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越えぬべき境の向こう側 ―断罪―

 厳粛に開かれた口から歌うように詠まれるは、古き魔法の言葉だ。洗練された無駄のない呪文は、わずかに四節で完成する。最初の二つで掌に大気が凝縮し、三つめ四つめで針先程に圧縮され、全て唱え終わったその刹那、気流は一挙に弾ける。轟く衝撃波の音が、時間を再び動かした。


 千の不可視の刃が、辺り一帯の空間を切り裂いた。それはやたらめったらに全てを刻んでいるに見えて、実は全て術者の意図的に動いていた。


 九百九十九は目くらましだ。敵の逃げ場を塞ぎ、外からの介入を許さぬために張り巡らせた、凶器ならぬ刃だ。本来の斬る仕事をするのは、たった一枚が必要で、たった一枚で十分だった。


 下方からねじれた曲線を描き昇ってきた刃が、悪魔の右肩を一刀両断にした。血色ならぬ体液が空に舞い、鈍色の腕が重力のままに落下する。そしてもちろん、その手が捕まえていた金色の少女も。



 音がして、気が付いたら落ちていた。それがアメリアの認識だった。悲鳴を上げる間すらなく、荒れ果てた地上に向かって加速していく。


 空から落ちることなど、人生でそう何度も経験することでは無い。しかし彼女はこれが二度目だった。前は不慮の事故に遭い、ノスカリアの広場の上空から落下した。あの時は死を覚悟したものだが、空中にて救世主の手に抱き止められたのだった。


 そして今度も同じだった。宙を落ちていた体が、途中で二本のかいなによって柔らかく受け止められた。痛みも何も無く、しっかりと強く。


 マスターだ。急速度で降下しながら己を横抱きにする男の顔を見て、考えるまでもない答えをアメリアは確認した。


 そのまま重力が引くに任せて、二人は地上に降り立った。マスターは階段を一段飛び降りたくらいの平然さで、両の足で着地して見せた。


 流れる動きで腰をかがめ、アメリアを地の上に降ろす。凄みの中に緩んだ表情は、確かに葉揺亭の主のそれだ。


 アメリアは腰が抜けたように地面に崩れていた。死を覚悟してからここに至るまで、シネンスのお茶がやっと一つ入るかくらいの時間しか経っていない。その間に事態がめぐるましく移り変わるものだから、全く理解が追いついていない。言葉も見つからないままだが、アメリアはとにかく安堵して、後ろに立つマスターを見上げた。


 遥か上空から、化け物の狂乱の叫びが轟いた。同時に、アメリアの視界を真っ白の物が遮った。彼女を頭から包み込んだ白布は、マスターが肩に羽織っていた衣だ。


 優しく、温かく、懐かしいにおいがした。母親の腕に抱かれたらこんな感じなのだろう、アメリアはぼんやりと思う。その上に、厳としながらも甘やかな、父親に等しい男の声が耳を打つ。


「戦うのは君の役割じゃない、命を賭すのは君の運命じゃない。こちらの世界の存在など、本来君のサーガに記される必要はないのだ。だから小さくなって震えていろ。目を伏せ耳を閉じ、悪い夢だと言い聞かせていなさい。次に目を開いた時には、悪夢のことなど綺麗に忘れてしまえるから」


 言葉がアメリアの心に響くと同時に、重い衝撃波が幕一枚向こうに襲い来た。大地が震え、地盤が砕かれた音がする。上空から再び攻撃が仕掛けられたのだった。


 しかしアメリアは無傷だった。確かに凄まじい暴威が一帯を貫いたとわかったのだが、強固な殻が全てを反らしたように、内側の空間に居る少女にまでは届かなかった。魔術師の織った白き法衣は、あらゆるものを遮断する防護魔法そのものでもあったのだ。


 布一枚隔てた向こうで、砂利を踏む足音が聞こえる。前へと歩み出るマスターのものだ。果たして彼がどんな形相を見せているのか、アメリアには知る由も無い。


 主は言った、全てを忘れろと。きっとこのまま目を閉じれば、次に目が覚めた時には寝台の上にでもいるのだろう。異界の存在など所詮は幻想、全ては悪い夢、そんなもの忘れてしまえばいい。忘れてしまえば、認識できなくなれば、それは「無かった」と同じことになるのだ。アメリアにとってはそれが一番良い、マスターはそう告げていたのだ。


 嫌だ、とアメリアは思った。確かに異世界は思ったよりも優しいものではなかった、死地に追い込まれ肝を冷やし、似合わぬ暴を奮いもした。だがそれもまた全て、アメリアの糧なのだ。自分の選んだ道の結果だ。それを見ぬふりして敷かれた花道を進むのは、自分自身を否定するようで、嫌だった。


 全てを受け入れる、自分の行動の末に、何が起こるかを最後まで見届ける。それがどんな恐ろしい光景や、目を覆いたくなるような真実だったとしても。その覚悟で、アメリアは白く大きな衣の海を抜け、呼吸をする鯨のように顔を出した。


 二、三歩先に立っていたマスターは、ちらとだけアメリアを顧みた。困ったような微笑みは、葉揺亭でよく見るそれと何ら変わらなかった。


 彼はすぐに前に向き直る。細く釣った目は、空より襲い来る異形のものを捉えていた。六つの腕と二本の足、赤い空を背中に急降下してくる様は、獲物を喰らいに襲い来る蜘蛛のように見えた。


 迫りくる脅威にマスターは動じず、逆に腕を伸ばして二本の指をつき示す。同時に彼は口を開いた。詠唱だ、しかし此度は先ほどのように簡略なものではない。


 音自体は流れ連なる唄のような、耳心地の良いものだ。しかし彼の声が通ると共に、空気は厳粛な色に様変わりする。


 魂の込められた言葉は敵に向けられたものだった。だが近くに居るアメリアにも当然聞こえてしまう。彼女もまた、魔術の式の中に引きずり込まれていた。


 時が引き伸ばされた様に感じられる、魂が分裂し、自分の感覚が不安定になる。一定の調子だった主の声が幾重にも反響して聞こえ、目にはめぐるましく光が明滅した。黒から紫紺へ、青のち緑、そして黄に変じ、橙を経て赤くなり、最後は白に包まれる。


 音だけが変わらず聞こえる、しかしはっきりとしたものではない。第一、もとよりアメリアの知らない言葉だ、どう聞いていいのかわからない。しかし、主が何を言っているのか、その意味は頭の中に直接流れ込んできた。意識せずとも、理解が及ぶ。 


『我は永遠を紡ぎし者、我は人ならざる人、我は世界の語り部、我は深淵に呼ばれし魂。我が禁じられた名のもとに、我はイオニアンの神を代行せん。心して対せよ、我が言の葉は世界の意志なり。我が世の御子は我が手が抱き、我が世の法敵は我が手が裁く。汝に問う、汝が帰すはいかなる郷か。汝に問う、汝の信ずるはいかなる主か』


 声が途切れた。広がる白き世界、ここは裁きの場だ。壇上に立った者を裁定し、絶対の審判を下すべく、返答を待っているのだ。


 アメリアは手に力を込めながら、心の中で即答した。私は葉揺亭のアメリアだ、私の主は、マスター、あなただけだ。と。


 その瞬間、魔法が解けた。赤い空、朽葉色の荒野、佇む黒い魔術師の背、敵対する魔の者、現実の世界が再び瞳に映しだされ、時や感覚も全て元に戻る。


 と、アメリアが認識したと同時であった。宙に居た悪魔は石になったように固まる。そして次の瞬間には、塵芥にまで分解され、異界の淀んだ風に舞い消し飛んだ。当人の存在は欠片も残らない。ただイオニアンの物である銀のダガーだけは消えず、寄る辺を失ったせいで地上へと落ちて来た。


 乾いた音を鳴らしながら、役目を追えた刃が大地に跳ね、マスターのやや前方に滑った。それと同時に二人ともが動いた。マスターはローブの裾を翻してアメリアを振り返り、アメリアは白い外套を背にしたまま、跳ね立ち上がるようにしてマスターに向かった。


「マスター……! どうして、ここに、どうしてっ!」

「君が呼ぶ声が聞こえた。私の耳は、君が思っているよりずっと良く聞こえるのだよ」

「私、だって、マスターのことっ……葉揺亭のことも……! マスターのくれたブローチも、守れなかったし、なのに!」

「良いのだ。そもそもあんなものを持たせてしまったから、君はこんなところに連れ込まれてしまったんだ。悪かったな、そこまで考えが回らなかった。君には何一つ落ち度はない、これは私の罪だ」

「違っ……マスターは、来なくて良かった! 私が、いけないことを、やったのに! だから、マスター、何で来たんですか! だって――」


 むせびながら発していた言葉は、マスターがアメリアの頭に手を置いたことで遮られる。涙をこらえ鼻をすする顔を伏せさせるように、彼は平素より強く下向きの力を込めていた。


 俯いたアメリアの頭の上に、主の柔らかい声が降ってくる。


「もう顔も見たくなかった、もう二度と会わないと誓った。そうだったか? アメリア。大嫌いな私など、来ない方が良かったか?」


 そんなわけない。アメリアはそう答えようとしたのに、口を開くより先に、マスターが自己完結的な論を重ねて来る。


「答えずとも良い、肯定も否定も私には必要ないからな。君を死なせぬためにここに来たのは違いない。しかし、それは君のためではない、私自身のためにだ。私の過ちの贖罪のために、私はここにやってきた。そう言うことにしておくがよい、だから――」


 今度はアメリアがまくしたてられる言葉を遮った。吹っ切れたように顔を上げ、きっと目を尖らせて、涙声で大きく宣言する。


「そんなわけ、ないじゃないですか! マスターが来てくれて、嬉しくないわけないのに! 助けてくれたって、思ったのに! ……マスターの、馬鹿ッ!」


 言ってから、アメリアは目を潤ませて唇を噛みしめた。


 マスターは眉を下げてぽつりとつぶやいた。


「幾瀬の時を越えようと、幾重の生を経ようと、人の心は未だ理解しがたい。なにせ、しばしば胸中と表面が相反するものだから。心の言葉をそのまま読む術は、私には無いというのに」


 男は遠い目をした。それから少しかがんで、アメリアのことを緩く抱きしめ背を叩く。確かな温もりが触れ合った。



 マスターはアメリアが適当に引っかけていた白い外套の襟を正し、しっかりと身を包むようにしてやった。もとから彼女には大きすぎるのだから、それこそカーテンを体に巻き付けたようになってしまう。おまけに裾もずるずる引きずるからみっともない。


 だが、見かけを構っている場合ではないのだ。危機は未だ去っていない、むしろここからが正念場なのだと、彼は理解していた。顔も自然と険しくなる。


「つもる話は後だ。……彼奴が来る前に離れなくては。何故まだ来ないのか不思議なくらいだ。私たちには幸運なことだけれど」


 言いながら、マスターはアメリアの顔が隠れない程度にフードも被せる。


 彼奴。その言葉にアメリアは反射的に呟いた。「コルコ」と。


 その途端、マスターが目を丸くして固まった。が、それは瞬間のことで、あっという間に氷解し、合点が言ったという笑みを浮かべた。


「ああ、そう言うことか。だから君は、私がここに至るを恐れたのか。なるほど、コルコか! その名がここで君の口から出てくるとは、予想だにしなかったよ」

「えっ、でも――」

「憶測、推測、予測、大いに結構。だが、あまり敵の像を固め過ぎぬ方が良い、外れた時に足元をすくわれるから。……確かにコルコも我が仇敵ではあるが、彼女は生涯人の域を外れはしなかった。神を騙るは、彼女が最も忌避したことだ。偉大なる魔女の名誉のために、それだけは取り急ぎ否定させてもらおう」


 この世界の主はコルコではなかった、アメリアの予想は早合点だったらしい。


 じゃあ一体誰なのか、これから何が来るというのか。聞きたいのはやまやまだったが、今がその時で無いとは、再び軽妙さの消えたマスターの顔を見ていれば察しが付いて、言葉に出すことはしなかった。


 マスターはアメリアの頭を軽く叩くと、踵を返して数歩前へ出る。そして落ちていたダガーを拾うと、アメリアに見せながら語り掛けた。


「借りるぞ、君の宝物」


 どこか楽しげに銀を閃かせると、マスターは再び背を向けた。黒衣の向こうで、彼は左手に持った鞘から右手で刃を一息に抜いたような動作を見せた。そしてダガーを右から左へ持ち帰る。


 しかし、あのダガーの鞘は、今なおアメリアの腰にくくられている。だから彼が掴んだのは抜き身の刃のはずだ。それを握って引いたならどうなるか、想像力の多寡に知れず、自明なことだ。背中に氷を入れられたようにアメリアは身をすくめた。


 再びこちらを向いて歩むマスターの左手は、装飾美しいダガーの柄を握りしめていた。しかしその指の間からは、紅茶よりも赤い液体がとめどなくこぼれ、熱く怜悧な刃の先端から絶えずしたたり落ちていた。


 その血塗られた銀器を筆の代わりにして、マスターは一心不乱に大地に模様を描き始めた。直線と曲線が入り混じり、意味不明の紋様をつくり出す。否、無意味ではない、大雑把だがれっきとした魔法陣の一部だ。


「何を……」


 乾いた土を削り、赤黒い染みをにじませながら、自分の周りに脈々と描かれる幾何学模様を見て、アメリアは胡乱気に呟いた。


 するとマスターが一瞬だけ顔を上げた。皮肉めいた笑みをわずかに浮かべて、しかし彼はすぐに手元に視線を戻す。と、怒涛の勢いで声のみがアメリアに向かって来た。

 

「あるべきものはあるべき場所へ。君はまごうことなきイオニアンの人間だ、だからあちらへ帰らなければならない、帰るべきだ。そのための道が必要なのだ。二つの世界を隔てる境は、私たちの葉揺亭のように開かれてはいない。それをこの身一つで超えるのと、君を連れて超えるのとではわけが違う。正式な型をもって、しかし強引に打ち破らねば、その壁を跨ぐ門は作れない。加えて迅速さもいるとなれば、我が血肉を力の源泉とするのが最も手っ取り早い手段だ。……理論的なものが聞きたいのならいくらでも説明するが、君の一生を費やしても理解出来まい。君の時間は有限だ、無駄遣いするべきではない。とりわけ今は猶予がないのだ、だから、ここは黙って私に任せろ」


 早口な上にぶっきらぼうな物言い、アメリアはたまらず口をつぐんだ。こうやってマスターが何かに集中している時は、下手に触ると機嫌を悪くする。それに熱中以上に、今は余裕の無さがにじみ出ていたのだ。冷徹で表情の無い横顔は、むしろ焦りを隠すために取り繕っているようにすら見える。


 

 アメリアの周りを取り囲むように紋様が描かれた。仕上げとばかりに、マスターはその縁を囲うように円を描く。さほど大きくない円陣だ、中央に居るアメリアが三歩進めば外に出てしまうような。


「アメリア。これから何が起こっても、絶対にこの外に出るんじゃない。それくらいは聞けるな?」


 そう言いながらマスターはアメリアの隣に立ち、ダガーを足元、すなわち円の中心に突き立てた。岩を弾くような響きを立て、銀の刃の先端が大地に刺さる。もちろん、それで固い地盤が緩むことは無かったが。


 マスターは立ち上がり、アメリアの肩を背後から右腕で抱き寄せる。そのまま遠くを見据え、深く息を吸った。


 長い詠唱が繰り広げられた。祈るように丁寧な響きだ、それに聞いていても先ほどのように視界が歪んだりしない。ただ、マスター自身の声がいささか震えていた。アメリアをかき抱く腕に余計な力が籠っているし、心臓が大きく脈打っているのも、ローブ越しに感じられるほどだった。


 瀬戸際だったのだ、間に合うかどうかの。際どい賭けに勝てば、二人仲良く世界の壁を越え、葉揺亭の玄関先に立つことができた。


 だが、賭けには負けた。異界に流れる気の色が変わったのを、マスターは心の目で確かに見て、最も恐るべき対象の到来を悟った。舌打ちをして、声を止める。高等な魔術の行使は綿密に組み上げられた式が不可欠だ、それを繋ぎつつ二人分の身を守りつつ立ち回る、それを許してくれる相手ではない。曲がりなりにも、相手はこの世界の支配者なのだから。


 マスターの声が途絶えると同時に、狂気に満ちた高笑いが辺りに響いた。それも獣や魔物の類ではなく、人間のものに聞こえた。


 アメリアは突然のことに肩を震わせ、耳触りな音を手で遮りながら、声の元を探して周囲を見回す。しかし、どこにも人影は無い。


 不安げにマスターを仰ぎ見ると、彼は真剣な面持ちで彼方を見つめていた。もちろんアメリアには何も見えなかった、しかし彼には見えているのだろう。今のマスターに笑顔はおろか、いつもの鷹揚とした余裕すら一切無い。平素とはまるで目が違う、黒い瞳の中に百千の目が浮き出しているような印象だ。怒りと侮蔑と、焦燥と覚悟と、ありとあらゆる感情を持った幾千もの目が。


 しかし彼は不意に頬を緩めると、アメリアの方を見下ろした。


「安心しろ、必ず君はここから逃がす。だから、絶対に動くんじゃないよ、何が起こってもね」


 まるで大好きなお茶の講釈でも始めるかのような、場違いにも程がある朗らかな声音だった。心地よい、しかし痛々しい、アメリアはそう奥歯を噛んだ。


 マスターは最後にアメリアの肩を元気づけるように叩くと、さっと身を引いた。血を吐く思いで狼狽えるアメリアの存在を意識の外に出し、自らは足元にひざまづく。切れ長の目を静かに伏せ、左手を突き立つダガーの頂点に添え、再び祈り唱える。同じ魔法陣を使えども、先のものとは違う結果に帰結する魔法だ。最善の手が回り道をして波風立たせずことを済ませるものだったなら、この手は堅牢な守りの敷かれた城門を真正面から急ぎ強行突破する策である。手っ取り早いが、消耗と危険は大きい。


 一方、アメリアが見る情景は急変していた。


 円の陣に囲まれた外で、空間が崩れ出す。天地が逆転し、視界がねじれ、空が断裂する。枯葉色の大地がぼろぼろ壊れるように闇に飲み込まれ、赤い空は破り捨てられるようにめくれて落ちて来る。それが、どんどん自分が居る足場まで迫ってくるのだ。


 もう天も地も、円で切り取られた範囲が浮島のように残るだけだ。息苦しい、足元がおぼつかない、早く逃げないといけない。そんな焦燥感が沸いてくる。うろたえている間にも、足場の縁が少しずつ崩れ落ちていく。


 アメリアの頭の中に、声が響いた。マスターの声だ。


『ほら、早く逃げなさい。さもないと、恐ろしい恐ろしい地獄の底に、そのまま落とされてしまうよ。ほら、お嬢さん、早くこっちへ!』


 アメリアの視線の先に、ぼうっと虹の道が浮かび上がる。こちらへ、と再度声が導く。


 だが、アメリアは動かなかった。今呼んでいるのはマスターじゃない、マスターは自分のことをお嬢さんなどと呼ばない、冗談でもそんな呼び方をしたことが無い。アメリア、と名前を呼んでくれるのだから。


 それにマスターは何があっても動くなと言った。だから、動かない。誰よりも、マスターのことを信じているから。


 アメリアの想いに呼応するように、足元の陣から光が吹きあがった。一瞬視界を白く埋め尽くしたが、すぐに晴れ渡った。周りの風景は寂しい荒野に戻っていた。どうやら幻影だったらしい。


 土を削っただけだった魔法陣は、その紋を際立たせる様に白い光を湛えていた。美しい叡智の陣の中央で、不意にマスターが立ち上がった。


 彼は穏やかに微笑んでいた。そのまま手を伸ばし、アメリアの被っているフードを少しだけもたげ、額に口づけをする。一瞬微かに触れるような軽いものだった。その途端、アメリアの体は柔らかいものに包まれ、体が軽くなったような心地がした。


「マスター……?」


 面食らっているアメリアの頭をなでると、マスターは黒衣を翻した。向かう先は、魔法陣の外。


 アメリアも後を追おうとした。だが、マスターが後ろ手に制止する。確かに、何があっても絶対に動くなと言われたのだ。アメリアはぶかぶかの外套の中でたたらを踏んで止まった。胸騒ぎを感じながら。



 光陣の境界線の外側に立って、マスターは内側に向いた。その場で彼は右手を緩く握ると、唇、額、胸の順に触れ、また文言を唱える。ささやくように紡がれたそれは、アメリアの距離からでも音として認識できなかった。


 だが、静かに祈りを捧げるマスターの背後に何かが迫る。どこから現れたかはわからないが、人影が彼の遥か後方にゆらめいて、一気に迫り来たるのだ。


 アメリアは息を呑んだ。猛然と地面を滑るように向かってくるあの姿、紛れもなく人の形をしているが、あれは人などではない、人の皮を被った恐ろしい存在だと直感した。どんな表情をしているのか伺えないが、底知れぬ敵意がこちらを向いているのは肌で感じた。間違いないあれこそが、さっきの悪魔の言っていた「マスター」、この世界の主、異界の神だ。


 逃げて、と叫びたかった。しかし悟り切ったように微笑んだまま、小さくかぶりを振る主の姿を見て、出かかっていた声を飲み込んだ。彼もわかっているのだ、背後に何が来たるのか。


 アメリアの声にならない声をかき消すように、マスターが朗々と語り掛ける。


「イオニアンは愛したものを見放したりはしない。君は居るべき場所へ導かれる。信じろ、恐れるな、何があろうと、君の未来は光へ。だから――行け!」


 マスターはあらゆる不幸を断ち切るかの勢いで、右手を大きく横に切った。硝子にひびが入るような音が一瞬、その後、アメリアの足元が丸く底抜けした。始めから地面など無かったかのように、少女の体と銀のダガーのみが、真っ直ぐに下降する。


 アメリアは自らが白き宙へと沈みゆく中で、主の周辺の空間に幾重もの閃光が走るのを見た。あれは刃のひらめきだ、ちょうどマスターが悪魔を切り裂いたときに見せたような。


 そして、敵対者の姿もほんの一瞬だけ見た。極彩色の長衣を着て、奇しくもマスターと同じような背格好をした男だった。狂気染みた凶相を浮かべていたが、それは幸い、アメリアには無関心のようであった。


「マスタァーッ!」


 アメリアは叫んだ、手を伸ばした。しかしなすすべなく落ちていく。真っ白の空間だった。激しい雷鳴と地鳴りとが混ざったような音が、遥か上方から響いていた。


 どこまでもどこまでも落ちていき、着地点は全く見えない。しかしマスターが「行け」と言ったのだ、だから大丈夫だ、自分は。そんなやるせない思いを抱きながら、アメリアは身を縮めた。


 白、灰、黒。アメリアが身を任せる虚空の色はそう移り変わっていった。


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※本作品を再構成・加筆修正を行った新版を2023年に公開はじめました。順次掲載していきます。  ストーリーは大きくは変わっておりませんが、現在本作品をお読みの方はぜひ新版をご覧ください  https://ncode.syosetu.com/n9553hz/ またはマイページから
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