表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
70/95

越えぬべき境の向こう側 ―幻惑―

 いざノスカリアを離れてみれば、アメリアの心は軽かった。もう戻るつもりが無いと決めれば、あれだけこじれた去り際も、過去の記憶の一かけらに収まってしまったからだ。

 後ろを振り返ることも無く、太陽の方角に向かって、一人馬車に揺られる。朝日の中で胸に留めた思い出の象徴が、優しい虹を生み出していた。


 長い旅路の始まりだった。大型の馬車はのんびりと歩を進める。歩くのよりは早いが、風のように駆けるとは言い難い。アメリアの旅は急ぐものではないから、速度はさほど気にならなかった。むしろ、流れる風景をしっかり目に焼き付けられるから上機嫌だ。


 ノスカリアを離れて、今は森の中を抜けている。まだ徒歩でも半日とかからず街と行き来できる位置だ。


 葉揺亭という小さな喫茶店で箱入り育ちだったアメリアも、この辺りまでは何度か来たことあった。仕事上でも世話になった、ノスカリアに住まう熟練の狩人ハンター=フォレウッズに付いて、採集の見習いをしたのだ。半ば遊行のようなものではあるが、良い経験だったのは違いない。内にこもるばかりでは、見られない物も出来ないこともたくさんできたから。

 一度、内緒で出かけたものだから、帰宅するなり亭主にこっぴどく叱られたことがある。それももはや良い思い出だ。あれからは行先を告げて出かけるようにした。その暗黙の了解を破ったのが、この旅立ちだ。


「また怒られちゃうかしら。もう、会うことも無いけど」


 アメリアは帰るつもりはないし、帰ることもできないと思っている。そして、マスターも追ってくる様子はないし、追ってくることもできないだろう。追ってこられるのなら、もっと早くにそうしていただろうから。


 少しだけ心がさざめく。マスターが太陽の下に出ないことは知っている、仕方ないとも思っている。だが、彼も必要とあらば外出するのだ。そうしないということは、アメリアと己とを天秤にかけ、結局自分の安寧を取ったということである。


 愛しているというのなら、放さないというのなら、貫いてほしかった。彼の手を払いのけた身でそう言うのは、わがままだとわかっているけれど。


「……いえ。マスターだって、人間ですもの。最後は自分が大事で、しょうがないわ」


 アメリアは明るい街道にかかるわだかまりの雲を払うように首を振った。切なげに笑いながら、ぼんやり窓の外に目を向ける。


 流れる景色を見ていると、ハンターと歩いた時の記憶が鮮明によみがえる。あそこで寒待草さむまちくさを摘んだ、むこうの木陰には地這いブドウの坪がある。物だけではなく経験も教えてもらった。例えばナイフ一本持っておくと何でもできて便利だとか。革のベルトに差したままのダガーに、アメリアは思わず手をやった。


 森には草木しかないわけではない。池があるから魚釣りもしたし、一度だけ奥深くにある歌う岩が転がる窪地にも連れて行ってもらったことがある。それに、ちょうど今見えて来た薄暗がりの向こうには、建造物も存在するのだ。


 アメリアはその方をぼんやりと見ていた。神隠しの家、とハンターからは教わった。人が寄るべきではない、危険な場所。その扉をくぐった先は、過去の世界へと通じていると言う。神に招かれたように、どこか遠い世界へと姿を消してしまうのだと。


 ところが、実際そこに入ったという話を最近聞いた。アーフェンだ。彼は仲間と共に神隠しの家に潜入し、見事古き時代の城から宝物を持って帰ってきた。それを聞いて自分も宝探しがしたいと思ったりもしたのだが、もちろんマスターは苦言を呈した。


『あそこは完全に時空の摂理が破綻している、どこに連れていかれるかなんてわかったものじゃない』


 イオニアンで時折観測される「神隠し」という現象はそういうものだ。気が付いたら、見知らぬ土地に居る。それは同じ地上のどこかであったり、あるいは空気の違う異世界であったり。危険ではあるが、しかしどこか魅惑的なものでもある。


 リスクはあるが、一瞬で知らない世界に行ける。アメリアは今、森の中に佇む館に幻惑されていた。


『ちょっとくらい危ない橋も渡らないと、どこにも行けませんから』


 それはマスターの懸念に反論したアーフェンの言葉だ。その通りだと思う。実際に、自分の籠を自力で破って出て来た彼の言うことだから、アメリアにとって重みが違う。


 アメリアは自分でも知らぬ間に馬車の座席を立っていた。頭の中に妙案が降ってわいたのは、神の導きによるものか、それとも悪魔のささやきによるものか。それは行ってみないとわからない。

 背中は重く、足場は揺れる。ふらつきながら、アメリアは車掌の元に辿り着いた。


「すいません、ここで、降ろしてもらってもいいですか?」


 まだ町に容易に戻れる距離だ、さては忘れ物でもしたのだろう、それとも若い娘ゆえ後ろ髪を引かれたか。そんな理由の途中下車も、乗合馬車の常客にはたまにあることだ、車掌は特に訝しむことも無く「運賃は戻らない」とぶっきらぼうに言ってから、アメリアを森林地帯の真っただ中に下ろしたのだった。


 自分を置いて未知へと向かっていく馬車を見送って、アメリアは一人歩き出した。力強い足取りだ。何をしても止められないし、口出しされることもない、そんな生まれて一番の開放的な状況だ、やりたいことはどんどんやってみよう。彼女の原動力は好奇心なのだ。



 木間は朝露に濡れ、空気は澄み渡っていた。風のささやきと木々の歌声しか聞こえず、木漏れ日に照らされる世界は神秘的に感じられる。アメリアは秘境に分け入るように、木の根を越え、苔むした倒木を跨ぎ、薄暗い森に佇む館へと向かった。


 肉眼で見るのは二回目だ。前は遠目で見ただけだから、まともに近寄ったのは初めてである。


 切石を漆喰で塗り固めた塀が、一定の範囲を四角く切り取るようにそびえ立っている。見上げれば、上には乗り越えようとする不届き者に牙を剥くとげが並んでいた。それは以前も確認したことで、間近で見て新たにわかったのは、塀が一様の年代を刻んでいるわけではないということだ。苔や蔦にびっしり覆われたところもあれば、まだ漆喰の白さが失われていない部分もある。それどころか別の面に回ってみれば、板を打ち付けて最近仮説の修繕を施したばかりという箇所まであるほどだ。


 よく目を凝らせば落書きもある。三十年も昔の日付と、人の名前とが石を削るように刻まれていたり、記念らしき一言が漆喰部分に小さく書かれていたり。異世界を夢見て扉の向こうに旅立った先人たちが残した物だろう。


 我も続けと行きたいところだったが、アメリアが先達の真似をするには、基本的で大きな問題があった。この境界は一切の人の出入りを許さない物、当然門や扉の類があるわけがない。頑丈に作られた壁だから、ごく普通の娘に壊すのは無理だ。よじ登るにもとっかかりが無いし、第一、塀の上には痛そうな棘が待ち構えている。


 ぐるぐると境界の縁を回るが隙が無い。一番脆そうなところと言えば板張りがしてある部分であるが、ダガーを突き立てても、手近に転がっていた頭大の石をぶつけてもびくともしなかった。

 頑固な塀にもたれて途方に暮れているところに、遠くから人の笑い声のような鳥の雄叫びが聞こえてきて、アメリアの頭がケトルの湯のように沸騰した。


 しかし嘲笑されようと、この向こうに進む策は無い。無理を通すのはアビリスタや魔法使いの特権で、奇跡を起こすのは神の仕事だ。いずれでもない少女には、来れられない境界は越えられない。


 背中の向こうで待っている神隠しの家は一階建てだ、こうして高い塀に寄ってしまうと屋根すら見えない。記憶が正しければ、わずかに見えた屋根は廃墟のそれであり、中に何があるのかとときめかせるに十分だったが、結局覗くことすらできなかった。


「残念」


 考えていても仕方がない、アメリアは人間の通う街道に戻ろうと、二つの世界を分かつ塀から背中を放した。何も未来へ続く道が無くなったわけじゃない、たくさんある中のたった一つが通行止めになっただけだ。他の選択肢を、前向きに進むべきである。


 冷え切った空気の林床を歩き、しかし名残おしげに時折後ろを振り返る。神隠しの家は、少女のことなど素知らぬ風に佇んだまま、どんどん小さくなっていく。縁が無かったのだ、仕方ない。自分に言い聞かせ、また前を向いて。


 その時だった。視界の端を掠めた地面に、人工物の影をとらえた。アメリアは慌ててそれを目の中央に合わせる。


 下草まばらな大地に同化するように、一台のはしごが打ち捨てられていた。きちんと成形された角材で組まれたそれは、風雨にさらされて多少劣化しているが、まだ十分使えそうだ。都合のよいことに、高さもちょうど塀を越えられるほどにある。おそらくはアメリアと同じ目的を持った誰かが造って、不要になってから捨て置いたものだろう。


 水を得た魚、渡りに船、アメリアは歓喜の叫びを上げた。これであきらめた道を進めると、無我夢中ではしごに駆け寄った。


 何と言っても自分の身長より背が高いものだ、少女の手にはいささか重みが大きいが、有頂天のアメリアには全く気にならなかった。材の表面に侵食している地衣が手に触れるのも、浮いた木の下から無数の虫が這いだしてくるのも、喜びと感動に塗られた心で、意識の外に追いやってしまう。

 アメリアは宙に浮いているかのような軽い足取りで、はしごを引きずり件の塀まで戻った。



 よいしょ、よいしょと遊び心で声を上げながら、アメリアは無事にはしごを塀に立てかけた。


 上に立ち並ぶ棘の問題を解決するのはもっと簡単である。そこかしこに落ちている木の枝や欠片から適当なものを見繕って、体の代わりに突き刺せばいい。はしごの中段から手を伸ばして処置し、力をかけても沈まないことを確認してから、アメリアははしごを登り切り、塀の上へと手をかけた。


 境界の向こうには、廃屋と言うより他ない館があった。永い年月放置されたのだろう、荒れ果てた屋根の上には植物の命が息づいて、花を開かせている始末である。壁には蔦がはびこり、窓らしき場所打たれた板も元の色は留めていない。家の周りの空き地も草がぼうぼうに伸びていて、庭とはとても呼べない有様だ。


 街に住んでいたアメリアには異様な光景ではある。しかし、神秘性は全くと言っていいほど感じられなかった。本当にこんなあばら家が、時空の裂け目の入り口になるのだろうか、経験者を身近に知っていてもなお疑ってしまう。


 とにかく玄関に行ってみない事には始まらない。そのためには、塀を境界の向こうへ降りなければならない。

 アメリアは自分で刺した木をちょうどよい握りとして、塀の向こう側へとぶらさがった。この状態でもまだ足の長さ分浮いているが、そのまま飛び降りるよりはましだろう。少し危なっかしいが、この程度では今のアメリアは止まらない。それに以前の不夜祭で空高くから落とされた恐怖に比べれば、こんなものこけおどしと言ってよいだろう。


 心して手を放す。体は重力に引っ張られ、瞬きする間も無く地についた。着地の衝撃で足がじんじんとするが、くじいたとかひねったとかは一切ない。天はアメリアに味方しているようだ。


 アメリアは興奮冷めやらぬ足取りで、藪と化した庭を回った。草花がはびこるだけで、特に面白いものは無かった。

 探していた玄関は、着地点の真裏に存在した。玄関ポーチの石段は苔と地衣を育む畑と化していた。ちょうど靴底が当たった程の面積で削られた様になっているのは、ごく最近侵入者がいたからだろう。その犯人に心当たりがあるから、アメリアはにわかに笑った。


 先人の足跡をたどり石段を登る。玄関の備えられた特に細工も無い両開きの扉は、蝶番がゆるんで隙間を作っていた。おまけに右扉の金属の取ってが無い。ペアの片割れだけが、錆に覆われ寂しそうに訪問者を待っていた。


 アメリアはまず隙間に目を凝らす。が、向こう側は真っ暗闇だ、何も見えない。無の空間が存在していると言われてしまえば、そうだと頷いてしまうような場所ではあるが。


 果たしてこの扉の向こうには何が待っているのだろうか。遠く離れた砂漠の国か、海の向こうの雪国か、はたまた時を忘れた箱庭か。何だってよい、どうせ知らぬ土地へ旅する身なのだ、行き着く先がどこだろうと、あまり影響はない。行った先で未来を切り開き、幸せをつかむだけだ。封印を解く恐れより、自分の願望が大きく勝った。


 アメリアはそっと取っ手に左手を伸ばした。興奮のあまり心臓が飛び出てくる気がして、空いた右手で胸を押さえる。燦然と虹色に輝くブローチの向こうでも、激しく波打ち熱い血潮を送っているのが分かった。触れている手が火傷しそうな心地である。


 錆びた取っては少し手に痛かった。しかし強く握りしめ、一呼吸置いてから、アメリアは一気に扉を開け放った。



 決して立ち入ることなかれ、神隠しに遭い帰ってこれなくなってしまうから。決して越えることなかれ、境の向こうはどこに繋がっているかわからないから。忌まれ封じられ眠っていた家が、禁を解き放った一人の夢溢れる少女に見せた世界は。


 爽やかな風がアメリアの正面から強く吹き付け、編んだ金色の髪を揺らした。同時に眩しさを感じ、思わず顔を手で覆う。

 一呼吸おいてからつむっていた目を開け、無限に広がっていた可能性を一つに確定させた。


「……素敵!」


 アメリアは黄色い声を上げた。

 目の前に広がるのは緑美しい丘と、雲一つない青空。色とりどりの花が彩る草地が、延々と遠くまで続いている。


 夢みたい、とアメリアは思った。今自分が立っているのは廃墟の石段だ。しかし玄関扉の向こうには、天国のような美しくのどかで広々とした世界が広がっていたのだ。

 そしてなにより、未来を垣間見たあの夢で見た光景にそっくりなのだ。夢世界の自分は、丘の上の家からこのような風景を見下ろしていた。


 この丘を越えた近くに、渇望する幸福な未来の自分は居るのかもしれない。描いた理想の世界は、きっとここにあるのだ。「神隠し」に合うのは神に招かれた者、これはきっと、神が示した栄光への道なのだ。


 そう思うと矢も楯もたまらず、アメリアは一目散に駆けだしていた。転げるようにやわらかい草地を走る。背中にはそれなりの荷物を背負って居るはずなのに、全然気にならない。切れる息も調子よく弾んでいた。


 夢中で駆けた先、行けども行けども丘だった。少し疲れてアメリアは足を止め、おもむろに芝の上に腰を降ろす。ちらりと後ろを振り返っても、もう出て来た扉はどこにも見えない。


「……やった!」


 勝ち取った自由は、勇気を出して飛び出した籠の向こうは、光に溢れたものであった。ここがどこかは全く見当もつかないが、今のアメリアは達成感に満ちていた。

 平穏な空気にあてられ、鞄を背負ったまま体を後ろに倒す。吸い込まれそうになるくらい青い空だった。それをぼんやり見上げながら、この先のことを考えていた。なにせ誰に咎められることも無い身分になったのだ、やりたいことはたくさんある。一番は自分の店を持つことだから、それにふさわしい場を探さなければいけないのだけれど。


 顔を綻ばせながら、青いキャンバスに理想の幻影を描いていた。その時だった。

 空が、割れた。


 アメリアは驚いて跳ね起きる。その間にも、まるで硝子窓にひびが入るかのように、青空に無数の割れ目が生じる。いや、空だけではない。四方の風景の全てがひび割れ粉々になっていく。


 顔を青くしたアメリアが息を呑んで見守る最中、粉みじんになった空間は、音も無く砂のように崩れ去った。理想郷が消えていく様を、少女は凍り付いたように見ていた。

 

 あれが夢幻世界だというのなら、魔法が解けた後に待っているのは現実だ。アメリアはかたずを飲んでそれを直視した。


 そして瞬時に悔悟した。自分は、とんでもない愚かなことをしてしまったのだと。


 空は赤かった。決して夕焼けなどではない、イオニアンの天に浮かぶ紅い月のような、妖しい魔性の色合いの。その中を血のように赤黒い雲――いや、雲なのかもわからないが、とにかく煙状の何かが、沸き立つように漂流していく。


 そして地平の果てまで続くのは、枯葉色の荒涼とした野であった。花も、緑も、虫も、鳥も、何も無い。文明の欠片なんてもってのほかだ。


 どう考えても、地上のどこか遠い場所だとか、過去の世界であるとか、そんな生ぬるいものではない。

 ここは、異世界だ。しかも魔界とか地獄と言った言葉がふさわしいような、人間が立ち入るべきでない類の。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
※本作品を再構成・加筆修正を行った新版を2023年に公開はじめました。順次掲載していきます。  ストーリーは大きくは変わっておりませんが、現在本作品をお読みの方はぜひ新版をご覧ください  https://ncode.syosetu.com/n9553hz/ またはマイページから
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ