祝祭には甘い菓子を
いつもは紅茶や珈琲の香りしかしない葉揺亭。渋く繊細な風味を存分に味わえると言えば聞こえは良いが、人によってはつまらないと評するだろう。
そんな店内に、今日はやたらと甘ったるい匂いが溢れかえっていた。
カウンターの向こうに居るマスターの背後には、うんざりするほどの空色の花が積まれている。だが、決してあれの香りではない。ルクノ・フロラ、自然的な素材に通ずるマスターをして「見た目以外の価値が無い」と断言されるものだから。
そして何より、漂っている甘い匂いはもっと神経を直接的に高揚させる風で、花のそれとはいささか質が異なっている。
ちょうど昼下がりの間食時にこの匂い、刺激的でたまらない。たまたまふらりと現れた根無し草の青年ヴィクターも、玄関を開けるなり、匂いの正体を掴もうと鼻を効かせた。
甘くて、火の入った香ばしい匂い。意識を向ければ向けるほど、食欲の中枢がざわざわと騒ぎ出すような心地にかられる。マスターが平然としていられるのが不思議なくらいだ。
ヴィクターはいつもの席でいつもの茶を待ちながら、一人で店番をしている主へ率直に尋ねた。
「なんか変わったもん焼いてるのか?」
「うん。アメリアがね、降誕祭には焼き菓子がいるからって言って」
「へぇ。ついに茶菓子も始めたのか」
「いやいやまさか。メニューには載らないよ、あくまでもアメリアの趣味の範囲だ。僕は割とどうでもいい」
「ははっ。あんたは、食い物にはあんまりこだわらないもんな」
「まあね。やるならこだわるけど、そもそも必要ないから」
マスターは苦笑した。食物と紅茶とが相互に味を引きたて合う、その考え方を否定する気はないが、葉揺亭には取り入れていない。やはり、自慢の茶そのものを味わってもらいたいと思うのだ。喫茶「専門」店とわざわざ強調するのは、そのあたりに心がある。
ただし、常連たちは各々勝手に食べる物を持ち込んでくることが多い。焼菓子だったり、果物やナッツだったり、果てには煮込み料理を鍋ごと持ち込まれたこともある。例えばヴィクターの場合、常々ポケットに隠し持っている非常食の類が飛び出してくる。
マスターがそれらを咎めることは無い。客が自ら見つけた茶の楽しみ方で、自分の淹れた紅茶が活きるのなら、それもおもしろいと思うから。
いつもとは少し違う空気、しかしマスターが茶を出す手つきは変わらない。ヴィクターの目の前に淡緑色のカップが差し出された。静かに湯気立つシネンスの紅茶だ。
わずかに揺れる琥珀色の水面を望みながら、ヴィクターは黒いコートのポケットをさぐっていた。最初に手に当たったものを掴んで取り出す。
出て来たものはくしゃくしゃの紙に包まれた、棒状の堅パンだった。包みを剥ぐとうっすら緑がかっていたが、海藻が練り込まれているからで、傷んでいるわけではない。
遠い港町で買って忘れていた、そんな堅パンをシネンスの紅茶に浸して、かじる。こうすれば食べやすくなる、というか鉄のように固いから、こう水分を含ませてやらないと歯が立たないのだ。
咀嚼するごとに広がる磯の香り。悪くはないが少々生臭い。しかし熱い紅茶を飲めば、それもすっかり洗い流される。ゆっくりくつろいで飲み食いできる場ならではの味わい方、少し贅沢な心地だ。
あぁ、と一息ついてから、ヴィクターは口角を上げてマスターに茶々を入れた。
「しかし今年の降誕祭はえらく気合入ってるんだな。花もそんなにかき集めちゃってさ。あんたなんて、そういうこと一番やらなさそうなのに。あのあんたが神様うんぬんなんて、なあ!」
「笑うなよ。……全部あの二人のせいだ」
「二人? アメリアちゃんと?」
「ジェニー=ウィーザダム。ラスバーナ商会の幹部だ。まったく、権力者の不用意な発言ほど恐ろしいものはない。つくづくそう思うよ、僕は」
マスターがげんなりとした顔で頭をかいた。
確かに祝祭に便乗した茶を作ろうとしたのは自分だ。単純――いや、純粋で素直な二人に絶賛されるのは、もちろん想定の範囲内である。
だがそこから、熱心なルクノラムの宗教家たちが小さな店に押しかけて来る結末に至るとは、一体誰が予想しただろうか。少なくともマスターの脳裏には影の一つすら無かった。
アメリアの姿が無いのをいいことに、マスターは古馴染みの相手に、堂々愚痴り始めた。
あの日からわずかに二日後だった。葉揺亭の穏やかな空気を破壊するように、目をぎらぎらと輝かせた黒衣の客人が次から次へとやってくる。しかも、メニューにも無い、一度戯れで作っただけの神の茶を所望すると来た。
なんだこれは、まるで意味が分からない。マスターは内心で叫びながら、しかし店の主として丁重に客人をもてなし続けた。
その中でさりげなく情報元を探っていくと、浮かび上がったのはラスバーナ商会、そしてジェニーの影であった。
おそらく彼女に悪気はない、商会の同僚や商談を始める前後の話題の種にでもしたのだろう。しかしそうやってあちこちで撒いた種は、信徒の横の繋がりで一斉につるを伸ばし広く蔓延った、その結果がこれだ。
元より信仰に否定的だった上、あの茶を大量に作るのはわずらわしい。止まない信者たちの攻勢を、マスターは手っ取り早く「材料が無い」と断ろうと思った。
しかし残念ながら、葉揺亭にはルクノールとも違う博愛の女神が住んでいたのである。
「じゃあ、今から買ってきます! 少し待っててもらってもいいですか!?」
アメリアは無邪気だ。お客様のためだと思った彼女の素直さを、どうして責めることが出来ようか。
彼女はマスターの意見も聞かずして、びゅんと街に飛び出していった。その背に伸ばした店主の腕が、空しく宙に凍り付いていたのは知る由も無い。
ルクノ・フロラは祝祭のこの時季、市場に溢れかえっている。だからアメリアは無事に空を映した花束を両手で抱えて戻ってきた。その笑顔の眩しいこと眩しいこと、まるで太陽のように。普段なら笑顔で迎えるが、この時ばかりはさすがのマスターも頭を抱えるしかなかった。
そして至る、現在。この数日間でどれだけあの見立てのお茶を出したかわからない。それでも未だ山のように準備されてるルクノ・フロラ。遠い目でそれを眺めて、勘弁してくれとマスターは呟いた。
経緯を聞いてヴィクターは軽快に笑った。
「そりゃあなかなか大変なこって。にしちゃ、今日は静かすぎないかい? 降誕祭当日だってのに。あんたが何かしたんじゃないのか」
「いいや、昼前は結構ひどかったよ。まあ、信心深い人たちは、色々今日はやる事あるんだろうさ。教会みたいなところに集まってるとかね」
「……ん? もしかして、アメリアちゃんも教会行ってるとか? 姿を見かけないのは」
「まさか。アメリアなら、焼き上がりまでまだまだ時間がかかるからって、部屋の掃除を――」
説明しかけたマスターの声を遮るように、店の奥から階段を降りるけたたましい足音が響いた。
間髪入れず、バアンと音を立てて、カウンターの内にある扉が開け放たれた。はあはあと興奮気味に息を切らせて、アメリアが立っている。
「騒々しいよ」
マスターが静かに苦言を呈したが、アメリアには聞こえていない様子。漂う甘い香りをくんくんと嗅ぎながら、魔法火の焜炉の下に備わっているオーブンの手前まで躍り出て、ひょいとしゃがみこむ。そのまま取っ手を握った。
「もう焼けましたよね! これだけいい匂いするんですもの!」
「いやいやいや、まだだよ。僕まだ呼んでない。いい頃合いがわからないから教えてくれって、君が言ったんじゃないか。ほら、時計を見なさい。目安の時間は伝えてあるだろう、まだそれにもなっていない」
「……でも、ちょっとくらいなら早くても」
「アメリア、焦りは禁物だよ。失敗したら最初からやり直しなんだ、時を急いて時を損じては意味がない」
マスターが窘める。それでもまだアメリアが逡巡するから、さらにもう一度繰り返した。
それでようやく、アメリアは名残惜しげながら取っ手を放した。焼きあがるまではまだまだ、シネンスの紅茶を入れて一服するくらいはある。
空気が落ち着いたところで、存在を主張するようにヴィクターが声を発した。
「で、アメリアちゃん、一体なにを作ってるのかな?」
その途端、アメリアは驚いたように背筋をぴんと伸ばした。やはりと言うべきか、客が来ていることには気づいていなかったようだ。
しゅんとしていた表情を一転させ、アメリアは作業台に両手をついてカウンターに身を乗り出した。
「フルーツ・ケイクです! レインさんに教わりました」
「へえ、そう……誰?」
「お友だちです。すごいんですよ、お料理もお裁縫も、なんでもできちゃうんですもの」
アメリアが指を折りながら、親友の好きな部分を挙げ数える。器用で、優しくて、頼りになって、明るくて――延々と、かつ得意気に語られる自慢話。ヴィクターは嫌な顔一つせず聞いた。本命の話はちっとも出てこないけれども。
時計の針がゆっくりと足を進め、ヴィクターのカップが空になった頃に、ようやくアメリアの口からケイクの話が出てきた。
「レインさんが昨日フルーツ・ケイクをくれたんですよう。それが、ほっぺたが落ちそうになるくらいおいしくって! そうしたら、降誕祭のお祝いにケイクが必要だから焼いたんだって教えてくれたんです。だから、私も焼かないとだめかなと思って、作り方を聞いたんです」
レシピが難しかったらどうしようかと思ったが、意外や簡単だったのも、アメリアの挑戦心に火をつけた。使う材料は小麦粉と油脂と卵に砂糖、それに好きな果実を混ぜて、型に流しこみ焼き上げるだけ。普段料理をしなくても大丈夫、教えたレインも断言したそうだ。
他にもレインに料理を習ったのだと、またアメリアが嬉しそうに話を広げ始めた。
その黄色い声の向こうで、時計の針が動く音がしたことを、マスターは聞き逃さなかった。ちらりと目線をやると、間違いない、焼き上がりの時間を差している。
アメリアの肩を軽く叩く。きょとんとした顔で振り返った彼女に、マスターは指で時を示した。
視線を動かしたアメリアは、時計を見るなり小さな声をまじえて息をのみ、慌てて焜炉の下にかがみこんだのだった。
重量感のある響きを立てながら、熱いオーブンが開け放たれる。吹き出した熱が少女の顔をかっとほてらせ、脇で見守っていた店主の顔をも打った。
「火傷しないように気を付けて。僕が出そうか?」
「いえ、大丈夫です」
アメリアは真剣な顔で答えながら、高温の窯に入っている直方体の型を火かき棒のフックで引きよせた。額には玉のような汗がにじんでいる。
型を手の届く場所まで寄せきると、ぶら下げてあったオーブンミットを装着し、熱々の金属を恐る恐る掴んで、作業台の上にあげた。
熱気と期待に当てられて、アメリアの心臓は激しく波打っている。それに息ごと飲みこんで押さえながら、かぶせてあった蓋――といっても、金属の薄い板を一枚乗せただけのものだが、それを、えいっと取り払う。
「はい! ……わあっ! ちゃんと膨らんでますよ!」
大はしゃぎするアメリアに呼応し、男たちが覗きこんだ。
なるほど、型の八分目の高さに膨れ上がっているケイクは、見るからにふっくらとしており、それでいて引き締まった弾力もありそうだ。
ナイフを型に沿って走らせて、ケイクを取り出し、マスターが用意していた皿に乗せる。堅にはまっていた時より、どっしりとした重量感を醸している。しかし、色合いはとても優しい。
「いいぞアメリア、結構うまくできたじゃないか」
マスターの賞賛の声に裏はなかった。
ところが、アメリアは最初の有頂天な様子はどこへやら、なぜか険しい顔になっていた。
「でも、レインさんのと色が全然違う……もっと、こんがりとした濃い色だったんです。この、型の上の部分」
「それは、蓋を被せたせいかな。うん、焼き色が付いてからにした方が良かったかもしれない。……すまない、僕が余計なこと言ったのが悪かったよ」
「『このオーブンだと上火が強めだから、焦げやすい』ですよね。でも、焦げたら嫌ですもの、マスターは悪くないです」
「意外と奥が深いというか、狙い通りやるのはなかなか難しいものだね。ううん……焼き色、焦げ目、か」
もしも上だけを炙ってくれる炎があったら、今からでも焦げ目がつけられるのに。マスターもアメリアも、同じように考えた。
そして、そこから仲良く同じ発想を持つ。少女は遠慮気味に、店主は意味深に、二人して笑いながら、ほぼ同時に同じ人物を見た。
我関せずと明後日の方を向いていたヴィクターに、ぐさぐさと視線が突き刺さる。途中から嫌な予感がしていたが、思った通りだ。火炎を操る男は、溜息を吐いた。
恨みがましい目は、当然、主の側に向ける。
「あんたってさ、たまーに、ものすごーくしょうもないこと思いつくよなあ」
「しょうもない? なに言ってるんだ、君の天賦の才の平和的利用じゃないか。それだけでも価値がある。そこにアメリアの喜びもついてくるんだ、なおさら良い、最高だ。まさか嫌とは言わないよね」
マスターはお茶目にウインクしてみせた。
客人禁制のカウンター内に招かれて、薄汚れた黒コートの男は立つ。ぼさっとした髪といい、気だるそうな顔つきといい、まったくもって喫茶店の従業員にはふさわしくないが、今は特別だ。
手に握られるのは愛用の火打ち器である。親指をちょいと動かせば、かちりという音と共に小さな火が灯った。
ヴィクターが意識を手元に集中させる。
刹那、轟音と共に火炎放射がはなたれた。燃え盛る炎の渦はカウンターをも飛び越えて、空間を割らんとする勢いである。
途端にマスターが豹変した。いつになく険しい顔、厳しい声で叱責する。
「おい! 店ごと燃やすつもりか! 加減を考えろ、馬鹿者め!」
「へいへい、わかってますよ。ちょっとした冗談だ」
ヴィクターは肩をすくめながら、火を細く小さくする。噴出口から直角に曲がって燃える非常識な炎は、ちょうどケイクの上に被さる大きさになった。
それにしても。生きるか死ぬかの世界でしのぎを削る青年には、少々間の抜けた状況である。
――まったく、なんでわざわざ俺がこんなことを。
心の中には不満が燻らないでもない。
しかし、それは簡単に吹き消される程度の種火でしかない。
むっつりとしたヴィクターにむかって、アメリアがふわりとした笑みを浮かべながら、ぺこりと頭を下げて言う。
「ヴィクターさん、ありがとうございます。助かります」
「まあ、アメリアちゃんに頼まれちゃあ仕方ないよねえ」
その顔はまるで熱で溶けたようになっていた。
かわいい女の子に頭を下げられて、調子に乗らない男がいるものか。もしいたとしたら、そんなやつ、人間じゃないさ。そんな風に昇りのぼるヴィクターの心のうねりは、そのまま正直に魔力の流れへと反映され、アビラで操られる火炎が浮ついて波打った。
その些細な変化をマスターは見逃さなかった。再度、叱咤が飛ぶ。
「おい、ヴィクター、集中しろって!」
「あいよー」
まるで気のない返事だ。これで失敗しようものなら、マスターから雷が落とされるのは明らか。
しかし、ヴィクターの技術は本物である。態度と裏腹に、炎はぴしっと元の形に戻った。
一定の状態でぴたりと保たれた炎が、確実にケイクの表面を照りつける。それにつれじりじりと色が変わっていった。柔らかそうだったものが、引き締まって見えるようになる。それとともに表面がかりっとしてきた。
料理にはまったく縁が無いヴィクターでも、おいしそうだという状態は人間の本能的にわかった。そろそろだ、という頃合いで、誰に止められるでもなく火は消された。
「さて、どうよ?」
「おいしそう!」
「素晴らしい」
絶賛の嵐にヴィクターは得意気な顔を晒していた。
粗熱が取れるのを待ってから、アメリアがケイクを切った。
あらわになった断面は、しっかりとした狐色。そこに幾種ものフルーツが色とりどりにちりばめられていて、まるで宝石箱のよう。
「なあ、これ、なにが入ってるんだ?」
「フォグの実と赤肉リンゴ、あとツルイチゴがあったのでそれも少し。それと、マスターの希望で干しブドウのラム酒漬けも混ぜてみました」
「ああ、なんかうまそうだな」
「ヴィクターさんの分も切りますね」
「いやーありがとうアメリアちゃん、大好き」
そんなやりとりをしている脇で、マスターはひっそりと自分の仕事をしていた。作業台の上にはポットが鎮座し、三つのティーカップもすでに湯通しして温められている。
そしてアメリアが手仕事を終えたのに合わせて、準備を完了させた。眉を上げて二人に目配せしながら、当然のように言う。
「お菓子があるならお茶も必要だろう」
異論はない。茶の汲まれたカップはそれぞれに渡される。
濃茶色の液面を見据えて、ヴィクターが少しだけ眉をひそめた。
「……なんだか、えらく濃そうだが」
「『アセム』にしてみたんだ。君が普段飲むやつより香りも渋みも深い茶葉だ。いささか自己主張が強いから、ミルクを入れても風味が負けない。だけどまずはそのままで、独特の芳香を楽しんで欲しいけどね」
亭主の講釈もそこそこに聞き流し、ヴィクターは一口飲んでみる。
確かに、先ほどまで飲んでいたシネンスよりも濃厚な風味がした。だが、言うほど違うだろうか。そう首を傾げてみせる。説明が間違っているとは思わないが、わからないものはわからない。
一方のアメリアは、さっさとミルクを取り出し追加していた。しかも結構なみなみと。マスターの言う「まずはそのまま」なんてまったく無視だ。
「……まあ、好みは色々だし、今日の主役はアメリアのお菓子だからいいけどね」
マスターは少しばかりすねたように苦笑していた。
お茶を手元に置いて、いよいよ主役の出番だ。まずはアメリアが、それを見届けてから男たちが、各々フルーツ・ケイクをかじった。
口の中に広がるのは甘い香り。そこに色々果物が入れ替わり立ち代わり顔を出して、おいしさの交響曲を奏でる。遠くでかすかに薫るラム酒が絶妙なアクセントだ。
本当に、頬がとけるような。アメリアもヴィクターも、幸福感あふれる表情を隠さなかった。
「おいしい! ちゃんとできましたね! よかったあ」
「こりゃいいや」
ぺろりと一切れ平らげて、ここで飲むお茶がまたいい。紅茶の香りと甘いものとは、重なるとお互いを引きたて合う。ついでにケイクが持って行った口の水分を補えるから完璧だ。
ごちそうさまでした。そんな風に二人は満足した。が、そこで気づいた。
マスターが静かすぎる。いつもなら、放っておいてもぺらぺら喋りだすのに、だ。
おかしい、どうしたのか。マスターの方へ振り向くと、片手にまだ食べかけのケイクを持ったまま、黙って茶をすすっていた。穏やかな仏頂面を保ちつつ、しかし、わずかに眉間に皺を寄せているではないか。
「マスター? おいしくなかったですか? 私のケイク」
「えっ、ううん、おいしいよ。でも、なんだ、こんなに甘いものなんだなーって……ちょっと砂糖多すぎじゃないか? 果物の甘みだけで十分だったんじゃ」
「ええっ!? 普通ですよ。レインさんに教えてもらった通りですし、昨日もらったケイクもこれくらい甘かったです」
「いやあ、どうだろう。なあ、ヴィクター」
「俺に聞かれても困るんだが……。あー、菓子ってこういうもんじゃないのか? 普段はそこまで食わんから知らないけど、別に変な顔するもんじゃなかったぞ」
「そう、かなあ」
「もー、ただ単にマスターの舌が敏感すぎるだけです」
これはアメリアの言ったことが真である。亭主の舌は繊細だった。とりわけ甘味に関しては、常人の何倍も強く感じ、度が過ぎると神経を越えて脳天を貫くような刺激になるのだ。要するに、甘い物が苦手な人である。
マスターも自分の感覚が普通でないとの自覚はある。ただ、普通の感覚を知らないから、どうしようもなかった。
――アメリアが言うなら、これが世間の普通なのだろう。これが食べられて普通の人間なんだ。
そんなことを繰り返し唱えながら、マスターは自分に割り当てたケイクをきちんと平らげたのだった。
お茶もすっかり飲みほしたところで、ヴィクターがふと思い付きを口にした。
「そういやさ、そもそもなんで降誕祭に菓子が必要なんだ? まるで関係がないような。例のその花を混ぜたとかでもなし」
「さあ。僕も知りたいくらいだよ。初めて聞いた」
マスターは肩をすくめた。博識を誇るが、それでも知らないことである。
しかし、なんと、アメリアがその答えを知っていた。得意気に胸を張って、マスターの癖を真似して人差し指を立てると、偉そうに語った。
「あのですねえ、それは、ルクノール様のためなんですよ!」
「……は?」
「ルクノール様は甘いものが大好きです。だから、降誕祭でお家に招いたら、ケイクでおもてなしすると喜んでくれるんですよ。……って、レインさんが言ってました」
聞かされた方はぽかんと大口を開けていた。マスターに至っては、足元からずるりと崩れ落ちそうになっている。
もっと宗教的に高尚な意義があるのかと思えば、好き嫌いの話とは。いや、そもそも一体誰が神に食べ物の好みを聞いたというのだろうか。教本にそんなくだらないことが書かれているとも思いがたいが、あるのだろうか。
「……ねえアメリア、それ、レインが創った話じゃないか。最初に言いだしたのは、どこの誰だ」
「私に聞かれても、知らないですよう。ただ、レインさんはお母様からそう言う風に聞いたって。だから毎年ケイクを用意してるんですって」
「うわあ。そいつは眉唾な話だ」
レインの母はすでに他界している。真相は、まさに神のみぞ知る。
それでも、アメリアは平然と笑って言ってのけた。
「いいじゃないですか。甘いものを食べれば、みんな幸せなんですから」
祝祭を機に集まったみなで、甘いお菓子を一つまみ。ついでにお茶でも飲みながら、ちょうど今の葉揺亭でのように。アメリアの言う通り和気藹々とした幸せな光景だ、まったく悪い話ではない。
それとも。そんな幸福な一時を過ごせることこそが、神名の花に誘われた降誕祭の祝福そのものなのかもしれない。
葉揺亭 メニュー
『アセム』
濃い赤褐色の水色、甘みを含んだ強い独特の香り、深い渋みが特徴。
どちらかと言うと個性派の茶葉だが、その強さがミルクティと最良の相性を持つ。
ノスカリア食べ物探訪
『フルーツ・ケイク』
降誕祭のお祝いに作った焼き菓子。
小麦粉、バター、卵に、砂糖は少し控えめで、ドライフルーツを色々混ぜて。
今回はフィグ(イチジク)、リンゴ、ベリー類、ラム・レーズンを使ったが、好み次第で何でもありだ。
焼き上がりに粉砂糖をふるったり、シロップをかけるのも良し。
実は焼きたてよりも少し冷ました方が、生地がなじんでおいしい。