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溢れた雫の行く末は ―前―

 東の空に昇る朝日を、アメリアは自室の窓から眺めていた。ここから見る日の出は最後になるだろう、と。薄雲のかかる空に昇る太陽は、肉眼でも直視できる光の塊になって、静かに世界を照らしていた。

 全く眠りが浅かった。いよいよマスターに打ち明けようと心したら、変に緊張してしまい、夜中にも何度も目を覚ましたものである。


 部屋は小ざっぱりしていた。もともとそれ程たくさんの私物は持っていない上に、着替えや、大切な小物、そして思い出を詰めた宝箱など、持っていきたい物は、全て大きな背負い鞄の中なのだ。必要な物と思い出の物を選び抜いた旅の備えには、一週間ほどかけた。いつ何時でも飛び出せるように、どこにでもいけるように、支度は念入りだった。


 ただ二つだけ、荷造りからあえて外した物がある。机の上に並べて置いたそれを、アメリアは順に手に取る。


 一つは盾形のブローチだ。先にアメリアが一人で外で仕事をしなければならなかった時に、マスターがくれたお守り。「葉揺亭のアメリア」だという証だと、店主は言っていた。それを左胸につける。虹色を湛えた乳白の宝石は、静かな朝日の中でも美しくきらめいていた。


 例え葉揺亭を離れようと、ここで過ごした日々は忘れない。自分は葉揺亭を捨てるわけじゃない、マスターのことを忘れやしない。そういう意思表示なのだが、果たしてマスターに伝わるだろうか。

 いや、きっとわかってくれる。聡くて優しい人なのだ、それに、このブローチの云々は、もともとマスターから言い出したものであるわけである。大丈夫だ、と、アメリアは小さく頷いた。


 だから、これは必要ないと思うのだが。アメリアが逡巡しながら手を伸ばしたのは、装飾美しい一振りのダガーであった。鞘に納められているが、鍔と柄は朝日を冷たく反射して光っている。


 迷い迷って、アメリアは前掛けの腰ひもに結わえるように装着した。一応は持っておかなければ、元の持ち主の気遣いを足蹴にするような気がして心苦しかったのだ。とは言え、本当に、もしも、万が一、何かの間違いが起こった時のための、自衛手段として持つのみ。背中の真後ろに回して、なるべくマスターの視界に入らないようにしようと決めた。話が終わったら、その足で古道具屋にでも売りにいこう。



 自分の部屋を出て、階段を見下ろす。なぜだかいつもより急に見える。店主だってまだ夢の中だろう明朝、もの寂しい静かな空気のせいで、一層神経の糸が張り詰められる。

 アメリアは手摺を取りながら呼吸を整えた。鼓動はいつもより早く、血潮はいつもより熱い。日常の枠組みから飛び出すには、いつだって緊張するものだ。

 

「行こう!」


 自分の頬を一つ叩いてから、アメリアは階段を降りた。




 予想に反して、店への扉を開けた先には、既にマスターの姿があった。一切の型崩れない燕尾の黒ベストを纏った後姿が、アメリアの登場に慌てて振り返った。どうやら、予想外だったのは向こうも同じらしい。


「おはよう、アメリア。なんだ、今日はずいぶん早いお目覚めだね」

「マスターだって、こんな早くに」

「僕は平常通りさ。じゃあ、君の分も一緒に」


 と言って、ちょうど淹れかけていた紅茶の茶葉をもう一掬い余分にする。マスターの手元にも、背に纏う空気にも、全くよどみがない。清々しい朝日そのもののようだ。

 だから、朝一に打ち明けることを選んだ。心の波が穏やかな時の方が、良い返事が期待できる。


「そんなとこに立ってないで、座りなよ。すぐに入るからさ」

「はい、そうします」


 返事をして、アメリアは店主の左手側に椅子を引いた。無論、彼には体の横より後ろを見せないように細心の注意を払いながら。後ろに組んだ手でも、自分に不釣合いの刃は覆い隠すようにしていた。

 

 マスターは一切不審がらず、できたお茶を二つのカップに注ぐと、一つはアメリアの前に置いて、自分もゆっくりと腰を降ろしたのだった。

 一山は越えた、いや、本当に山なのはこれからなのだが。はからずともカウンターの出口に近い方に陣取れたのも、ある種の救いではある。と、そこまで考えてアメリアははっとした。何を考えているのだ、まるで戦争でも始まるみたいではないかと。背中で存在を主張する凶器に出番を与えるつもりなど、毛頭ないのに。

 

「どうしたアメリア? 眠いなら、もうひと眠りしてくるといい」

「だっ、大丈夫です。紅茶、いただきます」

「どうぞ」


 横目で微笑むマスターの視線に急かされるように、アメリアはカップを取った。今朝の一杯はシネンスだ、おまけにずいぶんと軽い。だが朝食も食べていない――それすら忘れていたのだが――空っぽの胃腑には、それがちょうど良かった。空腹にあまり濃いものを流し込むと体を傷める、そうマスターが言っていた気がする。


「おいしい」


 確かめるようにアメリアは口にしていた。本当においしいお茶なのだ。外に行って、これを越える物に出会えるかどうか。それは、行ってみなければわからない。


 アメリアは静かな店主の様子を伺った。左手にカップ、右手には羽ペンを持っている。何か物を書いていて、すっかりそれに集中している様だ。


「あの、何書いてるんですか」

「今は内緒。完成したら、見せてあげるよ」

「……いつ完成するんです?」

「どうかなあ。やろうと思えば一晩でもできるけど、急ぐものじゃないから、のんびりやるよ。時間はたくさんあるんだから」


 ふふっと笑って、マスターはまた口を閉ざした。目線も紙上に落としたまま、全く動く気配が無い。

 アメリアの中にためらいが生じた。集中している時を邪魔するのは、あまり良くない。熱中してしまうと周りが見えなくなる、そんな子どもみたいな男なのだ。


 だが、ここで足踏みしてしまっては、いつまで経っても進めない。現に、その書き物はすぐに終わるものではないらしいから、明日や明後日に先延ばししたところで何も変わらないだろう。 

 アメリアは意を決した。鳴り響く鼓動を聞きながら、汗を握る手を膝の上に据え、体を店主の方に真っ直ぐ向ける。目には強い光が灯っていた。


「マスター、私、お話しがあるんです」

「へえ、何だい?」

「だから、ちょっとこっち向いてください」

「わかったよ」

 

 苦笑しながら、マスターはペンを置いた。足を組みかえながら、アメリアの方に向き直る。今日も優しい笑顔だ、いつだってそうだ。だから、アメリアは安心して笑って居られた。


 穏やかな顔のまま、アメリアは静かで丁寧な口調で、己の心をつづる。

 

「私、今までたくさんお世話になりました。嬉しかったです、マスターのところに居られて。色々教えてもらえたし、色んなことを経験できました。本当に、楽しかったです。ありがとうございました」

「どうしたんだ急に改まって」


 主が失笑した。無理もない、何を今さらということでもあるし、こうしてかしこまって話すことなどほぼ無かったから。

 しかし時には、普段の近しい距離感から一歩引き、緊張の糸を張り詰めて語らねばならないこともある。そうでなければ、お互いの顔しか見えないのだから。そしてまさに今がその時だ。


 アメリアは静かに微笑んだまま、口火を切った。


「私、ここを出ていきます。だから、お暇をください」


 マスターは張り付いた笑顔を保ったまま、目をぱちくりさせる。一呼吸おいてから、彼は声を上げて自嘲した。


「ははっ、僕もいいかげん耄碌してきたかな。恐ろしい聞き間違えをした。……君が出ていくなんて。そんなこと、あり得ないのに」

「いいえ、間違いなんかじゃないです。私、確かにそう言いましたもの。行きます、だから止めないでください」


 固い決断の意志が現れた、強気の口ぶりだった。アメリアの眼も、真っ直ぐに主人を見据えている。冗談でも何でもない、真意だと訴えかけていた。


 マスターの笑顔が消えた。いや、正確に言うならば、口元はゆるく持ち上がっているが、目は一切の表情を示さない。強いて言うなら、アメリアの胸中をえぐりとるような、静かな怒りを湛えた目であった。


「さて、笑えない話だ。一体今度は誰が君に毒を吹きこんだ、一体どの口が君をそそのかした。軽薄極まりない黒いのか、それとも前科持ちのあの子か。いや、強引な手を使いそうなのは彼女か、あるいは――」

「私が、一人で決めたことですっ!」

「君が? あり得ない。そんなはずない。誰かにそうだと思い込まされているだけだ」

「そう思い込みたいのは、マスターの方です! 私は、本当に、自分の意志で言っていますから!」


 無意識に口調が荒くなっていた。どうにも腹が立ったのだ、全ては自分で決めたこと。それなのに、まるで誰かが言ったからそうしたみたいな言われ方をして。結局、マスターは自分のことを認めていない。いつまでもかわいいだけの不出来な少女だと思われている、そんな気がしてならなかった。


 しかし、アメリアの沸き立つ感情の熱は、すっと引いた。落ち着いたのではない、不意に寒気が襲ったから。

 マスターの白い顔から、一切の表情と言う物が消えたのだ。何ものをも覆い隠す、月なき夜の闇のような黒い目が、アメリアを射抜く様に浮かんでいた。


「なぜだアメリア」


 抑揚の無い一言が、アメリアの耳を強かに打つ。単調な声は、怒っているとも、悲しんでいるとも、あるいは咎めているとも、試しているとも、思い方次第でどうとでも取れてしまう。

 ざわりと身の毛がよだった。返答を間違えれば、奈落の底に突き落とされる、そんな気配がしてならなかった。背後に隠した銀の短剣が、突然に存在を主張し始めた。


 気圧されたら駄目だ、一度でも揺らいだら終わりだ。亭主を良く知る男からの忠告を反芻するように、アメリアは心の中で唱える。


 マスターの無色の視線を、アメリアは真っ向から受け止めた。逃げない、後ろを向かない、未来へ進む。自分が描いたその願いを、自分の抱いた想いを、嘘偽りなく披露する。どうか理解してほしい、そう願って。


「ここはマスターの店だから。だから、そうじゃなくって、もっと、私らしい――そう、私の理想の場所を見つけるんです! 夢で見たような素敵な世界を、現実に!」

「君の理想? 夢?」


 亭主は嘲笑めいた忍び笑いを浮かべる。

 しかし、アメリアがそれにぎょっとする暇も無く真顔に戻り、彼は不愉快さを研ぎ澄ましたように目を尖らせた。


「冗談じゃない、思い直せ。君はどうしてここに辿り着いた? 君は夢や理想を求め、外に飛び出した。だが希望は裏切られ、君は世界に見捨てられた。この世界に君の願う安楽の地なんて、他にどこにも無かった。……覚えていないか? 忘れたか? アメリア、思い出せ。あの日は、雨が降っていた」


 そう懇願されるように言われなくとも、忘れたことなどなかった。雨に打たれ影に迷うアメリアに、唯一差し伸べられた温かい手。いっそ神々しさすら感じた、亭主の優しく頼もしい姿。忘れたくとも、忘れようがない。


 だから悲しかった。あの宝物のような時間を忘れてしまったと、その程度の薄情物に捉えられた気がして、アメリアの心に落胆の念が沸いて起こった。どうしてわかってくれないのだと、唇をかみしめる。


 どうしたら理解してもらえるのだろうか。左胸に留めたブローチに、アメリアの手は自然と動く。心臓を握るように触れた石は、痛いほどに冷たかった。


「……忘れて、しまったのか?」


 アメリアの沈黙を、マスターはそう受け取ったらしい。絶望したように目が見開かれる。悲しみと怒り、困惑と驚愕、他にもありとあらゆる感情を渦巻かせ、その瞳は、漆黒の混沌へと沈んでいく。


 違う、とアメリアは反射的に叫んだ。しかし、主の心へ届くことは無かった。混乱し動揺しているのは彼も同じなのだ。感情の奔流に渦巻かれ、それでもどうにか自分の思いを伝えようと足掻いているのは、マスターとて同じなのだ。


 息を荒げさせ、悲痛なほどの震え声で、マスターは訴えかける。


「あの日、君は何を望んだ? 暖かい世界を、誰にも傷つけられることない、穏やかな世界だ。そうして私はそれを与えた。何一つ不自由なく、身を脅かされることも、寒風に打ち震えることも無い世界を。平穏が君の夢だった。ならば君は、ここに居るべきだ、どこにも行くべきでない! 違うか? 違うかッ!? アメリア=ジャスミナン!」


 激情は露わにしてもなお余りある。それを店主は作業台に打ち付けて、反動で立ち上がった。肩で息をしながら見下ろす彼の顔は、ぎりぎりと音がしそうなまでに歯を食いしばって歪んでいた。


 明快に激した主を見るのは初めてだった。だが恐怖感は薄い。正体不明の威圧に比べれば、単純明快でわかりやすいからだ。


 しかし、過ぎた熱は他所へ伝わりやすいものだ。アメリアの意志の強さも、またそれに拍車をかける。

 アメリアは膝の上に置いた手のひらを強く握りしめる。しわが寄ったスカートは、じわりと熱い汗で湿った。そして高みで見下す己の主に、半ば噛みつく様に激しく言い返した。


「違います! 私は、どこにでも行けるんです。私だって、籠の鳥なんかじゃないから。どこにも行きたがらないマスターとは、違うんです!」

「何故だ、何故自ら幸福を捨てる真似をする。何故自ら平和を壊す! 何故だッ、何故、万民が望んで手に入らなかったものを、自ら打ち捨てるのだ! わからない、わからないぞアメリア! 夢も理想もあるものか、今君が立っている場所こそが、唯一無二の君の世界だ」

「違う。世界はもっと広いのに、明るくって、素敵なのに! だけど、マスターは!」


 二人は、決して交わらない平行線を暴走していた。初めから少しずつ歩み寄っていたら、ゆるやかな曲線を描いて一つの点に辿り着けていたかもしれないが、そうするにはもはや互いに冷静を欠き過ぎていた。


 もはや意地のぶつかり合いだ。二人ともが、自らの信念を貫きたくて仕方がない。あるいは、単に怖かっただけだ、自分の信奉した幸福の偶像を失うことになるのが。

 

「君は綺麗な世界だけを知っておけばいいんだ! 知らない方が良いことなど、山のようにあるのだよ。知らなければ、存在しないのと同じだ。だから君は、この葉揺亭という世界の幸せな少女で居れば良い。私は、君を――」

「私は、マスターの人形なんかじゃない!」


 アメリアの中で何かが爆発した。怒号と共に弾かれたように立ち上がり、厳として自分の主を睨みつける。怒りで引きつった顔は、一週廻って笑っているようにも見えた。


「マスターは魔法使いだから、何でもできちゃうから、簡単ですよね、私のことを縛り付けるなんて。レインさんの人形劇と一緒、操って、幸せな風に見せかけるなんて、簡単にできちゃうんですよね。だったらもう、いっそそうしちゃえばいいんですよ!」

「やめてくれ、アメリア。私は、君にそんなこと……したくない! 僕は、いつだって、君には一人の人間として――おぞましいことを、考えさせないでくれ……!」


 悲鳴に近い嘆願をしながら、マスターは頭を抱え髪を振り乱す。


「どうしてだ、どうしてわかってくれないアメリア。僕は君を愛している、僕は君に幸せでいて欲しい。だから――それともアメリア。君は、ここに居て、幸せではなかったのか?」


 感情の嵐の去った跡、絶望の荒野に取り残されて絞り出したような、か細く儚い声だった。


 アメリアは毅然として言い放った。


「自分の幸せは、自分で決めます……! 許してくれないなら、勝手に出ていくだけですから……!」


 処刑宣告だ。マスターは息を呑み、愕然と目を見開いた。


「だめだ、アメリア、行くな!」


 痛々しいまでの叫びだった。

 マスターは焦燥にかられ、足を踏み出しアメリアへ右腕を伸ばした。しかし。


「来ないでください!」


 アメリアは、その手を振り払った。強い拒絶の意志と共に。


 弾かれ後ろに崩れながら大きく右脇をかいたマスターの右腕は、飲みかけのまま放置されていたアメリアのカップを薙ぎ払った。勢いよく弾かれたカップはしたたかに横腹を打ち、真っ二つに割れてしまった。耳障りな音が、葉揺亭を切り裂いた。


 台上に撒かれた紅茶は、やがて静かに縁に流れ、床に雫となって零れ落ちた。擦り切れた木の床は、一滴残らずそれを飲み、暗い染みへと変じさせる。


 耳が痛いほどの静寂に、アメリアは少しの冷静さを取り戻していた。いささかの罪悪感を覚えながら、湿った床と、その向こうでうなだれる店主の姿を見て、立ち尽くしていた。作業台に右肘のみを乗せ、膝をつき、俯いている。


 怒っているのか、悲しんでいるのか、顔が見えない以上アメリアに彼の心情を読み取ることはできなかった。ただ、ひどく傷ついているのだけは一目瞭然だった。

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※本作品を再構成・加筆修正を行った新版を2023年に公開はじめました。順次掲載していきます。  ストーリーは大きくは変わっておりませんが、現在本作品をお読みの方はぜひ新版をご覧ください  https://ncode.syosetu.com/n9553hz/ またはマイページから
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