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越えぬべき境の向こう側 ―異世―

「どう、して……」


 茫然自失とした面持で、無の大地の彼方を見遣るアメリアに出来るのは、ただ自問自答することだけだ。相談する相手もいなければ、判断の材料になりそうな物も落ちていないから。


 なぜこんなことになったのか。答えは簡単だ、自ら望んで神隠しの家に踏み込んだからだ。あれは時空が歪んだ場所、どこに連れていかれるかわかったものではない、帰ってこれなくなっても仕方がないと、散々に警告され知っていたのに。浅はかだった、浮かれていた、自分の無謀を悔いるばかりだ。多少の暗さはあっても、希望の欠片もない世界なんか無いと思っていたから。


 きっとこれは罰なのだ。実の無い異界に憧れ、今まで己を慈しんでくれた世界を捨ててきてしまった自分への神からの報い。不敬と判じた神・ルクノールによる、イオニアンよりの追放という裁きに違いない。


 そこまで考えて、アメリアは小さく首を振った。違う、それだけじゃないと。

 

 葉揺亭のマスターは、アメリアの恩人だ。親愛する主だ。その人をひどく傷つけて、心を壊して、一方的に別れを告げて来た。自分の未来を免罪符にして振りかざし、多くの人をも巻き込み、葉揺亭の日常を崩壊させた。その何気ない日々こそ、彼のかけがえのない宝物であったはずなのに。自分の幸せのために、他者の幸せを奪ったのだ、これが罪でなくてなんなのだろう。


 アメリアも平常であれば「マスターにも悪いところがある」と開き直れたかもしれないが、このような寂しい世界に放り出された現実を前にしては、そんな気が全く起こってこない。


 そして葉揺亭の主の素性が問題だ。積み重ねられて来た予測や言質からして、アメリアは「マスター」の仮面を解いた正体は、古代の魔術師にして神の使徒、ルクノールに最も愛された弟子アルヴァイス、その人に違いないと思っている。


 アメリアにしてはどうでも良いことだ。名を偽っていようが、本性を隠していようが、神だろうが悪魔だろうが、彼女の中ではたった一人のマスターだ。仮面を脱いだからと言って、中に入っている役者が変わるわけではない。名前を聞いたから敬うとか、嫌悪するとか、そんな単純な感情で向かい合って来たわけではなかった。


 しかし、それがどうでも良くない者もいるだろう。筆頭を挙げるならば、彼の師なるものだ。自らの右腕が地上で絶望の淵に追いやられている姿を見れば、神なるものは怒りの鉄槌を降ろしても頷ける。


「……ごめんなさい、マスター。ごめんなさい、神様、ルクノール様」


 呟いた言葉は生ぬるい風に吹かれ、荒野に消えた。今更悔いても仕方がない、過去に戻ることはできないのだ。こうしている間にも、アメリアの時間は止まらずに流れていく。



 幾ばくかの間思考を止めてから、アメリアはぴしゃりと自分の両頬を叩いた。


 神はまだ見ているのだろうか、そもそも神など居るのだろうか。この世界には何があるのだろうか、何かあるのだろうか。全くわからない、未知も未知、アメリアの未来は真っ暗なヴェールに覆われている。


 それでも、アメリアは立ちあがり、静かに歩き始めた。まだ歩ける、まだ進める、まだ生きている、だからまだ終わりじゃない。こんな寂しい場所で脚を止めて朽ちていくわけにはいかない、望み進んだ道の果てを見るのだ。神の裁きが何だというのか、辿り着いたこの世界で、どんな小さな幸せでも見つけてやるのだ。


「それにしても神様って意地悪だわ、一回上げておいて叩き落とすだなんて」


 自分を勇気づけるように息巻く。アメリアの青い目には、葉揺亭を飛び出すことを決めたとき同様、強い光が消えていなかった。数年前の雨の日、世界の暗さを恨み、雨の中で空しく息絶えようとしていた頃とは違うのだ。ただ手が差し伸べるのを待ちぼうける、愚かな子どもではない。




 足跡も残らないような固い大地だった。目印も何も無いから、振りかえってもどれだけ進んだかわからない。殺風景に囲まれていると、元の世界の木々や草花が恋しくなる。多少の携行食は鞄に詰めてあるが、水分は革水筒にコップ二杯分入っているだけだ、水場の確保も急務である。


 そんな時だった、地平に小山が姿を現した。おあつらえ向きに緑色をしているように見える、草木があるのだろうか、それなら水分もあるはずだ。降ってわいた好都合に、アメリアの足が軽くなる。


 しかし間もなく頭の隅がざわつくような違和感を覚え、アメリアは小走りだった足を止めた。目を細め、遠くの緑を見る。


 奇妙だ、自分は止まっているのに、山影はどんどん大きくなる。成長しているのだろうか、いや、こちらに向かって動いているのだ。


 山が動くとはおかしな話だが、そもそもここは異世界、何が起こっても不思議ではない。常識で考えていてはいけないとは理解している。


 だがその緑の山に無数の赤い目玉が現れた瞬間に、アメリアは本能的な危険を感じて跳び上がり、全力で逃げ出した。



 緑の怪物は遅かった、だから無我夢中で駆けたアメリアが息を上げて振り返った頃には、もう地平の彼方へ消えていたのだ。


「……どうしよう、あんなのがいっぱいいたら」


 生き物が居るとわかったのは大成果だが、それが巨大な化け物ばかりだったら恐ろしくて仕方がない。使う機会が無いと思っていたダガーが、大いに役立ちそうである。出立前に研いでもらったのは正解だった。


 とはいえアメリアは普通の少女だ、このまま真っ向から怪物を狩って生き抜くことはできないだろう。今後の方針としては、食物連鎖の下にあたるものを探すことだ。


 そう漠然とだが目標が定まった時だ、低く震える地鳴りが聞こえ始めた。


「今度はなに?」


 風景は変わらない、しかし音は近づくように大きくなってくる。それどころか足元が揺れ始めた。


 下からだ。乾いた大地の底から、何か巨大なものがやってくる。だが音の源は真下ではない、やや前方に居る。


 アメリアが身をこわばらせ警戒する前で、地面が丘状にせりあがってくる。砂が崩れ岩が転がり、平坦だった大地に彩が加えられた。


 やがて轟音と共に、長大な生物が土の海から飛び上がった。まるで水をしぶかせる様に、地の欠片をまき散らしながら。


 己の立ち位置とは真逆の方向へアーチを描いてゆく影を、アメリアは目を細めて見、正体を探る。砂埃の向こうにあるものは、魚、蛇、いや違う、蚯蚓みみずだ。赤黒い巨大蚯蚓が、体の表面を波打たせ、汚い架け橋を作る。


 一瞬無音になった後、蚯蚓は再び地面へ沈んでいった。泉へ頭から飛び込むように真っ直ぐと、大量の礫や石と重低音をまき散らしながら。来たる時とは真逆に、地鳴りの音はどんどん遠ざかる。


 そして後に残るのは元の静寂と、尾を引く様にできた岩山だった。怪物が出て来た穴などは無い、波が寄せるように塞がってしまったのだ。


 アメリアは呆気にとられていた。空中に舞った土の残骸が次々頭に降り来るが、それを払おうともしない。


 決して華々しく美しいとは言えないが、奇想天外で常識はずれな未知であることは違いない。こうして自分に危害を加えないものなら、むしろ遭遇は大歓迎だ。

 アメリアの顔が引きつったような笑顔に変わる。この退廃的な世界も、意外と悪いものではないかもしれない。今までの世界とは天地の差がある、狂気じみた非日常であるからだ。

 

 少しだけアメリアの心は軽くなった。そうすると、麻痺していた感覚というものは戻ってくる。ずっと気にならなかった足の疲労と空腹と渇きとが一気に戸を叩いた。なおかつアメリアの前方にはちょうど良い岩陰がある。仮の椅子におあつらえ向きの岩も、際限なく転がっているのだ。


 少し休もう。アメリアはとぼとぼと急ごしらえの岩場に足を運んだ。



 岩山の影はわずかに湿り気がある気がした。あの化け物蚯蚓が地下深くの地層を掘り起こして来たせいだろう。あいにく水そのものは湧いて出たりしないが、しかし乾いた空気にさらされ続けていたアメリアには、ありがたい恵みであった。


 適当な岩に腰かけ、一度降ろした鞄の中から非常食を取り出す。そしてもう一度鞄を背負う、何か事態が急変した時に、すぐ動けるように。


 幾つか食糧は持っていたが、今回出したのは野菜の煮汁を練り込んだのべ棒状のビスケットだ。手軽な栄養源だという触れ込みで、冒険者向けの携行食として売られていた。青臭いくせに異常に甘く、あまりおいしいものではないが、確かに胃にはたまって満足感はあった。難点は口が渇く所だろう、革水筒を片手に持ち貴重な水もちびちび飲む。


 口をもぐつかせながらアメリアは思った。とにかく水を見つけないと話にならない、大好きなお茶も飲めないし、まず干からびて死んでしまう。川でも池でも井戸でも何でも良い、水源を早く見出し、生活の地盤を固めなければ、消耗する一方だ。元の世界に帰れない以上、こちらの世界で生き抜かなければならない。


 こちらの世界にも生き物が居る以上、それにこうして湿気があるならば、水、もしくはそれに準じた物質があるはずだ。


 ではどこに。水面のきらめきも、流れる音も、澄んだ臭いも、何一つ影がない。いや、常識で考えるからいけないのだ。この世界では空中に川が走っているかもしれないし、泉に足が生えてがむしゃらに駆け回っているかもしれない。地面を耕せば生えてくるとか、実は石だと思っていた物が氷だったとか、発想を自由にすれば何とでも考えられる。

 

 ばっさばっさと翼をはためかせるような音が頭上から聞こえて、怪鳥が産み落とす可能性もあると思い至った。そこではたとアメリアの思考と咀嚼が止まる。


 上から翼の音、ということは、上に何かが居る。アメリアはゆっくりと首をもたげた。


 

 赤背景に黒い影、崖縁から覗きこむようにこちらを見ている。背に翼はあるが、人型だ。

 しかしはっきりと観察する以前に、アメリアの視界の外へと影が飛びたった。どこへ、と思うより先に、目の前に着地してくる。大きく揺らいだ空気の波が、アメリアの前髪を逆立てた。


 悪魔だ、とアメリアは思った。皮膚は鈍色で骨と皮しかないような細さ、角ばった手足の指は長くて鋭い爪も備えている、何より蝙蝠のような翼の存在感が際立つ。ずいぶん身長が高いから、アメリアの目線の高さは相手の腰あたりだ。よく見れば、腹に縦一本の割れ目がある。傷跡だろうか、それとも筋肉の割れ目だろうか。


 異形の存在を前に硬直し目をぱちくりさせていると、鈍色の悪魔は腰を引く様にして体を折り、上から顔を降ろしてくる。そして目が合った。もし口が食べ物で塞がって居なければ、悲鳴を上げていたかもしれない。アメリアの顔と同じ大きさの一つ目が、嘗め回すように自分を眺めていたのだから。


 アメリアはごくりと息を呑む。口の中にあったものもついでに喉の奥に流れた。そして、自分も同じように相手の顔を観察する。


 一つ目ではなかった、三つ目だ。人間でいう額から頭頂部の位置に、そういう模様の硝子玉を埋め込んだように、ぎょろつく目玉が付いている。しかし人の正しい目の位置にも、しょぼしょぼとした双眸があったのだ。全く目立たないが、一応そちらも見えているのだろう、間違いなくアメリアと目が合っているのだから。


 他にも人間の顔にあるべき器官は、形は不細工なれど全て揃っている。パンの生地を叩きつけたような耳、団子を潰したような鼻、オレンジの大玉を一呑み出来そうに大きく裂けた口からは、真っ黒の牙が覗いている。無いものと言えば、髪の毛くらいしか思い当らない。


 その悪魔が、先ほどから何か音を発しているのだ。最初はうめくような音で、しかし途中で口を大きく開いて抑揚のある口調になり、あるいは静かに歌うような言葉を。表情の色は読み取れないが、たぶんに会話をしようとしているのはわかる。ただただ困惑するアメリアにも、危害を加えてくる様子も無い。


 コミュニケーションがとりたいのはアメリアだって同じだ。自分の話せる唯一の言語で、大げさに表情を作りながら答える。


「ごめんなさい、わからないです……。もしかして、食べたいんですか?」


 かじりかけのビスケットを相手に向け示す。他人が食べている物に興味を持つのは人間ならよくあること、悪魔だって同じではないだろうか、そう考えた。なにせ、目の前の存在は健康的とは言えない体躯をしているから。


 そんなアメリアの憶測は空振りだったようだ、手を伸ばしてくる様子はない。

 しかし全く何の反応もないわけでもなく、発見があったかのように悪魔は三つの目を見開いた。大きな口は、がらがらとしわがれた音を立てる。


「あー……おまえ、誰だ」

「はい!?」


 今放たれた言葉がわかる、アメリアの心は大きく跳ねた。おそらく今までも、いくつもの言語を使い分けて問いかけていたのだろう。アメリアが喋ったから、会話に仕える言葉が見つかったのだ。

 

 感心めいた顔で立ち尽くすアメリアに、悪魔が更に顔を迫らせる。もとより気持ちのいい顔立ちではないから、なかば睨みつけられているような風で、アメリアは半歩たじろいだ。


 異形のものは感情の一切こもらないままに淡々と、しかしゆっくりと一言ずつ喋りかけて来る。


「我は、今時の語は知っているが、慣れていない。お前は、何者だと聞いている。人間だが、顔が違う。我の知った顔じゃない」

「はい、違います。……誰か知らないけれど」


 自分は別世界から来たばかりだ、知らなくて当たり前だろう。それよりも気になるのは、悪魔の言い方が「人間の知り合いが居る」という風であることだ。さてはこの世界にも人間が居るのではないか、アメリアに希望の光明が差した。


 全く怖くないということは無い。しかしこれ以上失うものは命くらいだという、捨て鉢に近い開き直りが彼女の中にある。だから普段なら恐れ怯え逃げまどうような化け物を目の前にしても、警鐘は鳴らなかったのだ。


 むしろ今のアメリアの中には嬉しさが沸き起こっていた。たった一人で投げ出された世界に、言葉の通じる相手が居たということ。喋ることさえできれば、少なくとも孤独に狂うことはない。


 会話が出来れば絆も出来る、絆があれば縁の糸をたどり、新たなところへと行ける。だから大丈夫だ。見かけは恐ろしい悪魔でも、攻撃的な面は無いし、形は人に似ているから、ノスカリアでも見られた亜人種の一つだと思えば、嫌悪感も消えていく。


 だから大丈夫だ、この異境でもきっと自分らしく生きていける。アメリアは己ではそう気づけない狂想が沸き起こり、うっすらと口角を上げる。

 彼女が無意識に左胸に置いた手の下で、イオニアンの娘たる証が痛々しいまでに鮮烈な虹を示していた。

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※本作品を再構成・加筆修正を行った新版を2023年に公開はじめました。順次掲載していきます。  ストーリーは大きくは変わっておりませんが、現在本作品をお読みの方はぜひ新版をご覧ください  https://ncode.syosetu.com/n9553hz/ またはマイページから
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