愛のかたち
葉揺亭の常連客にジェニー=ウィーザダムという女性が居る。大商会の重鎮たる彼女は、仕事熱心で、礼儀も正しく、利のある話には目ざとい。知識も蓄えた賢女で、背筋を伸ばして歩くさまは男も顔負けの凛々しさだ。
ところが、その日姿を現したジェニーはいつもと様子が違った。こんにちはと挨拶して入ってきたまでは普段通りであるものの、その足音にはどこか浮ついた色が付いている。
そのままお決まりのテーブル席につくも、書類鞄を取り落として床に中身をばらまいて。アメリアの手助けを受けながら拾い集める様も、どこか上の空という風だった。
「どうしたんだ、ジェニー。らしくないな」
マスターが半ば呆れ口調で尋ねた。
するとジェニーは「ほんと鋭いわね」と苦笑いしてみせた。
後でちゃんと言うつもりだったと付け加えながら、彼女はすっくと立ち上がって、顔馴染みの二人に宣言する。
「結婚するの、私」
一瞬波が引いたように静まり返る。だが、すぐにアメリアの歓声が怒涛のごとく押し寄せた。
「わあっ、おめでとうございます!」
「ありがとう」
「結婚ですって、ああ、私も何かお祝いしないと!」
「気にしなくていいわよ。喜んでくれて嬉しいわ」
ジェニーがアメリアを軽く抱く。その間にも、アメリアは祝福の声を送っていた。
ところが、もう片割れの男はと言うと、口を半開きにしたままぼーっとしている。
意外だと言わんばかりの態度に、ジェニーは口をとがらせた。
「あら何。そんなに変かしら?」
「いや……てっきり君は仕事か、会長殿と添い遂げるんじゃないかと思ってたから」
「会長は今でも亡くなった奥様のこと愛してるんです、そういうのやめてちょうだい」
「そういうつもりじゃなかったんだけど……ごめん」
マスターの中では主と従という意味合いでの添い遂げという発言だったのだが、ジェニーのきつい口調の反応を見るに、かなり敏感な部分だったらしい。仕事上とは言え、かなりの長い間同伴しているわけだから、悪口にも近い噂が囁かれたこともあったのだろう。
眉目を下げながら手を合わせるマスターから、ジェニーはつんと顔を背ける。
横目で視線だけ向けて、彼女は不敵に笑った。
「あのね、私だって人並みに恋愛くらいするわ。だいたい、そのまま独りで店と心中しそうなのはマスターの方でしょ?」
「……別に、僕はそれで構わないし。アメリアが一緒に居てくれるんだからなおさら」
「私は、マスターも早く誰かと結婚すればいいのにって思いますよ?」
「え。……君の願いでもそれは……相手が、居ないし」
マスターの声はどんどん消え入る。今度は彼が顔を背ける番であった。
どうにも劣勢だと、仕切り直しに咳払いを一つ。
「ジェニー、今日の注文は任せてくれないかい? 僕からの祝福だ」
店主の提案に、ジェニーは快諾を見せてくれた。
その人に合った紅茶を、というのはなかなか難しい。しかし面白くもある。性格、行動など何を題材に合わせるかもそうだし、せっかく相手の雰囲気に合っていても、飲んで気に入ってもらえなければ本末転倒なのだから。
それでもジェニーのことは良く知っているから、マスターとしてはやりやすい方だ。
おまけに時節も良い。陽気がよくなり、色々と果実が採れるようになったところだ。今日は特に、アメリアが買いそろえて来た果実が色々と冷蔵庫に揃っている。
小さな冷蔵庫を開ければ冷気が流れ出す。その向こうに見えるのは、イチゴ、イチゴ、イチゴ――季節柄もあるし、何よりアメリアの好物だ、仕方ない。
だが一言にイチゴと言っても千差万別だ。マスターが選んだのは、暗い紫色のもの。黒イチゴと呼ばれる種類で、毒々しい色合いの見た目と裏腹に甘みが強い。アメリアが今回買って来た中だと味は一番だ。悲しいかな、当人はそれを知らず興味本位で買ったから、たった二粒しかないが。
その黒イチゴと、早なりのスグリを取り出して、マスターは冷蔵庫を閉めた。冷たい風はこの時季には必要ない、閉所でじっとしていてもらおう。
いつもみたいにポットで作るフルーツ・ティでも良いが、しっかり味を出したいから、茶葉と一緒に煮出すことにした。かといってイチゴもスグリも煮溶けやすい、そうなってしまっては台無しだ。マスターは焜炉の上の片手鍋としばらくにらめっこする。
その間にも、ジェニーとアメリアの話声が聞こえて来る。どうやらアメリアが得意の質問攻めをしているらしい。相手はどんな人なのか、いつどこで知り合ったのか、対面に座って根掘り葉掘り聞く。
耳だけをそちらに向けて知り得た情報は。まず、相手は大陸東方の名家ブルドゥールの一人息子であること。かの家は古くより葡萄酒の製造と交易で名を挙げて来た一族だとは、マスターも耳にしたことがあった。
それは耳よりな情報だと、すぐに鍋にブドウを追加する。あいにく乾燥品しか用意できないが、味はしっかりと出るから問題ない。
他にも、出会いは商談の場だったとか、葡萄畑の真ん中で婚約しただとか、なれそめが赤裸々に語られるも、それはマスターの興味の範疇ではなかった。頭の片隅には残しつつ、適当に流す。
茶の方はそろそろ完成だ。鍋の中で沸き立たない程度に煮出してきたそれを一匙味見して、会心の笑みを浮かべた。スグリ特有の苦みがいいアクセントになった、大人びた味だ。いかにもジェニーらしい。
ここにもう一つおまけしよう。不意に思いついたマスターは、保温できる程度に火を落とし、普段あまり開けない引き出しを探った。記憶を頼りに、奥に突っ込まれた紙包みを取り出す。
「あったあった」
柔らかい紙を広げると、姿を現したのは、縁のぎざぎざした木の葉であった。乾燥してやや緑色が落ちているが、形に損傷はない。
これはイレフームと呼ばれる樹木の葉だ。ジェニーのお相手が居る東の地域では、縁に触れると痛いことから、魔よけの力がある植物と信じられ、祝いごとの場に飾られる風習がある。もちろん婚礼の時にもだ。二人の縁に嫉妬した悪鬼が、不幸をもたらしに来ることがないように、と。
所違うノスカリアには無い風習であるから、せっかく持っていてもこんな時にしか出番はない。葉揺亭にはそんな物がたくさんあるのだが。
逆にこういう時に使いたいから、いろいろ取り揃えてあるのだ。そう心の中でうそぶきながら、マスターは鍋の中で出来上がった紅茶を硝子のポットに移すと、最後にとっておきのイレフームの葉を二枚浮かべた。
「おまたせ、ジェニー」
「あら、なんだかすごいのが出て来たわね」
「会心の出来だよ」
「でもマスター、見た目悪くないですか?」
アメリアが首をかしげるのも無理はない、黒イチゴや干しブドウは言わずもがな、スグリも赤黒い色の種だ。紅茶の褐色の中に、黒々とした物体が転がっている様を、素直に綺麗だと言うのは難しいだろう。イレフームの緑色があると言っても、生葉ではないからくすんでいるのが難点だ。
だが見た目でどこまで計れようか、食べ物も、人間も。いささか飲み込みづらい風体や雰囲気でも、その実とんでもない絶品であったりするものだ。
「大事なのは味だ、案外かわいらしい味がするよ。ジェニー、君みたいにね」
「もう、マスターったら。でも……案外ってのはちょっと失礼じゃない?」
「おや。だって君、商会の中じゃあ結構恐れられているそうじゃないか。僕もそれ、わからないでもないし」
「下を締めるのも仕事ですから。それにしても、一体誰に聞いたの? ここに来そうなのが思い当らないんだけど」
「僕は、アメリアから。アメリアは――まあ、いいじゃないか。さ、早速飲んでみてよ」
話してばかりいるとお茶が冷めてしまう、マスターはジェニーを急かした。
とはいえ、言われるまでも無く彼女はポットを手に取っている。
「これ、イレフームね。マスターらしい演出だわ」
「それを講釈しなくても理解してくれるあたり、君らしいな」
気づいてもらえるなら仕込んだ甲斐もある。そうマスターは口元を緩めた。
「ああ、いい香り。イチゴね」
「それと早生のスグリに、干しブドウも。なかなか調和のとれた味わいになったと思うが」
「ええ、おいしいわ。結構甘口ね。……アメリアちゃんが好きそう。飲んでみる?」
「わあっ、いいんですか」
「幸せは分かち合うものよ」
ジェニーは柔和な笑みを浮かべると、飲みかけのカップをアメリアに回した。
わくわくとした顔で、アメリアは硝子のカップを持ち、そっと一口すする。舌に祝賀の茶が流れた瞬間、彼女は眉目を上げた。
「わっ、おいしい! でも、ほんのちょっとだけ苦いですね……」
「それがいいのよ。食も、恋もね」
アメリアから戻って来るカップを受取りながら、ジェニーはくすくすと笑っていた。
マスターが定位置に戻ってきても、アメリアはジェニーの向かいに陣取ったままだった。テーブルに両腕をついて、桃色の吐息を吐き出す。
「いいなあ、結婚ですって。いいなあ」
それは恋に恋するようなもので、別に意中の相手がいる訳ではない、ただ純粋な憧れゆえの発言だ。
しかしジェニーはそうはとってくれなかった。ませた娘のような顔つきになり、アメリアい問いかけて来る。
「あら。アメリアちゃんも好きな人でもいるのかしら?」
「えっ。えーっと……私は、その、愛とか恋とか……まだよくわかんないですし」
ほんのり顔を紅に染めながら、アメリアは青い目を泳がせた。はは、と力の抜けた失笑が口から飛び出る。
宙を彷徨った彼女の視線は、マスターのそれとかち合った。
間抜けたようだったアメリアの顔が、瞬時にして転じる。しまったと言わんばかりだ、先日の恋文騒動を思い出したのだろうか。
さて、自分は何を言うべきか。マスターは微笑みを湛えたまま言葉を探す。
しかしそれより先に、アメリアの方から話を転ばせにかかってきた。急に冗談めいた顔つきになって、明るい声で投げかける。
「ねえマスター、愛って何ですか?」
愛とは何か、愛って何だ。マスターの頭の中には、その言葉が山彦のように反響する。幾重に響く音は、しかしアメリアが奏でるものとは違う調子をはらんでいるのだ。
外からの声と、内からの記憶。アメリアの無邪気な青い目の向こうに、遠きに見た真摯な眼差しが幻影のように見える。
『ねえ、愛ってなあに』
かつてあの子が問うた問いに、己が何と答えたかは覚えている。そして、それがあの子の望んだ返答で無かったということも。違う、違うと首を振る、あの悲しげな顔も――。
「……マスター?」
アメリアの怪訝な声に、マスターなる男は過去から現在へ引き戻された。いつもの店主の微笑みも一緒に取り戻す。そこには幾ばくかの自嘲も含まれていた。
過去は変えられない。だが、同じ轍を踏まないようにすることはできる。あの頃はわからなかった正答も、今なら持ち合わせている。
今度は間違えない。マスターはさっと立ち上がった。
「アメリア、おいで」
自ら歩み寄りつつ、アメリアを手招きする。彼女は首を傾げながらも、素直に席を立った。
彼女が三歩前へ出た場所が、マスターの歩みとぶつかる場所であった。お互い向き合って足を止める。
アメリアは不思議そうに主人を見上げていた。
「あのう――わっ!」
マスターは愛しき娘の体を一息にかき抱いた。強く、強く。彼女の背中に回した腕と、頭を抱え込む腕とで、しかと包み込む。
小さな体だ、嵐に合えば吹き飛ばされてしまいそうな。細い体だ、少しの暴威に晒されればたやすく折れてしまいそうな。そして何より温かい、寒く暗い夜に見つけた灯火のように。
君の悲しみも苦しみも全て受け止めて、あらゆる脅威からその身を守り。そして世界の闇に飲まれてしまわないように、君の手はもう放さない。
そんな想いを語る言葉はこの世界のどこにも無い。いや、あらゆる言葉を尽くしても、ただ黙って一つの行動を取るのに勝る重みは持たせられない。感情とは、そういう物だ。この男は、長き生にてそう見出したのだった。
マスターの腕の中で、アメリアがもがく。薄い胸板に押し当てられた口からは、くぐもった声が響いていた。
やがて、半ば主を突き飛ばすようにして、アメリアは固く閉ざされた腕から脱出した。
ほのかに赤みを帯びた顔をしかめて、口をへの字に結ぶ。
「マスター、苦しいです!」
「はは、ごめんごめん」
マスターは両手を上げると、上機嫌で手近な客席に腰を降ろし、足を組んだ。
一方のアメリアも、いささか不機嫌そうな面持ちのまま、元居た場所に座り直す。
くつくつと笑うジェニーの声が通る中、注釈を加えるようにマスターが口を開いた。
「あいにく言葉で答えた場合の正解は僕も知らない。いや、言葉では言い表せないことなのさ。定義を与えようとした途端、それは空虚な現象になってしまう」
「同意するわ。人を愛するって、単純なことじゃないのよね」
「うーん……」
アメリアは納得いかない表情だ。机に頬杖をついて、あらぬ方向をみやる。
無理もない、とマスターは苦笑した。
「今はわからなくって当り前だ、君はまだまだ若いんだもの。僕だって、やっと最近理解したんだからね」
そうだ、ようやくだ。遅すぎたくらいに。悔やまれるのはやはり、昔のこと。
マスターは組んだ膝を両手で抱き、静かに目を伏し、懺悔を唱えるように音を紡ぐ。
「昔、同じ質問をされたよ。『愛ってなあに』、そう聞いたあの子に、持てる限りの語彙と知識で持って答えた。だけどあの子は『違う、違う』と首を振るばかり。……あのとき抱き止めてあげられたら、結末はまた違っていたのかな」
未来というものは無限大に枝分かれする。しかし実際に選べるのは一つの筋道だけだ。かつて進めなかった道の先に何があったか、それが今より幸福だったかそうでなかったか、それを知る術はもう無い。
過去の悔いと言う名の沼に浸るマスターの耳に、女二人がひそやかに語り合う声が飛び込んできた。
「マスターにも恋人っていたのね。意外。知ってた?」
「いいえ。だって、そんな話、普段は全然しませんもの。びっくりしました」
店主の耳は地獄耳、狭い店内での会話は、彼を現在の現実という場に引き揚げるには十分だ。
マスターは目を開き、肩をすくめて笑った。
「本当だ。しまったな、僕らしくないことをした」
思い出は決して開かない扉の向こうに片付けて、マスターは立ち上がる。一つ伸びをしてから、カウンターの中に向かってゆるりと歩き出した。
「もう少し聞きたかったのに、マスターの昔話」
「駄目だ。菓子みたいに美味しいものじゃないからね」
店主として、茶を台無しにする行為は許されない。ぶーぶー言って食い下がる二人の声も、マスターは涼やかに聞き流していた。
自分用の紅茶を用意しながら、ふとマスターはあることに気づいた。
「しかし、そうか。嫁いでしまうということは、君も遠くに行ってしまうんだね。寂しくなるな」
葉揺亭にしてみれば、ジェニーは存在感のある人物だった。遠く大陸の東へ行ってしまえば、滅多なことではノスカリアに戻ってや来ないだろう。
ところが、彼女はきょとんとしている。
「私、居なくなるなんて一度も言ってないわ」
「え? でも相手は東方名家のブルドゥールの御曹子で――」
「簡単な話、彼がこっちに来るのよ」
「待て。君の旦那は家を継がなくてよいのか?」
名族の嫡男が自分の家を離れるとは考え難い。
が、ジェニーはにやりと笑うと、ずばりと言い切った。
「問題ないわ。うちの会長、私が居なくなるのは困るから旦那を引っ張って来るって言って、向こうの商社丸ごと全部買っちゃったもの。今はうちの一部だわ」
「は!? いやでも、ブルドゥールって言ったら相当の……。言っちゃ悪いけど、そんなの、資金の無駄遣いじゃあ……」
「甘いわねえ。豪快で破天荒で常識破り、それが私の敬愛するラスバーナの会長よ?」
ジェニーは事もなげに笑っている。しかし彼女に刺さる二人の視線は、信じられないという気持ちに溢れていた。
確かにラスバーナ商会の傘下にしたと言うのなら、嫡男だろうが何だろうが、会長権限で持って召喚するのはたやすいだろう。有能な部下を失わず、なおかつ彼女に幸せを与えられる最高の手だ。
しかし、思いついたからと言っておいそれとできることでは無い。聞くに名高いブルドゥールの葡萄畑や蔵、彼の家の持つあらゆる権利や財の全てを押さえるには、果たしてどれほどの金と力を費やしたのか。全容はとても想像できない。
それでもラスバーナの主は、ジェニーのためにそこまで尽くしたかったのだろう。信愛のかたちとして。
「……ラスバーナの会長さんって、すごいんですね」
「ええ、とっても。でも、そこまでされたら、私も期待に答えないといけないもの。これからが大変だわ」
アメリアに言いながら、ジェニーは嬉しそうに笑っていた。幸福に満ちていて、見ている方の口元を緩ませるような、そういう笑顔だった。
葉揺亭 スペシャルメニュー
「イチゴとスグリの祝福の茶」
大人な女性の恋愛の成就をイメージした、スグリのほろ苦さがアクセントの甘いフルーツティ。
液面に浮かべた葉は、古くより伝えられる魔よけのおまじない。
彼女の進む未来の幸福を願う、マスターの思いが詰まった品だ。




