白花の幻想茶話
「知ってる? すごい占い師が来てるって話」
人形劇終わりのレインがこんなことを言い出した。
すごいってどんな。舞台に散らせた紙吹雪の掃除を手伝いながら、アメリアは尋ねた。
「どんなって、よく当たるってことに決まってるじゃない。占いなんだもん」
「わかんないですよ? すごい変な服着てるってことかもしれないし、すごく動きが早いとかかもしれないですから」
「アメリアのそういう発想は嫌いじゃないけどね」
レインは肩を揺らしながら、凄腕の占い師の詳細を教えてくれた。
とは言っても彼女も劇の合間に人づてに聞いただけらしい。それによると、昨日から貸し店屋――ノスカリアの商店街にある、旅商人に商売の場を貸すところだ――の軒先に店を開いている。
どうやら他所の大陸から来た風で、胡散臭さもある。が、ある男が試すように見てもらった「占いが終わってから商店街を一往復するまでに起こること」を細かいことまでものの見事にいい当てたものだから、これは本物だと一気に評判が広まった。
「そんなに当たるなら、ちょっと見てもらいたいよね」
「そうですね」
「アメリア、どんなこと占ってもらう?」
「えーっと……未来」
「それじゃ当り前じゃないの! もっと具体的に、結婚相手とかー、自分の寿命とかー」
「じゃあレインさんは何見てもらうんですか?」
「えっとね、内緒!」
「それじゃ、私も内緒です」
二人は顔を見合わせて笑った。
劇の跡を無事引き上げ、レインと別れたアメリアは、一人噂の占い師のもとを目指していた。レインも誘ったが、彼女は明日にすると言ったのだ。鉄は熱いうちに打て、当たるか当たらないかわからない占いよりも、今日の人形劇を確実に改良させる一人反省会が大事だという、レインなりの美学らしい。
ほどなくして貸し店屋が見えて来た。
「うわぁ……混んでる!」
店先に集まる人だかりは道まで突出し、後ろの方の人間はつま先立ちで覗きこむ始末。貸し店屋の入り口もほとんど塞いでしまって、中から出て来た行商らしき男がうんざりとしているのが印象的だった。
アメリアも黒山の縁につき、足が震えるほどにつま先立ちして評判を確かめようとする。ざわめく人の合間遠くに、占い師らしき姿が見えた。
なるほど、胡散臭いと言われたのも良く分かる。小柄な体躯で引きずるような長衣は、こげ茶色の地に象形文字のような金糸の刺繍が入っっていて、袖を振り乱すように大げさな身振り手振りを交える様。それに加えて片言なのが拍車をかける。
しかし自分も見てもらいたいというのはなかなか難しそうだ。今終わった女性が立ち上がると、間髪入れずに黒山の中から次の希望者が躍り出る。数十の観客たちの内どれほどが野次馬でどれだけが鑑定希望者なのかも不明だ。
アメリアはひとまず輪を離れた。もう一刻もすれば夕暮れ時だ、時計塔の鐘が鳴る頃には人の波も引くだろう。
かといって葉揺亭に戻ってまた出てくるのは少々面倒だ。アメリアはさらに東へと歩を進める。ノスカリアが誇る商店街はこういうとき時間を潰すにもってこいなのだ。
やがて陽が落ち始め、空が柔らかい茜色に染まり始めたころ。アメリアはウェレ・フロラという花を片手に、貸し店屋の方へと歩いていた。釣り竿のようにしなる茎に、薄紅色のラッパ型の花が鈴なりになっている。雪の季節の終わりを告げる花で、今年初めて売っているのを見たので買ってしまった。
アメリアは花を一つむしり、その根元を口に含む。ウェレ・フロラの蜜を吸うのもまた、この時季の風物詩なのだ。もう一週もすれば、石畳の上には人々が捨てた数多の花弁が散り、道が花色に染まるだろう。
ただ今はまだ悪目立ちする気がして、アメリアは空になった花を頭に差した。髪飾りとしてはいささか地味だが、気分としてはずっと晴れやかになる。
アメリアの足取りはどんどん軽くなり、やがて無意識に駆けだしたのだった。
遠目に見えた貸し店屋、先ほどのような人だかりは無い。
ところが。店先にあった椅子も取り払われている。そして清々したような顔で立っている占い師。
まずいと思ってアメリアは慌てて飛び込んだ。
「あっ、あの。占い、終わりですか?」
肩で息をするアメリアに、異邦の占術師は眉を下げて手を合わせる。
「ごめんなさいよ。自分、人と会う約束ある。だから、さっきで終わり」
「じゃあ、明日の朝?」
「この町、もう居ない。師匠、人遣い荒いもの」
占い師は軽妙な口調で語るが、アメリアの頭には重い鍋が降っていたような気がした。
なんということだ、みすみす機会を逃してしまった。こんなことならば、さっきの人ごみをかき分けて待てばよかったのに。自分の選択を後悔するも、しかし起こった過去を変えることは出来ない。
アメリアはすっかり意気消沈しどんよりした空気を纏う。垂れた頭からしおれかけたウェレ・フロラの花が落ちた。
「あっ、しっかり」
あまりの落胆ぶりに占い師がおたおたと声をかける。気絶していると思われたのだろうか、アメリアの肩に手がかけられ、軽く揺さぶられる。
はあ、と占い師は嘆息し、頭をかいた。
「時間あれば、あなたの未来見られた。あの人時間にうるさいの。ごめんなさいよ」
「いえ、ちょっとがっかりしただけです……」
「ああ、そんなに……。あっ、そうだ!」
男はぽんと手を叩くと、小ぶりの荷袋を漁る。
そして取り出して見せたのは、何か紋様の書かれた厚紙の札であった。繊維をすいた純白の紙、なかなか上質なものだろうと見受けられる。
では果たしてこれが何なのか。アメリアがきょとんとしていると、占い師はにこやかに解説してくれた。
「枕の下に敷く、寝る。夢に未来映る。遠いかもしれない、近いかもしれない。当たるか当たらないかは、あなた次第だね。じゃ、いい夢を!」
異国の男は褐色の指でもってアメリアに札を握らせると、長衣の袖を翻して足早に去ろうとした。
が、アメリアが慌ててその裾をつかまえた。
怪訝な顔で振り返る占い師。そこにアメリアは、いつか店主をも困らせた悪戯顔に近い笑みを浮かべると、右手の人差し指と中指とを立てて見せつけた。数字の二。
「二枚ください。もう一枚。友だちにもあげたいんです」
「いいよ。ただし有料」
親友を気遣った交渉は無事成立し、アメリアは二枚の札を持って、まずはレインの家に向かった。
事情を話すと彼女はまず落胆し、次いで手土産を渡せば顔をほころばせた。
「さっすがアメリア。ありがとう、大好き!」
レインとハイタッチを交わして彼女の家を離れるころには、太陽はすっかり隠れてしまっていた。アメリアは足早にノスカリアの町を行く。比較的治安は良い方だが、しかし若い女が夜道を一人で歩くのはまずい。
それにしても今宵は明るい。空を見上げると二つの月が輝いているからだ。高みに光る白い月を追うように、紅い月が妖しく昇る。寒さもぬるんだ双月季の始まりだ。
月明かりのおかげで札の紋様もよく見て取れる。こういう雰囲気のものは何度か見たことがあるから、すぐにそれとなく悟った。
「……魔法の何かよね」
となればマスターには内緒だ。以前魔法屋クシネに見せたような敵愾心を現すか、それとも妙に気に入って得意の知識披露を始めるか、どちらに転ぶかわからないが、どちらにしたって面倒だ。最悪取られてしまうかもしれない。
どうにかばれないように。アメリアは小さな頭で精一杯考えて、ひらめいた場所に札を隠し入れる。
それは、服の襟口の中、ちょっぴり膨らんだ胸の上。
隠した跡を右手でぽんぽんと叩く。見た目からじゃばれやしないし、こんな場所ならさすがに覗きはしないだろう。
そうしてアメリアは葉揺亭のある袋小路への角を曲がった。
マスターは無事にやり過ごせた。
もちろん、日が暮れてからの帰宅にしつこく苦言が呈されたものの、それ自体はアメリアにも非があるから仕方がない。素直に謝って、それで終わりだ。
アメリアは軽く炙ったパンと残り物のスープで一人簡単に夕食を済ませると――マスターはもともと積極的に食事を摂らないから問題無い――さっさと就寝する体制にはいった。
身繕いを終わらせて、夜間着を着て、寝台に入る。もちろん魔法の札はいの一番に設置済みだ。おまけに布団も干したばかりだからいい匂いがする。これでいい夢を見るなと言う方がどうかしている。
「じゃあ、おやすみなさい!」
誰にともなく嬉しそうに言うと、アメリアは一息に枕に頭をうずめたのであった。
暖かいそよ風が髪を撫でつける。彼女はテラスに立っていた。そびえ立つリンゴの大木が木陰を作る、丘の上の。
ああ、夢だ。少女アメリアはそう思った。しかし、体は思うように動かない。夢世界の主人公、もう一人の自分の意識がその役割を担っているから。
不思議な心地だった。まるで物語の主人公になりきって、その観測者となっているような。
夢幻世界のアメリアは、テラスの向こうを眺めていた。ここは丘の上の一軒家、ぐるりと囲む生垣の向こうは緩やかに下って見える。黄緑色の中に、黄色や桜色の花畑が点々と。さらに向こうでは、羊の仲間と思しき動物の群れが、雲のようにのんびり動いていた。
生垣の植物にも花が咲いている。緑の中に散りばめられる白い花々、あれはマツリカだ。お茶にも良く使われる植物だから、現実世界のアメリアも知っていた。
その間を舞う蝶を見て、リンゴの木で唄う鳥の声を聞いて、アメリアは微笑んでいた。
しかしここはどこなのだろうか。もちろん葉揺亭ではない。ノスカリア北側にも丘陵地帯はあるから、そこにある建物なのだろうか。
いや違う、もっと遠いところだ。もう一人の自分が教えるかのように、アメリアは確信めいたものを感じる。
そしてアメリアは踵を返す。彼女は茶会の準備をしているところだったのだ。
背後にあった小さなテーブルには三段のティースタンドが、もちろんおいしそうな食べ物で一杯にして置かれている。しかしその下に敷かれる生成のクロスに皺が寄っているのが気になって、端を軽く引っ張った。やはり、敷物はぴんと伸びている方が見栄えが良い。
ティースタンドに目が移る。一番下の段には、薄切りの白パンで野菜を挟んだ軽食が。すきまからとろりとこぼれている黄色いソースは、乾酪がとろけて流れたものだ。
真ん中の段には胡桃と木イチゴのパウンド・ケイクと、スコンが二種、片方には押し麦の粒が見えるし、もう一方は干しブドウ入りだ。ティースタンドの隣に小鉢に入れたジャムやクリマがあって、これを塗って食べると絶品に違いない。
そして一番上の段、ここが一番色彩豊かだった。一つはオレンジのジャムの小さなタルト、二口もあれば食べられるだろう。その隣には木の器に固められた青色のプディングがあって、アメリアの記憶をさざめかせる。それぞれが三つずつ用意してあった。
さらにもう一種、小さな宝石を山にしたような菓子が一緒に盛られていた。これは少女アメリアの記憶には無いものだ。ジェリーを乾かして、外側に砂糖の結晶をまぶしたような。そんな印象であるが、いったい何なのか。
すると、アメリアの思いに呼応したわけではないだろうが、夢の世界の自分はそれをひょいとつまむと、ぽいと口に放り込んだのだ。
これはつまみ食いだ。夢を覗く方のアメリアはくすくすと笑った。口の中では、ほどけるように優しい甘い味が広がっていた。しゃりしゃりとした不思議な食感に舌鼓を打つ。
しかし、これは、お茶が飲みたくなる。
卓の上にはすでにポットの準備が終わっていた。アメリアの視線はそこに引きつけられる。
ポットは二つ、どちらも透き通った硝子製だ。一つは紅茶の中に白いマツリカの花が浮いている。そしてもう一つはハーブ・ティのようだ。水色は淡黄色で、カモマイルの花の他に葉のハーブが何種類か使われている。それに、真っ赤な木イチゴも漂っていた。見ているだけでも可愛らしい。
ただ、ポットは二つだがカップは三つある。そして、当然椅子も三脚だ。
その内一つだけ足が高く、おまけにはしごのように踏み板もつけられていて、まるで子どもが座る用に作られているようだ。
一体、誰との茶会なのだろうか。風景を覗き見るアメリアの疑問には答えが無く、アメリアはポットに軽く触れた。
熱い。うららかな日だから、冷めにくい。
しかしこのまま置いておけばどんどん濃くなっていくし、もちろん徐々に冷めても来る。
だから呼ばなければ、そうアメリアは思った。それは一体誰を、ともアメリアは思った。
「ねえ、早く。お茶が冷めちゃう。せっかくお店を休みにしたのに」
茶会の卓の状態をもう一度目視で確認しながら、アメリアは声を出した。自分の声なのに違いないが、どことなく今のアメリアより落ち着いて聞こえる。
すると遠くから、男の人の短い返事の声が聞こえた。ああ、とも、うん、ともつかないその音では、性別以上に主を推測することもかなわない。
マスターだろうか、と一番身近な人間の姿を思い浮かべた。葉揺亭を休日にして、遠くの地に遊びに来たのだろうか。あり得なくはないが、しかしそれではこの子ども向けの椅子は?
そこに、もう一度男性の声が聞こえた。
「よし、終わった! ごめん、アメリア。せっかく家族だけで過ごせるってなったのに」
「いいえ。大事な仕事だっていうのも、わかってますもの」
アメリアはにこやかに答えた。だが意識だけでたゆたうアメリアは、驚いたような顔をしていた。
この声はマスターじゃない。それどころか、知っている誰でもない。
ぱたぱたと木の床を駆ける音が次いで響く。これは、子どもの足音だ。
「お母さん、みてみて! すごいの!」
あどけない声に振り返ろうとしたところで、視界はマツリカの花のように白く染まりあがった。
それから白が灰を経て黒になり、アメリアは幻想から現実へ引き戻された。
目をひらけば、いつもの寝台の上だった。昨夜雑にかけた暗幕の隙間から、柔らかい朝日が差し込んでいる。
アメリアは寝ぼけ眼をこすりながら起き上がる。
夢だった。そしてそれは、未来の姿だ。
霞みの中で見た光景を、アメリアは確かに思い起こす。
「お店で、家族が居て……子ども? 私の?」
お母さん、と確かに呼ばれた。妙に感慨深くて、腹の底から高揚した息を吐き出す。
そしてそれが未来の姿だと言うのなら。
「じゃあ、私はやっぱりここを離れるんだ」
あれが誰の店なのか、それとも自分だけの店なのか、真相は見えなかったが、しかしあそこは葉揺亭ではない。胸中で望んだ未来ではあるものの、いざつきつけられると少し寂しくも思う。全く、わがままな話だとアメリアは自嘲した。
それにしても気がかりなのはマスターのことだ。あの幻想の茶話会にはマスターの影は微塵も無かった。色々な意味で、大丈夫なのだろうか。
大丈夫ではない気がする。先日、少し恋人ができたように冗談めかしただけであの取り乱しよう。自分が居なくなって、しかも結婚し子どももできるとなったら……考えるだけで恐ろしい。
「本当にあんな未来が……?」
所詮は占いだから、全くの夢物語で嘘っぱちかもしれない。もやもやと軽くて怪しい占術師の姿が思い起こされ、アメリアは口を一文字に結んだまま目を細めた。
枕の下に手を入れて、件の札を取り出す。
「あれっ?」
アメリアは目を疑った。描かれていた独特の雰囲気かもす魔法陣は、欠片も残さず消え去っていたのである。
その代わりに、昨日には無かった文字列が現れていた。全部で四行、しかし占い師の祖国の文字なのか、アメリアには到底読める物ではなかった。
こういう物はマスターの得意分野だ。
アメリアは手早く更衣と髪の手入れを終わらせると、謎の札を袖に隠しつつ、駆け足で階段を降りたのだった。
「おはようアメリア。今日は早いね、まだオーベルさんも来てないのに」
「今日は夢見がよかったんです」
えへ、とアメリアは屈託ない笑顔を浮かべた。
いきなり札の話を出すのも変だろう。詮索されるのは避けたいから、いつも通り、そしてどこかでさりげなく。
「マスター、お茶を一杯もらってもいいですか?」
「もちろん。それとも自分でやるかい?」
「いえ。今日はお願いしちゃいます」
「じゃあ、何にしようか」
「シネンスにマツリカの花を」
「いい組み合わせだ」
さっそくマスターは立ち上がり、アメリア御所望の白花の紅茶を作る。シネンス一匙に、マツリカ一つまみ、相変わらず迷いのない手つきだ。
その蒸らしの待ち時間に、アメリアは本題を切り出した。マスターはお茶を淹れている時が一番機嫌がいいし、待ちの隙間時間なら、話が冗長になることも無い。
「ねえマスター。これ、なんて書いてあるのかわかります? 昨日、占い師さんにもらったんですけど」
嘘は言っていない。アメリアは自分の口から出した言葉を反芻して、心の中で頷いた。
マスターはカードを受け取ると、上から下へと視線を動かした。
そしてすぐに、アメリアに見せながら答えを教えてくれる。空いている方の指は、上下に二行を分かつ場所を示していた。
「ここで文字が変わって、二行ずつ同じ文章が書いてある。どちらも西方大陸の旧言語だね。『夢が現実になるかはあなた次第』だって」
「……いい言葉ですね」
「そうだね。見ているだけでは、何も変えられないから」
マスターはそうして微笑んで、蒸らし終わった紅茶を仕上げた。
カップを手渡しざまに、再度口を開く。
「ねえアメリア、君の夢ってどんなのなんだい?」
冷や水を飲んだ気がした。マスターの闇夜のように黒い目が、アメリアを見ている。それはいつもの視線なのだが、腹に抱える物があるから恐ろしく見えるし、穿った思いを抱いてしまう。
凍りそうな体に熱を与えるべく、アメリアは熱々の紅茶をすすった。熱気と共にマツリカの花の穢れない芳香が体に染み入る。
それから口を開いた。明るい口調で、悪戯っぽく笑いながら。
「内緒です。でも、占いの結果は幸せそうでした」
「そりゃ最高だ。君が幸せなら、それがいい」
マスターは我が事のように嬉しそうだ。整えたばかりのアメリアの頭をくしゃくしゃとなでる。全く邪気も疑心もない、いつも通りの優しい主だ。
だからなおさら心にさざ波立つ。真実を伝えたら、この人はこんなに笑ってやいられないだろうと。その先の未来がどちらに転ぶのかも見えやしない。望んだ結末に至るのか、それとも。
ねえ、マスター。私の未来に、マスターは居ないんです。
告げるべき残酷な一言は、アメリアには言えなかった。
がちゃりと音を立てて玄関が開いた。朝一の客は今日も宿屋のオーベル、いつも通りの葉揺亭の日常が始まる。
「おはようさん。……おっ、アメリアちゃん、今日は早いね」
「いい夢を見たんだって。ねえ」
「はい。素敵な茶話会の夢でした」
「そりゃ気持ちよく目が覚めるわけだ」
オーベルが指定席に着くのと、マスターが動き出すのは同時であった。
それを横目で見ながら、アメリアはもう一度カードに目を落とした。
『未来を掴むのは、あなた次第よ』
そんな文句があの占い師の片言の言葉で再生される。
わかっているよ、とアメリアは胸の中で返答した。あの未来を望むのなら、マスターの元を離れるのは絶対だ。しかしどうして、それが一番難しい。
白花の香りに包まれながら、アメリアは夢の世界を想う。美しく優しい場所であった。いつか幼い自分が理想に描いたような。
あれが幻想のまま終わるか、それとも現実に引き寄せられるか、全ては自分次第。何もしなければ、このまま日常が続いていくだけだから。
だから、言えない言葉もいつか必ず。男二人で談笑するマスターの横顔を見て、アメリアは小さく決意した。
ねえ、早く。夢の中で聞いた自分の声が、紅茶の向こうから聞こえた気がした。
葉揺亭メニュー
「マツリカ・ティ」
強い香りのマツリカの白い花をあしらったお茶。マツリカは単独で味がほとんどないので、他の茶に混ぜるのが一般的。葉揺亭ではやはり紅茶にブレンドする。
別に紅茶でなくとも緑茶や他の半発酵茶など、幅広く合わせられる。香りはつけて味を邪魔しないのが強みだ。




