植えられたと思っていいだろう。おそらくは、あの小屋の住人が。


 大人の男性くらいの背の高さで、幾本もの太い蔓が絡んで幹を形成し、上で広がった枝に羽状の葉が繁っている。そして、一口大のリンゴに似た実がちらほらとぶら下がっていた。


 アメリアは思わず木の実に手を伸ばした。怒涛に揉まれて疲労した身が、本能的に糧を求めたのだ。食べられないものだ、毒だ、というような躊躇いは全く浮かばなかった。不思議なことに、この空間の物は安全であると確信があった。


 薄皮一枚の下の果肉は、リンゴというよりブドウに近い柔らかいものであった。香りはハーブティに用いるローズと同じ華々しいものだ。それ以上に衝撃だったのが、蜂蜜を更に煮詰めて舐めたのを思わせる、脳天に突き刺さるような甘さを持っていたことだ。こんな果物他に知らない、驚きと共にアメリアは咀嚼ほどほどに飲み下した。


 みずみずしい果実だったにも関わらず、逆に喉が渇いた気がする。アメリアは小走りで湖岸に向かい、澄んだ水を手で掬って飲んだ。冷たく全身に染み渡り、疲れた体を癒す。ついでに透き通った水で、くたびれた顔も洗い流した。


 素敵な場所だとアメリアは思った。時を忘れ、湖水が波打つ音をずっと聞いていられる。しかし今はそんな余裕はない、この場所のこと、帰り道のこと、あらゆる手がかりをつかむため、先に進まなければいけないのだ。人の存在薫る建物へ向かうべく、アメリアは再び立った。


 

 結論として、アメリアの期待は空振りに終わった。小さく造られた窓から覗いても人の影は見えず、遠慮がちに扉を開いても、物音一つ無かった。がっかりして、しかし人間でないものが出てこなかったことには安心して、アメリアは肩の力を抜くように息を吐いた。


 今は誰もいない、しかし小さな家の中には確かに人の息遣いがあった。一揃いの家具が並び、細かい雑貨も溢れるように置かれている。いささか雑然としているが、物品自体は壊れたり風化したりしていない、今もなお家主の生活に寄り添っている顔をしていた。


 とは言え今も誰か住んでいるとは言い切れない、異界の門をくぐった先は「時忘れの箱庭」だとノスカリアでは謳われていた通り、人が去ったのち時の流れから切り離されて、朽ちることもなかっただけかもしれないから。


「……お邪魔します」


 アメリアは誰にともなく小声で言ってから、小さな家に立ち入った。後ろ手で引いた扉は、軋む音を立てて閉じる。


 年季の入ったテーブル上には雑多なものが散らかっていた。知らない文字がつづられた文書や書物、溝や窪みを付けられた石板、皺の寄った刺繍入りの布、鋭い黒曜石のナイフ。金の天秤には片腕に真っ白な丸石が三つ乗せられたままで、重さに負けたように肩を斜めにしている。


 アメリアはテーブルの傍に放置されていた安楽椅子に、被っていた外套と背中の荷物を預けた。椅子はもう一台、ほぼ同じ型の物がテーブルに押し込めてあるが、古びた感じはこちらの方が圧倒的に上だ。


 そして椅子の後ろには天井につく高さの戸棚がある。いくつにも仕切られた各所に、ありとあらゆるものが無造作に並べられているという風だ。開放されている部分だけでも、よりどりみどりの硝子瓶や、少々怪しげな気配するゴブレット、古めかしいランプや燭台などなど、まるで古物商の店に来たような様相だ。


 ちょうどアメリアの目線の高さには、鉱石や輝石、アビラ・ストーンの類が乱雑に陳列されていて、目に良い栄養となる。中でも気になったのは無数に転がっていた硝子玉だ。ブドウの粒くらいの大きさで、透明な硝子の中に種を思わせる白い粒が浮かんでいる。


「あっ、瓶が倒れてるのね」


 その硝子玉は適当に転がされていたわけではなかった。棚の奥で口広の瓶が横倒しになっており、そこから転がり出て来たらしい。


 どうにも性分がうずいて、アメリアは散らかっている硝子玉をその瓶に押し込めた。一杯に詰めても入りきらず、最後は口から山盛りに乗せる形になった。蓋に類するものは見当たらないから、元々こういう風だったのだろう。


「あれ、まだ一個あるわ。もう入らないのに……」


 橙色の鉱石の影に見つけた一粒を手に、少し逡巡する。と、かつてマスターが言っていたことが思い起こされた。あれは、アーフェンが時忘れの箱庭から宝物を得て来た是非を問うた時の返答だ。


『いいんじゃないかな。時の狭間に埋もれて消えるより、後代に脈々と存在を示した方が、物だって浮かばれる』


 アメリアにとってマスターの言は他の何より説得力がある。それにそもそも、瓶をひっくり返して放置されていたのだ、元々大事にはされていなかっただろう。それならば、一つくらい失敬したって良いのではないか。ここに家主が来るのならその時に素直に白状しよう、遭わなかったらそれまでだ。アメリアはそんな考えで、硝子玉を自分の鞄の中にしまった。


 戸棚から目を離し左右を見渡す。片隅には布張りの質素なベッドがあるが、他所に比べてどうにも埃っぽい。そして逆側には簡素な暖炉がある。火を入れたいところだが、室内のどこにも薪は無いし、火を打つ道具も見当たらない。赤いアビラ・ストーンがアメリアの知るものと同じなら、投げつければ割れて炎が起こるだろう。が、確証はないので手を出す気にはならなかった。魔法の力の素晴らしさも恐ろしさも十二分に見て来たゆえの判断である。


 それでも何かないかと、アメリアは棚の引き出しを開いた。荒い質感の紙や、薄い水晶の板、革張りの書物など文字がたくさん目に飛び込んできた。どうやら文書を片づけてあった場所らしい。一つずつ持ち上げ底まで確認して、求めているようなものが無いことに肩を落とす。


 代わりに意識に留まったのは、大きな葉に穴をあけて紐で束ねた冊子のようなものだ。ノスカリアでも書物はたくさん目にしたが、こんな形態の物は初めてである。表紙代わりになっている厚みのある葉を少しだけもたげると、文字列の代わりに絵が見えた。


 その時、アメリアの耳が、よく響く水音をとらえた。室内からではない、発生源は外だ。音も軽々しいものではなく、例えば重量のあるものを湖面に叩きつけて鳴らしたような、そんな派手なものだった。


 まさか。アメリアは窓に駆け寄り、湖の方へと目を凝らした。見えたものは、水面をさざめかせ立ち上がる人影。あれは――入念な観察する間もなく、「まさか」と抱いた念が正解だったことをさとり、アメリアは小屋の外へとはじけた。


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※本作品を再構成・加筆修正を行った新版を2023年に公開はじめました。順次掲載していきます。  ストーリーは大きくは変わっておりませんが、現在本作品をお読みの方はぜひ新版をご覧ください  https://ncode.syosetu.com/n9553hz/ またはマイページから
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