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越えぬべき境の向こう側 ―死地―

 一方、異界の住人は怪訝な面持でアメリアに問いかけて来る。

 

「じゃあ誰だ。なぜ、ここに居る、人間が」

「わかんないです、気づいたらここに居て。ちょっと疲れたから、休んでいるんです。ごめんなさい、いけないことなら謝ります」

「どうでも良い。なんだおまえは、おかしい」

「そう言われても……私にも何が何だか」


 アメリアからしたらおかしいのはこの世界の方だ。しかし彼女はそれを受け入れようとしていた。同じ天下の地に居ても異なる文化を感じることはままあったのに、ましてここは異世界、自分の価値観が通じるはずがないのだ。


 それになぜ自分がここに居るのか、何をどうすべきなのか、一体ここはどこなのか、教えてほしいのはアメリアの方である。しかしアメリアが質問を返す間もなく、悪魔の詰問が繰り返された。


「理由が無ければ、我が主は招かない。おまえは誰だ、なんだ。何をしている」


 抑揚の無い声が響く。人を慄かせるのに特化した大きな目玉が、アメリアの頭の中を探らんかという眼光を浴びせて来る。納得する答えが得られるまで、退いてはくれぬだろう。


 しかし答え方に失敗した場合はどうなるのだろうか、悪魔の鋭い爪や牙を見て不安を感じないはずもない。だから、アメリアは言葉を選んで返した。極力角が立たず、それでも的を大きくは外さないように。


「ただの人間です。喫茶店の店員……です」


 正確には「だった」なのだが、そう自己紹介するのも変な気がして言いよどんだ。この状況に置いて身の上話にもつれ込ませる気も無い。


 ところが、相手はアメリアの思わぬところで躓いていた。腑に落ちないという顔で、喋りづらそうに単語を反復する。


「きっさてん? てんいん?」

「ええ。もしかして、知らないんですか?」

「無い」

「えーっと、お茶を飲むところです。私は、そのお店で働いていて」

「おちゃ? なんだそんなもの知らない」


 アメリアには衝撃だった。元の世界で「茶」を知らないと言われたことは無い。葉揺亭のように茶葉やら飲み方やらにこだわるかは別にしても、至極大衆化した飲み物だったからだ。


 考えてみれば一面荒涼の地だ、茶になる植物も無いのかもしれない。それに加えて、アメリアが親しんできた「店」や「町」といった文明のそのものも。


 アメリアには悲報だ、己の愛するもの一切の影すら見えない事実は。心のよりどころを奪われたような気がする、ひどい仕打ちだと、神をも恨みたくなるほどだ。


 しかし同時に朗報にも感じられた。無いのなら、作ればよい。前が居なければ自分が第一人者となれる、それこそまさに自分が願った「自分だけの店」だ。知らぬ世界で一から文化を興す、やりがいも溢れてきりがない。決めた、やろう。アメリアは前に向き直った。



 まず手始めに見つけなければいけないのは、水だ。渇きは全ての生き物の敵ということもあるし、清浄な水は茶を扱うのに必須だから。そして水がある近隣には植物も育つ、茶の葉も手に入れられるという算段だ。おまけに生物が集まってくるから、物を作ったり建物を建てたりということもやりやすくなるだろう、希望的推測ではあるものの。


 言葉が通じる存在に出会えたこの縁を大事にし、あわよくば水場の場所まで連れて行ってもらいたい。アメリアは目の前の人外を、救世主であるかのように熱っぽく見つめていた。


 愛想を尽かされたらおしまいだ、何とかして興味を持ってもらわなければ。アメリアは誘導するように話を始める。ひとまず、相手の好奇心を煽ってみることにした。


「おいしいんです。心が落ち着くし、それに良い匂いがして。あなたにも飲ませてあげたいんですけど――」

「におい」


 目論見通り食いついてきた。濃灰色の顔は色こそ変えないものの、アメリアとの距離を詰めて来る。荒い鼻息を感じられるほどなのは、あまり愉快ではないから、アメリアは少し顔をのけぞらせた。


 おまけに悪魔の反応の仕方は、アメリアが望んでいたものと少し違った。興味あり気なのに違いはないが、どちらかというと、悪印象に近い方のそれだ。無骨な顔がしかめ面に変わったような気すらする。


 そして相手は牙を剥きながら言い放った。


「おまえ、臭いがする」

「ええっ!?」


 くさいと言われて衝撃を受けない人間の娘は中々いない、アメリアもその大多数に入るから、慌てて体をよじって自分のにおいを嗅いでみた。森を行脚したり野を転げまわったりして、においの元に心当たりはあったが、アメリアの嗅覚ではわからなかった。


 ところが目の前の生き物は、狂喜染みた凶相を浮かべ、「におう、におう」と繰り返す。口端は引きつり、牙からは粘ついた液体が滴る。小さな目を剥かせて、もともと飛び出しそうだった脳天の目玉は、瞳孔を最大限に開かせアメリアを凝視していた。


 まさに豹変だった。やぶさかではない様子に身を縮め、後ずさりしながら、心臓を護るように胸の前で手を組む。そんな少女に、怒号に近い咆哮が浴びせられた。


「主が言ってた匂いだ! どこだ、どこにいる、出てこい! 主が御所望だ!」


 全く意味が分からない。出てこい? どういうことだ、自分は最初からここに居る。もしやこの者を激させた原因は違うところにあるのか、アメリアは混乱しながらもそこまで考えた。


 悪魔は目を攻撃的にぎらつかせながら、小さなアメリアの上から下までを何度も往復するように見渡す。

 表だけでは足りぬとばかりに、ばさりと翼を広げ背中側に回り込まれた。背を見せるのは恐怖でしかない、アメリアは慌てて向き直り、後ずさりながら必死に思いめぐらす。


 だが興奮させた要因に思い当ることは無い。「におい」という単語が火をつけたのは間違いないが、背の荷物を思い返しても、香りがありそうなものは紅茶の葉とわずかな食糧くらいで、それも特記する程強烈な匂いを放つわけではない。


 だとすると他に考えられるのは、人間にはわからない「何か」を悪魔が感じ取ったということだ。だが、そんなものアメリアにどう対処しろと言うのだ。出せと言われて出せる物ならそうするが、何せ原因すらわからない。興奮していて話も通じなさそうだ。


 とにかく危険な状況だ。身を守るなら逃げるが第一、しかし相手には翼があるし手も足も長いから、逃げ切れるわけもない。お手上げだ、抵抗の意志が無いことを見せ、どうにか和解に持っていくしかない。


 アメリアはなお後退しながら、胸の前で縮めていた腕をほどいて、おずおずと掲げ始めた。


 その時だった。


「見つけた!」


 濁った声で叫びながら、悪魔が大きく踏み込んで、一気に詰め寄ってきた。ながらに腕を振りかぶる。尖った爪が、ぎらぎらと光っていた。


 アメリアは反射的に悲鳴を上げた。その胸元を、悪魔のしなやかな腕の軌道が掠めていく。低く風を切る音の中で、布の裂ける音が耳に響いた。


 奪われたのは命ではなかった。ずっと左胸に留めていた、あの盾形のブローチだ。マスターがくれたお守りで、それ以上に旅立った今でも胸に抱く葉揺亭の絆の証、他に変えがたいアメリアの大切な宝物だ。

 

 なぜ。純粋な疑問と憤りとをわかせながら、アメリアは異形の手に落ちたそれを茫然と見守っていた。虹色に輝く石は、悪魔の鈍色の手に握り込まれた瞬間に、強烈な閃光を走らせた。


「わっ!」


 空を、巌を、地を、あらゆるものを穿つように放たれた光の筋は、アメリアの目をくらませた。もちろん彼女だけではなく、巨大な目で直視していた悪魔もだ。苦痛に満ちた叫び声が空気を裂く。


 それでも破壊者は手を緩めなかった。金切声を上げながら、光の源を断ち切るように、強く握りしめる。


 アメリアは目を閉じていた。だから音で状況を知るのみだった。

 しかし人外の叫びの中に、固いものが砕け散る音を聞いて、自分の宝物が永遠に失われたことを理解した。ブローチが残した最期の音は、腹立たしいくらい澄み切った、星が煌めくような美しいものだった。



 見たくない、しかしこれが現実だ。開いたアメリアの青い目に移ったのは、無残に砕け散った乳白色の石が、地面に堕ちてなお弱々しく虹をほのめかせている光景だった。まるで息絶えようとしているかのような瞬き、見ていると悲しくなってくる。


『どこにいたって、君には僕がついている。だから安心して行ってらっしゃい』


 初めて晴舞台に立つ羽目になった時、マスターはブローチと共にそんな言葉を送ってくれた。大丈夫だ、一人ではない。その思いこそが、アメリアの心の支えだった。別れを告げて飛び出して来た今でも、何一つ変わらなかった。


 それなのに、こうも粉々にされてしまったら。悲嘆のどん底まで落ち切ったアメリアは、茫然自失となって蒼白な顔で立ち尽くしていた。


 追い打ちをかけるように、ぐにゃりと歪んだ金属片が落ちて来た。ブローチをそれたらしめていた銀だ、整っていた形は見る影もない。


「ただのごみだった。主の探す、本物ではない」


 ごみ、偽物。興が冷めたように言い放たれたその言葉に、アメリアの中で怒りが沸き起こった。恐ろしい相貌の異形に対する恐怖も、身を守る手立ても無い状況も何もかも忘れて、アメリアは思いのまま吼えた。


「あなたに、何がわかるんですか! 私の大事な思い出を、踏みにじる資格なんて、あなたにあるんですか!? ふざけないで……葉揺亭での日常は、私の大事な大事な、本物の宝物なんですから!」

「知らない、そんなこと。主の命だ、だから壊した。探しものと同じ『におい』がした。だが、『におい』だけだった」

「わけのわからないこと言わないで! あなたには関係ない、これは私の大好きなマスターのくれた、大事な――」


 アメリアの言葉尻はすぼんでいった。真実に至る糸口に、気づいてしまったのだ。


 この悪魔は、アメリアの使う言葉に「慣れていない」と言っていた。だから、言葉選びが拙かったのだとしたら。「におい」と言う物が、臭気そのものではなく、もっと形容的な意味合いで持ち出されたものだとしたら。例えば、魔力の気配を感じて「におう」と言ったのではないだろうか。アメリアには感じられないものだが、魔法使い同士ならわかるものがあるというのは、マスターとコルカ・ミラの魔法使いクシネとの軋轢の中で理解していた。


 もしもだ、マスターがブローチにもアメリアが気づかないような魔法を仕掛けていたのだとしたら。その魔力を察知され、なおかつそれで個人が特定できるものだとしたら。それならば、目の前の存在が血眼で探しているものが何、いや誰なのかは明らかだ。


 しかし答えに至る道に辿り着いたのは、アメリアだけではなかった。「マスター」という言葉を聞いた途端、再び悪魔が目の色を変えたのだ。水を得たように、邪悪な笑みを浮かべる。


 アメリアは一切の思考を一旦放棄せざるを得なかった。知らぬとは言え、失言だったと悔やむ。酒場でヴィクターの名前を出して、破落戸に悪意を持って絡まれた時と同じ状況だ。ただ違うのは、盾になってくれる人が居ないこと。身の毛がよだつ視線に射抜かれて、アメリアの体は嫌な汗で濡れていた。


「マスター! それだ、ご主人様! その言い方、おまえは、しもべだなっ! なら、おまえも、主の探しものだ!」

「違う!」

「違わない、我がマスターは、そう言った! 関わる者が来たら、皆捕まえ――」

「そうじゃない! 私は、しもべなんかじゃない! 私は、私の好きで一緒に居たんだから……あなたと、あなたのマスターと一緒にしないで!」


 支配されていたわけでも、操られていたわけでも、力に怯えていたわけでもない、自分が隣に居たかったから一緒に暮らしていたのだ。そしてマスターも、そうすることもできただろうに、それはしなかった。確かに愛情があった繋がりを、軽い言葉で踏みにじられては黙って居られない。


 全く怖くないと言ったら嘘になる。それでも、アメリアは歯を食いしばって逆風に立ち向かう。大切なものをこれ以上傷つけられたくないから。


「じゃあ、何だ。なぜ我が主はおまえを招いた、おまえを探しているからに決まっている」

「いいえ、きっと勘違いです。間違えたんです、あなたのマスターが」

「我が主は絶対だ! 命令されたのだ! おまえは、嘘をついている! 我がマスター、我が主、我が創造主、我が神! あの方が、間違えるはずがない!」


 神、と聞いたら、イオニアンの人間が真っ先に浮かべる名は一つだ。だがここは異世界、抱く神も違うはずだ。絶対に否定される、そう確信めいたものを感じながらも、アメリアは己が世界の神の名を呼んだ。


「……ルクノール、様」

「違うッ! それは、我が主の怨敵! おまえたちの、惰弱な神! おまえのだ! 我のじゃない!」


 悪魔は狂乱し怒る。思った通りだった。だからアメリアの中に降ってきたある推論が、一層信憑性を増してくる。


 神ルクノール、その第一使徒アルヴァイス、コルカ・ミラとルクノラムの確執、異界の存在、その住民が探す人間、外に怯え孤独を厭う永久の魔術師。アメリアの記憶の中に散りばめられた欠片は、糸で繋がれ一つの図版になる。


 この異世界の主は、コルコだ。魔法都市コルカ・ミラで神と等しく崇められる、神代の魔女。ルクノールの片腕たる使徒アルヴァイスを異界に封じ、今なおルクノールと対立する者。アメリアの導いた黒幕の姿は、それであった。


 もちろん憶測だ、だがこれで辻褄が合う。今立っているこの世界こそ、コルコがアルヴァイスを封じた異界なのだろう。何故囚われたはわからない、しかし彼の者はとうの昔にイオニアンへと脱出した。その逃げ出した罪人を再び鎖につなぐべく、コルコはこの世界の住民たる魔物たちに捕縛の命を下した。今もなおアルヴァイス――いや、葉揺亭のマスターは追われている。だから名を伏せ、目立とうとしない。イオニアンに居ても、突然異界の口に飲み込まれることは起こりうる、だから外にも行けないし、アメリアを目の届かないところにやらなかったのも、まさに今の状況を恐れていたから。


 全てアメリアなりの推理だ、しかし当事者でない限り、証拠と憶測から真実を導くしかないのだ。だからアメリアは、この結論を事実として胸の中に抱いた。


「おまえの主はどこだ! 教えろ! 連れてこい!」


 息巻いて悪魔がにじり寄ってくる。アメリアは固く口を閉ざしたまま大股で後退した。


 絶対に教てはいけない、マスターの名を呼んではいけない、居場所の手がかりを微塵も与えてはならない、何があっても、どんな危険にさらされても。善悪正誤を問う前に、アメリアにとってはかけがえのない愛しい存在だ、身寄りのない自分をここまで育ててくれた恩人だ。この手で死地へ突き落すような真似ができるはずがない、そんなことをしてはいけない。


 アメリアはためらうことなく腰に携えていたダガーを抜き、そのまま刃を前に構えた。非常時に使えと託された武器、今使わないでいつ使うのか。丁寧に研ぎあげられた銀の刃は、赤い空の下でも美しく光る。


「来ないで!」


 アメリアは後退を止め、精一杯目をいからせて叫んだ。


 しかし悪魔はたじろぐどころか、あざ笑うようにして接近を止めない。


「そんな、細い手で。我は、強いぞ!」


 そんなこと見ればわかる。だが怯えひるむわけにはいかないのだ、大切なものを守るのも、道を切り開くのも、全てこの手にかかっているのだから。


 アメリアは機を伺っていた、そして手が届く距離にやってきた瞬間に動いた。右手で握りしめていたダガーを、左手で逆手に持ち変え振り上げ、悪魔の顔が低くされていたのをいいことに、額にある大きな的に向かって渾身の力で突き刺した。


 ひ弱な人間の小娘の悪あがきだと油断していたのだろう、アメリアの狙った通り、尖った刃はたやすく目玉に突き刺さった。弾力のある嫌な感触だった。


 人ならぬものの絹を裂く絶叫が空間を揺るがす。刺し傷からは吹き出すように濁った緑の液体が溢れ、アメリアの手を汚した。


 一度抜いてもう一撃、そう思ったが、実行するより先に悪魔の腕に振り払われた。体液で手が滑って、ダガーは相手に突き刺したまま、アメリアは大きく弾き飛ばされた。幸いにも背中の荷がクッションになって、地面に激突した衝撃は柔らかなものとなった。



 アメリアは跳ね起きるなり、今度は相手に背を向けて走り出した。唯一の武器を失って、真正面から対抗する術がないからだ。岩山の影に回り込み、相手の視界から消え去る方角へ、無我夢中で走り続ける。あの良く見えそうな大きな目は潰したのだから、それなりに希望はあるはずだ。


 アメリアの考えは、甘かった。岩山を離れ彼方へ走ろうとした瞬間、頭上を影がよぎる。ああ、と思う間もなく、目の前に追手が現れた。銀のダガーをしぼんだ目玉を絡め眼窩に突き刺したまま、小さな二つの目で憎々しげに見据えて来る。悪魔は荒い息のまま、再び吼えた。


「逃げるな! 我がマスターが、おまえのマスターを捕まえる、それまで、逃げるな! 命令だ! 主の、命令だ! おまえも、捕まえる! 許さない!」


 もう手加減は無かった、一気に詰め寄られ、乱暴に左肩を捕まえられる。背負い鞄の肩紐が防具となり、爪が直接刺さることはなかったが、それでも食い込んでくる感覚はあった。

 

 それから間髪入れずに、アメリアの体が宙に浮いた。


「逃がさない。つかまえた。我が主のものだ、主を待たねば」


 悪魔は空を飛んだ。みるみるうちに地面が遠ざかる。肩をわしづかみにされぶら下げられている状況だ、重力が一点にかかって体が悲鳴をあげるが、しかし下手にもがけば地面に真っ逆さま、もはやどうしようもない。


 このまま主たる魔女の元に連れていかれて、それからどうなるか。どうひいき目に見ても、詰んでいる。明らかに歓待はしてもらえないし、因縁の相手だ、どんな非情な手を使ってでも居場所を吐かせようとするかもしれない。己と、それから自分の主の行く末を思うと、背筋が寒くなる。


 アメリアは飛行するまま、ぼんやり地の果てを眺めた。空から見ても、この世界は無限の荒野が続くのみだ。怪物らしき影がうごめく様子はあるものの、それだけである。赤い空と枯葉色の土、それを延々と連ねた無の世界だ。先ほどまで希望を抱いて文化を興そうとしていた自分は、この世界の主からしたら道化にしか見えなかっただろう。


 アメリアは悟った。越えぬべき境を越えてしまったあの瞬間に、もう自分の道は途絶えていたのだ。どう転んでもどうあがいても、先に進むことなどできず、この世界で孤独に死ぬだけだった。夢見た未来は、所詮は夢だったのだ。



 嫌だ、と思った。死にたくない、と心の中で呟いた。死ぬのは怖い、生きたい、幸せになりたい。人間らしい自然な感情が沸き起こる。


 だがアメリアはただの人間だった。人にして超常の力を持つアビリスタでも、不思議な術式で奇跡を起こす魔法使いでも、巨悪に立ち向かう勇者でも、武器を手に生き抜く戦士でもなく、ただの市井の少女だ。死にたくないと思っても、気力だけは残っていても、切り開く力が足りていない。


 出来ることと言えば、祈るだけだ。他者の力に縋り付くだけだ。誰でも良い、誰か助けてくれ。神様、ルクノール様、使徒様、お願いします、どうか見捨てないで。


 いや、神頼みをして救われた試しがない。いつだって、アメリアのことを救い、守り、導いてくれたのは。


「マスター……」


 思わず呼んでしまった。わかっている、あの人が追われているのに縋ってどうするのだ、全く無意味なことだ。それに、あの人の手を突き放したのは、自分の方だ。

 だけど、いつだって一番頼りになるのは、瀟洒で、聡明で、慈愛に溢れた、葉揺亭の主だ。一度放した手にもう一度縋る、己の身勝手さを許してくれるだろうか、さすがにわからないけれど。


「マスター……助けて……」


 かすかな声は、そのまま異界の空に消えた。返ってくるのは、脊髄反射した悪魔の喚き声のみ。


「お前の、主だ! どこだ! どこにいる!」


 ここには居ない、無駄だ。アメリアは虚ろな心中で答えた。マスターが居る世界と、自分たちが居る世界とは、越えられない不可視の壁で分かたれている。もちろんお互いの状況を見ることはできないし、声も聞こえるはずがない。おまけに彼にとっては忌むべき世界の境なのだから、あえて近寄ろうともしないだろう。


 だからここで願っても騒いでも無駄なのだ。もう二度とあの人に会うことはない。いくら助けを求めても、いくら居所を呼びかけても、望むような応えが返ってくることもあり得ない。



 あり得ない、はずだった。


「私はここだ!」


 聞こえないはずの声が聞こえた。聞き間違えるわけがない、一体どれだけ耳にしてきたというのだ。淀んだ空気に澄み渡る凛々しい声は、ここに居るはずの無いマスターのものだ。


 空中での前進が急停止する。慣性にゆられながらも、アメリアは声の方に向いた。首や体をよじる必要は無かった、彼女をぶら下げたまま悪魔も同じ方に体を向けたのだから。


 水面に波紋が立つように、前方の空間が揺らいでいる。その中に白と黒の影がゆらめいていた。


 やがてさざ波が収まると共に確かな姿が現れ、顔もはっきりと見えた。空中に立っていたのは、葉揺亭のマスター・サベオル=アルクスローザその人だ。


 ただし馴染みのある装いではない。言うなれば、幻想に語られる魔法使いの出で立ちだ。無月の夜を思わせる漆黒のローブが足先までを覆い隠し、裾広がりの型が彼の姿を大きく見せる。さらにその上から白い外套を肩で羽織っており、それは風も無いのに後ろへとなびいていた。マスターが外出時に良く着るものだが、いつもと違いフードは被っていない。


 だから表情がしかと見えた。凄絶な形相だった。主の常闇の目には、怒りの業火が燃え盛っていた。それが自分に向けられたものでないことに、アメリアは安堵せざるを得なかった。

 

 葉揺亭のマスターという仮面が剥がれた暁に、その奥から現れるのは、恐ろしく畏れ多い古代の魔術師だ。底知れぬ力を秘めた万能たる人間、あるいは神の代行者。今、ここに立つ彼が、それだ。


 

 アメリアは言葉を失っていた。そんな折、悪魔の奇声が耳をつんざき、はっと我に返った。言葉は意味不明だが、狂喜するようなものだった、獲物が目の前に現れたのだから。


 巨木を裂くような音を立てながら、悪魔の腹にあった割れ目が開いた。そこから影を固めたような手が、腕が這い出して来た。体に付いているものより一回り大きく、数も倍の四本ある。


 影の掌たちはゆらりと首をもたげると、瞬きをする間も与えず、一斉に光線を放った。


 線は太まり極大の柱となりて、一瞬のうちにマスターの姿を飲み込んだ。真正面から、直撃だった。アメリアが悲鳴と共に息を呑んだ。


 

 光線が彼方へと飛び去り、静寂が訪れる。まるで攻撃などなかったかのように、男は無傷で佇んだままだった。重々しい気配を滲ませたまま、ただ怒り狂う魔人の方を見据えている。


 そして、重圧と共に口を開いた。


「返してもらおうか、私の愛しき子を」


 よどみない弧を描く様に空拳を正面に上げ、ふわりと開く。彼以外の時間が止まっているかのように、辺りは静まり返っていた。

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※本作品を再構成・加筆修正を行った新版を2023年に公開はじめました。順次掲載していきます。  ストーリーは大きくは変わっておりませんが、現在本作品をお読みの方はぜひ新版をご覧ください  https://ncode.syosetu.com/n9553hz/ またはマイページから
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