去りゆくあなたへ ―前―
しまったなあ、とアメリアは心の中で呟いた。耳からはありがたい説法の声が入って来るが、頭には欠片も残らないでするするっと抜けていく。
彼女はルクノラムの教会に居た。なんでも記念日の特別な説教があり、広く人を集めているとの噂を聞いたから。葉揺亭の主とは違い、それなりにルクノール神を仰ぐ気持ちは持ち合わせている。しかし教会にきちんと足を踏み入れたことは今までなかった。これぞせっかくの機会、そう思ってやってきた。
礼参者にはお菓子が配られるとの情報も先に聞いていたが、別にそれにつられたわけではない、と自分では思っている。
ちなみにマスターにはきちんと夕方まで留守にすることは伝えた、外出の目的ももちろん含めて。教会の名を出した折には、彼は難しい顔をしていたが。
『あんな連中の話より、僕の方がずっと面白くってためになる話をできる。あんなの、どうせあることないこと喋って、いたいけな民衆に不安を抱かせるだけのものだ。ああ、アメリア、そんなところ行かなくていい、僕の傍に居てくれ。そのほうがよっぽど君のためだよ』
拗ねたようにそんなことを言ってきた主はなんとかなだめて、町の工芸師に注文しておいた宝箱の受け取りを大義名分に出て来た。
……のだったが。今回ばかりはマスターの言う通りだったと後悔している。
司教の話がおもしろくない。それ以前の問題として、教会の風景と自体がさほど楽しくないのだ。閃光走る空の天井画を始め、複数の絵画で彩られた明るい聖堂には、初め心躍った。しかし信仰心薄き心に浮いた感動など、「綺麗」という単純なもの一つ、そんなもの一瞬に過ぎ去った。
そしてなにより、視界の黒さが心を滅入らせる。ルクノラムの信徒たちは神と同じく黒衣を纏うから、教会の中は色のない色で埋め尽くされていた。アメリアが陣取ったのは中ほどの座席だが、前の聴衆たちも、粛々とありがたい言葉を繋ぐ司教も、皆が揃って真っ黒、普通の服を着ているのが逆に浮いて見える。
さらに司教のやたら重苦しい物言いが空気を余計に暗くしていた。
小難しい話をこねくり回して喋る、それ自体はマスターとそう変わらないのに、葉揺亭とは全然違うではないか。
「マスターって、やっぱりすごいんだわ」
こそこそと独りごちて、ふうと甘い息を吐く。もらったお菓子はとっくに食べてしまった。分厚いひし形のクッキーを、円形に型抜いて、そこに虹色の飴を流し込んだ、ステンドグラスのように美しいお菓子だった。それに釣られたわけではなかったはずなのに、今となっては唯一の成果である。
しかし、もらうなり口に入れてしまったことは後悔している。喉が渇いてしかたないし、甘い物には紅茶もやっぱり欲しかった。今も後味が尾を引いて、欲求を際立たせて来る。
きっとどこかで司教の話も途切れるだろう。そうしたら、葉揺亭に退散だ。アメリアは肘をつきながら思うのだった。
「――して、我らが神は大きく嘆き、悲しみ、怒り。邪悪なる王をイオニアンより永久に追放しました。されど、心優しき神は――」
アメリアの期待もよそに、話が終わる気配は無い。くあ、と彼女は隠すことなく大きなあくびをした。隣に居た黒服の女が睨みつけてきたが、構うものか。
いよいよ座っているのも飽きた。しかし、勝手に出て行ってもいいものなのだろうか。人が入って来ることはあれど出ていく様子は見られない、それが信仰ゆえのものなのか、それとも決まりなのか、判別がつかないのだ。
である以上、諦めて大人しくしておいた方がよいだろう。ぼんやりとした眼が閉じないように苦心しながら、アメリアは身振り手振りを交える司教の方を注視しているポーズをとった。
司教の背後には白い石を丹念に細工した祭壇がある。中央の最も高い場所には、人の姿をしたルクノールの彫像があった。万物を受け止めるように腕を少し広げ、目を伏せ微笑んでいる姿、まさに下天を見守る神たる存在と言って過言ではない。中性的な風貌なのも神秘性に一役買っている。
その主神の足下、両脇を固めるように二人居て、さらに下段に四人の像がある。あれらはルクノールの使徒たちだ。実際には九人居るはずだが、ここには六人分しか像が無い。おまけ上段の二人特別扱いされている。さしずめ使徒たちの中にも格があって、不平等に扱われるということか。何とも世知辛いことである。
「――しかし神が最も喜んだのは、第一使徒アルヴァイスの帰還でした。神は――」
刹那、アメリアの肩がびくりと跳ねた。忍び寄っていた睡魔も裸足で逃げ出し、頭と視界が澄み渡る。――アルヴァイス、その名前は記憶に刻み込まれている。
真っ先に立ち昇るのは妖しく笑むマスターの姿。やや遅れて、一季分ほど前の思い出が追ってくる。そう、魔法屋・クシネがノスカリアを去ったあの日のことだ。
あの時、マスターを問い詰めるように彼女はこう言った。
『遥か古き神代から、永久の時を過ごして来た。あなたはそうなのでしょう? ねえ、アルヴァイス様。神に寄り添う、神に等しきお方』
それに際したマスターの動揺っぷりはよく覚えている。後ほどやんわり否定したものの、あれは本当に的外れだったのだろうか。あるいは、瀟洒な店主のこと、平然とした顔で嘘をついたのかもしれない。
自分にとってマスターはマスターだ、それは揺るぎようのない事実である。名前も知っている、サベオル=アルクスローザと。
しかし、なかなかどうして、もしものことを考えると、ぞくりとする。
アメリアは始めて司教の話にまともに耳を傾けた。しかし、過去に意識を向けている間に別の話になってしまったらしく、聞きたい名前は全く出てこなかった。
やがて柱時計の鐘が聖堂に響き渡った。午後の休息時を告げる音色だ。
「――では、時が地平に寄り添うまでを休息としましょう。我らが神の慈悲に感謝を」
感謝を、と信徒たちが復唱する。周りが胸に手をやり一斉に頭を垂れるから、アメリアは慌てて真似をした。
にわかに音声がさざめく中で、アメリアは取りも直さずぐっと腕を伸ばした。あの厳格な空気からようやく解放され、気分も瞬く間に晴れやかになる。ちょうどいいタイミングだ、こっそり抜け出して家に帰ろう。
だけどその前に、一つだけ確かめたいことがあった。ちょうど胸に収まるくらいの空箱を両手で抱え持ち、そろそろと祭壇の方へ向かったのである。
黒服の信者たちが集まって、休息時間をも使って神の像に祈りを捧げる祭壇の前。アメリアはその隣にお邪魔すると、使徒たちの顔をしげしげと見比べていた。
六人の内、どれがアルヴァイスの像なのか。第一使徒という言い方は少し偉そうに聞こえるから、上に居る二人のどちらかだろうか。
「……似てない」
上段の像は二人とも男性である。いずれも立派な髭を蓄えた、精悍かつ堅い顔つきに彫られている。細くて小奇麗なマスターとは似ても似つかない。
あるいは下段の四人は。そう思って目を動かすも、こちらも同様だった。うち二人は女性だし、男の片方は子ども、もう片方は筋骨隆々とした風体だ。ひいき目に見ても特徴が当てはまらない。
詮索をするアメリアの姿は、事情を知らぬ者からすれば、さぞ信仰深い風に捉えられる。司教自ら「お嬢さん」と声をかけさせるほどに。
「もし、祈りの言葉を忘れたならば、こちらを」
「あっ、いえ、ごめんなさい。私、そういうわけじゃなくて、ちょっとだけ確かめたいことが」
差し出された布教用の薄い教本を断るため、肘で抱きこむように箱を抱え、アメリアはあわあわと手を振った。
確かめたいこと、と白髪交じりの司教が不思議そうに首をかしげる。
いっそ思い切って聞いてみよう、とアメリアは率直に尋ねた。
「あの、アルヴァイス様の像はどれですか」
「当然あちらでございます。使徒アルヴァイスは神の右手として、使徒エルジュは左手として、我らが神の命じた御役目に従いた高使徒のことは、偶像に置きましてもそれに習いた座につけるのがしきたりでございます」
司教は尊敬のまなざしと共に、向かって左側の男の像を掌を向けて示した。
となると、最初の考えが正しかったことになる。そして、マスターがアルヴァイスではないということにもなる。安心したような、少し残念だったような、複雑だ。
ものはついでだ、アメリアは気になっていたことを続けて聞いてみた。
「お二人だけ上に居るのは、やっぱりすごいからなんですか」
「もちろん。アルヴァイス様とエルジュ様はまさしく神の代行者、ルクノール様の寵愛も格段だったと伝えられております。特に、アルヴァイス様が異界より帰還した際には、神はあふるる歓喜の涙でイオニアンの全ての罪を洗い流したと」
「えーっと……じゃあ、この世界に戻ってきたということは、アルヴァイス様は今もどこかにいらっしゃるんですね」
「ええ、天上にてルクノール様と共に我々を見守っていて下さいます。祈りを捧げ、正しき行いをすれば、魂が天に召された時、御傍に招いてくださるでしょう」
そういう意味じゃないのだけど、と思わず出かけた本音は飲み込んだ。
「それなら、たまに天上から遊びに降りて来たり……とか、しちゃうんですか?」
「あり得ませぬ、遊興にうつつを抜かすような方ではございません」
「あ、ははは……ですよね、冗談です」
「が、使徒として地上に降り立ち、我々イオニアンの民を教え導いてくださることはあります」
「えっ!?」
「大いなる苦難や災厄が訪れた暁には、使徒は神より地に遣わされ、我らを救いたもうのです。先の不夜祭の事は個存知でしょう? 使徒どころではなく、ルクノール様自らが顕現なされた。あれは類まれなること、我らの祈り願いが届き、全ての敵が打ち払われ、イオニアンが真の楽園へと導かれる日も近いでしょう!」
語る司教は息も荒く、目はらんらんと輝いている。
しまった、とアメリアは思った。これは話が長くなる、マスターが聞き手のことなどお構いなしに持論を展開するときと同じ顔つきだ。
「えっと、ごめんなさい、私、この後用事があるので!」
アメリアは愛想笑いを浮かべ、回れ右して逃げ出した。説教はもうたくさん、続きを聞くなら自分の主からの方がずっといい。
早足で聖堂の真ん中を突っ切る。さすがの司教も追いすがってまで布教してはこなかった。あるいは、単にもうすぐ休息が終わるからかもしれない。
ふう、とアメリアは息を吐いた。間一髪、といったところだろうか。
ただ、疑惑に白黒つけることは結局できなかった。もしもアルヴァイスなる人物が天上から降りてきているのだとしたら? あの像の顔にしても、そもそも彫刻師は一体何を手本にしたのか。そういう姿だと伝わっているのか、完全に想像を具現化させたものなのか。それに、姿かたちを変えていたって不思議ではない、魔法使いなのだから。
むしろ、クシネが真実を言い当てていた方がが符号がいってしまうのだ。魔法に詳しいのも、古い時代を見て来たように知っているのも。神としてのルクノールを執拗に否定するのも、自分の師匠としてその人物の本性を知っているからだと考えれば腑に落ちる。それはそれで、無礼なことに変わりはないが、さておき。
何にせよ真実はまさに神のみぞ知るというところ。どう考えても、マスター自身が明かしてくれるとは思えない。
ただ一つ、アメリアにとって揺るぎがないのは、葉揺亭のサベオル=アルクスローザなる人物が、自分にとってのかけがえのない人であるという事実だ。
それで十分、アメリアは一人頷いた。
それに、今更知ったところでどうなるというのか、日常の何が変わるというのか。もうすぐ自分は旅立ってしまうつもりなのに。
「――楽しかったかい、アメリアちゃん」
「……え?」
軽妙な調子で不意を突かれ、アメリアはぴたと足を止めた。久しぶりではあるが耳に馴染みのある男の声、発生の源を振りかえる。
並ぶ長椅子の最後列、出入り口に一番近い場所に、その男は居た。ヴィクター=ヘイル、さすらいの殺し屋の青年は、アメリアに向かって手を挙げ存在を示している。
はて、彼は教会に説法を聞きにくるような男だったか。風景に似合った黒い外套を着ているが、それは教徒たちの簡素な衣とは異質なものだ。寄せる物を拒み本音を覆い隠すように。
理由はともあれ、葉揺亭の顔馴染みである、それだけで破顔するのには十分だった。
「ヴィクターさん! お久しぶりですね、もうノスカリアに居ないと思ってました。黙って居なくなっちゃったのかなって」
「アメリアちゃんを寂しがらせるつもりはなかったが、俺も色々あってご無沙汰だったのさ。ま、結局今日発つから、同じかな」
「あっ……そうなんですね……」
「そうそう。だから、最後にアメリアちゃんの顔を見ておきたいなーって。あの人がここに居るっていうから、来ちゃった」
にやりと口角を上げながら、ヴィクターは弾みをつけて立ち上がる。どこからともなく、金属がこすれ合う音がかすかにした。
「最後にまともに喋ったのが、あの馬鹿みたいにめんどくさい人だってのはごめんだ。やっぱり、女神様のとびっきりの笑顔に見送られたいよなあ」
「うふふ、ありがとうございます」
「ついでにキスの一つでもしてくれたら最高なんだけど、どうだアメリアちゃん」
「えっ、え!?」
にわかに顔を赤くしてうろたえるさまを見て、ヴィクターはからからと笑った。
「冗談だ。そんなことしたら、あのやきもち焼きの店主殿に消し炭にされる」
「あは、あはは……ほんとですよ。じっくりこんがり焼かれちゃいます、きっと」
干上がった口でアメリアは力なく笑った。冗談だと言う割に、ヴィクターが少し残念そうな色を滲ませているのは、気づかなかったことにした。
「でも、そうだったんですね。てっきり司教さまのお話を聞きに来たのかと思いました」
「なあ、アメリアちゃん、俺にそんな信仰心あると思うかい?」
「全然」
「その通り。神様なんてくそくらえ、って今でも思ってるさ」
その言葉と同時に、二人の周りが冷や水を浴びせたように静まり返った。遅れて、刺々しい視線が向かってくる。
失言極まりない。ヴィクターは額を打つと、それから両手を掲げ気味に言った。
「まあ、誰が何を信じるかってのは自由だぜ。……よしアメリアちゃん、外に出ようか」
冷や汗流れる小さな背中がヴィクターの手によって押される。怒りにも近い咎めるような視線と、休息を終えた司教の咳払いに追いやられ、二人仲良く教会を後にした。
ひとまず建物の横に退避して、壁にもたれながら揃って胸をなでおろした。
「いやー、参った。死ぬかと思ったね」
「あれはないですよ」
「つい、うっかり。……ごめんな、アメリアちゃん。俺はどうなろうが平気だが、君が因縁つけられるようなことになっちゃあ良くないな。ま、そうなったらマスターに守ってもらってくれ」
「うーん……教会の人って、マスターとも喧嘩しそうですけど」
「違いない。でもあの人なら大丈夫、下手に噛みついてみろ、並の人間じゃ裸足で逃げ出すことになるさ」
「そうですね、なんだかわかります」
舌戦でマスターに勝てる相手などまずいない。アメリアやヴィクターだけでなく、葉揺亭に来る皆の間で共通認識になっている。虚を一切使わず正論を重ねて武器にしてくるから、言い返す言葉が無くなるのだ。
逆に相手の正論は素直に認めるが。マスターが話相手に頭を下げていることも、アメリアは何度か見かけたことがある。ただし、一部の隙も無い正論を唱えられた時に限るが。
「あんなもん、反論すりゃするだけくたびれ損だ。適当に聞き流しときゃいいのよ。さっきのくそつまんない説教と同じでな」
「だけど司教さまのお話しに比べれば、マスターのお喋りはずっと面白いと思いますよ」
「それ、あの人に直接言ってやってくれ。喜んで喋りだすぞ、もう止まらんくらいの勢いで」
「それは……ちょっと嫌です」
迫真の言葉に、ヴィクターは腹を抱えて笑った。
笑気の一波が去ってから、ヴィクターは思い出したように外套のポケットをまさぐった。
「これ、やるよ」
ひらひらと見せつけるようにしているのは、薄紙で包装されたお菓子だった。先ほど教会で配布されたもの、「彩雲の天より神の祝福を、虹の光に依りて」と表記されている。きっと宗教的には意味のある言葉なのだろうが、そんな外装はアメリアにとってまったく無価値である。
しかし中身は大いに価値がある。アメリアの顔は太陽も恥じらうほどに輝いた。甘いステンドグラスクッキー、今度こそ紅茶を飲みながら味わえるのだから。
ヴィクターはアメリアの抱える箱の蓋を開くと、新鮮な木の臭い吹き抜ける空間に包みを忍び込ませた。宝物、たしかにそう言って過言ではない、綺麗な虹の溶けたクッキーは宝石に負けじと美しいと思うから。最初の中身がお菓子、それも自分らしいくていいじゃないかと、アメリアは含み笑いをした。
本当にもらってしまってよいのか。もう離すつもりもないが、一応、アメリアはヴィクターに念押しする。もちろんだ、と彼は首を縦に振った。
「そんな菓子より、君のその顔のが何倍も嬉しい」
言葉に嘘は無いだろう。確かに満足そうな表情、いっそ尊いものを仰ぐ崇拝者のようにすら見えた。
それからヴィクターは一呼吸おいて、柔和な面持のまま、再び口を開いた。
「それで、その代わりってわけじゃないが。アメリアちゃん、もうちょいあの人のこと相手してやってくれよ」
あの人、とはマスターのこと。はて、とアメリアは怪訝な顔をする。相手もなにも、同じ店で働く仲すら超えて、一つ屋根の下で暮らす家族のようなものだ、いつだって一緒に居るではないか。
ところが、ヴィクターは苦笑しながら、先ほど葉揺亭で仕入れて来たばかりだろう情報を露呈した。
「めちゃくちゃ寂しがってたぜ。最近は君が外をほっつき歩いてばっかで、ちっとも店に居やしないってさ。他にも色々愚痴られたし、惚気られた。まあ、あんなのの隣にずっと居りゃ、君も嫌気さして出て行きたくなるのはよーくわかるけどな」
「そんなつもりなかったんですけど……大体、マスターが過保護なんです。ちょっと出かけるだけなのに、すぐにわあわあ言って。全部言う通りにしたら、私、お人形さんみたいにしてなきゃいけない! もうっ」
「まあ、同情はするし、無理強いするつもりもないよ。でも、俺もあの人にも色々恩があるんでな、多少は顔を立ててやらんといかんわけさ。……君が気の向くぐらいで、適当に構ってやってくれ。去りゆく俺からの、ちょっとしたお願いだ」
ヴィクターは優しく微笑むと、アメリアの頭を柔らかく叩いた。それから軽くハグして、すぐに身を翻す。
「じゃあな、アメリアちゃん。また今度な」
軽く手を振りながら、男は面する広場に向かって歩き出した。真っ黒な姿はすぐに人ごみや物陰に紛れて消えるだろう。
――だめだ。アメリアは慌てて呼び止めた。去りゆくあなたへ、自分も一つ言わなければいけないことがある。もう二度と会えないかもしれないから。少女は決意を固めながら、影のような背中に追いすがった。
素直に足を止め振り返ったヴィクターは、なぜか、うきうきとしたものをまき散らしていた。期待に満ちて、何かは知らないがまんざらでもないという間抜け面で、アメリアのことを真っ直ぐに見る。
「あの、ヴィクターさん。これで最後かもしれないので――」
「そうだなあ。俺みたいなもん、いつ死んだっておかしくないからな。愛の告白なら受け取るだけ受け取るぜ」
「いえ、違います」
「あ、そう……。なんだ……今の無しね」
かっこつけていた笑みは、途端に気恥ずかしく結ばれる。空回りを責めるように、ヴィクターは自分で自分の額を叩いた。
相手が浮ついた感情に揺さぶられている間も、アメリアは真面目な表情を崩さなかった。言わなきゃ、言おう。少女は緊張する胸に、一つの呼吸の風を入れると、ついに秘めていた想いを外に放った。
「私、どこか別の場所に行こうと思って。だから、ヴィクターさんが次にお店に来るときには、私ももう居ないです」
真摯でぶれない瞳を受け止めながら、ヴィクターは愕然としていた。あんぐりと口を開けたまま石になったよう、血の気もすっかり失せたように見える。
が、にわかに腕を伸ばし、アメリアの肩を強く掴むと、息を浅くしながら言いかかった。
「ちょ、ちょっと待て。本気か? 本気で言ってんのか!?」
「ええ、もう決めました」
「それあの人――」
「マスターにはまだ。だって……」
「言えないよな。そりゃそうだ、当り前だ。聞くまでも無かった。知ってたら、あの人もあんなこと言いやしない、言えやしないだろうよ……」
ああ、と意味のない音を口から漏らしながら、ヴィクターは両手を引っ込めた。それはそのまま自分の額に向かい、髪をかき上げながら頭を抱える。ずるずると脱力したように沈みゆきながら、何度も何度も溜息が吐き出された。
そうしてうずくまった男から、悲痛にも感じられるくぐもった声が絞り出されるようにして、唇を噛みしめ佇むアメリアのもとへと届いた。
「だが、アメリアちゃん……どうすんだよ……。それ、まずいって……本気でやばいって……」
「でも、私もう決めたんです! だから、今度ちゃんとマスターとお話しして、無理やりにでも出ていくんです。それから! それから――」
「わかった、わかった! 落ち着け、な。でも……そいつは、なあ……。あー……君はいい、が……あの人、なあ……」
首を横に振りながら言いよどむ。それがアメリアをむかっとさせた。
言いたいことがあるなら、はっきり言ってほしい。マスターが壁であり枷であるのなんて、とうにわかりきっていること、今さらやいのやいの騒ぐことでもない。それでも進むと決めたのに、どうして後ろ髪を引っ張るような真似をする。
アメリアは眉をきゅっと寄せ、文句を言う姿勢を整えた。しかし。
不意に、深く深く息を吐く風が、顔を伏せたままの青年から流れ出た。明らかに気色が違う。
そこから一気に立ち上がり、ヴィクターはか弱い少女を見下ろした。調子が変わった彼に、先ほどまでの頼りない色は一切ない。
どきりとした。葉揺亭でしょっちゅう顔を合わせているが、こんな真剣な顔を見るのは初めてだったから。決して冷たくはない、が、人を怯ませるような影は感じられる。
「アメリアちゃん、ちょっと真面目に話そうか。場所変えてな」
いつもの軽薄さはどこにも無い淡泊な低い調子でつづられた言葉に、アメリアはおずおずと頷いた。
そして、先導する黒い背中を追って、アメリアは歩き出したのだった。
ノスカリア食べ物探訪
「ステンドグラスクッキー」
熱く焼いたクッキーを型抜きし、そこに砕いた色飴を入れ、溶かし固めたもの。
焼き過ぎると当然飴が焦げるので注意。
見た目が綺麗なので、祝い事の際の装飾にも使われる。
ルクノラムの教会で配るのものは飴が虹色。
これは「彩雲は神の世界への入り口、虹がかかるのはイオニアンに祝福をもたらすため」という教えに基づいたものである。




