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異風堂々

 未曾有の大雪から復旧し、ノスカリアの町は日常を取り戻していた。とは言えまだ雪が残るし、風も冷たい。常連を除いた客足はいつにもまして鈍く、皆無と言って言いほどだった。

 ということで、葉揺亭は雑談大会の日々だった。四六時中一緒にいる相手だというのに話題が尽きないのは、ひとえに店主の引き出しの深さと多さのおかげだ。どれだけ中を取り出しても、底が見えるを知らない。

 今日の議題はもっぱら異文化のことである。マスターは乾燥した笹の葉を手にしてアメリアに見せていた。


「例えば赤根笹。これが胃の不調を抑えてくれる薬草になることは、君も知ってるよね」

「赤い根のじゃないと駄目なんですよね」

「その通り。掘ってみないと見分けがつかないと言われるが、実は……今はいいや。置いておこう」


 ノスカリア付近に自生する笹は何種類かあるらしいが、皆一様に濃緑色で艶のある葉を揺らしているものだから、なかなか区別がつかない。ただ赤根笹は名の通り「地下の根が赤い」という特徴ゆえ、判別がつく方だ。ゆえに、古くから民間薬として利用されてきた一面がある。


「でもとある山岳民族の中では、毒草扱いだ。なぜでしょう」

「えっと……美味しくないから。すごく苦いし、葉っぱの味がする」

「そりゃ葉っぱだもん。苦いのは君の言う通りだが、もちろんそれが理由ではない」


 マスターが首を振る代わりに笹の葉を揺らす。生葉なら靡いただろうが、保存用に水分を失った葉では大して動かない。むしろ崩れてしまわないかという危なさがあった。


「その民族はね、痛みや不調は体から毒が消える時に起こるものだと考えていてね。その症状を無理に抑えるということは、毒を体に蓄積させるという意味になるんだ。だから僕らにとっての薬草は、彼らにとっての毒となる」

「はへえ、なるほど。考え方が違うんですね」

「その通り。イオニアンは広い、ところ変われば風習は大きく変わる。時に奇天烈、時に苛烈、その全てを受け入れろとまでは言わないが、理解する努力はするべきだ。ノスカリアにはいろんな生まれの人が居るから、なおさら」


 アメリアはゆっくりと頷いた。交易都市の名は伊達ではない、時には知らない言葉が聞こえてくるし、明らかに異人種の姿をした者もちらほら見かける。教会の付近では熱心な信徒と異教徒とが揉めているのはしばしばあるし、たまたま入った食事処で、旅人同士が味付けの問題で大喧嘩しているのに出くわしたこともある。だから素直に、マスターの言葉は少し心にとどめておこうと思えた。


 マスターは笹の葉を置きざまに、茶話の友たるカップを手にした。少し温んだ紅茶は、喋り傷んだ喉を潤おすのにちょうどよかった。

 そして、今度は紅茶の入ったカップを掲げながら、マスターはアメリアに問うた。


「じゃあ。この紅茶に乾酪をたっぷり入れてぐつぐつ煮込んだもの。君は飲みたいと思うかい?」

「ええー……おいしくなさそうです。お茶も乾酪ももったいない」

「それを西方の遊牧民に言ってごらん、睨まれるじゃあ済まないよ、下手すれば殺される。彼らにとっては日常食なのだからね」


 食べ物のことで殺されるだなんて、恐ろしい話だ。

 ノスカリアから大陸を西へ向かうと、徐々に大気が乾燥し、木々が見られなくなってくる。やがて短草と灌木が広がる風景に変貌し、街道の終着点付近では砂漠の入り口に等しい、乾いた土にわずかな緑が点在する土地になる。その一帯には数多の少数部族が遊牧生活を行い、独自の社会を形成しているとは嫌が応にも耳に聞く。

 

 しかし西の牧畜民族とは果たしてそんな凶暴な者たちなのか。アメリアは一瞬身をすくめた。もしノスカリアで出会ったらどうしよう、と。

 が、すぐに首を横に振る。


「あり得ない」

「え?」

「あ、いえ。その――」


 アメリアは一人だけ西方の男を知っていた。先のクロチェア家の茶会で出会った、シユ=ジェツェンなる人物。異邦の風薫るかんざしを差していたその男は、全く持って温厚な人当たりであった。激す姿すら想像がつかない。

 その話をマスターにすれば、即答えが帰ってきた。一個人の例を取り出して、一般論にしてはいけないと。


「おまけにそれは特殊すぎる例だ。人に仕える身であるなら、我は出さないに決まっている。それにあのラスバーナ商会の、しかもあの娘の従者だなんて、相当心が広くなければ務まるまい。サシャ=ラスバーナ、あれはとんだ食わせものだ」

「会ったことないのによくそんなこと言えますね」

「だってアメリア、彼女が僕に似ていると、そう君が言ったじゃないか。僕はね、自分が真っ当な神経でないことは自覚している」

「じゃあ直してくださいよう」

「もう手遅れさ」

 

 アメリアが粘りつくような視線で見つめる中、マスターは軽やかに答えた。

 


 それからおよそ一刻の後。話の種になったのが呼び水になったのか、それとも気配を感じたから話題に上ったのか。どちらとも知れないが、噂の人物、サシャが来店した。もちろん、従者のシユも連れて。

 

「お久しぶり、アメリアさん」

「サシャさん! いつ来てくれるんだろうって待ってましたよう」

「ほんと? もっと早く来たかったんだけど、あの雪じゃあさすがにね」

「すごかったですものね。あっ、そうだ、あれお返ししないと!」


 もちろん忘れてはいない、借り物のショールのこと。いつ取りに来ても良いように、店の棚の中にしまってあったものを、小走りで取り出しに行く。 

 忙しないアメリアの様子に控えめな笑い声を上げてから、サシャは店主に目を向けた。


「それで――あなたが例の」

「どんな例かは存じ上げませぬが、この店の主でございます」


 先ほど食わせものと断じたその口で、サシャに恭しく挨拶をする。客に接する者としては褒められた切り替えぶりなのかもしれないが、裏を知るアメリアには滑稽に見えて仕方ない。

 と同時に違和感を感じた。初対面の相手に対して丁寧なのはいつも通りだが、いつにもましてマスターは緊張している。声音は穏やかに、口元も微笑みに形作っているものの、平素のような余裕の色がどこにもないのだ。ほんのわずかなことなのだが、あのマスターがと思うと目が丸くなる。

 まさか己の心情が気取られているとは思ってないだろうマスターは、歩み寄って来るサシャに対して、伏し目気味に笑いかけた。


「先日はうちのアメリアがお世話になったようでして。お礼を申し上げます」

「いいえ、むしろ私のわがままを聞いてもらったと言った方がいいかな」

「さようですか」


 静かに言った後、マスターは手を一つ打ってアメリアの方を向いた。


「じゃあ、アメリア。せっかくだから君が――」

「あら、店主さん。私、店主さんのお茶を飲みに来たの。お嫌というのでなければ、どうぞお願いします」

「……ああ。もちろん承りましょう」


 悠々とカウンター席に着するサシャに向けられた笑顔がいつもより固いのを、アメリアは見逃しやしなかった。どうしてしまったんだろうと思うと同時に、珍しい姿に失笑を禁じ得ない。アメリアは少し顔を反らして含み笑いを浮かべた。



「何がよいだろうか?」

「私の分はお任せします。シユは?」

「あ、いや、私は別に。どうぞお構いなく」

「それは逆に失礼よ。じゃあ店主さん、シユの分も」

「かしこまりました」


 一礼の後、マスターはいそいそと手を動かし始めた。


 その隙にアメリアは例のショールをサシャに返した。客席の側に出て、お辞儀をしながら。無論、令嬢は人好きのする微笑みを絶やさず、アメリアを迎えた。

 ついでに世間話をする。こうして対話していると、全く普通の女性だ。言葉の節々に現れる芯は強いが高慢さは無いし、服装も至って大人しい。下手すれば「大商会のお嬢様」という肩書すら忘れさせてしまうほどに。

 それなのに全く、マスターは何を肩肘張っているのだ。変なマスター。そう内心で呟きながら、アメリアはカウンター内に戻った。


 緩やかに時は流れていた。マスターは沈黙を守ったまま、その目をポットに向けていた。後はもう仕上がるのを待つだけになっている。

 一方でマスターに突き刺さる視線も合った。サシャの茶色の双眸は、伏せがちな店主の面を捉えて離さない。

 おまけにそれは好意的な熱視線というよりは、善悪を問うかのような真剣なまなざしであった。

 さすがに耐えがたくなったのだろう、マスターは眉を下げて顔を上にあげた。


「ねえ、僕の顔に何かついているかい? そんな顔で見られると、その、怖いよ」

「あ……ごめんなさい」


 サシャは軽く首を横に振った。吐息混ざりに少し視線を下に外す。

 そして、控えめな声で呟いた。


「少し似てたから」

「何に」

「私の嫌いな奴に」

「一方的な許嫁とかそんなものかい」

「まさか! 色々因縁があって単に許せない存在なだけよ。でも、あなたとは違う。そいつは、あなたみたいな幸せそうな顔をしていないから……。いえむしろ、そんな顔をしていたら――」


 言葉の消えゆくサシャの顔には影が差していた。もとより暗色の瞳には、さらに暗い炎が灯っているようにすら見える。隣の従者が慌てて彼女の名を呼ばわり、ようやくその火は消えた。

 マスターは深いため息をついた。注文の紅茶を仕上げながらサシャに投げかける。


「君が望むのは断罪か復讐か。どちらにせよ、嫌いなもののことを考えるより、好きなもののことを考えた方がよほど身になると思うけどね。特に、こんな場所では」

「そう、ね。色々ごめんなさい」

 

 彼女は苦笑しながら言った。

 食わせもの、と言う評価はあながち間違っていなかったと、アメリアは納得せざるを得なかった。もちろん、マスターが未だ見ぬ令嬢の内々を知っていて評したとは思わないが。


 

 店主の手づから、客人にそれぞれ紅茶が供される。

 サシャにはシェールという種類のものを選んだようだ。青い海に浮かぶ島からやってきた茶葉で、万人受けする深い味わいを持っている。それを解説するマスターの声により、アメリアの中には大失敗の紅茶占いの苦い記憶が一緒に浮かんできたが。

 

 一方シユには紅茶であるシネンスと、緑茶のグリナスをブレンドしたものが出された。今まで見たことが無い組み合わせ、これにはアメリアも興味を惹かれる。

 お互いの良いところを相殺してしまうのではないかと思われたが、マスターの言では違うらしい。むしろいいとこどりが出来るのだとか。紅茶の入り組んだ味わいの中に、グリナスの青く若々しい香りが草原の風のように湧き起る。

 そう、草原だ。言いながら、マスターは得意気に指を立てた。


「あなたは西方の出身のようでしたから」

「はい、そうでございます。いやはや、わかるのですね」

「そんな目立つものつけてたら、そりゃあね」


 マスターは軽く肩を上げながら、シユの後頭頂部のまとめ髪を見据えた。長いだろう焦茶の髪を一束残らず綺麗にまとめ上げ、控えめな装飾の簪で留める様には清潔感があるが、しかしこの辺りで見る男の髪型ではない。


 おもむろに頭に手をやりつつ、シユは顔を曇らせた。


「やはりおかしいですかね」

「いや。それは部族の風習なのだろう? むしろ郷里を愛する証として好意的に思えるよ。堂々としていれば良いじゃないか」

「……あり難きお言葉。こちらでは、なかなかそうは言ってもらえませんからなあ」


 目を細めて言うと、シユはカップを手に取った。茶を嗜む男の顔には、望郷の色がにじむ。

 ところでその髪型はどんな謂れだったか。マスターが興味深げに尋ねると、異風を装う商会の従者は、あっけらかんと笑って教えてくれたのだ。


「髪には気が宿るのです。良きも悪いも、悪霊も英霊も。そうして宿ったあらゆるものが内に取り込まれ、私という個人の礎になるのです。ゆえに短く切るようなことはしませんし、内気をみだりに振りまかぬように留めておくものです。自分のためにも、他者のためにも」


 それは生まれ持っての信仰だ。傍から見れば奇異なことでも、彼にとっては当たり前のものなのである。ルクノラムの教徒が毎日神に感謝の祈りを捧げるように、アメリアがマスターを慕い仰ぐように。それはもちろん、土地を離れたとて失われるものではない。

 だが異物に反発するのは人間の性である。水に油を落とした時、入り混ざることも沈み隠れることも無いように、どうやったって浮いた物として扱われるのだ。ひどい時には排斥される。


 遠き地より上ってきたシユにも色々あったのだろう、彼は思い出した憂悶の息を吐いた。


「……と言ってもですねえ、なかなかわかってもらえるものではありません。本当、店主どのくらいです。褒めてくれたのは」

「あら? 私は数に入れてくれないの?」

「もちろんお嬢様は言わずともですよ、それくらいわかっておりますとも。そうでなくば、こんな素敵なもの贈っては下さいませんでしょうに」


 シユは簪を示しつつ、その送り主たる主人に向けて照れっと笑った。


「なるほど。あなたは異風吹き荒れる地で、良い理解者に巡り合えたわけだ」

「その通りでございます。いやはや、お嬢様の懐の深さには頭も上がりません、至上の主です」

「誉め過ぎよ。私は決して自分が良い主とは思ってないもの」

「とんでもないですよ。まあ……強いて言うなら、もう少しばかり慎ましやかになっていただければ」

「今さら? もう手遅れよ」


 サシャは小悪魔のような笑顔できっぱりと言い切った。

 


 ところでアメリアには一つ気になっていることがあった。二人が来店する前に話題に上っていた謎の飲み物のことである。

 この好機を逃すことはないだろう、彼女は早速好奇心の赴くままに口を開く。


「あの、シユさんも飲むんですか? その、紅茶に乾酪を溶かして」

「おお、ラクィテヤのことですな! もちろん。草原に居た頃は毎日、我らのような遊牧の徒には欠かせぬものですからね。それにしても、さすがはよくご存じで」

「ちょうどさっきマスターとそれのお話ししてたんです。それで、その……おいしいんですか?」

「あまり考えたことはありませんな。それこそパンのようなもので、味の良し悪しを言うものではないですから」


 シユはからからと笑っていた。

 その隣でサシャが露骨に苦い顔を見せる。


「私はね、あれは無いと思う。絶対にお茶部分が必要ない、別々で頂いた方がいいよ」

「飲んだことがあるんですか?」

「シユに話を聞いて、一回作ってもらった。でも、もう勘弁」


 ひらひらと手を振る姿に誰もが苦笑を隠せない。

 味の好みは人それぞれだ。とは言う物の、ある程度の傾向はみられるだろう。シユは味には触れないし、サシャは否定する。とすると、やはりけったいな代物なのだろう。

 まあ、想像通りだ。お茶に塩辛いものだなんて、今まで見たことも聞いたこともないのだから。そんなもの、無理して味わおうとも思えない。アメリアは一人納得するように頷いていた。

 ところが、この男はそうではなかったらしい。


「そこまで言われると気になるじゃないか」


 マスターの目が少年のようにきらめいていた。

 あっ、と思った時にはもう遅い。スイッチの入ってしまった店主は、声の節々に高揚感をちらつかせながら、早口でアメリアにまくしたてる。


「ねえアメリア、乾酪って裏にちょこっとあっただろ? 持ってきてくれ、今すぐ」

「……え、えーと。ごめんなさい、私食べちゃいました」

「ええっ、そんなあ」


 マスターは首の骨が折れたかのように勢いよくうなだれた。心なしか当たりの空気が淀んだ気もする。

 アメリアは青い目を泳がせながら、思わず背中を向けた。そう、嘘をついたのだ。食事に興味のないマスターには、実際の食料事情はわからないからばれやしないと。


 はあ、と重く湿っぽい溜息が聞こえる。そこまで落胆されると、いたたまれない気持ちで一杯だ。

 マスターはしょげながらも、再度シユに向き直った。


「じゃあ、また今度……。ねえ、これって乾酪なら何でもいいのかい?」

「馬乳か緬羊乳、あるいはミカウの乳ですな。それに酪なら何でも良いものです」

「何でも?」

「ええ。そもそもラクィテアの製法に決まり事など無くてですな――」


 曰く、家庭料理のようなものだから、同じ遊牧民の部族間でも異なる趣のものになるらしい。そこから広がる草原民族の食文化の話を、マスターは熱心に聞き出していた。

 男二人の間に、異邦の風が吹き荒れる。故郷の話をするうちに地が出たのか、普段は丁寧に繕ってあるシユの言葉に訛りがちらつき始めた。


 もはやアメリアに立ち入る隙は無い。不思議な空気の漂う場を遠巻きにしながら、彼女は少々頭を痛めていた。この調子だと、二人の客が帰った後は、遊牧民料理の大試作会になるに違いない。もちろん、試金石になるのは自分だ。

 そこへ、サシャがくつくつと笑いながら身を乗り出してくる。彼女もまた、あの二人の世界には置いてけぼりを喰らったらしい。


「アメリアさん、嘘ついた?」

「だって、今ここで妙なもの作られても……味見させられるのは私ですし」

「懸命ね」

「でも、嘘も無駄だったみたいです。これはもう、覚悟するしかないですね」


 ああなったマスターを止められる人間は居ない、暴走する馬車のようなものだから。となれば、もう乗るしかないのだ。

 いっそ前向きに考えよう。実際は味わってみないとわからない、怪しいのはラクィテヤとやらだけで、他の食べ物はおいしいかもしれないじゃあないか。


 そんな心の声が外に漏れていたのか、はたまた顔に文字が浮かんでいたのか、アメリアの様子を見て取ったサシャが忍び笑いをし、それから小声で囁いた。


「いいなあ、アメリアさん、欲しいなあ。ね、来ない? 私のところ」

「えっ」


 冗談だろうと思った。が、サシャのまなざしは至って真面目なものである。小首をかしげて、アメリアの返事を待っているようだ。

 そんなこと急に言われても困ってしまう。うろたえるアメリアの口からは、言葉とは言えない音が漏れるばかりだ。

 その代わり、明後日の方向から厳とした声が飛んできた。


「駄目、絶対あげない」

「あら聞いてたんだ、店主さん。てっきり私のシユと別世界に閉じこもってると思ったんだけど」

「もちろんさ。僕のアメリアに妙なことを吹き込まれてはたまらないもの」


 むっとした様子を隠さないまま、マスターはサシャに詰め寄った。

 いくら何でもお客さんにそれはないだろう。慌てながら伸ばされたアメリアの手は、しかしマスターの背中に気圧されて宙をかいた。


「絶対駄目だからね。君の大切な人と交換でも、絶対にアメリアは渡さないよ」

「はいはい、わかりました。でも、アメリアさん自身はどう思ってるのかしらね」


 愉しそうなサシャの視線と、沈痛な顔で振り返ったマスターの視線とが、同時にアメリアに突き刺さった。部屋の中は暖かいはずなのに、外に居るのと変わらない寒気がする。

 アメリアは目を反らし言葉を濁した。下手なことを言えばマスターが怖いし、かといってサシャは葉揺亭の客である。

 何か話題を変えなければ。乾いた声で笑いながら、必死で糸口を探した。


「あははは……あの、サシャさんの大切な人って誰なんですか? やっぱり恋人とかいるんですか?」

「え!?」

 

 全く予想だにしない返答だったのだろう、サシャが初めて色めきだった。

 彼女は一瞬心あらずと言った風を吹かして、しかしすぐに目を細めた。


「それはね、内緒」


 わざとらしいウインクと作ったような声音で答えてから、サシャは静々と紅茶を飲んだ。おいしい、と紡がれた一言は、冷え切った空気に温もりを取り戻す。

 一連の会話の間、彼女の隣よりシユが何やら期待した目を向けていたのだが、ついぞサシャが顧みることは無かった。





「はあ……」


 奔放な令嬢とその執事とが帰った途端、葉揺亭には二人分の脱力の息が響き渡った。

 別に悪い人たちではない、むしろシユに至っては、紛れも無く良い人に分類されるだろう。もちろんサシャに関しても、少々自分が強いだけで。


 ただ、疲れる。アメリアの感覚としては、狭い場所にマスターが二人並んでいるようなものなのだ。自他ともに認める曲者の相手を普段の倍しなければいけないとなれば、肩がこるに決まっているではないか。

 それに加えて、マスターの新知識お披露目会もこれから始まるだろうという状況だ。ここで息をつかなければ、いつ心が安んじられるものか。


 店主がアメリアの名を呼んだ。そら来たぞと、アメリアはくたびれた顔を向ける。

 しかし、彼の口から飛び出した言葉は予想だにしない物であった。


「ごめん、ちょっと休ませてくれ」


 もし今陶器を持っていたら間違いなく床に落としていただろう。そうでなくとも顎が外れそうになっている。

 休む。そんな言葉がこのマスターの口から出たのは、あからさまに体調がすぐれなかったいつぞやだけである。言うまでも無く、今日は顔色はすこぶる良い。

 鈍重に立ち上がったマスターに、アメリアは矢のような勢いで迫った。


「だ、大丈夫ですか!? 一体どうしちゃったんですか、マスター。ずーっと緊張してて」

「そりゃあんなこと言われちゃ黙って居られないよ」

「その前からです。ずっと変でしたよ」

「……さすがに、君は僕の一番近くに居るだけある」


 マスターは弱々しく笑った。


「決して相いれない類の相手って、誰にだっているものさ。実はね、君に話を聞いた時から、僕はサシャ=ラスバーナがここに来るのを憂いていた」

「そういうの……同属嫌悪って言うんですっけ」

「端的に言うならば」


 それからアメリアの頭を軽く叩いた。愛に満ちた優しい手つきだ。


 店のことは任せるからと言い残し、マスターは奥への扉を開いた。

 が、向こうへ行ってしまう前にもう一度アメリアを振り返って、言葉を残す。


「ねえアメリア、彼女の所になんて、行かないよね。いや……どこにも行かないよね」


 念を押すような、そしてどこか縋るような口調だった。

 そのままアメリアの返答は待たずして、向こうとこちらは一枚の壁で隔てられた。


 響いた言葉は一人になったアメリアの心に深々と突き刺さっていた。

 表情を失った少女は、半ば崩れ落ちるようにその場にあった椅子に腰を据えた。それは普段は店主が使うものだ。

 


 静かな空間で声無き独白をする。

 偶然だろう、マスターにしろ、サシャにしろ。最も聡明な人たちなのだから、何か察するものはあったのかもしれないが、自分の本心を丸きり読んでいるわけではあるまい。


 サシャから勧誘された時、一瞬迷った。だけど彼女の所には行かない。それが口には出さなかったアメリアの答えだ。

 しかし。


「……言えるわけないじゃないですか。別のところで働いてみたいなんて、そんなの」 


 雪降る季節を前に人知れず、蔦の葉繁るその影で芽吹いた願望は、静かにすくすくと育っていた。

 だが花を咲かせるには、その表を覆う蔦がいささか厚すぎる。かといって、アメリアにはそれを無理やり切り落とすことも、突き抜けさせることもできなかった。長く寄り添っていた蔦葉の影は、居心地が良くそして愛おしいものには違いないのだから。


 もし今わたしが居なくなったら、マスターはどうしますか。そう口にしてしまえばどうなるか。葉揺亭は、マスターは。答えがどうなるか、何となく今日悟ってしまった。

 

 窓の向こうに思いをはせる。寒風吹き荒れる道の向こう、ノスカリアの外側には、自分の知らない世界が延々と広がっているのだ。そしてまだ見ぬ自分の未来も。もちろん平坦な道ではないともわかっている。

 だがまだ自分は出発点にも立っていない。最も身近にある堅牢な壁をどうにかしなければ、進みゆく先の文化や風習の違いに戸惑う以前の問題だ。


 小さく平穏な世界に、アメリアの吐息の風は何度もそよぐ。


ノスカリア食べ物探訪

「ラクィテヤ」

西方の草原地帯で生活する遊牧民族が常飲する茶の一種。

鍋で煮出す茶に乾酪チーズ乳酪バターなどの乳製品を加えたもの。少々塩味。

当地では重要な栄養源で、飲料とされる他、雑穀粥など食事にも欠かせない一品。

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