去りゆくあなたへ ―後―
ふっと笑いながら、ヴィクターは火打ち器を再度取り出した。
かちりと音が鳴って現れた小さな炎は、瞬く間に握りこぶし大に育ち、更に人の形へと生まれ変わる。揺らめき佇む真っ赤な影は、足元までをすっぽり覆うローブを纏った人間のものだ。
教会で見た使徒たちの像、人形師レインの繰る魔法使いの人形、いろいろなものが想起されるが、最も正答に近くあるのがマスターの外出時の姿だろう。数度しか見たことが無くとも、あの真っ白のフード付きローブを着込んだ姿は記憶に焼き付いて離れない。
「そんなに長い時間一緒に居たわけじゃないが、『葉揺亭のマスター』でないあの人の顔は良く知っている。……だが、別に俺は昔話をしたいわけじゃない。ただ、あれを知っている人間として、警告したいだけだ」
燃え上がる灼熱の影に、ぽっかりと眼窩が開いた。二つの小さな無彩色の眼が、アメリアのことを注視する。ただの模造品であるはずなのに、本当に視られているかのようで居心地が悪い。黒は、マスターの目の色と同じだ。
「怖いぞ、あの人は。まるきり底が見えん、真っ暗だ。俺が知ってるのだって、きっとほんの表面だけだ。俺にとっての数年なんて、あの人の人生にとっちゃ一瞬のことだろうからな」
ヴィクターの記憶に焼き付くその者は、永劫に燃え盛る炎のようだった。いつ灯ったものかもわからない、いつ衰えるかもわからない。何を思いどう手を広げていくのかまったく読めず、下手に近寄れば逆に飲み込まれる。つかみどころはなく、理解しようがない。
「神様だなんては言いたかないが……万能で超級の古くさい魔法使いであるのは事実だ。いつもの優しい仮面がはぎ取られた時に出てくるのは、そういう化け物染みた人間だぜ、アメリアちゃん。覚えておくんだ」
たたずんでいた紅蓮の人影が、目をいからせながら天を衝く様に巨大化する。顔を打つ熱さに、アメリアは反射的に身をのけぞらせた。
燃え上がった炎は、その威容をアメリアの眼に焼き付けた後、消し去られる。戻って来たものは、静寂だ。
きゅう、とアメリアはうめいた。
「だけど、そんなの、私にどうしようもないじゃないですか」
「その通り。だから必死で普通の亭主の姿を取り繕っている。君に嫌われたくも、おそれられたくもない、ただそれだけのために」
「私のため? 馬鹿みたい。普通じゃないのなんて、とっくにわかってます。素直に教えてくれたっていいのに」
「あの人も、だいぶ怪しいが……やっぱり人間で、男なんだよ。かわいい子の前じゃいい格好したいものさ」
ははっとヴィクターは乾いた笑い声を上げた。それから少し瞼を落とし、しみじみとした情感を込めて語る。
「……あの人もなあ、大馬鹿なんだよ。君が居なくなったら終わりだって、本気で思ってるんだぜ。そんなわけないのにさ。アメリアちゃんが来る前から、あんだけ目ぇ輝かせて、楽しそうにやってたのに」
「そうなんですか?」
「ああ。だってほら、君が来る前から、葉揺亭ってあったわけだ」
そうだ。アメリアが拾われた時には、もうマスターは今のマスターであったのだ。あの運命の日以前にも、葉揺亭という喫茶店は、一人の亭主と共に日常を刻んでいたに決まっている。
実際、それより前からの馴染みの客もわずかながら居た。かのオーベルだって、よく思い出してみれば、初対面の時にはもう「常連だ」と教えられた記憶がある。
アメリアは脱力するように天井を仰いだ。――だったら、もう、良いではないか。仮に自分が居なくなっても、また当時に戻るだけ。もちろん、多少寂しくはなるかもしれないけれど、それだけだ。
「だけど、こういうのを言うと、まーた機嫌悪くするんだよ」
「それですよ、すぐ拗ねるんですもの。もう、マスター面倒くさい! わがままだし、子どもみたい」
「ハハッ、なんだ、よくわかってるじゃないか」
「だって私、マスターの一番近くにずっといたんですよ?」
アメリアは悪戯っぽく笑った。葉揺亭に来てからは、ずっとマスターにべったりだった。
だから知っている。マスターという人が、老翁のように深く広い知識を持ち、驚くほど器用で何でもこなし、人の悩みや迷いに手を差し伸べ、時には魔法の茶をも煎じる。どこまで本気かわからない冗談を嘯き人を困らせ、しかし他人の冗談には露骨に顔をしかめる。ヴィクターに語られるまでもない、アメリアのよく知るマスターだって、彼が恐れるそれと大して変わらない狂気染みた人物だと。
そんな店主を心の底から慕い、実の親のように仰ぎ、頼もしく思って来た。裏表がどうであれ、アメリアにとっては『優しくてかっこよくて何でも知ってる完璧な葉揺亭のマスター』である事実は揺らがない。
わかっていないのは、マスターの方だ。夢から覚めるに怯えるがあまり、歪んだ妄執に囚われている。
「厄介極まりないが、あの人が君のことを愛しているのは嘘じゃない。離れていこうとするのなら、止めようとして当たり前だ。その時に、あの人がどこまでやるか、まるでわからん。何かとんでもないことをしでかすかもしれない。それでも、行くんだろう? 君は」
アメリアはうっすらと笑いながら頷いた。青い目の奥には、熱い火が燃えている。
「その決意を忘れるなよ。一度でも揺らいだら終わりだ、そのまま弱みをつかれて丸め込まれる」
「大丈夫です。ちゃんとお話しすれば、わかってくれるって信じてますから。だって、あんなに頭のいい人ですもの! それに私のことを愛してるっていうのなら、私の未来も大事にしてくれます、絶対」
「なるほどね。意地でも首を縦に振らせるつもり、だな」
「それでもだめなら、もう、勝手に出ていくつもりです。どうせマスター、すぐには追いかけてこられないでしょうし。そう思いません?」
ヴィクターは苦笑した。ずいぶん強気だ、見ていて気持ちが良くなるほどに。――それが逆に怖い。
だがもはや、彼女にかける言葉は思いつかない。何を言っても曲げやしないだろうし、あの男に対する信奉も揺らぐことは無いだろう。そんな浅い絆ではないのだ、この二人は。
「アメリアちゃんがそこまで言うなら、もう俺は何も言わん。思うようにやってみな」
頑張ります、とアメリアは胸の前で拳を握った。
不意にヴィクターが前を留めていた外套を開き、隙間から背中に手を回す。もぞもぞと身動きさせるのを、アメリアは怪訝な顔で見ていた。
やがて、がちゃりと何かが外れるような音がすると、ヴィクターは眉を上げた。
「俺からの餞別だ、もらっておいてくれ」
ごとりという重い音を共にしてテーブルの上に置かれたのは、鞘に納められた一振りのダガーだった。流麗な曲線を描く銀の鍔は、装飾品の趣も強い。しかしこの男が隠し持っていたということは、実用に耐えうるものであることは明らかだ。もちろん、料理に使うナイフなどでなく。
ヴィクターが机上に置いたまま、静かに鞘を抜いて見せる。銀色の刃が冷たい輝きと共に顔を出した。
目を丸くするアメリアの背中を氷が這う。顔を青くして、無意識の中で唇が震えていた。
「名うての悪の血を吸って来た一級品だ。特殊な金属だから、見た目より軽くて――」
「ま、ま、ま、まさか! これでマスターのこと……!」
「許してくれないなら、殺してでも出ていく。いやいや、それは駄目だ、最悪だ! 君はこっち側にきちゃ、絶対だめだ。俺は別に、そう言うことを。言ってるんじゃあない。そいつはお守り代わりだ、あくまでも、非常事態の時の! ……だからレディ・バーン、あんたも引っ込みやがれってんだ!」
激しく語気を荒げた言葉は、後半はカウンターの向こうに居るバーンへ向いていた。
傭兵上がりの女主人は、今にも客席側へ飛び込んで来そうな風にカウンターに足をかけていた。侮蔑と憤怒を滲ませ、手には料理の仕込みに使っていたナイフを構えている。袖がまくられ露わになった腕には、引き締まった筋肉が盛られていた。
ぎらりと鈍る刃は、少女の悲壮な視線は、一人の男に結ばれて逸れることは無い。
どこか苛立たしげな息を吐きつつ、ヴィクターは弁明する。
「だから、何回も言うけど、あの人が何を考えどうするのかが全くわかんないんだって! まさかアメリアちゃんに手を上げることも無いと思うが、絶対とも言い切れん。警戒くらいしてなきゃだめだ! 死んじまったら、進むも戻るも無くなっちまう! ほんとうに、それだけは……それだけは避けなきゃならんだろ……」
搾りだされた声は、悲痛に満ちたものだった。バーンは何も言わず、どこか憐れむような目を向けてから、元の仕事に戻った。
白い顔のまま呆然としているアメリアに、ヴィクターは弱々しく笑いかける。
「だから気をつけな、アメリアちゃん。何より自分の命が大事だ。ちょっとでもやばいと思ったら、そいつで刺してでも逃げるんだ。なあに、おたくのマスターはそのくらいじゃ死にはせんよ」
「だからって……マスターだって、人間です……。そんなことしたら……」
「実際死ななかったから、問題ないって。少なくとも、油被せられて火だるまになったくらいじゃ、平気で笑ってた」
「火だるま……」
「ぞっとするだろ? 本気で狂ってるんじゃないかと思った。だから俺は敵にしたくないんだ、もうあんなおっそろしいもん見てたまるか」
「あの、まさかヴィクターさん、それ自分が――」
ヴィクターは慌てて口をつぐみ、ごまかすように目を宙に向けた。
が、今更だ。呆れたとばかりにアメリアは口をあんぐりさせた。
ひどい、あり得ない、師匠じゃないのか。少女がまくしたてる非難の声に、両手を高く上げて白旗を振り振り、殺し屋の男は言い訳がましく言葉を連ねる。
「餓鬼ん時は今より輪をかけて糞ったれだったからな、俺は。もちろん、『何人か教えて来たが、反抗心だけは一番だ』ってあの人にも散々に言われたさ。おまけに出来も悪いと来たもんだから、どうしようもない」
不肖の弟子だ、彼の高名に泥を塗るような。その自覚があって、ヴィクターはあまり「師匠」と呼んだことは無い。慕っていないのではなく、申し訳ないから。恐怖の存在のように散々語って聞かせたのも、それが彼なりに見た事実であり、なおかつ、言葉尽しても足りない畏怖の象徴であるゆえに。
だけど、と彼は顔を困ったように綻ばせながら言った。
「結局あの人はどこまでも優しいんだ。今でも俺を迎えてくれる。……だから、まるで頭上がらんわけだ。褒められた方向じゃないかもしれんが、生きる手段と道とを示してくれたのも、全部あの人だ。俺に帰れる場所があるとしたら……あそこだけなんだ。だから俺は、本当は、君だけじゃなくて、あの人も笑って居られるような結末になってほしいと思っている。高望みだと、わかってるんだが」
アメリアの幸福は前提条件だ。彼女が笑わなければ、あの店主は笑わない。彼女に不幸が訪れるなら、それこそ、何もかもかなぐり捨て、世界の全てを敵に回してでも、手を尽くすだろう。
だからアメリアの未来が尊重された上で、マスターが悲しまないで済む選択肢が欲しい。
「それは、私も同じですよ」
さよならを伝えて、笑って見送ってくれたら、それが一番良い結末だ。
にわかに他の客が入ってきたのを機として、アメリアたちはバーンの酒場を出た。話は一通り済んだのだから、ちょうど良いと。
空は既に紫色に染まっていた。東には白い満月が顔を出し、そして西には亡霊のように浮かぶ紅い月が。向かう方向に浮かぶ紅月は、どこかうすら寒いものに感じ、アメリアは努めて空を見ないようにした。
葉揺亭に帰りつくころには、夜の帳が完全に降りるだろう。町は寝静まり、光に当たれぬものが動き出す、そんな時分。だからなのか、アメリアの隣を歩くヴィクターの背筋は、いつもよりしゃきっと伸びている気がする。
抱えたアメリアの宝箱からは、少女の歩調に合わせ、かさりかさりと音が鳴る。紙包みのステンドグラスクッキーが揺れ動いているせいだ。砕けているかどうなのかは、家に帰って箱を開けるまでわからない。
そして中身はもう一つ、銀のダガーも納められていた。何度いらないと言っても、ヴィクターが聞かなかったのである。対角線を結んでつっかえるようにだが、ぴたりと箱に収まってしまったのが、運の尽きだったかもしれない。
一応、武器として以外にも、純粋に価値のあるものらしい。最後は売って路銀の足しにすればいいと、まるで本物の宝箱を仕立てたようにヴィクターは笑っていた。
「それで、君はどこに行くんだ?」
「まだ決めてません。でも、海が見たいなって」
「じゃあ、北か東だな。北に進めば街道の終着点が大きな港町、乗合の長距離馬車を継いで行けるから道は楽だ。東の果てなら、そこからさらに方々の漁村へ向かう道が伸びる。かなり長い旅になるが、いい経験にはなるだろうな」
穏やかな話をしながら、歩き慣れたノスカリアの街を横切る。アメリアの歩調は、何となくゆっくりだった。
ヴィクターはどこへ行くのだろうか。そう尋ねたら、返ってきた言葉はただ「南だ」と一言だけ。
南にも色々ある。河岸の村、古城の町、鉱山の都市、そして高く連なる山の向こうまで行けば、混沌に沈む紛争地域が。
その先は、アメリアは聞かなかった。彼の歩む道の果ては、興味本位で覗くべきではないと直感したから。
刻一刻と夜が降りて来る。他愛の無い話をして、残された時は過ぎていく。遅くとも歩みは止まらない、気が付けば、葉揺亭のある路地に続く十字路に立っていた。
アメリアは黒い影の男を見上げた。明るい月の光を背負い、ヴィクターは毒気の無い顔で微笑んでいる。
「じゃあアメリアちゃん、さよならだ。次に会うのは……いつどこかねえ」
「わからないです。でも、いつかまた、きっとどこかで」
「ああ。じゃあ、元気でな。幸せに、暮らせよ」
ヴィクターは最後に手を振ると、外套を翻して去っていった。
彼の後姿は、南の夜闇へと消えていく。その小さくなる背に向かって、アメリアは深く深く頭を垂れた。葉揺亭の店員として彼に捧ぐ最後の礼と見送りは、その姿が見えなくなるまで、丁重に行われたのだった。
葉揺亭の扉を開けたアメリアは、間髪の隙も無いマスターの声に迎えられた。弾かれた様に立ち上がりながら、早口でまくしたてる。怒っているというよりは、不安げな色が強い。
「ああ、アメリア! 遅かったじゃないか、どこに行ってたんだ。暗くなると、怖い人もたくさん歩くようになるから――」
「心配しないでください、ヴィクターさんとちょっとお喋りしてただけです。ちゃんと、近くまで送ってもらいましたよ?」
知人の名が途端に、マスターはぷつんと糸が切れたように動きを止め、そのまま元通りすとんと腰を降ろした。その顔に、葉揺亭の主らしい穏やかな微笑みが戻ってくる。
「なんだ、本当に会いに行ってたのか。……また遠出するって言ってただろう」
「ええ。だからお別れのあいさつしてきました。これで最後かもしれないからって」
「今生の別れというわけでもないだろうに、大げさだなあ。しぶとさだけが取り柄のような奴が、そうそう簡単に死ぬもんか」
からからと笑いながらの言葉には、アメリアはあいまいな微笑みのみで返答した。
そのまま自室に戻ろうとしてマスターの後ろを横切ったところで、思わず足が止まった。
「なんか、おいしそうなもの飲んでますね」
マスターの前に置かれた白いティーカップには、葡萄色の液体が湯気を立てている。そして目についたのは、対流できらめく銀粉のようなもの。
しかし、それを見つけられた途端、彼は少し困ったように肩をすくめた。
「うん、美味しいよ。でも、アメリアにはちょっと強烈すぎるかな」
「また魔法のお茶ですか」
「鋭いね、その通りだ。だから、止めておきなさい」
「匂いだけでも……」
「しょうがないなあ」
マスターがカップを手に取って、アメリアの鼻先に突き出した。
思いもよらず甘やかな香りだった。花開き始めた薔薇の薗に居るかのような感覚になる。華々しくも、穏やかで心地よい。
そして、すうっと感情の波が引いていく気すらした。わずかなさざめきもない、無音無風の世界にとりこまれてしまったように。心が凪いで、何も考えられなくなって――。
カップが引いていけば、あっという間に目が覚める。
「今の……びっくりしました」
「気がそぞろでどうしようもない時には、これが良く効くんだ」
「味は……?」
「ひんやり」
「えっ!?」
アメリアはティーカップを二度見した。間違いなく湯気を上せているし、先ほども顔を打つ熱気があった。
マスターは不敵に笑むと、例の魔法の引き出しに向かい、一つの瓶を取り出した。
中に入っているのは、白銀の砂。カップの中で舞っている物に違いない。
マスターは器用に匙の先で三粒ほどすくうと、それを新しいカップに入れて、上から一口分の白湯を注ぐ。それがアメリアに手渡された。
もうもうと立ち込める蒸気を払うように、アメリアは何度も息を吹きかけた。酸欠でくらくらする、しかし、どれだけ顔を近づけても、さっきのように変に心静まることなどはなかった。
唇を先に触れさせて、喉を焼かないことを確認してから、アメリアは白湯を一息に飲んだ。
「あっ、すーすーする。熱いのに、冷たい。氷みたい」
「『月影の雫』、生き物の熱を吸いとる不思議な鉱石だ。十分吸ったら塵になるけど、しばらく体に残るから、摂りすぎると寒くて眠れなくなるよ」
「先に言ってください!」
「それくらいなら問題ない。僕が間違ったことをすると思うかい?」
アメリアはだるそうに首を横に振った。
改めて自室に行こうとすると、再度、名を呼び止められる。
「ところで、赤、と言ったら君は一体何を思うだろうか」
唐突な謎かけだ。だが考えるまでも無く、アメリアは即答していた。
「火」
「ははっ、なるほどね。それはいい、すごくいい。火炎は文明の礎だ、燃え盛る命の象徴だ。暗きを照らし、寒きを温め、不浄を焼く。使い方さえ誤らなければ、実に良いものだ。……が、『そこ』にはちょっと入れられないかな」
そこ、とマスターが指さしたのは、作業台の下の小さな冷蔵庫であった。なるほど、確かにここに炎は最悪の取り合わせだ。
答え合わせをするように、アメリアはしゃがんで黒い扉を開いた。そして、間髪入れずに歓喜の声を上げる。
そこに、くつくつと笑うマスターの声が混ざった。
「君の好きな、真っ赤なイチゴのタルトだ。食事のあとでも、今でも、好きな時に食べるといい」
「マスターが作ってくれたんですか!?」
自分は食べないのに、という余計な修飾辞は、心の中で響かせるにとどめおく。
さて、タルトは実においしそうだった。手のひら二つほどの大きさの生地の上に、薄黄色のクリマが塗られ、さらにその上にイチゴが敷き詰められている。シロップが塗られているのだろうか、宝石のように艶やかだった。変な話だが、本当に食べられるものかと疑ってしまうほどに。
こんなもの、食べるのがもったいない。しかも何でもない今日みたいな日。本当に良いのか、ひどく手間だったはず。アメリアが興奮気味に問いかけると、マスターは首を縦に振った。
「いいんだよ、ちょっとした暇つぶしだ。君が居ない上にやることも無い、そんな時間が続けば、僕は死んでしまうからね」
裏の無い言葉だろうが、隠し事を抱えるアメリアの心には、ダガーのように突き刺さった。
荷物だけ置いて、アメリアはすぐにタルトを食べるべく舞い戻った。もちろん、紅茶もつけて。
一人で平らげるには、いささか大きめだ。ナイフで半分に切って、残りはまた明日の朝。一応マスターに食べるかと聞きはしたが、返事はわかりきっていた。亭主は、甘い菓子が苦手なのである。
幸せだった。甘味と紅茶、しかもどちらも絶品で、なおかつ愛が詰まっている。これで顔を惚けさせるなと言う方が無理だ。アメリアの頬は、溶けて落ちそうになっている。
頬杖をついてそれを眺めるマスターも、満ち足りた笑顔を浮かべていた。
かちり、と時計の針が鳴った後、不意にマスターが呟いた。
「……ねえ、アメリア。僕、何かしたかな」
「どっ、どうしたんですか急に」
「いや、君が今日も居なかっただろ? そしたらヴィクターが、僕が何かしたから避けられてるんじゃないかって言うんだ。だから……」
「いえ、マスターは、何も」
「そうか、それならいいんだ。ほんとに、ほんとに何もしてないよね?」
「え、ええ……」
事情を知らない亭主は、すっかり安堵したようだった。切れ長の目が、緩やかな山を描く。その姿に針でつつかれる気分を覚えつつ、アメリアはタルトを頬張っていた。
「ただ、強いて言うならですけど。もうちょっと甘い方がよかったです、これ、タルトの部分」
「それは……うん、善処しよう」
あまり真面目腐って言うものだから、アメリアは吹き出してしまった。一度切れた笑いの堰は、もう激流となって周りを巻き込み流れるがままだ。
夜に浮かぶ葉揺亭には、二人分の明るい笑い声が、幾度となく響き渡った。時計の針の音など、簡単にかき消されてしまう程に。
しかし。
見て見ぬふりをしても、刻む音に耳を閉ざしても、時間の流れは止まらない。戻りたいと思っても、立ち止まりたいと思っても、進むことしかできないのだ。道の果て、待ち受ける未来に向かって。
葉揺亭 秘密の魔法茶
「待宵の紫光」
紫色をして月星のような銀の粒が舞う魔法薬。待ち人が来ない宵の夜空を想起させる色合いだ。
複数の材料を調合することで、非常に強力な精神安定効果をもたらす。
爆発しそうな苛立ちを抑えるのにぴったり。
「月影の雫」の力で、熱いのに冷たいという不思議な仕上がり。




